◆中世・近世の公武合体
公武合体という名称は、幕末の幕府と雄藩の協調運動の代名詞である。幕末の尊王運動を幕藩体制のなかに取り込み、外圧に対する挙国体制を意味している。天皇を報じて夷敵を撃つ、尊王攘夷運動とは相容れない、しかし当時は斬新な提案であった。
現在の天皇制も、武力をそなえた政権と結合することで、公武政権の発展した形態とみなすことが可能だ。皇室および皇族が純粋な文化的な存在として、京都に逼塞すべきだとわたしが思うのは、現在のあり方が伝統的な禁裏ではないと考えるからだ。どうしても日本人が天皇および皇室を必要とするならば、現在のような政治権力に振りまわされ、利用される様式は美しくないばかりか、かならず矛盾をきたして崩壊するだろう。
それはともかく、鎌倉府が成立した中世以降、公武合体は何度も試みられてきた政体である。最初は後鳥羽天皇の時代に、親幕府派の九条兼実が行なった鎌倉幕府との提携である。天皇を頂点に貴族が伝統的な有職故実を踏襲しつつ、武家政権が軍事的に補完する。その理想は九条兼実の弟である慈円の『愚管抄』にくわしい。
後鳥羽天皇は三種の神器がないまま即位したが、失われた神剣を補完するものこそ鎌倉府だとしている。そこでは朝廷と鎌倉幕府は政権を分担する役割に過ぎず、位階の執行者としての天皇の権威が尊重されるいっぽう、武家の軍事的な役割も明白だ。公武が協調しようというのだから。
それは幕府を開いた源頼朝にとっても同様だった。頼朝は征夷大将軍を拝領すると、政子との愛娘・大姫を後鳥羽天皇のもとに嫁さしめようとした。そのために頼朝は、朝廷とのパイプ役であった九条兼実ではなく、平氏政権・後白河政権・源氏のあいだを鵺のように振舞ってきた源(土御門)通親(みちちか)および後白河院の寵姫だった丹後局こと高階栄子(えいし)に接近し、公武の結びつきを強めている。この頼朝の政治選択は、彼の中央貴族出身ゆえの限界だと評価されている。しかも大姫は二十歳の若さで夭折してしまう。幼いころに木曽義仲の子・義高と結婚し、頼朝と義仲の関係が破綻したのちに、大姫は父に夫を殺されている。心の傷は癒えてなかったのであろうか。
いっぽう上皇となった後鳥羽帝は、政体の形式的な役割性だけを見ているわけではなかった。政権の実質が荘園の支配権にあることをリアルに感じ取っていたのである。承久の変とは、西国の荘園支配権をどうするのか。鎌倉府の支配権を削ぎ落すことにこそ、上皇の関心はあったのだ。その結果は、このシリーズの第4回「武士と戦った天皇たち」を参照されたい。
◆和子入内
朝廷との結びつきを強くすることで、政権基盤を安定させようとしたのは江戸幕府も同様だった。秀忠とお江のあいだに和子が生まれたころから、家康は公武合体の構想を抱いていたようだ。
後陽成天皇が譲位すると、家康は天皇の弟の八条宮智仁親王が秀吉の養子になったことがあるので、その即位に反対した。天皇の子である政仁親王、すなわち後水尾天皇を推したのである。3年後の慶長19年には朝廷から和子入内の内旨がくだる。後水尾天皇に別腹の皇子(賀茂宮)と皇女(梅宮)が生まれるなど、幕府を不快にさせる経緯はあったものの、史上はじめて武家の娘が入内した。
ちなみに平清盛の徳子(建礼門院)の場合は後白河法皇の猶子としての入内であるから、先例とはならない。のちに後水尾天皇と幕府の間には紫衣事件や春日局の参内など、穏やかならぬ出来事がつづき、突如として譲位することになる。天皇が皇位を譲ったのは、幕府の神経を逆なでするように女帝(明正天皇)だった。女帝は結婚できないから、徳川家の血は皇統に入ることはなかったのだ。
いっぽう、家光の御台所が鷹司孝子であることは、あまり知られていないかもしれない。というのも、婚儀してまもなく中の丸(吹上)に軟禁されるように移され、生涯を通じて家光と会うことはなかったからだ。鷹司家は藤原氏北家流の五摂家のひとつである。
◆和宮降嫁
ここまで見たとおり、公武合体は政権の基盤を盤石にするための政策である。その意味では、本人たちの意志とは無関係に企図され、強引に実行される。それはしばしば悲劇を生むものだ。十四代将軍徳川家茂に嫁いだ和宮親子の場合も、婚約者から引き離される縁談だった。
頼朝の娘・大姫は無理やり後鳥羽天皇のもとに入内させられそうになったが、皇女和宮の場合は熾仁親王と婚約していた。兄の孝明天皇は婚約を理由に和宮の降嫁を断るが、幕府側は執拗だった。京都所司代の酒井忠義を通じて、再三の奏請があった。侍従の岩倉具視が考えた策は、幕府にアメリカとの条約を破棄させ、攘夷を断行させるのを、和宮降嫁の条件とするものだった。ところが和宮が昇殿して、徳川家との縁組をかたく辞退した。
和宮の反応に困った孝明天皇は、以下のとおり宣言する。和宮があくまで辞退するなら、前年に生まれた皇女・寿万宮を代わりに降嫁させる。幕府がこれを承知しなければ、自分は責任をとって譲位し、和宮も林丘寺に入れて尼とする。この乱暴な通告は久我建通の策を容れたものだった。和宮が折れて、攘夷と挙国一致をめざす公武合体が成立した。
降嫁した和宮は家茂と仲睦まじく、家茂が上洛したおりにはお百度を踏むなど愛情をしめしている。幕末の騒乱のなか、和宮は家茂亡きあとも江戸城にとどまり、天璋院とともに和平に奔走したのはつとに知られるところだ。
ちなみに、明治天皇の皇妃は一条美子(昭憲皇太后)だが子はなく、大正天皇は柳原愛子(公家)が母親である。大正天皇の皇妃・九条節子(貞明皇后)も公家の出身であり、昭和天皇の皇妃・香淳皇后は母方が島津家の血筋を継いでいる。
◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体
〈04〉武士と戦った天皇たち
〈05〉公武合体とその悲劇
▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。