会場には、若き頃と最近の佐野さんの遺影が掲げられた

佐野茂樹という古い伝説的な革命家が亡くなり、偲ぶ会(3月22日)に出席してきました。会場は京都・キエフで、ここは歌手・加藤登紀子さんの実家が経営され、今はお兄さんが社長です。

登紀子さんのお連れ合いは、ご存知、藤本敏夫(元反帝全学連委員長)さんで、寮(同志社大学此春〔ししゅん〕寮)の大先輩です。この方も伝説的な方です(蛇足ながら、藤本さんはここ甲子園出身で、鳴尾高校から同志社の新聞学専攻に進まれました。この界隈出身の著名人としては、芦田愛菜、あいみょんらがいます。そうそう、私に手錠を掛けた神戸地検の宮本健志検事もこのあたりの出身)。

久し振りに本宅的なロシア料理を味わった

キエフは、寮関係の集まりや、同志社関係の集まりにもよく使われてきました。私のいた寮の学生も、藤本さんや、藤本さんの片腕で店長を務めていた寮の先輩の村上正和さんの縁で、よくアルバイトしていました。

佐野さんは、60年安保闘争で国会前で亡くなった樺(かんば)美智子さんと、神戸高校の同級生とのこと、佐野さんは京大、樺さんは東大(1浪して1957年入学)ですが、共に新左翼の始まりといわれる「ブント」を起ち上げたメンバーです。

1956年に京大入学ということで、すぐに学生運動に飛び込み、60年安保闘争の際の全学連主流派、これを支えたブントの幹部として歴史的な闘いの先頭に立ちます。佐野さんは58年には全学連副委員長に就き、樺さんは東大文学部学友会副委員長という要職にありました。

佐野さんの著書『帝国主義を攻囲せよ!』

樺さんが佐野さんに淡い恋心を抱いていたということは、当時のブントのトップ・島成郎(故人。精神科医。沖縄に渡り離島医療の先駆け)さんの著書にも記され、“公然の秘密”のようでした。この世代の方々が、ずいぶん出席されていました。

その後、ブント再建(第2次ブント)で議長に就任、60年代後半の学園闘争、70年安保―沖縄闘争を指導しました。

第2次ブントは、70年を前に分裂するのですが、京都では、同志社、京大を中心に、いわば“赤ヘルノンセクト”の学生運動は健在で、私たち同志社大学全学闘は京大C戦線(レーニン研。70年末に結成)と共闘し、「全京都学生連合会」(京学連)の旗の下、70年代初頭の沖縄―三里塚―学費闘争を闘いました。

数としては同大8、京大1、その他1という按配でした。人数としては同大が圧倒的に多かったのですが、京大は、まさに少数精鋭で、リーダーの吉国恒夫(故人。専修大学教授)さん、行動隊長にしてオルガナイザーの片岡卓三(現在医者)さんを中心に、理論的にも他の追随を許しませんでした。同大には卓越した理論家はいなくて(苦笑)、C戦線の機関誌から“密輸入”したりしていました。

同じく『佐藤政府を倒せ!』

吉国さんは、矢谷暢一郎さんと共に68年御堂筋突破デモを指導し共に逮捕・起訴されています(当時裁判官として、この判決文〔かなりの寛刑!〕を書かれた方で現在弁護士のA先生が、今、カウンターメンバーとの裁判で当社の代理人として神原元弁護士と一戦を交えています)。

このC戦線をバックで支えたのが佐野さんで、C戦線こそがブント解体後の学生運動や革命運動の未来を担うと考えられていた、と思います。吉国さんや片岡さん、他のメンバーらと交流し私もそう感じました。『帝国主義を攻囲せよ!』とか『佐藤政府を倒せ!』など佐野さんの著書やパンフレットも一知半解ながら熟読しました。

ところで、この通信をご覧の方には馴染み深い「カウンター大学院生リンチ事件」の被害者M君の父親がC戦線の当時のメンバーだということをM君から聞いていたのですが、複数の証言を得ることはできませんでしたので、確証がありませんでした。

その集会の呼びかけ人を務められた片岡卓三さんの号令一下、当時のC戦線のメンバーが数多く出席されていました。大体私と同じ70年入学でした。

樺美智子さんの遺稿集『人知れず微笑えまん』(三一新書)。われわれの世代の必読書だった

彼らにたずねると、みなさんM君の父親をご存知でした。「私たちはリンチされた息子の救済と支援活動をやって来た」と言うと、みなさん驚いていました。

C戦線(レーニン研)は、毛派(中国派)のグループと合体し全国党派を目指しマルクス主義青年同盟(マル青同)を結成しますが、これはあえなく崩壊します。片岡さんらは、この過程で離脱し、結成後すぐに内部抗争が起き、トップの吉国さんは「死刑宣告」を受け放逐されます(彼はその後、矢谷さん同様日本を離れ、アメリカ西海岸やジンバブエの大学に入学し、日本のジンバブエ研究の第一人者になります)。

他のメンバーも離脱し、各々の人生を歩み始めます。しかし、そこは“腐っても京大”、私たちと一緒に同大学費決戦で逮捕・起訴され、一念発起して一級建築士になったB君同様、弁護士になったりしています。組織が解体して司法試験を目指したCさんは、たった1科目しか取得しておらず再入学し30歳になって司法試験に合格、今は弁護士になっておられます。

また、もう一人のD弁護士は、15年前の私の逮捕事件で「憲法21条に則った、公正で慎重な審理を求める署名」に賛同人として署名をしてくれていました。あらためてお礼を申し上げました。

それにしても、まさか私たちが支援したリンチ被害者M君の父親が、学生時代に共闘していたとはビックリ仰天でした!

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(1/3)

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(2/3)

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(3/3)

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鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

1970年代初頭の京都の学生運動を記録した『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』