ここまで六人・八代の古代女帝を紹介してきた。女性天皇は江戸期の明正帝(興子・一〇九代)と後桜町帝(智子・一一七代)をふくめて「八人・十代」ということになっている。
ところが飛鳥王朝以前にさかのぼると、あと二人の女帝を歴代の史書はみとめているのだ。その一人は有名な神功(じんぐう)皇后である。この連載の08回「朝鮮半島からの血が皇統を形づくっている」でもふれた仲哀帝の皇后であり、応神帝の母親ということになっている。
「歴代の史学はみとめている」と、ことわったのは「記紀」の神話的な部分がその典拠だからである。神話的な記述をどこまで史実とするかは、同時代の文献や伝承・記録で証明する以外にないので、関連記事のない神功皇后の実在性はとぼしいと言わざるをえない。
いちおう触れておくと、「日本書紀」であるという説もある「王年代紀」に、彼女の即位が記録されている。この「王年代紀」が中国に伝わり、痘代の「新唐書」(列伝一四五東夷日本)と「宋史」(列伝二五〇)にも記述されている。中国に記録が伝わったのは、十世紀末のことである。
だが、中国の史書にあるから史実だと言えないのは、出典が神話世界に仮託されたものだからだ。神功皇后のモデルは卑弥呼説、朝鮮出兵の陣(九州)で亡くなった斉明女帝(皇極天皇)とする説(直木孝次郎)がある。じっさいに江戸時代まで、神功皇后は天皇という扱いだった。
もうひとり、一般の人はほとんど知らない「幻の女帝」がいるのだ。ふつうの歴史解説本には載っていない。いや、幻の女帝というのは語弊があるだろう。その女帝は実在性がきわめて高いうえに、同じ「日本書紀」の記述とはいえ具体的な(粉飾されない)エピソードの持ち主なのだ。その名を飯豊(いいとよ)天皇という。
◆女帝は処女でなければならなかった
「日本書紀」の清寧天皇時代の記録に、飯豊女帝は「飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)」とある。飯豊青皇女は第一七代履中天皇(405年没)の娘とされている(「記紀」)から、清寧帝の時代には、少なくとも74歳になっているはず(このあたりが古代天皇史のいい加減なところで、やたらと天皇たちが長寿)だが、彼女は初めて「女の道を知る」(日本書紀)のだ。70歳をこえて「初体験」をしたというのだ。女は骨になるまで、とはよく言ったものだ。
別伝では履中帝の息子(市辺押磐皇子)の娘という記述があり、その場合は「70代で初体験」ではなくなる。20歳前後(雄略時代・清寧時代で27年間)ということになるから、記事の真実性が増す。
「飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交(まぐはい)したまふ、人に謂りて曰く『一女の道を知りぬ、また安(いづく)にぞ異(け)なるべけむ、終(つい)に男に交はむことを願(ほり)せじ』とのたまう(※ここに夫有りといえること未だ詳らかならず=日本書紀編者注)」
「わたくし、初体験をして女になりましたが、どこか違うのではないかと感じました。また男とやりたいと願ってはいません」と訳してみた。初体験を語るとは、かなり明け透けな性格だったことがうかがえる。
文中に角刺宮(つのさしのみや)とあるのは、奈良県葛城市の忍海に実在する(現在は角刺神社=近鉄忍海駅下車徒歩4分)飯豊皇女の居住地である。
「日本書紀」の編者はおそらく、飯豊皇女が帝位を嘱望される存在だから、彼女がセックスをしたことに愕き、この記事を残したのであろう。帝位に就く女性は、独身でなければならなかったはずだからだ(卑弥呼・孝謙女帝などの例)。
そこで「※夫有りといえることは未だ詳らかならず」とあるのは、「彼女がセックスをしたからといって、その相手が夫になったとは限らない」なぜならば「彼女はもう逢わないと言っている」というふうな文意と注釈になる。なので、皇位に就くのに差し障りはない、ということだろう。古代においても、女系天皇は敬遠されていたのだ。
◆第二四代天皇、飯豊女帝
いっぽう「陸奥国風土記」には「飯豊青尊が物部氏に御幣を奉納させた」とあり、飯豊青皇女が「尊(みこと)」すなわち天皇になったことを示唆している。飯豊女帝の即位の事情は、ハッキリしている。第二二代の清寧天皇が亡くなり、皇太子候補だった二人の皇子(大脚皇子=仁賢天皇と来目皇子=顕宗天皇)がお互に譲り合ったので、やむなく立てられた女帝と記録にある。
「日本書紀」における即位の記述は、顕宗天皇の「即位前紀」に「天皇の姉飯豊忍海角刺宮に臨朝秉政(りんちょうへいせい=ミカドマツリゴト)したまふ。自ら忍海飯豊青尊と称(なの)りたまふ」とあり、上述の「陸奥風土記」を裏づけている。
平安時代の史書である「扶桑略記」には「飯豊天皇廿四代女帝」とあり、室町時代の「本朝皇胤紹運録」には「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記されている。いずれも女性天皇(女帝)という記録である。
明治維新後、昭和20年までは宮内省において「歴代天皇の代数にはふくめないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていた。戦後、宮内庁では「履中天皇々孫女飯豊天皇」と称している。これは「不即位天皇」としての扱いである。
宮内庁が「不即位天皇」にしようと、史実は別物である。飯豊青皇女、すなわち飯豊女帝の即位と執政は疑いない。したがって、わが国の女帝の数を「九人・十一代」としても差しつかえないのだ。日本史の新常識が、またひとつ増えた。
▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。