匿名ブログ「世に倦む日々」の主は藤井誠二という説を紹介するとともに、その共通項を指摘したところ、いろいろな反応があった。
まず、指摘した共通項はその通りだが、明らかに違うという意見である。これは、「世に倦む日々」がひどすぎるので、藤井誠二も一緒にしてはさすがに気の毒ということだ。「世倦」は陰謀論を連発していて、これを書いている人はどう考えても妄想家であり、そこまで藤井は重症ではない。
また、「世倦」=藤井誠二説はあくまで連想であり、実際には違うだろうが、とはいえ藤井誠二の偽善者ぶりは、彼が兄貴分と慕う日垣隆の問題で露呈している、というもの。実際、日垣のその分野の著書はひどいものだ。
そして、自分が書いていると名乗っている人がいるという指摘。これは田中宏和と名乗り顔写真まで公開していて、実際にそうなのか確認はできないが、有名人でないのは確かだ。名前だけだとゲーム音楽で知られる同姓同名の人と間違えそうである。
この田中という人は、「ブログで新自由主義批判の言論を続けています」と自己紹介しているが、本気で言っているのかと疑問である。書いている本人の主観では本気なのだろうが、外野から見ると単に歯切れ良く陰謀論を述べているだけのように思える。だから、スポーツ新聞のコラムを読む感覚でいるのが良いのではないか、という意見があった。
とにかく、「世倦」は、著者を自称する人の自己紹介と、そのブログで展開される主張とが、全然あってない。刑事事件の厳罰化は、新自由主義による格差社会の形成および排外主義・警察国家化・軍事力の強化らと、密接に結びついている。なのに、後者だけ非難しておいて前者は肯定するのだとしたら、破綻している。
つまり、「世倦」を書いているのが藤井ではないかという説をなぜ紹介したのかというと、前回その結論部分で既に書いたとおり、実際に誰かということではなく、こういう整合性を欠いた人が同時発生していて、そうなる構造が問題ということである。
この同類は、浅野健一教授が批判と皮肉をこめて「自称ジャーナリスト」と呼んだ大谷昭宏である。彼も、日頃のリベラルな論調はどこへやら、社会防衛のために犯罪者を死刑にするのは国民の権利だと叫ぶ。この主張を、大谷は、かつて『赤旗』の日曜版に連載をしていた中でも叫んでいた。自民党を批判して反体制の論調を続けていたのに、大騒ぎになった事件があると途端に、権力によって庶民を殺害しろと言う。大谷は、藤井とまったく同じで、事件の取材で被害者の話を聴いていたら、被害者に過剰な感情移入をするようになってしまったと言う。
この直後に大谷は、当時自民党にいてタカ派で鳴らしたもと警察官僚の亀井静香とテレビ討論で対決した。亀井は、権力の内側にいた自らの経験から、権力の行き過ぎが恐ろしいと指摘して、行き過ぎと誤りを完全に防ぐことは不可能だから、死刑だけはしてはならないと主張した。これに対し大谷は、単純な感情論とともに、冤罪が減っているから(無くなったから、ではない)と、死刑存続を主張した。
この様子がテレビで放送されると、見た人たちの多くが「音声と映像が逆になっているのではないか」と、放送事故を真面目に疑った。
つまり、日ごろはリベラルもしくは左派よりの論調でいながら、選挙や事件の話題になると、いつもと違う結論にアクロバットする狡猾なマスコミ人が跋扈している、ということこそ問題である。これは数人のマスコミ関係者によって書かれているらしい「きっこのブログ」も、まったく同様のことが言える。
この芸風はネットに限らずこの国の言論界をずっと汚染してきた。だから、異なる結論に疑問を抱かず騙され続けてしまう受け手の側が、批判的精神を身につけるしかない。
(井上靜)