われわれは古代女帝論(5)の「元明天皇と元正天皇」で、元正女帝が女系女帝(元明女帝の娘)であることを確認してきた。皇統男系論者の多くはそれでもなお、元明天皇が天智天皇の皇女であることをもって、男系の血筋だと強弁する。女帝の実娘である元正天皇もまた、男系の血脈のなかに位置づけられるのだと。いいだろう。それでは彼らが忌み嫌う、しかしいまや定説となった王朝交代に引きつけて、皇統が女系において血脈を保ったことを明らかにしておこう。

◆応神王朝は馬とともに渡来し、大和の皇女を娶った

まず神功皇后が朝鮮半島(三韓征伐)で身ごもり、九州において誕生した応神天皇(第十五代)である。

九州で成立したとされる応神王朝は、それまで日本にいなかった馬を半島からともなって王権を樹立した。百済との国交、およびかの地からの技術者の採用、とくに鉄の精製、土木技術や養蚕、機織りを導入した。

即位に先立って、神功皇后が故仲哀天皇の腹違いの息子たち(香坂王・忍熊王)の二人を、琵琶湖に追い落として殺したのは、「朝鮮半島からの血が、皇統をかたちづくっている」で触れたとおりだ。旧王朝の後継者たちは応神の母・神功皇后の手で葬られたのだ。そもそも神功皇后とは架空の人物でありながら、皇統を左右する重大な役割を果たしている。壮大なフィクションを必要としたのだ。

この王朝交代劇には、じつは考古学的な裏付けもある。大和で銅鐸に代わって鉄器が盛んに造られた事実だ。つまり応神王朝は馬と鉄器をもった強力な軍事勢力で、大和に攻め上ったのであろう。謎の四世紀、応神王朝こそ邪馬台国の末裔で、神功皇后こそ卑弥呼だったのかもしれない。

◆婿入りする天皇

この王朝交代という史実を、万世一系を謳う「記紀」が応神帝の正統な皇位継承としているのはいうまでもない。だがそこには、苦肉の策が用いられなければならなかった。打倒した旧王朝の娘を娶ること、応神帝が皇族に婿入りすることで、大和王朝の後継者としての資格を得たとしているのだ。

すなわち、景行天皇(第十二代=崇神王朝三代目)の曾孫である仲姫命(なかつひめのみこと)を娶ることで、応神が皇位の正統性を確保したというのである。
景行天皇の没年は130年と考えられているから、270年に即位した応神帝とは140年間の時間的な距離がある。この間に三代が生きたとすると、50歳前後の子供としてギリギリ成り立つ計算だが、それは置いておこう。

仲姫命は品陀真若王(五百城入彦皇子の皇子)の娘である。五百城入彦皇子と同一人物とされる気入彦命が、応神帝の詔を奉じて、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕らえた功績によって御使(みつかい)連の氏姓を賜ったとされていることから、前大和王朝の内応者とみていいだろう。仲姫命の同母姉の高城入姫命、同母妹の弟姫命も応神天皇の妃として、応神帝の正統性を三重に担保したのが注目される。すなわち女系の血脈において、大和王朝の皇統は応神王朝に継承されたのである。したがって、応神の子・仁徳帝は女系男性天皇ということになる。

◆越前で育った継体天皇

もうひとり、明らかな王朝交代があったとされているのが、第二十六代継体帝である。継体帝は応神天皇の五世孫(彦人王の子)とされている(記紀)が、詳しいことはよくわからない。母の実家がある越前で育ったとされる。武烈天皇が崩御すると、大和王朝が混乱に陥り(約20年間の争乱が想定される)、そのかんに越前の勢力が畿内に進出したと考えられている。

その継体帝も、応神と同じように皇統の娘をめとっている。相手は仁賢天皇の娘で、雄略天皇の孫娘にあたる手白髪皇女(たしらかみのひめみこ)である。入り婿による皇位継承だったことは、ほかならぬ「記紀」の編者もみとめている。『古事記』には「手白髪皇女とめあわせて、天下を授かり奉り」とある。つまり、正統な皇女と結婚することで、皇位を授かったというのだ。

万世一系を謳うのもいいだろう。血筋の唯一性こそが天皇制の核心部分なのだから、史書のフィクションを信じ込むのも勝手である。だがその典拠である「記紀」において、女系天皇がすくなくとも二人、傍系をあわせれば膨大な数におよぶのだ。

※参考文献:『女性天皇論』(中野正志)ほか。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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