◆デビュー戦は負ければいい!
石井宏樹(いしい・ひろき/1979年1月16日生)は名門・目黒ジムから生まれた念願のムエタイ殿堂チャンピオン。4度目の挑戦でキックボクシングの聖地から打倒ムエタイを果たした。その因果応報は周りから愛された結果、現在も注目される存在感が続いている。
15歳の春、高校入学すると同時に目黒ジム入門。デビューが近い1995年暮、当時トレーナーの藤本勲氏が言った。「こいつは天才、ムエタイのチャンピオンになるよ!」
17歳直前、機敏に動く石井宏樹。蹴りが速い。デビュー前から小野寺力のような動き。藤本トレーナーが言う意味が分かる気がした。入門前は何をやっていたのか尋ねてみると、「中学時代は、野球と卓球をやっていました!」と語る。速い球を追うことで反射神経を養ったのだろう。
目黒ジムに入った切っ掛けは、「家が近くて、昔、親父がボクシングやってた影響で、子供の頃に手を引っ張られてガラス張りの目黒ジムまで観に行かされていました。その後、中学に入る頃から太りだしたので高校に入ったタイミングでダイエットがてら入門しました!」
家が近い、お父さんがボクシング経験あり、ガラス張りの目黒ジム、これはもう運命の導きしかない。
そんな頃、「デビュー戦は負ければいい!」という当時の目黒ジム、野口和子代表の声も聞かれた。「この子は今のうちに負けの辛さを味わった方がいい。でも必ず這い上がってくるよ!」と読めたからだった。
1996年1月28日、そのデビュー戦は3ラウンドKO勝利。しかしその後判定で2連敗。周囲からは予想できた試練だが、当の本人にとってはかなり辛いものだったようだ。
石井宏樹は後々、「デビュー戦をKO勝利し、このまま連勝街道だと調子に乗っていた矢先に連敗しました。 技術的な反省よりも、完全にプロの世界や人生を舐めていましたね。 鼻っ柱を折られた結果となってプロの世界は辞めようと思いました。
そんな中、当時憧れだった小野寺力先輩に、“辞めるのは簡単だ、もう一度死ぬ気でやってみたら”と声をかけて頂き、その言葉が有難く、絶対諦めないで続けようと決心しました!」と語っていた。
次なる試練はKO率の低さ。
「連敗後は判定勝利が続き、何でも出来るけど一発が無い、“器用貧乏だ”と言われていた時期はとても悩みました。自分には“これ!”といった必殺技は持ってないので、攻防を進める中で今相手が何をやられたら嫌なのか考えながら、そこを突いて行くスタイルで倒して行きました!」
研究を重ねる努力。それは長い年月を要するものだった。
◆ムエタイの壁
判定勝利が続く中、2000年1月23日に日本ライト級王座挑戦。チャンピオンだった鷹山真吾(尚武会)を豪快に倒し、ようやく二つ目のKO勝ち。初のチャンピオンベルトを巻いた。
順調に防衛を重ね、2005年8月22日に国立代々木第2体育館に於いて、念願のタイ国ラジャダムナン系ライト級王座に挑戦。チャンピオンのジャルンチャイ・チョー・ラチャダーゴンには僅差の判定負けで王座奪取は成らず。しかしこの僅差が厄介な壁となるムエタイの難しさ。
2007年7月までに日本ライト級王座は8度防衛まで伸ばした後、スーパーライト級での頂点目指し返上。
2008年3月9日、ラジャダムナン王座再挑戦。階級上げた慣れぬ体格差があったか、チャンピオンのシンマニー・ソー・シーソンポンに判定負け。
更にタイ選手に4連勝(3KO)した後、2010年3月22日には現地、ラジャダムナンスタジアムで3度目の挑戦となるスーパーライト級王座決定戦に出場。ヨードクンポン・F・Aグループに僅差の判定負け。キックルールなら優勢な印象も、ムエタイの壁が立ちはだかる厳しさだった。
「ここで獲らなければ次はもう無いという覚悟と、現地で獲れば本物だという気持ちが強かったので、是が非でも勝ちたかった。ギャンブラーが自分に賭けてくれて、一生懸命応援してくれるのを感じ、武者震いしたのを覚えています!」
石井宏樹は、新日本キックボクシング協会が1999年から2003年迄、年一回行なっていたイベント「Fight to MuaiThai」で4度ラジャダムナンスタジアム出場しており、現地では全くの無名ではなかった。ここでは賭けが成立する存在感が大事。ギャンブラー達は石井宏樹のテクニックを覚えていたのだった。
◆思わぬ試練
善戦したラジャダムナンスタジアムでの挑戦で、2010年7月25日は再挑戦への道が与えられた査定試合で、パーカーオ・クランセーンマーハーサーラカームに第2ラウンド、ヒジ打ちで倒され初のノックアウト負け。この結末は誰も予想しない力無く倒れる石井らしくない展開だった。これで石井は終わったと思われたムエタイ殿堂王座への道。
「相手のヒザ蹴りをモロに受け、その瞬間に小腸が破裂していたようです。 お腹は痛い感覚は無かったのですが、試合を続けている中、急激にスタミナも無くなり、ガードを上げる力も薄れて最後はヒジ打ちを貰い倒れてしまいました。 控室に帰っても何故負けたのかも分からず、その後、後楽園ホールを出て、応援して頂いた仲間に挨拶しに向かおうと思った時に、お腹に激痛が走り動けなくなり、そのまま病院に向かい緊急手術となりました。 “もう少し運ばれて来るのが遅かったら死んでいましたよ”と医者に言われました。 まさに九死に一生でした!」
藤本勲会長からは「また挑戦しよう。ラジャダムナンのベルトは俺らの夢だから!」と諦めないでずっとサポートしてくれたことが、気持ちがブレずに突き進めたという。
◆念願のムエタイ王座奪取!
その後3連勝(2KO)し、チャンスは4度びやって来た。2011年10月2日、後楽園ホールでのラジャダムナンスタジアム・スーパーライト級王座決定戦で、アピサック・K・Tジムと対戦。判定だがノックアウトするより難しいと言われるテクニックで、現地審判団を唸らせ、越えられなかった壁を打ち破る勝利で王座獲得。
「今のままの練習ではタイのチャンピオンには勝てないと思い、初めてラジャダムナン王座に挑戦した時の対戦相手、ジャルンチャイを練習パートナーとして日本に呼んで貰い、二人三脚で4度目の挑戦に挑みました。彼なら僕の癖も知り、日本人がムエタイを破る方法も知っているのではないかという狙いでした。彼の指導で毎日朝晩と練習を積み重ねて行くうちに彼と一緒にいれば必ず勝てると言う確信が持てました!」
この勝利は評価が高かったが、まだ“防衛してこそ真のチャンピオン!”と言われる目黒ジムの掟があった。2012年3月11日、ゲーンファーン・ポー・プアンチョンの挑戦を受け、またも蹴りの技術と戦略で優って判定勝利で初防衛。外国人チャンピオンでは初の快挙だった。
2012年9月15日、プラーイノーイ・ポー・パオイン戦は、パンチで圧倒ノックアウトし2度目の防衛。残された課題は現地スタジアムでの防衛であった。
防衛後のリング上で「次はタイでやります!」とマイクで宣言した石井宏樹だが、プロモーターである伊原信一代表は「いずれ必ず現地で防衛戦やらせるから!」と言う約束の下、あと一回、日本での防衛戦を用意された2013年3月10日、残念ながらエークピカート・モー・クルンテープトンブリーにヒジ打ちを貰ってノックアウト負けで王座を失ってしまった。
◆受け継がれる完全燃焼
引退か再起か。石井宏樹はここで「現役はあと3戦!」と標準を定めた。
その最終試合となったのは、2014年2月11日、先輩の小野寺力氏が主催する大田区総合体育館での「NO KICK NO LIFE」興行。WPMF世界スーパーライト級王座決定戦で、知名度抜群のチャンピオン、ゲーオ・フェテックスとの対戦となった。5ヶ月前には梅野源治も倒されている過去いちばんの強豪。
「小野寺さんに“ゲーオとやるか?”と言って頂いた時は“やります!”と即答しました。 そして目黒スタイルである、引退試合は最強の相手を迎える伝統を受け継ぎ、現役最後の集大成で悔いの残らない試合をする事だけを考え、守りに入らず自分から攻めに行った結果、第2ラウンド、カウンターの左ハイキックで散りました。 もう何もやり残したことはなく、現役生活何一つ悔いが残らず引退することが出来ました!」
目黒ジムの先輩、飛鳥信也氏から始まった最強相手に完全燃焼の引退試合は確実に継承されていた。
2014年12月14日には引退テンカウントゴングに送られリングを去り、RIKIXの百合ヶ丘支部と大岡山本部ジムで交互にトレーナーを務める日々となった。
多くの縁が繋がって来た結果、2015年2月11日から「NO KICK NO LIFE」興行でのテレビ解説者として起用され、再びファンの注目を浴びる立場で実力発揮(後にKNOCK OUT興行に移行)。
「まさか自分が引退後、解説者になるとは思ってなかったです!」という石井宏樹。
「現役の頃は他人の試合はほとんど見なくて、解説者というお仕事を頂いてから選手の試合をたくさん見て勉強するようになりました。 今でも喋るのは苦手ですが、元々人間観察は好きなので、解説は嫌いな仕事ではないですね!」
石井宏樹は元々頭の回転が速く、スラスラとトークが進む奴。選手の心理を読む分析力も抜群。キックボクシングを続けて来た因果は、今後もテレビ解説以外でも多くのメディアに登場するであろう名チャンピオン、石井宏樹である。
私生活では2008年に支援者の紹介で知り合った彼女と2016年に結婚し息子さんが誕生。やがて物心ついた頃、息子さんの手を引いてジムに通うのだろう。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」