私の人生にとっても、われわれの会社・鹿砦社にとっても最大の事件となった、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧事件は、15年前の2005年7月12日に起きました。これを神戸地検特別刑事部からリークされ(いや、密通してと言ったほうがいいでしょう)、一面トップで“官製スクープ”の大きな記事を書いたのが、現在朝日新聞大阪本社司法担当キャップ・平賀拓哉記者でした。同日夕刊にも続編記事があり、ここに「平賀拓哉」の署名がありますが、すべて平賀記者が書いたものです。
本年はその事件から15年周年となります。地獄も見ました。そのかん、私や鹿砦社は筆舌に尽くし難いほどの困難な目に遭い、しかし、多くの心ある皆様方のご支援で再起し、出版活動を持続しています。このことについては、節目の年でもあり、『紙の爆弾』5月号(創刊15周年記念号)に「『紙の爆弾』が創刊された2005年に何が起きたのか」という長文の総括文を執筆し、またこの通信においてもたびたび述べてきました。
そうして、神戸地検と密通し15年前の“官製スクープ”記事を書いた平賀拓哉記者が今や大阪本社司法担当キャップを務めていることが、偶然にも4月1日付けの署名記事で判明し、これも何かの因縁、ぜひとも面談し15年目の気持ちや想いなど聞かねばなるまい、と考えた次第です。その総括文が掲載された『紙の爆弾』5月号を同封して手紙を郵送したのが4月5日でした。なんの音沙汰もありませんでしたが、これは緊急事態宣言が出た直後ということもあり、この対応で慌しいのかと思っていました。
実は10周年の際にも平賀記者に話を聞きたいと思っていたところ、聞いていた携帯の番号は使われておらず、また海外に赴任しているとの情報もあったりで面談できませんでした。
しかし、今は大阪本社で司法担当キャップとして活動されている──私から書籍や資料を入手しインタビューを行い署名記事まで書いたぐらいですから、気安く会って面談してくれると信じていました。
ところが、2度目の「面談申込書」を因縁の7月12日に出し(回答締め切り7月20日)、これも回答ナシ。ようやく3度目の7月21日の「催告書」にて届いたのが責任者名なしのメールでした(別掲画像)。
私たち素人考えでは、署名記事というのは書いた本人が責任を持つということでしょう。みなさん、そうですよね? 私は、当該記事の当事者中の当事者で、書いた本人に面談する権利も資格もあると思いますし、また、当日の朝刊一面トップ、夕刊にも連続して大きく採り上げ署名記事まで書いた本人=平賀記者には私と面談する義務があります。そうではないですか?
その記事と関係のない私以外の者が面談を申し込むのを断るのは理解できますが、平賀記者は、あたかも私たちの理解者顔をし、持っていない書籍や資料を求め、私は、彼が私たちの出版活動を理解して記事にしてくれるものと誤認しタダでそれらを渡しました。それは当該記事(2005年7月12日夕刊)に画像で出ています。私も本当にお人好しですよね(苦笑)。
そうして、運命の2005年7月12日早朝、当日付けの朝日朝刊を見て自分の逮捕を知るという笑い話にもならない物語が始まりました。
その後、192日間もの長期勾留(独居房。うち約3カ月の接見禁止)、勾留中の事務所撤去と事業活動停止、ただ一人踏み止まった編集長の中川以外の全員解雇、第1回公判に神戸地裁の大法廷を埋め尽くしてくれた多くの皆様方、大晦日・正月を酷寒の神戸拘置所で過ごしたこと……走馬灯のように甦ります。こら、平賀さん、少しは私の身にもなってみよ! 私が記事を書かれた当事者中の当事者なら、あなたは私にインタビューし書籍・資料を入手し同日の朝刊、夕刊と連続して大きく採り上げ署名記事まで書いた当事者中の当事者、あなたは私の求めに応じるべきです。そうではないですか? そうでないと、ジャーナリストとして、いや人間として無責任ということになります。「釈迦に説法」かもしれませんが、署名記事というものは、いろんな意味で(無署名記事に比して格段に)重いものです。
平賀記者は、このまま逃げおおせるものと思っているかもしれませんが、そうは問屋が卸しません。私が『ゆきゆきて神軍』の奥崎謙三(故人。生前は神戸市在住)のように厳しく責任を追及するものとビビッているのでしょうか? 私は平賀記者に私怨・私恨などありませんので、責任を追及するつもりはありません。ただ、15年経った現在の気持ちや想い、疑問点などを訊ねたいだけです。特に幾つか疑問点がありますが、これを解明しないと死んでも死に切れません。
平賀さん、あなたは私と面談し、私の疑問や質問に答える義務があります。あれだけ朝刊・夕刊と連続して大きく採り上げ、署名記事まで書いたのですから当然です。
平賀記者と朝日新聞の非礼な対応を弾劾します。平賀記者は即刻私と面談すべきです。平賀さん、逃げないでください!