◆目指すは名門黒崎道場
佐藤正男(さとう・まさお/山形県酒田市出身/1963年3月12日生)は幼少期から格闘技に興味を示し、黒崎道場に入門後も人知れず探究心を持って格闘人生を歩んだ。
小学1年生で中国拳法を習い、高校1年生で極真空手を始めた。20歳で大道塾総本部(宮城県仙台市)入門。しかし大道塾だけの修行ならば、同期らとの差は簡単には付かないだろうと考えた佐藤正男は大道塾と平行して、キックボクシング仙台青葉ジムにも入門し、通い始めた。
初めてのキックボクシングの練習は、アマチュアとは違うマンツーマンの指導と僅かなフォームの矯正も徹底していて、プロへの道を強く意識することとなった。仙台青葉ジムはヤンガー舟木など名選手が揃う大手ではあるが、東京で勝負したかった佐藤正男は、「やはり、ラジャダムナン王座に上りつめた藤原敏男が所属した黒崎道場しかない!」と考え、21歳となったばかりの1984年(昭和59年)3月末に上京。4月1日、新格闘術・黒崎道場入門。
そこはやはりプロの世界。「しばらく通い始めて、ミット打ちミット蹴りサンドバッグ打ちも、初級同然だった!」という。
そしてまた思い立ったらすぐ行動に出る佐藤正男。「やはりキックボクシングとしては、パンチに関しては幾ら頑張ってみても、黒崎先生には大変申し訳ないが、全盛のトーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランの様なパンチの技術、連打やその強さを百分の一たりとも習得することなど無理だろう!」と自問自答。
◆デビュー戦に向けた練習
そして、黒崎代表には内緒で帝拳ジムへも入門。そこでは当時トレーナーであった元・世界ジュニアライト級チャンピオン、小林弘氏の指導を受ける機会を得た。周りを見ればKOキング浜田剛史は居る、穂積秀一は居る、それに他のジムから続々と出稽古に来る日本・世界ランカーらとのスパーリング等を連日目の当たりにして、
「パンチの技術は拳法、空手、キックと比べれば雲泥の差。プロボクシングとはこんなにも凄いのか!」という率直な感想。
そして、黒崎道場入門から1年近く経った頃には格段に進歩。黒崎代表も、さすがに何百人と指導していた経験で、“進歩の過程が他の奴とはちょっと違うな”と気付いた様子で、「お前、格段と上手くなったな、何でだ?」と聞かれて、「先生の指導を基本にボクシングやキックのビデオ等を繰り返し見て、自分なりに研究しました!」と言うと、「ああそうか!」と納得させてしまった。
打撃だけで飽き足らない佐藤正男は、その頃まで喧嘩では一度も負けたことがなかったと言うが、体の大きな奴に組まれたりすると押される場合があって、組技の重要性を認識。そこで文京区春日の講道館に入門。
「乱取りでは、初段クラス程度ならば力でなんとかねじ伏せた事もあったものの、三段クラスになると全く歯が立たなかった。柔道ってこんなにも強いものだったのか!」という新たな経験値となった。 それまでにボクシングやキックをわずかでも習得した佐藤正男には、空手は空手、柔道は柔道、ボクシングはボクシング、それぞれの競技の対比は強い弱いではない、全く別個性を持った競技なのだと体験をもって感じていた。
その中で、黒崎道場で行なう筋トレなどをはるかに超える圧倒的なパワーの必要性をも痛感していた佐藤は、近くのウェイトトレーニングセンターにも通い始め、このパワーアップトレーニングは何年も継続し、講道館での柔道は黒帯を取得。
あらゆる技術をマスターした佐藤正男のキックボクシングプロデビュー戦は1986年(昭和61年)6月28日、堂々たる試合運びで2ラウンドKO勝利を飾った。
◆渡辺ジムへ移籍
黒崎道場は目黒ジムに対抗する業界トップクラスの名門だったが、藤原敏男が引退した1983年(昭和58年)春には実質閉鎖されたジムだった。しかし名門だけに入門希望者は絶えなかった。そこで黒崎氏は若者を受け入れる鍛錬の場は残されたが、佐藤正男の入門当時は、黒崎代表から「望むなら幾らでも試合に出してやる。」と言われたが、現実的には自主興行は無く、入門後4年間でたったの3試合のみ。
そんな時期、夜は黒崎道場に通い、夕方迄の時間や日曜・祝日は可能な限り、帝拳ジム、講道館、ウェイトトレーニング、あとは重労働の仕事(体力を使う職種で入社10人中10人辞める程の会社)という目まぐるしい生活。
更にはムエタイにも興味を示し、休暇が取れる程度の短期間ながらタイに渡り、当時、ディーゼルノイやチャムアペットなどスーパースター級が揃っていたハーパランジムで修行。日本のジムとは別世界の、行なうもの全てが斬新な練習で本場の強さを実感した。
20代前半、黒崎道場入門からの4~5年は試合は少なかったが、自身最も過酷なスケジュールで駆け抜けた時期だった。
ここでプロ生活の分岐点。経緯は省くが、実戦を積みたかった佐藤正男は黒崎健時代表に相談し、日本キックボクシング連盟の渡辺ジムに移籍することが決まり、黒崎健時氏と渡辺信久会長が対面することになった。
黒崎健時氏は「佐藤正男は藤原敏男と同じく21歳で私の所へ来た。何とか形を作ってやりたかったが、ジムそのものを閉鎖した後だったから、5年居たが何も残してやれなかった。その正男が君の所へ行きたいと申し出て来た。正式に移籍させたいので正男のこと、どうか宜しくお願いします!」と渡辺会長に頭を下げられたという。
あの“鬼の黒崎”が自身より若輩者に頭を下げるとは。渡辺会長も恐縮することしきり。目の当たりにした佐藤正男は黒崎代表に対し、黒崎道場出身として恥じないキックボクシング人生を送る誓いを告げるのだった。
そして渡辺信久会長にしても責任重大。
「佐藤、覚悟を決めて送り出されてここに来たなら、そのつもりでしっかりやれよ、こっちもそのつもりで教えてやる。多少勝ち続けたとしてもこの世界、戦積・キャリアがないとナメられるぞ!」と聞かされた。
この渡辺ジム移籍は1988年(昭和63年)5月20日。そんな試合に飢えている佐藤正男は、「交流する他団体興行を含め、可能ならばすべての興行に出場させて欲しい!」と嘆願すると、「それは面白い!」と渡辺会長はニンマリ。
◆エース格に君臨
移籍後、豪快に2連勝(2KO)した。移籍3戦目は同年12月16日、初の5回戦で、ベテランの日本キック連盟ライト級1位、元木浩二(伊原)と対戦。渡辺会長も伊原会長も、「この佐藤、キャリアこそ少ないが、あの黒崎道場に4年居て、渡辺ジム移籍後の2戦も圧倒的な勝利だった、元木浩二との対戦は面白いかも!」と思ったのかもしれない。
周囲は「佐藤は元木とやるのはまだ早い!」と言われていたが、1ラウンド後半、佐藤正男が速攻のパンチで3度のダウンを奪ってノックアウト勝利。移籍後、早くもトップクラスに立つ存在となった。
その後、ムエタイ戦士との対戦も増えていった。元・ムエタイ3階級制覇のケンカート・シッサーイトーン(タイ)と対戦するも判定負け。
結局移籍後は3年間で20戦程やり、諸々の経緯を経て1991年(平成3年)4月27日、日本キック連盟ライト級チャンピオン、酒井敏文(平戸)に挑戦。判定勝利し初のタイトル獲得。
日本キックボクシング連盟でエース格となった王座獲得後第1戦目では、シームアン・シンスワングン(元・ムエタイランカー)と対戦するが、ハイキック食らったノックダウンで判定負け。
1992年10月、元・タイ国BBTV(タイ7ch)フェザー級チャンピオン、 ルーラウィー・サラウィティーと対戦し、これも重い蹴りとバランス良い組み技に苦しめられ判定負け。本場ムエタイの強さと奥深さを改めて痛感させられる戦いが続いたが、「皆、体幹のバランス良く、当たり前のように強かった。俺が人生を懸けて挑んだムエタイはこんなにも凄いものか、目指した最高峰がとてつもない険しい山だったことに嬉しくさえなった!」と語る。
ラストファイトは1993年4月17日、前年にヒジ打ちで切られて敗れた不破龍雄(北心)にパワーで押し切る雪辱の判定勝利。1994年4月9日、豪勢な引退式を行なった。
8年の現役生活で約30戦、日本キックボクシング連盟は他団体から比べれば地味な興行が続く中ではあったが、佐藤正男はここまで人知れずも中身の濃い選手生活だった。
そして数々の格闘技を体験した経験値からトレーナーとしての実力も発揮。渡辺ジムから相原将人、小野瀬邦英ら後輩達のチャンピオン6名の誕生に貢献した。
2011年5月7日には、引退前から日本キックボクシング連盟を後援する会社との縁で知り合った女性と長いお付き合いの末、一般的には難しい靖国神社本殿で結婚式を挙げた。
そんな格闘技人生の中ではジム移籍の経緯、帝拳ジム、大道塾、講道館での存在感、靖国神社でのエピソードも話題が尽きない佐藤正男。また触れることがあれば第2弾を書き綴りたいものである。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」