笑ってしまうのは、フィギュアスケ-トの高橋大輔がショートプログラムで滑った曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」の作曲者とされていた佐村河内守氏が、「実は耳が聞こえていた」と週刊文春で新垣隆氏に暴露されてからのマスコミの対応だ。
他の雑誌やテレビ局関係者が、「耳が聞こえていると気がついていた」と言い出した。
ある意味すごいのは、「本誌が見抜いた佐村河内の嘘」という記事を載せた、2月10日発売のAERAだ。
昨年6月に佐村河内氏にインタビューした際に、彼は手話通訳が終わらないうちに答え始めたという。帰りのタクシーが着てインターホンが鳴ると、即座に立ち上がって「来ましたよ」と言ったという。
耳が聞こえていたことに気がついて、インタビューの掲載を見送ったというのだが、なぜその時に追求して記事にしないのか。そうすれば、週刊文春に先んじたスクープになったのに。自分たちのマヌケぶりを、わざわざ記事にしているのだから、驚く。
その時のAERAの対応を好意的に解釈するなら、皆が美談だと思っているものをひっくり返して、嫌なやつだと思われたくないという、優等生的な発想だろう。
それに対して週刊文春は、たとえ嫌なやつだと思われようと、嘘だとはっきりしているなら、美談でも何でもひっくり返してやるという、悪ガキ的発想。
そのどちらを好むのかは個人の趣味だろうが、優等生だったら優等生らしく、暴露されてからも、嘘で作られた虚像にだって癒され励まされた人がいるのだからいいではないか、という論陣でも張ったらどうなんだ。
この問題、しばしばゴーストライターの可否として論じられる。
ゴーストライターが本当にゴーストだったのは4、50年くらい前のことだろう。
ライターに本を書かせた俳優が、作家のパーティなどに来て「私も皆さんのお仲間入りをしました」などと、いけしゃあしゃあと言っていた時代が確かにあった。
だが今は、俳優や歌手、タレントなどの本をライターが書いていることは、常識だ。本の奥付をみれば、構成として名前があり、誰がライターなのかも分かるようになっている。
たいていの俳優や歌手、タレントに文章を書けと言っても無理な話で、ライターがいなければ成立しない。これは共同作業である。
今回のことは、新垣氏に作曲させたものを、自分の曲だと佐村河内氏が偽っていたということもあるが、極論すれば、お互いが納得さえしていれば問題ではない。
問題の核心は、佐村河内氏が全聾だと偽っていたことである。
会見において、自身を「共犯者」だと言ったように、18年に渡って虚像を作ることに協力していた新垣氏も罪を負っている。
だが、企業の内部告発などでも、内部にいたのだから多かれ少なかれ共犯者なのだ。
しかし、告発する者がいなければ、罪は明らかにならない。
自らの罪も含めて告発した、現在の新垣氏の真摯さに目を向けるべきだろう。
新垣氏は桐朋学園大学の非常勤講師を務めているが、会見に先立ち大学を辞する表明をし、大学側も処分を検討している。
学生たちからは大学に寛大な処置を求める署名運動が起こっている。その一部を引用しよう。
「しかしながら、私たちは先生の優しい人柄にふれ、音楽を愛することの素晴らしさを感じ、謙虚に生きることの大切さを学びました。また先生は、ひとつの音符たりともおろそかにする方ではないことを私たちは存じております。義手のヴァイオリニストに捧げられた作品、東日本大震災の被災者のために捧げられた作品。いずれも、佐村河内氏の要求する音楽の内容に、それはそれで応えながらも、しかし人影に隠れて、思いやりをもって書かれたことは、先生の性格を知る私たちにとって想像にかたくありません」
虚構が暴かれた後でも、曲そのものは素晴らしいものであると、少なくない音楽家が認めている。勇気ある告白をした新垣氏の曲として、愛されていくべきではないだろうか。
少なくとも、先生が先生のままでいてほしい、という学生たちの切なる願いは、かなえられてほしい。
(鹿砦丸)