M君リンチ事件の真相究明のため鹿砦社特別取材班が結成され、取材と出版活動を開始してから4年あまりの時間が経過した。「しばき隊」「カウンター」などと自他称される「反差別運動」の内部において凄惨なリンチが行われ、事件後1年以上M君に対して事件を告発した報復のためネット上で誹謗中傷を殺到させるという異常きわまる光景。李信恵が「反ヘイトスピーチ裁判の旗手」としてマスコミ等に持て囃される一方で被害者M君は正当な救済をまったく受けていなかったという理不尽。──
以来4年余、M君の裁判は終結し、金良平の不誠実極まる対応に最後の最後まで迷惑をかけられながらも、M君にはようやく賠償金が支払われた。これについては社長の松岡以下、鹿砦社特別取材班の面々も安堵しているが、その一方でリンチ事件が本質的な解決をみたとは到底言うことができない。
なぜならば、リンチ事件やその裁判に直接かかわった者たちから、事件の隠蔽工作をした者たちや被害者M君を誹謗中傷した者たちから、どこからも事件に対する真摯な反省は微塵も見えないからである。換言すれば、この者らの関わる「反差別運動」やそれに関連する社会運動において、M君リンチ事件のような陰惨かつ卑劣きわまる事件が、今後も繰り返される可能性は極めて高いということだ。
鹿砦社特別取材班は、われわれの取材の成果が、こうした社会運動における暴力の根絶に向けての歴史の教訓となることを目的の一つとしている。鹿砦社と李信恵の裁判についても、そうした取材活動の一環として報告を続けてきた。
◆M君リンチ事件の概要
鹿砦社と李信恵の裁判の概要を改めて振り返ろう。M君リンチ事件が「しばき隊」「カウンター」関係者総出での隠蔽工作を破って明るみに出され、被害者M君が李信恵ら5人を相手に損害賠償を求める裁判を起こしたのが2016年7月。その後李信恵らその裁判の被告側および支援者(すなわちリンチ事件の加害者サイドの者たち)から、被害者M君や鹿砦社に対する誹謗中傷が繰り返されてきた。
李信恵本人とて例外ではない。「クソ鹿砦社」「鹿砦社の嫌がらせのせいで講演会の告知もできない」「お金目当て」「社長は中核派? 革マル派?」等の誹謗中傷を李信恵は繰り返した。
李信恵の「反ヘイトスピーチ裁判」はマスコミに取り上げられ、李信恵自身は「反差別運動の旗手」として著名であり著書も出版している。このような人物による誹謗中傷を重く見た松岡は、2017年9月、李信恵に対する名誉毀損による損害賠償請求の訴えを大阪地裁に提起した。
この訴訟自体は、2019年2月14日に大阪地裁で鹿砦社が完全勝訴。双方が控訴したが同年7月26日、大阪高裁は双方の控訴を棄却。李信恵側がいったん上告したものの、後にこれを取り下げたので鹿砦社の勝訴が確定している。
鹿砦社の提訴から半年以上が経過した2018年4月、李信恵から鹿砦社に対する反訴が提起された。損害賠償550万円の支払いに加え、なんとこれまで鹿砦社が出版したリンチ事件関連書籍の「販売差止め」が請求の内容となっている。
この反訴は鹿砦社が訴えを起こした訴訟と併合審理が認められず、李信恵側が別訴として改めて訴えを提起し直したという経緯がある。これまで鹿砦社が李を訴えた裁判を鹿砦社対李信恵第1訴訟、李信恵が損害賠償と販売差止めを求めて訴えたものを第2訴訟と便宜的に呼んできたが、去る11月24日に第2訴訟の人証調べが行われた。
第2訴訟は、李信恵が自身の不祥事を明るみに出された書籍を、みずからに都合が悪いから封殺したいという目的であり、この請求自体、憲法第21条が保障する「表現の自由」「言論。出版の自由」に対する重大な挑戦である。出版活動を行ってきた取材班としても絶対に看過することはできない。11月24日は鹿砦社と李信恵の〈直接対決〉の場であり、まさにこれまでの訴訟の天王山であった(李信恵は第1訴訟の時は一度も出廷せず、李信恵への尋問も行われなかった)。以下、当日の様子を報告する。──
◆午前:鹿砦社特別取材班キャップ、田所敏夫の証人尋問
11時に開廷した口頭弁論は、鹿砦社側の尋問から行われた。尋問には社長の松岡ではなく、鹿砦社特別取材班キャップとして取材の現場の陣頭指揮を執ってきた田所敏夫が証人として立った。鹿砦社代理人の大川伸郎弁護士による主尋問において、「あらゆる差別を許さない」という鹿砦社特別取材班の差別問題に対するスタンスを田所は改めて鮮明にした。その上で、李信恵のような人物が反差別運動の先頭に立つことは疑問があると述べた。
ここまでは過去にわれわれが明らかにしてきたことであるが、今回の尋問では田所はさらに踏み込んだ。尋問に先立って田所は広島原爆の被爆二世であり、さまざまな心身の不調があること。尋問中に不具合のある視力のため、サングラスを着用していること。遠近を見分けるために、複数のメガネをかけ替えてよいか?また「可能な限り大きな声で話すよう努力するが、のどにも不具合があるため、必要に応じて水分補給をしてもよいか」と裁判官に尋ね、いずれも許可された。
李信恵や神原元がこれまで鹿砦社による言論、出版活動における自分たちへの批判に「差別」ないしは「差別の助長」とレッテルを貼ろうと何度も試みてきた。しかし田所が証言席で自ら語った「広島原爆被爆二世」という事実は、「差別」が李伸恵や神原元らの専有物ではないことを、明らかにするものとなった。
主尋問は被告(鹿砦社)側代理人、大川伸郎弁護士が担当した。事件を知ったきっかけから、どのように取材班が結成されたのか、社長松岡と田所の関係性、取材方法-対象、どの時点で共謀があったと確信したか。など手際よく質問が展開され、田所はよどみなく回答した。
特筆すべきは大川弁護士による「ご自身は『差別』のようなものを、お感じになったことはありませんか?」との質問だった。
田所は「私は広島原爆被爆二世であり、若年の頃より様々な疾病や体の変調に見舞われてきた。外見上もそうだった。しかしその原因が『被爆二世』であると語ったことはこれまでなかった。そう語らなければ周囲の人間には、どうして体調崩すのかは理解されない。しかし、最近とみに内科・外科疾患の進行が速まっていることから、私が『広島原爆被爆二世』であること本年公開した。これまで経験してきたことの中には『差別』もあった」。田所は淡々と答えた。
李信恵側の反対尋問は、主として神原元が担当した。神原はM君が李信恵に顔を殴られたのは「平手か拳か?」と、枝葉末節な質問について書証を根拠に田所へしつこく聞いた。
しかし田所は「そんなことは、まったく問題ではない! 何十発も殴られ顔面骨折し、自分が蹴られたことすら記憶していない状態であったM君が、『手拳』か『平手』かを明確に覚えていなくても、全く不思議だとは思わない。今ここで、私が神原先生を私が殴れば、それが『手拳』であろうが『平手』であろうが問題になるのではないか! M君は当初『殴られた』としかわれわれに語っていなかった。刑事記録の中からM君が『蹴られていた』ことを見つけたのは私であり、それまで、彼の記憶の中からは『蹴られた』ことすら残っていなかったのだ」と強い語調で反論した。
慌てた神原はこの質問は得策ではないと考えたのか、突如質問の内容を変えた。
神原が田所に行った質問は、細かな勘違いや記憶違いを突いて供述全体の信用性を低下させようと企図されたものであったが、田所は全く動じず、むしろ質問の不当性をたびたび弾劾した。
これまでの神原であれば田所が展開したような「弾劾」にたいして、発言をさえぎる場面が多く見られたが、この日の神原の質問は、明らかに精彩を欠いており。田所が「圧倒した」と傍聴席の人々は感じたのではないだろうか。
ここ数年来田所は、広島被爆二世からくる宿命的とも推認されるさまざまな体調不良に見舞われてきた。それにもかかわらず、田所は鹿砦社特別取材班キャップとして陣頭指揮を執ってきた。この日の田所の証言は文字通り〈命がけ〉であった。鹿砦社特別取材班キャップとしてその責務を全うしようと、裁判を戦ったのである。──(本文中敬称略。つづく)
《余談》日頃裁判期日の後には、即座に自身のツイッターに「圧勝」を宣言する神原元は、神奈川への帰路新幹線の中で尋問とは無関係な発信を連発。ようやく新横浜に到着したと思われる時刻に「圧勝」宣言を書き込んだ。尋問直後に「圧勝」宣言を書けなかった神原の姿が、彼の心理状態を物語る。敗訴した裁判のあとでも「祝勝会」をあげる神原にして、尋問終了直後に「圧勝」とは書けなかったのである。敗北感があったのではないだろうか。
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