どう考えても、あるいはどこから秘策を探っても、惨憺たる戦後は確定している。では、「戦後」を確信するわたしと、暴走する主体を入れ替えて(ありもしないが)わたしが、開催責任者だったらと、思案してみよう。

嘘を座布団に敷かないかぎり、はたまた政治家のように厚顔無恥な言い放ちに平然と己をおとしめないかぎり、あらゆる条件設定で“Yes!We Can!”とはいえない。匿名であれ、ペンネームであれ、本名であれ絶対に発語できない。「東京五輪」には、従前から極端といわれるであろう激しい物言いで「反対」していたわたしが、精一杯主催者の立場に視点を置き換えようと、この期に及んで無駄が必定な仮説に身をおこうと試みた。

「敵」の心象は、どこまでも、ひつこく、論理にはまったく欠けていて、それでいて傍若無人なのだ。なら、間違いなく存在している、大きな力からの発語者である「そんなひとたち」のお考えは内面どう処理されるのか。IOCのバッハ会長、菅総理大臣、丸川五輪大臣、小池東京都知事、五輪スポンサーにして、毎年部数を減らす全国紙とその系列のテレビ局……。全員気持ち悪い表情で、言語的には整合しない文脈や誌面・番組を、平然と織りなす。この連中の神経はどうなっているんだ?はたして人間の感性を持っているのか。人間の感性は、微笑みながらひとを大混乱や殺戮に導くことに、こうも厚顔でいられるものなのか。

30代になりたての頃、職場で民主的な方法により、トップに選ばれた人が、わたしに「田所いまいくつだ?」と問うた。「30ちょいですよ」と答えると「そりゃ若いな。40超えて45超えると、俺みたいに不感症になってくるんだよ」と彼は仰った。相当にわたしが煙たかったのだろうが、彼の言葉に「そんなことあるものか」と内心では楯突いた記憶は定かだ。ライヒの翻訳者としても知られたあの賢人から、叱責(?)されて四半世紀が経ってもその反応に変化はない。

さて、在野や役職が付かないときには、仲間であったり仲間以上に過激な先導者だったりした先達が、大したこともない(といっては失礼だろうが)肩書の一つも与えられたら、途端にビジネス書を手にしだして、管理職気分になるあの気持ち悪さ。たかが中規模の所帯で中間化離職になろうが、トップになろうが、株主の締め付けがあるわけでもなかった、あの職場でどうしてみなさん「転向」していったのだろうか。

ずいぶん横道にそれたようだが、「裸の大様」だということを「五輪禍」を語る上でに、過去の経験とわたしの変化しない体感からご紹介したかったわけである。IOCも日本政府、組織委員会、東京都、聖火リレーを諾々と行う都道府県…全部が狂っているとしかわたしには思えない。

以前に本通信で書いたが、もう「東京五輪」が開催されようが、中止されようが、この国は「絨毯爆撃」を食らった状態であって、あとは開催されれば「原爆投下」が加わる、つまり1945年の8月初旬と比較しうる惨憺のなかに、すでにわれわれはおかれている。このことだけで充分に悲劇的だし、「敗戦後」には「戦後処理」が急務となる。「戦後処理」とは、今次にあっては、膨大な税金の浪費によって、なにも生み出さないどころか、「泥棒」(大資本や電通など)がますます肥え太り、「真面目な庶民」からの税金で財を成した連中の、焦げ付きにまたしても「尻ぬぐい」のツケが回ってくることだ。増税であったり、行政サービスの低下、年金の切り下げとして形になろう。

MMTなるインチキな理論によれば、「自国通貨で国債を発行している限り財政破綻はない」らしい。そんな理屈が成り立つのならば国債は不要で、税金も不要なはずだ。ひたすら貨幣をすればいい。この理論はリーマンショック後の米国が前述の対応で、さしてインフレにならなかったことに依拠しているらしいが、一方で暴走的に膨らむ「非実体経済」(金融商品などの担保に由来しない価値)の問題には、処方箋を持たず、なによりも資本主義末期にあげく体制への「助け舟」として機能していることを、見逃してはいないだろうか。

今次の「戦後処理」にソフトランディングはない、と直感する。ただし「原爆」は何としても避けたい。「原爆」は世代を超えて禍根を残すのだから。「五輪」、「コロナ」、「MMT」あれもこれも詐欺的である。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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