国民の8割近くが「延期」か「中止」を求めている東京オリンピック・パラリンピックは、無観客(1都3県)で強行開催されることになった。今からでも遅くない、コロナ禍で国民をパンデミックにさらす五輪を中止せよという声は少なくない。

だがこの至極当然で正当な声も、政治の原理と資本の運動の前には通じないであろう。オリンピックが「平和の祭典」、あるいは「人類のスポーツの賛歌」であるとする大義名分の実質が、国威高揚の政治的な場であり巨大ビジネスイベントである以上、世界資本主義(グローバル経済)の存立の一端を揺るがすには至らないのだ。

それは、ぼったくり男爵と呼ばれる人や、五輪貴族と言われる人々の利権が個人的なものではなく、資本の国際的なネットワークの中にあるからだ。

そこで、われわれは単に中止を訴えるだけではなく、オリンピックの理念がいかに歪められ、平和の祭典の名のもとに一部の人間たちが利権をむさぼっているかを、本通信で明らかにしてきた。

講道館の創始者の名前を冠にした財団を隠れ蓑に、膨大な資金が闇に消えていることを、JOCの経理部長の自殺は示唆している。この犠牲者の死を無駄にしないために、ジャーナリズムは巨悪を探り出すのでなければならない。

◎嘉納治五郎財団の闇 犠牲者があばく収賄劇 ── 追い詰められた菅義偉の東京オリンピック(2021年6月15日)

◎会見で何も語らなかった竹田JOC会長の贈賄疑惑が日仏外交問題に発展する日(2019年1月24日)

五輪にかかわる国内企業のなかでも、スポンサーではなく寄生虫のように利権をむさぼっている会社がある。一日数万円という高額の日当を設定しておき、そこかに安価な非正規の労働力をあっ旋することで、中抜きをしているのではないか。その企業のトップは、自民党政権に強力な影響力を持っている男なのだ。この男が経営者として中抜きをしているかぎり、日本の若い世代は希望のない人生を送るしかないであろう。

◎やはり竹中平蔵は「政商」である──東京五輪に寄生するパソナのトンデモ中抜き(2021年6月5日)

そもそも、スポーツの秋に開かれない、真夏のオリンピック・パラリンピックとは何なのだろうか? マラソン走者は完走後にかならず「もどす」という。このアスリートの体調が悪化する異常なレースは、CBSをはじめとする全米放送ネットワークをはじめとするコマーシャルのためのものなのである。

オリンピックに出場するアスリートたちは「オリンピアン」「メダリスト」という称号を獲得するために、選手生命を縮めなければならないのだ。健康をも度外視した競技をスポーツといえるのだろうか。

◎アスリートに敬意がない真夏の炎天下オリンピックマラソン 視聴率のために選手を犠牲にしていいのか(2019年10月4日)

無内容に感情的、情緒的な反対論を唱えたところで、現在の歪められた五輪を批判することにはならない。

あえてオリンピックの原点に立ち返り、商業主義や国家主義(ナショナリズム)を排するものにする。少なくとも近代五輪の精神である「参加することに意義がある」(クーベルタン男爵)を復活することこそ、人類にとってスポーツが生存する上での本能的(生理的)なテーマであり、スポーツマンシップという競技者・競争者を讃える平和の精神の獲得につながる。この理想をもって語るとき、はじめて歪められた五輪を糺すことができるのだ。

◎やっぱりオリンピックは政治ショーだった(2018年2月15日)

専門家の予測によると、8月には東京都のコロナ新規感染者が2000人をこえるとされている。札幌で開かれたマラソンのテストレースでは、県当局の声援を遠慮してほしいとの呼びかけにもかかわらず、沿道は応援客で埋まった。

大規模施設は無観客(小規模では有観客という謎)としながらも、上述した五輪貴族たちは1万人が開会式に詰めかけるという。無観客・テレビ視聴せよという、ほとんど日本で開催する意味のない大会になったいっぽうで、利権をあさる「関係者」たちは新国立競技場の客席を埋める予定なのだ。

この光景を観て、われわれ日本人はアメリカ資本および五輪利権者たちに屈従する、わが国の現状に愕然とするであろう。いみじくも菅総理は、50数年前の記憶(東京五輪でのバレーボールや柔道)を、いまの少年少女たちにも見せたいと語った。2021年五輪はしかし、日本人の屈辱の記憶となる可能性が高い。それも競技においてではなく、主催者でありながら日本人客が参加できないという開催形式においてなのだ。

◆感染者を隠ぺいする

このかん五輪組織委員会は、ウガンダ選手団の飛行機同乗者、フランスの大会関係者、エジプト、ガーナ、スリランカ、セルビアの選手が感染していたことを隠ぺいしてきた。そればかりではない。なんと、選手村に勤務する職員が感染していたことを隠ぺいしていたのだ。しかもその職員たちは集団で飲食していたことが明らかになった。

いや、個々の選手が不注意なのではない。職員が単に飲食することが悪いのではない。コロナウイルスの猛威が収まらず、ワクチンの手配がままならない(失政であろう)なかで、感染者が出るのは当たり前というべきであろう。そんな状況で、人々の密を生み出す世界的なイベントを強行することにこそ、責任がある。それはすでに「政治責任」であると指摘しておこう。

いよいよ秒読みに入った、オリンピック・パラリンピック開催。時々刻々と、その強硬策がもたらす災禍、およびその政治責任を報じていくことを約束しよう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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