いよいよ、呪われた東京オリンピック・パラリンピックが始まった。大会の問題点はともかく、まずはアスリートたちの健闘を祈りたい。スポーツ(肉体をつかって戦うこと)が食事とともに人間の生存の本源であり、ルールのもとに競い合う文化であることに疑いはないからだ。

◆「日本を代表する」プロデューサーやクリエーターの多くが、差別者で構成されていたという事実

とはいえ、コロナ禍での開催そのものをめぐる賛否両論、当初のコンパクト予算の大幅オーバー、大会ロゴの盗作問題、メイン競技場の設計やり直し。フランス当局の捜査によって明らかになるも、いまだ闇のままのアフリカ票買収──。いや、カネだけではない。

会長の女性差別発言による退任、女性侮蔑ディレクターの辞任、開会式作曲担当者の障がい者イジメ自賛事件による相次ぐ辞任、閉開会式のショーディレクターの歴史認識による解任と、これほどトラブルに見舞われた大会もめずらしい。

会長は老齢で価値観が古いから仕方がないとか、もう20年も前の発言だからとか、当時の価値観では許されたとかは、何の免罪符にもならない。弾劾されているのは、かれらの過去の言動が、現在の「公的な立場」に耐えないという理由なのだ。逆に言えば、辞任と解任で、かれらは責任を取ったことになる。

いずれにしても、大会の裏方スタッフの大半。すなわち現代の「日本を代表する」プロデューサーやクリエーターの多くが、オリンピック憲章にもとる差別者で構成されていたことになる。

その弁明も「言葉選びの誤り」などというものであれば、何ら差別・排外主義の歴史認識を捉え返したものではない。わが国の近現代史教育の脆弱さが課題として浮上したかたちになった。

もはや東京の街に、祝祭の空気はどこにもない。心ある人々は日本社会が差別排外主義に毒され、あるいは責任の所在が明白ではないがゆえに止められない大規模プロジェクトに、茫然としているばかりだ。

◆失敗した五輪の実態を刻印する

だが、いかに悲惨なオリンピックになろうと、ジャーナリズムが手をこまねいているわけにはいかないのである。あまりの酷さを感情的に嘆いてみせても意味はない。

クーベルタン男爵の国境をこえたスポーツによる平和の理想、スポーツと知性のうえに哲学的地平を拓いた古代ギリシャの理想が、すでに国家主義(ナショナリズム)と商業主義(スポンサーが開催形態を決定する)によって、地に堕ちていることこそが問題なのだ。

にもかかわらず、人間がスポーツをするという本源的な営為までが、地に堕ちたというわけではない。いや、危機に瀕しているからこそ、オリンピックの精神は復権されなければならないのだ。個人参加による、参加することに意義があるというテーマの復権である。

スポーツそれ自体の素晴らしさは、アスリートやスポーツ経験のあるひとだけのものではない。スポーツを観戦することで感動を得る人にとっても、ひとしく謳歌されるべきものだ。そして、少しは身体を動かしてみようとなればよいのだ。さあ、今日から走ろう!

◆戦争とオリンピック

周知のとおりオリンピックには、独自の政治的な意義もある。看板に掲げる「平和主義」という「政治性」である。手続きとしては国連決議による、オリンピック・パラリンピック期間中の戦争・紛争地域の無条件停戦協定である。日々、砲弾や銃火におびえる人々が、少なくともオリパラの約一カ月は安心して眠れることになる。1985年のユニバーシアード神戸大会で、山口組と一和会の暴力団抗争が停戦になったことはあるが、オリンピック以外のスポーツ大会で戦争が停戦になることはない。

と書いていたところで、開会式の国旗掲揚に自衛隊が動員されていた。裏方の演奏隊ならともかく(大相撲では日の丸演奏が常態化している)、平和の祭典の開会式の根幹をなす国旗掲揚に、なぜ軍隊(自衛隊の国際的認知)が登場するのか。日本政府は明確な説明を求められるであろう。解任されたユダヤ人大量虐殺ディレクターの置き土産というわけなのか? 

自衛隊は警備や医療支援をふくめて8500人が動員され、閉会式にも登場するという。いまこそ「君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ!」という吉田茂の名言を復権するべきであろう。

◆「不敬」かそれとも穏当な措置か

もうひとつ、開会式では愕くべき事態が起きた。大会名誉総裁を務める天皇がご起立して開会宣言をされている時、天皇とならんでいた小池知事と菅総理の2人が、ともに椅子に座ってこれを聴いていたのだ。途中でこれはまずいと気付いたらしく、小池都知事が立ち上げり、ついで菅首相が立ち上がった。

この場面がバッチリ全国中継されてしまったことで、2人には批判が集中しているのだ。SNS上では「不敬」「非礼」などという言葉が飛び交っている。政治家を天皇が任命する以上、日本の憲法では天皇が上司とされる。身分が違うという指摘もあろうが、天皇は単に「国民統合の象徴」であって、ことさら身分が上と規定しているわけではない。国事行為とは形式的なものにすぎないのだ。

したがって、当初のごとく坐って聴いていても何ら非難されるべきものではないが、天皇を元首にしたい自民党の総裁、そして思想的には自民党と何ら変わりなく、単に権力争いをしているに過ぎない小池にとって、この事態は大失態と言うしかない。天皇への敬意をめぐって、保守論壇の中で真っ向から議論してもらいたいものだ。

いっぽう、日本の組織委員会が果たせなかった多様性の容認と調和、あらゆる差別への反対、社会的連帯という目的も、イベントに掲げられる意義はきわめて大きい。というよりも、日本の大会組織委員会が無知を晒したからこそ、これらは人類の叡智として、改めて刻印されるべきであろう。

そこでわれわれはジャーナリストの端くれとして、その英邁な人類の理想と東京五輪がいかにかけ離れ、国家のメンツのためにだけ開かれているかの現実を、現地からレポートしなければならない。もって批判の実質とするべきだ。

それは21世紀初頭の日本社会の現実を、顕わにすることにほかならないのである。という大仰な理由づけで、オリンピックの東京をレポートします。

◆警備予算獲得のために危機を煽る警察庁の首都戒厳令

2008年の洞爺湖環境サミットいらい、警察庁の警備予算獲得のためのパフォーマンスには異様なものがある。

反グローバリズムのNGO団体や環境団体が国境をこえて押し寄せてくるCF、機動隊のガンダム戦闘服への刷新、過剰なデモンストレーション的な緊急搬送訓練など。かつて暴力団抗争や左翼の武装闘争が激しかった時代の、28万人体制を維持するために、過剰な海外情報で危機感をあおり、予算の獲得にこれ努めてきたのである。

本気でやるつもりもない工藤會壊滅作戦や、こちらは本気で反対運動つぶしを狙う沖縄辺野古基地警備、その中で自治体警察の枠をこえた動員体制、全国派遣というシステムをつくり出してきたのだ。

動員される警察官にとっても、なかば旅行気分の派遣(ホテル暮らし)は、出張費もふくめて美味しいものだといえよう。

もう13年前になるが、洞爺湖サミットに「自転車による環境保護・原発の安全基準の見直し」をもとめて自転車キャラバン(ツーリング洞爺湖・1500キロ走破)を実施したさいにも、大勢の公安警察官がわれわれサイクリストの「警備」に動員され、あるいは自転車持参で同道したものだ。われわれは自弁の旅だが、かれらは公費の旅という道中だった。

必要のない警備に動員される警察官たちにはご苦労様な反面、警察庁のエリート警察官から末端の機動隊員まで、かれらは国民の税金を好きなようにむさぼっているともいえる。生産に従事している国民が困窮しているとき、最も生産性のない連中が大手を振っているのだ。

警察の業務を「犯罪捜査」に限定したとき、その役割は国家の根幹を占める重大なものがあるのは確かだが、日本の警察はその能力に頼りないものが多い。そればかりか、冤罪を生む見込み捜査や初動捜査の遅れは甚だしいものがある。そして道案内や警備などを「サービス業」とみなした場合、あまりにもお粗末なシステムではないか。私自身が満足な住所案内を受けた経験はないし、スマホのマップ機能が平常であれば、もはや交番で道を訊くという選択肢はなくなった。

警備を「サービス業」にみなした場合、警棒と拳銃で武装した暴力装置の危険性にその問題点はおよぶ。ヤクザですらしない武器による威嚇が、はたして穏当に行なわれているのか。警察官不祥事、とりわけ警察官における性的犯罪は職業病と認定する心理学者もいるほどだ。このような組織が予算獲得のために五輪のようなイベントを梃子にする。これこそ監視しなければならない課題なのだ。

そこで、会場レポートを警備、とりわけ警察官の動員に絞って行なおう。まずは葛西臨海公園内のカヌー・スラローム会場である。

写真を撮ろうとすると、そそくさと立ち去ろうとする警察官

同じく葛西公園。ここに動員されている警察官は香川県警であった。やはり全国動員で予算を獲得しているのだ

夢の島(夢の島の森公園)内のアーチェリー会場。青いジャージが大会公式ボランティア。この青ジャージは誰でも買えるというわけではなく、将来はプレミア価格が付くという。指令があって動員されているのだろうが、所在なさそうにウロついているボランティアも散見された

アーチェリー会場の正面。警察官の姿ばかかりではなく、わたしと同じように見学に来ている人も少なからず。ここは長野県警の担当だった。八戸ナンバーのカマボコ(昔の学生運動用語で、機動隊バス)も見たので、青森県警も来ているのであろう

BMX(自転車曲乗り)の会場がある豊洲地区。至近に有明テニスの森(テニス会場)。このあたりは愛知県警でした

豊洲大橋は渡れませんでした。この先に選手村があるからでしょう。貸し切りバスは選手団用で、大会関係車両というシールが貼ってある。やむなくお台場方面(ビーチバレー)を調査し、晴海大橋から都心に入ることに(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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