義母に嫌われるほど目立つ、一部の国民から妬みを招くほど人気がある。それが昭和皇室のスーパースター、美智子妃であった。香淳皇后が抱いていた敵意が、美智子妃の存在が皇太子明仁を「脇役」「添え物」にするほど、彼女は皇室アイドル化路線の体現者であった。
その人気は、平成の世になってからもつづいた。いや、皇族や旧華族の一部に嫌われた昭和時代にも増して、皇后としてのその華やかな存在が重みを増し、そして叩かれたのだった。いわゆる美智子皇后バッシングである。
それは平成皇太子の結婚という、いわば慶事を前後して行なわれた一大キャンペーンだった。
●平成5(1993)年4月「吹上新御所建設ではらした美智子皇后『積年の思い』」(『週刊文春』4月15日号)
●6月「宮内庁に敢えて問う 皇太子御成婚『君が代』は何故消えたのか」(『週刊文春』6月10日号)
●6月「宮内庁記者が絶対書けない平成皇室『女の闘い』」(『週刊文春』6月17日号)
●7月「皇室の危機『菊のカーテン』の内側からの証言」(『宝島30』8月号)
●7月「『宝島30』の問題手記『皇室の危機』で宮内庁職員が初めて明かした皇室の『嘆かわしい状況』」(『週刊文春』7月22日号)
●9月「天皇訪欧費用『2億円』の中身」(『週刊新潮』1993年9月9日号)
●9月「美智子皇后が訪欧直前の記者会見で『ムッ』としたある質問」(『週刊文春』9月16日号)
●9月「美智子皇后のご希望で昭和天皇の愛した皇居自然林が丸坊主(『週刊文春』)9月23日号)
●9月「宮内庁VS防衛庁に発展か 天皇・皇后両陛下は『自衛官の制服』お嫌い」(『週刊文春』9月30日号)
ご記憶にあるだろうか。記事に憤激した右翼団体が、発行元の出版社に街宣車で押しかけるという事態も起きたものだ。
上記の記事のうち、吹上新御所建設では、昭和天皇が愛した皇居内の自然林を伐採し、香淳皇后との「別居」を実現したというものだ。なかでも宮内庁職員の「内部告発」がリアルに暴き出す皇室の内幕は雑誌の増刷につながり、国民の関心をかった。大内糺(仮名)という人物の匿名記事である。
暴露記事の背景には、天皇の代替わりのさいに侍従や女官が総入れ替えになるので、お役御免となった人々から、過去の憤懣や内情が暴露されたものと考えられる。現役の職員からの「タレコミ」があったかもしれない。
たとえば、皇太子妃時代の美智子妃が友人を招いて、その宴が深夜にまで及ぶ。そのかん、お付きの侍従や女官たちは勤務が解けないというもの。
いわく「美智子様は宵っぱりで、午前1時、2時になってもインスタントラーメンを注文したりするので、当直職員は気を許すことができない」
あるいは「華美な生活を好み、キリスト教に親和性が高く、皇室になじまない」「パーティーなどの計画も、美智子様がウンとおっしゃらないと話が進まない」などと痛烈に批判する。
宮内庁関係者によると、昭和皇太子夫妻の宵っぱりは事実だったようで、職員たちの不満がそこに反映されているという。
◆皇后を襲った失語症
皇室記者たちによれば、「思わず首をかしげたくなる記事」だったが、いや、だからこそ皇后美智子のショックは大きかった。この「キャンペーン」で失語症になったというのだ。10月の誕生日には、以下のコメントを発表している。
「どのような批判も,自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思いますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません。今までに私の配慮が充分でなかったり,どのようなことでも,私の言葉が人を傷つけておりましたら,許して頂きたいと思います。」
このコメントが皇后への同情論として、国民にいっそうの美智子礼賛をもたらした。そしてその後は「美智子皇后の雅子妃イジメ」というキャンペーンが週刊誌を飾ることになるのだ。
その大半は、雅子妃の帯状疱疹などの体調不良にむすびつき、あたかも美智子妃が嫁いびりをしているかのような報道が相次いでいく。そして雅子妃の公務からの離脱がはじまり、平成皇太子の「雅子への人格否定」発言が飛び出すのである。
どこの家庭にもある嫁姑の確執は、ここまで見てきたとおり皇室においても変るところはない。ある意味で国民はその噂をもって、皇室に人間らしい親しみを感じ、あるいは芸能報道的な好奇心をくすぐられるのだ。
単に事件としての皇室スキャンダルではなく、ファンとしての手がとどく芸能記事なのである。そこにこそ、戦後天皇制の国民意識への下降、国民的融和性という本質があるのだ。(つづく)
▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。