刑事の作文、という言葉がある。
主に冤罪事件などで自白が捏造された場合に使われる言葉だ。
かつてこの言葉の意味は分かっても、具体的なイメージは浮かばなかった。
聴取内容と違うことをわざと記載しているのか? それとも後から別の文章と差し替えているのだろうか?
しかし容疑者ではない私にも、刑事が作文をするイメージが湧くようになった出来事がある。
警察署へ「出頭」したことが一度あるのだ。

数年前のことになる。ある百貨店で輸入バッグや革小物のブランドショップを担当していた。
土曜日の午後である。売り場は大変に混み合い、私を含め4人いるスタッフは各々接客をしている。
女性客がプレゼント用に革の名刺入れを選んでおり、カウンターに4色並べて検討していた。
他の商品も見たいということでガラスケースの前に移動し、商品説明をする。
購入する商品が決まって販売手続きが終り、プレゼント包装をしてお渡しし、お客様を見送って売り場中央のカウンターに戻ると、4色あったはずの名刺入れがひとつ足りない。
誰も売ってはいないという。
自分が接客中に第三者に商品を盗られるという痛恨の出来事だった。
後で保安室へ行き、防犯カメラを再生してもらうと、ガラスケースの前で説明をしている際に死角になった場所から、若い男が紺の名刺入れを自分のバッグに入れて立ち去る映像が確認できた。

通常、商品1点の万引きでは被害届などは出さない。しかしそのころ店内で万引き被害が度重なっていたこともあるのだろう、支店長から「被害届を出しなさい」という指示があった。商品管理におけるミスに対する仕置きであったかもしれぬ。
余談だが未だにこの支店長に対して恨めしい感情を持っているのはこの時の体験が大きな一因である。

警察署へは一度出頭したと書いたが訪ねたのは二度であった。
被害届を出すように指示を受けてその日の帰りに最寄りの警察署へ寄ると、出てきた刑事は言うのだ。
「商品を盗られたっていうのはあなたが言うだけでなんの証拠もないんでしょ。そんな話は受け付けられない」
会社に戻って体よく追い返された旨を上司に話すと、
「万引きの被害届なんて検挙率が下がるだけだから受理したがらないんだよね。総務から連絡してもらうから」
そうなら最初からそうしてくれれば良いと思ったがそれはさておく。
総務課から懇意の部署を通して日時を予約してもらい、改めて出向くことになった。このときまで被害届の提出にアポが必要だとは知らなかった。

通されたのは刑事課であった。
お座りくださいと示された椅子に腰かけると、すかさず背後に屈強な男が後ろ手で仁王立ちする。暴れたりした場合に取り押さえる役なのだろうか。
パソコンを前にした刑事に、事の顛末を説明する。この時は防犯カメラの画像をプリントアウトしたものを数枚持参していた。
一通りの事情聴取が終わると刑事が言う。
「それではあなたの話をまとめた文章を今から読み上げるから、確認してください」
刑事の口調はあくまでも穏やかだ。
「私は、○○百貨店の輸入バッグ売り場の店長です」
「店長ではありません」
「じゃあ、責任者です」
「責任者でもありませんよ」
「じゃあ、なんなの」
当時は対外的な肩書を持ち合わせていなかったので、
「販売担当社員です」
と答える。
「そう……。販売を担当しています。これで、いいね」
刑事の表情はやや曇ったように見えた。
店長やら責任者やらという言葉はもとよりそうでない自分が一切口にするはずもないが、刑事の先入観でそのような立場の者としたかったのであろう。
その後、話した内容を5W1Hに沿って文章化したものを一文一文確認しながら先へ進む。
細かい点でも違えば気持ちが悪いので、いくつか訂正するところもあった。
対面に座る刑事のパソコン画面はこちらからは見えないが、おそらく「私は(場所)の(職業)です」で始まるフォーマットがあり、それにしたがって作文しているものと感じられた。
届出の一連には都合1時間以上かかったが、もしこれが大きな事件であり、あるいは参考人や容疑者への聴取であればさらに長時間かかるであろう。
一言一句を確認しつつ、細かい点まで訂正するのは疲れるし面倒になってしまう者もいるであろう。
言ってもいない単語を書かれていても、スルーしてしまうこともあるのかもしれないと思った。

文章は
「なお、犯人と思わしき人物が映った画像写真を提出しますので、参考にしてください」
と締めくくられた。
写真は持参したものから2枚だけを刑事が選び、プリントアウトした用紙の末尾に糊で貼りつける。
刑事がにこやかに言う。
「印鑑は持ってきてないでしょ」
最後に届け出者のサインと捺印の欄がある。被害届の主は社長名となっていたが、届け出者として私個人の住所氏名を書くのである。
予約した際に印鑑持参の旨は一切言わなかったではないか。
「母印でいいから、ここに押してね」
すかさずスタンプ台の入った母印セットが出された。
印鑑を会社に置いてきてしまったことが悔やまれる。
母印“で”いいから、ではなく、母印“が”いいのであろう。
署名捺印をし、提出した写真を貼りつけた場所に割り印を押す。
警察は、折あらば隙あらば指紋を集めたいのだと知る。
認印の代わりならどの指でも良かろうものを、左手の人差指、と指定したからだ。
スタンプの色は朱ではなく黒であった。

何らかの届け出のために警察署へ行く際には、印鑑を持参することをお勧めする。

(ハマノミドリ)