1999年7月、産経新聞の「スクープ」を皮切りに大々的に報道されるようになった本庄保険金殺人事件。2件の殺人罪と1件の殺人未遂罪に問われた埼玉県本庄市の金融業者・八木茂氏(64)は2008年に死刑判決が確定したが、マスコミに「渦中の人」にされて15年になる今も無実を訴え、再審(裁判のやり直し)を求め続けている。
そんな八木氏の裁判では、クロと決めつけた報道のイメージと裏腹に、実はめぼしい有罪証拠は何1つ示されていなかったことは当欄で先日お伝えした通りだ。八木氏が裁判で有罪とされた根拠は、突き詰めれば、共犯者とされる愛人女性3人の自白だけ。しかし、その3人、武まゆみさん(46)、森田考子(たかこ)さん(09年に獄中で病死。享年47)、フィリピン人のアナリエ・サトウ・カワムラさん(49)の自白内容はいずれも荒唐無稽で、現実離れしたものだった。
ただ、女性3人が重い刑罰を科されることを覚悟のうえ、殺人や殺人未遂という重大な罪を認めている事実が持つ意味はかるくない。彼女たちはなぜ、罪を認めたのか――。
それは、取り調べで「偽りの記憶」を植えつけられたからだと八木氏の弁護団は裁判の第一審のころから主張している。この言葉を初めて聞く人はオカルトめいた印象を抱かれたかもしれないが、「偽りの記憶」はれっきとした心理学の概念だ。
アメリカでは80年代から90年代にかけて、心理カウンセラーの「記憶回復セラピー」を受けた成人女性たちが次々に子供時代の近親相姦の記憶を「思い出し」、父親を訴える事件が続発した。それは当初、心理カウンセリングにより抑圧された忌まわしい記憶が蘇ったものと思われていた。しかし、女性たちの中には、両親が「悪魔儀式」に参加している光景を思い出したという荒唐無稽な報告する者も少なくなかった。また、処女の女性が子供を出産した記憶を「思い出した」事例もあった。そんなことから、エリザベス・ロフタスら認知心理学者がこれを「偽りの記憶」だと指摘して論争が勃発。裁判でも娘に訴えられた父親側が勝訴するケースが出て話題になり、アメリカでは「偽りの記憶」が社会問題になった。
では、八木氏の弁護人が主張したように、共犯者とされる女性たちも「偽りの記憶」を植えつけられたと考えられる余地はあるのか。結論からいうと、そうも考えられる材料がある。その根拠は、彼女たちの自白は内容が荒唐無稽だということもあるが、それだけではない。当初、被害者を殺害したことは「記憶になかった」にも関わらず、取り調べが続く中で次第に「思い出して」自白したという経緯が、アメリカの「記憶回復セラピー」で「偽りの記憶」を植えつけられた女性たちと似ているのだ。
実際、女性3人のうち、大半の殺害行為を実行したとされる武さんについては、その供述が「偽りの記憶」の特徴を備えているという専門家の鑑定意見も存在する。その専門家は、北海道大学大学院の仲真紀子教授(認知心理学、発達心理学)。前出のロフタスとは旧知の仲で、かねてより「偽りの記憶」の研究もしていた仲教授は八木氏の裁判の第一審が行われていたころ、弁護側の依頼をうけ、武さんの供述調書を鑑定。鑑定内容は計3件の事件のうち、八木氏らが95年にトリカブトで元工員の佐藤修一氏(享年45)を毒殺したとされる事件について、武さんが「記憶にふたをしていたが、取り調べで思い出した」として自白した供述の信頼性だった。結果、仲教授(※当時は東京都立大学助教授)の鑑定では、この武さんの「記憶」は、「偽りの記憶」の特徴を備えており、信頼性の判断には注意を要する、と結論されたのである。
筆者は昨年一度、仲教授を訪ね、「偽りの記憶」とはいかなるものか、武さんの供述をどう判断したのかについて、話を聞かせてもらったことがある。
仲教授によると、アメリカで「偽りの記憶」という問題が起きているとロフタスから聞かされたのは95、96年ごろのこと。それをきっかけにこの問題に関心を抱いて研究を進め、その一環としてロフタスが「偽りの記憶」の研究をまとめた著書を翻訳したりもした。その訳書「抑圧された記憶の神話」(誠信書房)を八木氏の弁護人が読み、仲教授に相談を持ちかけたことから、仲教授が武さんの供述を鑑定することになったという。
――そもそも、「偽りの記憶」とはどういうものなのでしょうか?
「誘導、暗示、圧力などによって、実際は経験していないことが、あたかも経験したかのように『思い出される』、つまり真実ではない記憶が形成されるというものです。面接において、繰り返し何度も記憶を思い出すよう求めたり、イメージ化をさせることにより、誤った記憶が植えつけられるというのは多くの実験で示されています」
――忘れていた記憶を本当に回復した場合と「偽りの記憶」を見分けるポイントはあるのでしょうか?
「『偽りの記憶』を植えつけられた人の中には、時間が経って落ち着くと、思い出した記憶が事実ではなかったと思い直すリトラクター(撤回する人)もいます。ただ、一般的には、偽りの記憶を植えつけられた人が自分の記憶を『偽りの記憶』だと気づくことは難しい。作られた記憶というのは、本物の記憶以上に本物の記憶らしさを備えていることがあるからです」
「また、ある人の記憶を第三者が『偽りの記憶』か、本物の記憶なのかを見分けるのも難しいです。一般的には、架空の話をした場合、本当に体験したことを話す場合と比べて、話の中に知覚情報が少ないと言われています。しかし、イメージ化を繰り返すことで作られた『偽りの記憶』には、鮮明な知覚的情報が含まれていることがよくあります」
――アメリカなどでは「偽りの記憶」が問題になった事件が多くあるようですが、日本では、この本庄保険金殺人事件以外にも「偽りの記憶」が裁判などで問題になった事例は何かあるのでしょうか?
「私は子どもの供述の研究もしていますが、不適切な面接のために、子どもが実際には体験していないことを話し、裁判で問題になるという事例はよくあります。ただ、ロフタスさんが言っているような『偽りの記憶』、つまり「覚えていない」ことをイメージ化を繰り返しながら思い出そうとし、最後には全部思い出した、というような事例は他には知りません」
――武さんの自白が「偽りの記憶」の特徴を有しているというのは、たとえばどういう部分でしょうか?
「裁判でもお話ししたことですが、まずは取り調べ官からヒントをもらう。そのヒントについて長い時間繰り返し思い出そうと努める。そのとき、イメージを思い描き,自分を登場させ,そのあと何が起きたか考えてみるなどという手続きは、『偽りの記憶』が形成される過程とよく似ています」
――圧力をかけたり、かけられるというのは、具体的にどういう状態のことを言うのでしょうか?
「1つは、自己内の圧力で、これは『思い出さないといけない』『思い出せるはずだ』『思い出さないと事件は解決しない』と自分で自分にかける圧力です。もう1つは外部の圧力で、『覚えているはずだ』『思い出しなさい』などと他の人からかけられる圧力のことを言います」
――武さんの自白の背景には、そういう圧力があったということが供述調書から読み取れるわけですか?
「これも裁判でお話ししたことですが、自己内の圧力も外部の圧力も強いことが伺われます。これも『偽りの記憶』が作られる過程と類似していると思いました」
――イメージ化をするというのは、武さんの場合、どういうことでしょうか?
「イメージ化というのは、目を閉じ、頭の中にイメージを思い描き、自分の姿を登場させ、何があったか長い時間ずっと考え続ける。何か思い浮かんだら、さらにそれを膨らませてみる、などということを指します。ヒントがあったならば、そのヒントの内容も登場させて考えたりします。武さんの思い出し方にも、同様の特徴がありました」
――「偽りの記憶」が形成される時のポイントはそれ以外にも何かありますか?
「『偽りの記憶』を形成する、つまり(実際にはなかった)記憶を作り出す方法としては、『仮説に合うことは受け入れる』(仮説に合わないことは無視する)ということがあります。例えば、取り調べ官が仮説として思っていることを被疑者が話したならば、『そうか、そうか』と受け入れ、被疑者が仮説とは異なる話をしたならば『本当か?よく思い出して』などと問いただす。そのようなことをすれば、被疑者は、次第に特定の方向に誘導されていくことになります。本庄事件でも、結果的に、武さんの最初の説明は受け入れられず、次の説明も受け入れられず、殺害したという説明だけが受け入れられるということがありました」
――取調官と被疑者という上下関係も「偽りの記憶」を植えつけられるポイントになったとは考えられないでしょうか?
「イギリスのグドジョンソンさん(※心理学者)は、人がどういうときに暗示にかかりやすいかという研究をしていますが、権威のある人の暗示には、追従してしまいやすいということです。信頼している上司などから『こうだったんじゃないか』などと言われれば『この人が間違ったことを言うはずはない、そうだったかもしれない』と思ってしまうかもしれません。権威のある取調官に気に入られたいというのも、暗示や誘導を受け入れやすくする要因です」
――こういうことは、日本の別の事件でもあったことなのでしょうか?
「たとえば、甲山事件(※74年に西宮市の知的障害者施設で園児2人が溺死する事故が発生し、同施設の保育士・山田悦子さんが犯人と誤認されて逮捕、起訴された冤罪事件。99年に無罪確定)では、浜田寿美男さん(※心理学者)が、子どもの供述が年月を経るごとにだんだんと詳細になっていくことを示しています。これも、浜田さんの指摘通り,誘導によりつくられた虚偽の報告だと言えるでしょう」
――そういうことは沢山あるのでしょうか?
「沢山ではないですが、判例として残っている例では、このようなものがあります。6歳の女の子が当初、『今朝来たおじさんに嫌なことをされた』と供述していました。けれども、お母さんから『それなら昨日の朝だったよ』と言われ、『そうだ、昨日の朝だったね』と言うようになってしまいました。そしてその供述をもとに、ある男性が被疑者になったのですが、裁判では、その女の子の証言はその男性の特徴と合わないということで、男性は無罪になりました。この結果からすると、その女の子の証言も『偽りの記憶』だったということになります」
「また、こういう事例もあります。小学生の女の子が自分の住んでいるマンションで外国人とされる男性に何かされたと供述し、その男性が被疑者になったのですが、実は女の子は、初期にはそういう報告をしていなかった。学校で友だちと会話をしているうちに『外国人に追いかけられた』『その人はマンションに住んでいる』などの話を聞き、上のような供述をするようになっていったということです。その男性の特徴も、子どもの供述とは合わず無罪になりましたが、これもいわば『偽りの記憶』と言うことができます」
――記憶を回復させる技法の問題なのでしょうか?
「記憶を回復させるとしながらも、実際には暗示をかけたり、記憶を汚染したりする。これが問題だと思います。記憶の回復というと、自分だけで回復するような印象がありますが、実際には他の人にヒントをもらったりとか、他の人と話し合ったりして回復するわけです。自分で自分に思い出そうという圧力をかけたりもしますし、記憶はこのような様々な要因によって、変遷、変化してしまう、たいへんうつろいやすいしろものだと言えます」
「そういう意味では、『偽りの記憶』というのは日常生活のなかにいっぱいあると思います。たとえば、普通の人に『良い体験と悪い体験を思い出して』というと、良い体験は実際より近い時期にあったことであるように思い出し、悪い体験は実際より遠い時期にあったこととして思い出すことが多いのです。自分自身でポジティブに記憶を変容させているのですね。『記憶』は『現実』そのものではないし、ビデオや録音のようなものでもないわけですね」
――日本では、「偽りの記憶」が社会問題になったりはしていませんが、心理学者の間では広く知られた概念なのでしょうか?
「心理学者の間では、一般的な概念であり、研究もたくさんあります。『偽りの記憶』あるいは『虚記憶』『偽記憶』などとして、心理学の事典にも載っています。浜田寿美男さんや山本登志哉さん(※心理学者)が甲山事件の分析をされていますが、これは日本で心理学者が『偽りの記憶』に取り組んだ最初の事案であったかもしれません。『偽りの記憶』という言葉で、私のもとに相談が来たのは本庄の事件だけですが、子どもの面接が適切に行われているか、誘導や暗示がなかったかなどの相談は、よくいただきます。『偽りの記憶』問題はなかなかなくならないものと思います」
こうした仲教授の話を聞いていると、アメリカのように表立って社会問題になっているわけではなくとも、「偽りの記憶」という問題が日本でもたしかに存在することが察せられた。八木氏の再審の展開次第では、この本庄保険金殺人事件が日本でも「偽りの記憶」という問題が存在することを世に知らしめるきっかけになるかもしれない。
実際、武さんら女性3人が捜査段階に受けた取り調べは「偽りの記憶」を植えつけられても仕方ないと思えるほど過酷なものだったことは裁判資料から容易に読み取れる。彼女たちは最初、2000年3月24日に八木氏と一緒に偽装結婚の容疑で逮捕された。同容疑で起訴されると、元塗装工の川村富士美氏(事件発覚当時38)に対する殺人未遂事件、元パチンコ店店員の森田昭氏(享年61)に対する殺人事件の容疑でも順次逮捕、起訴された。こうして森田氏に対する殺人事件の容疑で起訴されるまで、彼女たちの身柄拘束期間は実に66日間に及んだ。その間、土日も祝日も休むことなく、毎日朝から晩まで取り調べを受け、彼女たちは八木氏の指示により保険金目的で川村氏や森田氏に連日大量の風邪薬や酒を飲ませた挙句、森田氏を殺害し、川村氏に傷害を負わせたことを自白した。また、その後も前出の佐藤氏を殺害した容疑を厳しく追及され、八木氏の指示により佐藤氏をトリカブトで殺害したことを「思い出した」。しかし、前記したように犯行の大半を実行したとされる武さんの供述は仲教授の鑑定により「偽りの記憶」の特徴を備えており、信頼性の判断には、注意が必要だと判断された。
そして実を言うと、この仲教授の鑑定が裁判に登場したことにより、八木氏の裁判では大きな波乱が起きていた。第一審の検察側の立証が終わった段階で、弁護側が仲教授の鑑定書を裁判に提出し、仲教授の証人尋問が行われたうえで鑑定書が証拠採用されると、検察側が武さんの再尋問を請求。そして再び法廷に出てきた武さんは、「記憶にふたをしていたというのは嘘でした」とそれまでの供述を覆してしまったのだ。
「佐藤さんを殺害した記憶を回復したというのは嘘で、本当は1秒たりとも忘れたことはありませんでした」
「『記憶にない』という供述も『思い出した』という供述もすべて作りごとだったのです」
「なぜ、そんな嘘をついていたかというと、否認していたと思われるのが嫌だったからです。ふたをしていた記憶が徐々に戻ったということにすれば、否認したことにならない。そのために自分は、記憶にふたをしていたという演技をしていたのです」
武さんは劇的に供述を覆した経緯、理由をそう説明した。しかし普通に考えると、自分の供述の信頼性を否定する専門家の鑑定結果が示された途端、人を殺害したという極めて重大な事実に関する自白をここまで大胆に覆すこと自体が不自然だ。ところが、このような武さんの供述が裁判官たちには「極めて自然であり、十分信用することができる」(さいたま地裁の確定判決)と評価され、八木氏は死刑判決を受けたのである。
弁護団は再審段階になって、仲教授に武さんの供述の信頼性に関する再検討を依頼。これをうけ、仲教授は武さんの供述を再検討し、学生たちを対象とした調査を行った。そして、嘘をついていたと思われたくないために、「記憶を抑圧し、回復した」という説明は、説得力がなく、人は通常選択しない説明だとし、意見書をまとめた。当欄で以前お伝えした通り、東京高裁で行われている八木氏の再審請求即時抗告審では、佐藤氏の死因の再鑑定をすることが決まり、弁護団はこれを突破口に再審が始まることを確信している。実際に再審が始まれば、武さんら女性3人の供述の信ぴょう性も再び公判廷で検証にさらされることになるだろう。
筆者は3人の女性のうち、今も生きている武さん、アナリエさんの2人に真相を聞こうと接触を試みた。しかし、和歌山刑務所で服役している武さんにはそもそも取材依頼の手紙を受け取ってもらうことさえできず、手紙は返送されてきた。また、栃木刑務所に面会を求めて訪ねたアナリエさんも面会に応じてくれなかった(本人が面会に応じても、刑務所側がストップした可能性は高いが)。そういう経緯もあり、筆者としても八木氏の再審が始まり、この事件の真相が何だったのかということが疑惑の浮上から15年の時を超えて再び公判廷で検証されることを期待している。
(片岡健)
★写真は、仲教授(北海道大学大学院の研究室にて)。
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