すでにこのかん記述してきたように、去る2月1日、私たちは、50年前に学費値上げに抗議し身を挺して闘った時の出撃拠点・同志社大学旧学館、拙い砦をこしらえ立て籠もった今出川キャンパス明徳館前に立った。ようやく50年の月日が流れたのか──感慨深い。
コロナ禍で呼びかけるのを憚っていたが、今年になりコロナが収束したかに見えたところで、所在がわかる、かつての同志に案内を送った。しかしコロナ第6波が急拡大したり、平日だったことなどもあり(ほとんどの人が70歳を過ぎても働いているので)、再プッシュしなかった。当時は、たったひとりになっても闘うと決意していたように、かねてから私ひとりでも本年2月1日には同志社大学の旧学館、今出川キャンパス明徳館前に行くつもりだった。
すると、50年前に支援に駆けつけてくれ逮捕された京大熊野寮の垣沼真一さんが駆けつけてくれるという。彼はわざわざ東京から駆けつけてくれた。他にも4人が駆けつけてくれた。従前からもっと周到に準備すれば、もう少しは集まったかもしれないが、このコロナ禍、いたずらに移動を煽るようなことはしたくなかったし、人望のない私が呼びかけても、そんなに共感を呼ばないだろうという気もした。
被告団10人の内、私の他に駆けつけてくれたのは、もうひとり、京大熊野寮から垣沼さんと共に駆けつけ逮捕─起訴されながらも無罪を勝ち取ったM君がいる。
M君に再会できたのは本当に嬉しく有意義だった。彼は垣沼さんと同じく京大工学部(垣沼さんは航空工学専攻)で建築を専攻、その後大学院に進み修士課程を修了している。大学院に進んだのは、見るからに秀才肌だった彼の向学心もあったのだろうが、裁判もあったので、なかなか就職もできなかったものと思われる。その後2,3年民間企業で働き、自前の建築設計事務所を開き、今は諸事情で事務所を閉じ自宅で建築設計関係の仕事をしているとのことだった。いろんな起伏もあったようだが、国際的な賞を獲り雑誌の表紙を飾ったこともあるという。
垣沼さんにしろM君にしろ、語りを聞くと、京大工学部という超ハイレベルな学歴に反し、決してエリートコースを歩んだわけではなかったようだ。垣沼さんは、一時社会的な事件にも巻き込まれてもいる。
さらに、これまで一面識もなかった同志社の後輩も参加してくれた。三里塚管制塔闘争があった直後の78年入学で、学生運動の拠点として名が高かった同志社のキャンパスでは、さぞや三里塚闘争で盛り上がっているであろうと予想していたところ田辺移転問題ばかりで三里塚の立看はなくガッカリし、学外で三里塚の運動に関わり現地にも行ったという。
彼の言うことは私も同感で、かつて大きな闘争では同志社の学友会旗、各学部自治会旗、闘争委員会旗が翻り、同志社の学生は持ち前の戦闘性を発揮し先頭に立って闘ったということで知られる。管制塔闘争で同志社の旗が翻ったり同志社の部隊が闘っている報道が見られずガッカリした。
私が入学した70年では、まだまだ闘いの機運は残っており、私もそれに巻き込まれていくのだが、70年代後半から、それまで良かれ悪しかれ同志社の学生運動を牽引してきた全学闘(全学闘争委員会)が弱体化し、あろうことか放逐され、同時に、60年、70年の〈二つの安保闘争〉を、その戦闘性で牽引した同大の革命的学生運動は、政治ゴロや簒奪者らによる“コップの嵐”に終始し、結局は自ら学友会を解散するという前代未聞の喜劇を演じるに至った。私たちの先輩や、これを越えようとした私たちが自ら血を流し闘い守ってきた「同志社大学学友会」の輝かしい歴史が終わったのだ。先輩らの闘い、その想いを蔑ろにするものと言わざるをえない。
私は、私(たち)の闘いの足跡を『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』(垣沼さんと共著。2017年。現在品切れ。古書市場では高額な値が付いている)と『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』(2021年)にまとめ刊行したことと、この2・1学費決戦50周年で、私にとっては、ひとつのケジメをつけれたと考えている。書き残すべきことは、ほぼ書き残せたので、いつ死んでもいい。前者は、会社も経営的に絶好調の時で比較的ゆったりと仕事ができたが、後者は、コロナ禍で、経営的に想定外の落ち込みに遭遇し、精神的にきつい中での編集作業であったが、私が若い時に闘った足跡を、50年目のこの時期に、なんとしても書き残したいという強迫観念で作業を貫徹した。
思い返せば、以前にも記述したが、南ベトナム民族解放戦線のように三里塚で沼につかり逃げながら闘ったことに比べれば、どうってこともないし、その後も2005年、雑誌『紙の爆弾』を創刊して直後、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で逮捕・起訴され、50歳を過ぎて192日もの長期勾留をされたり(若い頃の192日と50歳を過ぎてのそれとは、おのずと社会的責任が違い、肉体的、精神的負担も大きく違う)、幾多の困難に直面し、多くの方々に助けられ乗り越えてきた……当時20歳、クソ生意気な若造だった。50年経ち今や70歳、「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」などと嘲笑される高齢者の領域に入った。なんとか頑張って、もう一仕事、二仕事、やり終えくたばりたいと思っている。
報告が遅れましたが、とりいそぎ上記のとおり書き記しました。2・1で逮捕され勾留中に連合赤軍事件が起きました。このあたりのことは『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』をご一読ください。
このところ連合赤軍50年ということで関連の新刊本や再刊本が少なからず出されています。『抵抗と~』もその一つと見なされているかもしれませんが、自分では、ちょっと違うと思っています。出版社や著者らの思惑とは外れ、今のところは世間の関心もさほど盛り上がらないように感じられます。えてしてそんなもので、商売気で、そんな本を出しても、そううまくはいかないものですよ。ちなみに、『抵抗と~』のほうは、1971年という地味な年を中心に採り上げたことで取次会社も委託部数をこれまでの本よりも減らしましたが、予想に反し、けっこう追加注文が続いています。
連合赤軍事件、50年経って、あらためてみずからの問題として考えてみる契機であることだけは確かです。(松岡利康)
【追記】
垣沼さんが、当日のことについてコメントされていますので、以下掲載しておきます。
中身は恥ずかしい限りだが何とか生き抜いて懐かしい場所で縁のある方たちと交流しました。
この半世紀前の明け方に京大の値上げ阻止の無期限バリストから、当局の要請で機動隊が導入されて封鎖が強制排除されようとする同志社に駆けつけました。烏丸今出川北で衝突になり丸太部隊を含む学生側と機動隊の闘いが繰り広げられました。これが京都は勿論ですが多分日本での街頭での本格戦闘の最後になったのかもしれません。多くの仲間とともに私も逮捕され、戦闘部隊にいたので起訴されると思っていたが、どういうわけか起訴だけは免れた。ただし10名の方が起訴されて長い裁判になりました。
この記念日にも複数の元被告の方が駆けつけました。懇親会のことはいずれ書くつもりです。この交流に前後して最近参加している中国による周辺の人々への虐殺、弾圧を阻止する運動の一環として、洛中の様々な場所でウイグルの実情を訴える漫画のパンフレットを配布しました。
2月1日は京大本部、旧教養部ならびに吉田寮、百万遍、同志社で配布。構内は試験とコロナで人疎なのに警備員ばかりでやや陰鬱な感じでした。同大で配布時に感じの良い女性がもうネットで読みましたと嬉しそうに挨拶してくれました。北で配布に続いて、翌3日帰京する前に少し時間があるので 河原町に沿って三条から四条にかけてウイグル人弾圧を暴露する清水ともみさんの「私の身に起きたこと」のパンフレット版を配らせていただきました。北の学生街とは違い受け取る人が激減しますが目を開いて驚く人々が多くて宣伝にはなった。