今年は戦後77年である。

領土拡張をめざすロシアおよび中国という、21世紀の帝国主義が世界大戦の危機をもたらしている今。そして、帝国主義間戦争の危機に否応なく巻き込まれる日本の歴史的な立場を考えるうえで、15年戦争と戦後の歩みを振り返るのは、現在のわれわれを認識することとなる。

歴史を振り返ることは、現在がけっして素晴らしいわけではなく、古代や中世、あるいは近現代の一時期に「人類の理念」や「国民の理想」があった可能性をさぐることにほかならない。平和への希求や戦争の恐怖、苛烈な政治抗争と経済発展の展望、いっぽうで政治的危機や国民生活の衰退もふくめて、われわれの77年は平たんではなかった。

今回はとくに編集部の要望もあり、戦後77年を機にわれわれ自身の歩みを捉え返していこう。一般的な素描では面白くないので、戦争と革命という20世紀的な、しかし21世紀に持ち越してしまったテーマに即して解説したい。

【目次】
第1回 1945~50年代 戦後革命の時代
第2回 1960~70年代 価値観の転換
第3回 1980年代 ポストモダンと新自由主義
第4回 1990年代 失われた世代

◆15年戦争とは何だったのか?

1931年の満州事変から太平洋戦争の敗北までを、15年戦争という。

中国における一連の戦争行為を「事変」と呼称しているが、パリ不戦条約および国際連盟規約(11~15条)において、戦争が犯罪とされたからである。現在のロシアがウクライナ侵略を「特別軍事行動」と呼んでいるのと同じだ。後発帝国主義としての大日本帝国が、中国・東アジアにおける権益(市場進出と植民)をめぐって、先発帝国主義諸国(英米仏蘭)と衝突したのがこの15年戦争の基本性格である。日本とドイツは国内外において、後発帝国主義の狂暴さを体現した。

レーニンが『帝国主義論』において明らかにしてきた、生産の集積と独占・金融寡頭制・資本輸出と市場分割・領土分割。この帝国主義の不均等発展による、後発帝国主義の侵略戦争である。まさに第二次世界大戦をふくむ大日本帝国の戦争は、これを体現するものだった。

現在のロシア帝国主義、中国帝国主義が後発ゆえに、米帝一元支配への市場再分割・領土分割戦争に乗り出しているのと、時代は77年以上をへて重なりつつある。歴史はくり返されるのだ。

しかし帝国主義戦争が植民地争奪戦・領土分割線であるところ、15年戦争は植民地従属国の独立・解放戦争でもあった。中国は抗日戦争をつうじて共産党が戦争の主導権をにぎり、最終的に植民地から脱するとともに社会主義革命を実現した。日本の傀儡政権だったとはいえ、ビルマ国の独立、フィリピン第二共和国が太平洋戦争の過程で成立し、半植民地・抗日運動の中からアジア諸国の独立運動(インド・インドシナ諸国)が高揚したのだ。

日本においても、戦争の帰趨は社会主義革命の契機と考えられてきた(31テーゼ)。それゆえに共産主義者においては、太平洋戦争の終結と米軍の進駐は「日本革命のための解放軍」と考えられたのである。


◎[参考動画]昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に……」と米記者に

◆GHQ政策と戦後革命

1945年10月、GHQのマッカーサーは幣原内閣に口頭で5つの改革を指示した。秘密警察の廃止・労働組合の奨励・婦人解放・学校教育の自由化・経済の民主化である。具体的には戦争協力者の公職追放や財閥解体、農地改革(大規模地主の解体)をふくむ、徹底的な改革だった。上からの、外部からの革命と言っていいだろう。

司馬遼太郎は「明治維新は徹底的な革命であった」とするが、これは藩閥政治(徳川幕府の解体)に対する過大評価である。明治維新は武士階級の解体のいっぽうで貴族階級を温存し、薩長の軍閥政権が徳川政権に取って代わったにすぎなかった。大規模地主と小作農民の階級分化、財閥という大資本の登場、天皇制権力の強権化は士農工商という古代身分制を歴史的に復古させ、部落差別などの身分差別を顕在化させたのである。そして大陸進出と侵略戦争……。

GHQの基本政策が軍国主義の解体であったから、当初は「日本の民主化」「進歩的なアメリカ化」として、日本社会を激変させた。

とりわけ民主化に沸き立つ国民の進歩的な層の中に、社会主義革命への憧れをもたらした。実際にアメリカの対日政策(極東委員会)はルーズベルトいらいのニューディーラーが多数派であって、軍備と戦争放棄の平和憲法に反映されていく。


◎[参考動画]昭和ニュース GHQ マッカーサー来日(1945年)

◆ターニングポイントとなった2.1スト

上に挙げたGHQの労働組合結成の奨励もあって、日本の労働組合参加組員は民間70万人、官公労260万人になっていた。戦前が42万人(戦争の勃発で活動禁止)だから、飛躍的な伸長であることがわかる。

これら労働組合の伸長は、保守派にとっては政治危機を感じさせるものだった。47年の年初、吉田茂総理は年頭の辞で労働組合運動を批判して言う。

政争の目的の為に徒に経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするが如き者あるにおいては、私は我が国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。

各労働組合はこの年頭の辞に一斉に反発した。1月9日には全官公庁労組拡大共同闘争委員会が賃上げ要求のゼネラル・ストライキ実施を決定した。1月11日に4万人が皇居前広場前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長が全官公庁のゼネスト実施を宣言する。1月15日には全国労働組合共同闘争委員会が結成され、1月18日には、要求受け入れの期限は2月1日として、要求(現行賃金556円→1200円へ)を受け容れない場合はゼネストに入ると政府に通告した。

実行された場合は、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになり、吉田政権がダメージを受けることは確実である。ゼネストのスローガンにも「吉田政権打倒」が明記された。やむなく吉田茂は社会党右派の政権取り込みを策したが、社会党左派の反対で連立構想はとん挫する。ここに社共と吉田政権(自由党)の政治決戦を内包したゼネストが実行段階に入ったのだ。

ところが、横槍を入れたのは労働組合運動を庇護してきたはずのGHQだった。すでにソ連との冷戦を察知していたアメリカは、日本においてソ連の第五列が発生するのを怖れたのである。

ゼネストが強行された場合に備え、アメリカの第8軍は警戒態勢に入った。午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」としてゼネストの中止を指令した。

伊井委員長はGHQに強制的に連行され、NHKラジオのマイクに向かってスト中止の放送を要求された。午後9時15分に伊井は、ゼネストを中止することを涙ながらに発表したのだった。GHQ改革を梃子にした戦後革命の第一段階は、こうして終焉した。

◆朝鮮戦争と武装共産党

1950年6月25日、朝鮮半島で大規模な軍事衝突が起きる。

朝鮮戦争の勃発である。日本はアメリカ軍の前進基地となり、デモと集会は全面的禁止となり、アメリカ占領軍の政策への批判や反対は「占領政策違反」の名で弾圧される。またたくまにレッド・パージが吹き荒れた。

これに先立つ6月6日、日本共産党の国会議員を含む全中央委員24人の公職追放指令が出されている。共産党はこの年の1月にコミンフォルム指令によって武装路線に転じていたのである。51年2月の四全協、10月の五全協において、共産党は日本における革命が平和的な手段ではなく、農村部でのゲリラ戦闘に依拠したものであると確認する。

いうまでもなく、これは毛沢東の農村根拠地論をもとにした都市の包囲戦略だった。「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの非公然組織が作られ、学生が農村に派遣された。富農を打倒し、貧農や小作農を支援・組織するというものだった。だが、戦後の食糧難がつづく日本において、農村は国民のなかでは比較的豊かだった。共産党系学生の的外れの山村工作は、いきおい農民たちの反発を買うことになるのだ。

共産党の工作は、山村や農村だけではない。都市においては交番焼き討ちなどの武装闘争が行なわれ、警察権力への直接の軍事行動が取り組まれた。北朝鮮軍の勝利によって、やがて朝鮮半島から大量の難民がやってくると想定された。この機をとらえて、日本でも革命情勢をつくり出す。事実、韓国および済州島においては、反共内乱が起きて日本に密航する人々が続出していた。大阪の朝鮮人部落の大半は、この時期に形成されたという。

とくに九州では雪だるま闘争という戦術が採られ、国鉄の操車場に労働者を終結させた。列車が各拠点で労働者を搭載し、町から町へお祭り騒ぎのように労働者を結集させる。

そのいっぽうで、警察や謀略組織(GHQが組織したとされる)によって、三鷹事件や下山事件などの反共謀略事件が続出した。共産党はアメリカによる直接の弾圧に晒されたのである。海の向こうアメリカでも、反共のマッカーシー旋風が吹き荒れていた。2.1ストの中止指令、反共謀略事件と、戦後の日本がアメリカの支配下にあったことを明確に知らないわけにはいかない。それは現在も変っていない。戦後77年とは、米帝支配の77年でもあるのだ。

猛烈な弾圧に遭遇した日本共産党は1955年1月1日、武装闘争が「極左冒険主義」だったとして自己批判を行い、同年7月の六全協で武装闘争路線を否定した。

党の方針に従い、学業を捨て山村工作隊に参加した学生たちは、六全協の方針転換に深い絶望を味わった。この時代の若者たちの感覚は、柴田翔の小説『されどわれらが日々』に表現された。


◎[参考動画]【TBSスパークル】1949年7月5日 下山事件起こる(昭和24年)

◆自衛隊 ── 警察予備隊の創設

朝鮮戦争はまた、日本の再軍備をうながす契機となった。アメリカの要望による、警察予備隊(のちの自衛隊)の発足である。アメリカによる民主化からアメリカ主導の再軍備へと、時代は反転する。

ここに「逆コース」という右傾化批判が生まれ、進歩と反動の相克という戦後民主主義の基本構造が明確になってくるのだ。

いっぽうで、経済は朝鮮戦争特需でおおいに潤った。戦争による焼け太り、急速な戦後復興が果たされていくのだ。

この復興と逆コースの中、日本共産党の体制内化の対極に、新たな批判勢力が生まれてくる。戦後民主主義の擬制的な幻想のなかで、若い世代の革命への熱情は抑えがたく結晶する。60年安保という、時代を画する政治闘争の時代である。(つづく)


◎[参考動画]警察予備隊創設

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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