円楽(襲名前・楽太郎)さんが亡くなりました。

落語家としての世間の評価は高いようですが、私の関心は別の所にあります。

円楽さんは1968年に青山学院大学に入学、やはり時代かなあ、彼も学生運動の波に巻き込まれます。新左翼の主流派・ブント(共産主義者同盟)系の活動家の時期もあったとのことです。

 

六代目 三遊亭円楽(1950年2月8日-2022年9月30日)

青学と言えば、ブント系でも中央大学と共に、後に叛旗派となる勢力が強かったです。これは事実で、私の知人のTJ氏は青学の叛旗派の中心メンバーとして71年三里塚第二次強制収容阻止闘争で逮捕・起訴されました。罪状は凶器準備結集罪とともに、なんと「殺人」容疑! 機動隊が3名亡くなった激しい闘いでした。私もこの闘争には参加しましたが、この現場には居合わせませんでした。TJ氏はその後、別の大学に入り直し学究生活に転じ、のちに早稲田の教授となりました。早稲田の奥深さを感じさせる逸話ではあります。

今では考えられませんが、60年代後半から70年代にかけての時代は芸能人、あるいは芸能界に身を転じる人たちも積極的に学生運動や反戦運動に関わった時期でもありました。北野武(明治大学工学部)さんもそうですし、同じ明大で言えば、往年の女優・松原智恵子さんもブント系の活動家だったとは、同じ明大学生運動OBの横山茂彦さんの証言です。

『家政婦は見た』で有名な故・市原悦子さんは、1971年、中村敦夫さんや原田芳雄さんらと共に老舗の劇団・俳優座で叛乱を起こし、その後も反戦歌『フランシーヌの場合』で一世を風靡した歌手・新谷のりこさん(古い!)らと共に長く中核派系の「杉並革新連盟」の候補者の推薦人でした。『家政婦は見た』の市原さんからは想像もできません。けっこう過激な方だったようです。

さて、円楽さんですが、青学の主流派だった、のちに叛旗派に流れる系列とは違い、なんと「さらぎ派」シンパだったとの噂を聞きました。どなたかとの対談で話されているとのことです。「さらぎ派」は別名「蜂起派」ともいい、トップの「さらぎ徳二」さんは当時のブントの議長で、69年4・28沖縄闘争で破防法(破壊活動防止法)の被告人でもありました。69年7月6日には、赤軍派によってリンチされています(いわゆる「7・6事件」。この報復として叛旗系の人たちに赤軍系の同志社大学の先輩・望月上史さんが拉致・監禁され、のちに亡くなります。新左翼運動最初の内ゲバの犠牲者と言われ、盛り上がった学生運動に汚点を残しました)。

話がマニアックになった感がありますが、円楽さんは、本当にそんな系列(さらぎ派)にいたのでしょうか? 信じられませんが、当時は多くの学生・青年が学生運動や反戦運動の渦に飲み込まれた時代ですから、ありえない話でもありません。もう50年余りも経ったのですから、どなたか詳細をご存知ならば、ぜひご教示いただきたいものです。

このところ私と同じ歳か、ちょっと上の世代がどんどん亡くなっています。訃報を聞くたびに、「明日は我が身」と思わざるをえません。特に私と同じ歳で言えば、忌野清志郎さん、大杉漣さんが亡くなった時にはショックでした。

(松岡利康)


[参考動画]【三遊亭円楽さん死去】「笑点」メンバーが追悼 好楽さん「早すぎるよ」

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