糸口が見つかると、そこから連鎖が起きて事件が拡大することがある。煙草の副流煙で「受動喫煙症」になったとして隣人が隣人を訴えた横浜副流煙裁判で新しい動きがあった。日本禁煙学会の作田学理事長と共に意見書を提出して原告を支援した宮田幹夫・北里大学名誉教授の医療行為に汚点があるとする内部告発が筆者のもとに寄せられたのだ。
既報してきたように、横浜副流煙裁判では作田医師が作成した診断書が信用できないしろものではないかとの疑惑が浮上した。原告の請求は棄却され、作田医師は刑事告発された。警察の取り調べ後に検察へ書類送検された。不起訴になったものの、検察審査会が「不起訴不当」の判断を下した。
患者の自己申告に基づいて所見を作成し、しかも現地を取材することなく煙の発生源を特定していたからだ。診断書交付の手続きにも、医師法20条(無診察による診断書交付の禁止)に違反するなどの汚点があった。
こうして捻じ曲げられた診断書を根拠に原告の患者らは、隣人に対して裁判へと暴走し、4518万円の金銭を請求したのである。
この裁判で原告は、宮田医師が交付した診断書も裁判所に提出した。宮田医師はその診断書に化学物質過敏症の病名を付していた。
この診断書自体が患者の自己申告による根拠に乏しいものだという証拠はなにもないが、宮田医師について筆者は、容易に化学物質過敏症の診断書を交付してくれる医師であるという評判をたびたび聞いていた。
11月に、化学物質過敏症の治療を行っているあるひとりの医師から筆者のもとに内部告発があった。宮田医師が安易に化学物質過敏症の病名を付した診断書を交付するというのだ。筆者は、告発者の酒井淑子(仮名)医師から、その裏付け証拠を入手した。
◆化学物質過敏症とは診断できず
酒井医師は、具体例として患者A(女性40代)のケースを報告した。Aさんは、社労士を同伴して酒井医師の外来を受診した。化学物質過敏症を理由に障害年金を申請するので、化学物質過敏症の病名を付した診断書を交付してほしいというのだった。治療を受けることは希望していなかった。Aさんは、酒井医師の外来を訪れる前には、他の医療機関を転々としていた。酒井医師が言う。
「入室するなり、この場所にいるとしんどいとか、窓を開けてとか、様々な症状を訴えておられました。当院は患者さんに配慮してかなり無香料にしていますが、化学物質過敏症になったことがある私にも感じられない臭いを訴えておられました。ジェスチャーも派手でした。診断書を交付してもらえるかどうかをずっと心配しておられました」
ちなみに酒井医師によると、Aさんに同伴した社労士が着ていた衣服から柔軟剤の臭いがしたという。
酒井医師は問診を行った後、Aさんを検査した。最初に神経経路に異常がないかを確かめるために眼球運動の検査を実施した。患者にランプの光を目で追ってもらい、反応を確かめる。Aさんは「見えない」「追えない」と繰り返すだけで、目で光を追う努力をしない。酒井医師が、「これでは診断書は書けませんよ」と注意すると大声で泣き始めた。
「わたしは、Aさんに『頑張ってランプを追いかけてくれた方が悪い所見が取れるから』と言って再検査を行いました。検査の結果は、念のために知り合いの専門家にもアドバイスを求め、最終的に化学物質過敏症とは診断しませんでした。受診するときの様子からして心因性の疾患を強く疑いました」
◆診断書を「エイヤッと書いております」
酒井医師から診断書交付を断られたAさんは、電車を乗り継ぎ、5時間かけて上京し、東京都杉並区にある宮田医師のクリニックを訪れた。そして宮田医師から化学物質過敏症の病名を付した診断書交付を受けたのである。これらのことは、後日、酒井医師が宮田医師のクリニックのスタッフと電話で話して判明した。スタッフはAさんについて、「一人でいらっしゃいましたよ」と言ったという。
宮田医師は9月に酒井医師に対して、Aさんの診断書交付について報告する書簡を送付してきた。それによると宮田医師も、心因性のものなのか、それとも化学物質過敏症であるかの判断に悩んだようだ。たとえば次の記述である。
「精神科の医師が診断書を書くか、私が書くか、だけの違いだと思って、エイヤッと書いております」
「ともかく火の粉をかぶるつもりで、診断書を書かせて頂きました」
「何かありましたら、お馬鹿な宮田へ回して頂きたいと思います」
病状が明確に判断できないのに、「エイヤッ」で化学物質過敏症の診断を下し、その責任は自分が取ると言っているのだ。
その後、Aさんが実際に診断書を根拠に障害年金を申請したかどうかは不明だが、最初に酒井医師の外来を受診したとき、社労士を伴っていたことからしても、障害年金が目的で、診断書を入手しようとしていたことが推測できる。酒井医師が言う。
「本当に重症な化学物質過敏症であれば、5時間も電車に乗って宮田先生の外来まで行けないと思います」
筆者は宮田医師の外来を受診したひとを何人か知っているが、全員が化学物質過敏症の診断書を交付してもらったと話している。
◆市民運動・住民運動に客観性に乏しいデータは禁物
化学物質過敏症は客観的な病気のひとつである。それゆえに本当にこの病気に罹患して苦しんでいる患者は、障害年金などで手厚く保護しなければならない。しかし、心因性の患者が多いのも事実なのである。また、他の病気との区別が難しい。たとえば頭痛や吐き気やめまいといった症状は、化学物質過敏症に罹患していなくても現れるからだ。それを無視して、化学物質過敏症と断定してしまうと、病状の正確な実態と、患者の広がりの実態が客観的に把握できなくなる。
病状の原因が不明なのに、「エイヤッ」で診断書を交付することは、科学者の姿勢として間違っている。
化学物質や電磁波による複合汚染の問題に取り組んでいる市民運動や住民運動は全国各地にある。宮田医師の診断書は、これらの運動の重要な根拠になってきた。しかし、その診断書に疑義があるとなれば、運動を破滅に追い込みかねない。客観的な事実を前提に運動を進めなくては、運動が広がらないだけではなく、深刻な2次被害を招きかねない。その典型が横浜副流煙事件なのである。
また障害年金などの不正受給に繋がりかねない。
筆者は宮田医師に対しAさんを化学物質過敏症と診断した根拠などについて、書面でコメントを求めた。回答は次の通りである。
「お問い合わせのありました化学物質過敏症の診断基準については、1999年に米国国立衛生研究所主催のアトランタ会議において、専門家により化学物質過敏症の合意事項が設けられております。こちらをご確認頂ければと思います」
1999年の合意事項とは、次の6項目である。
【1】化学物質への曝露を繰り返した場合、症状が再現性をもって現れること。
【2】健康障害が慢性的であること。
【3】過去に経験した曝露や、一般的には耐えられる曝露よりも低い濃度の曝露に対して反応を示すこと。
【4】原因物質を除去することによって、症状が改善または治癒すること。
【5】関連性のない多種類の化学物質に対して反応が生じること。
【6】症状が多種類の器官にわたること。
化学物質過敏症の診断は一筋縄ではいかない。診断に関する疑問が浮上した以上、学閥や派閥を排除してオープンな議論や論争を行うべきだろう。科学の世界に上下関係はないはずだ。さもなければ2次被害に繋がりかねない。
▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
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