言論について、突き詰めて考えると、世の中に存在するすべてのものに存在意義が認められることに気づく。というより、絶対的に悪とみられがちなものについても、むしろ存在意義を否定するのは難しい。

たとえば、「いじめ」。学校で「いじめ」に遭っていた子供や、大人社会の「いじめ」である上司のパワハラに遭っていた会社員が自殺したというニュースを目にしたら、たいていの人は怒りに震えるだろう。私自身もそうだ。「いじめ」とは、絶対悪であるというのが一般的な道徳感だ。

だが、言論について深く考えると、「いじめ」にも存在意義を認めざるをえない。なぜなら、「いじめ」は、言論の権力監視効果を支えるものの1つであるからだ。

実例を挙げると、10年ほど前に社会の注目を集めた郵便不正事件をめぐる大阪地検特捜部検事の証拠改ざん事件。当時、この検事の犯罪行為が朝日新聞の一面でスクープされると、検察の上層部は大慌てで当該検事を逮捕し、さらにその上司たちまで捜査対象にしたうえで逮捕に踏み切った。

検察の上層部があのような態度をとったのは、朝日新聞の報道をうけ、証拠改ざんという身内の犯罪行為を放置できないと考えたからではない。朝日新聞の影響力を恐れたからである。すなわち、彼らは朝日新聞の報道をうけ、自分たちの立場が危うくなるばかりか、ひいては自分たちの家族も近隣の人から「いじめ」に遭うなどの被害を受けることを想像し、それを回避しようとしたのである。

仮にあの大阪地検特捜部検事の証拠改ざんを報じたのが、朝日新聞ほど影響力のない小さなメディアであれば、検察の上層部は当該検事をあのように大慌てで逮捕したり、上司たちを捜査対象にすることはなかったろう。実際、私はこれまで、同程度以上の検察の不祥事をいくつも見てきたが、検察はあの程度の不祥事であれば、大手の報道機関に大きく報道されない限り、平気で放置しておくのが一般的だ。

こうして考えると、新聞やテレビ、週刊誌などで目にした報道について、もれなく鵜呑みにし、脊髄反射的に怒りの声をあげる人々、すなわち「メディアリテラシーの低い人」たちにも存在意義が認められることがわかる。そういう人たちが相当数存在しなければ、権力者たちにとって報道機関は何ら恐れる相手ではなくなり、すなわち、報道の権力監視効果は極めて乏しいものになってしまうからだ。

言論について、突き詰めて考えると、そもそも言論とは決して美しいものではないこともわかる。

◎片岡健の「言論」論 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=111

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。YouTubeで『片岡健のチャンネル』を配信中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)