「週刊金曜日」植村隆代表は、『人権と利権』の広告を掲載したことについて、Colabo代表・仁藤夢乃氏に謝罪した。しかも、『人権と利権』版元の鹿砦社や編者である私の頭を飛び超える形で、だ。
それについて、植村氏へ質問状をメールしたのが7月11日、返信の期日は18日と定めさせていただいた。
なかなかお返事はいただけず、無視されるのだろうとなかばあきらめていた中、デジタル鹿砦社通信にその件を綴った拙稿「『週刊金曜日』植村隆代表への質問状 ── 安易な謝罪に疑問を感じて」が18日未明に掲載された。その夜、あと数時間で日が変わるという時間になって、植村氏からの返信メールが届いたのである。
だが、一読し、私は失望した。後日、改めて植村氏に反論させていただくが、その前に、植村氏および読者諸氏と共有しておきたい事実があるので、ここに記したい。
まず、私は本稿に「我々LGBT当事者はなにと闘ってきたか?」というタイトルをつけた。実際、LGBT当事者は一体なにと闘ってきたのか? それは簡単に申せば、次の二者だ。
①差別主義者
②LGBT活動家およびそのシンパ
①に関しては、異論はないだろう。LGBTを差別する者と、LGBTは闘っている。当然のことだ。わざわざここで解説するまでもないだろう。
私が植村氏にご説明したいのは、②だ。素直に考えれば、LGBT活動家は差別主義者と闘っている。つまり、①と②は対立関係にある。しかし、だからといって、差別主義者と闘うLGBT活動家がLGBT当事者に手放しで歓迎されているとお考えならば、それは事を単純化しすぎというものだ。
そのあたりの思いは、ツイッターでの私のサブアカウント(@morinatsu_LGBT)のBIO(プロフィール欄)に簡潔に記した。
「LGBT、ジェンダーについてツイートします。ゲイリブ理論とフェミニズムに救われた元小娘のバイ。LGBT活動家の悪い部分は批判しますが、反差別運動は必要であり、過去の運動も無駄ではなかったと考えています。今のLGBT運動に一番必要なのは、自浄作用」
反差別運動は必要であり、過去の運動も無駄ではなかった ── それは私の本心だ。
実際、私たちは差別されてきた。たとえば、すでに「在日韓国人・朝鮮人、被差別部落出身者、身体障害者を差別してはいけません」という社会的合意が定着していた1990年代でさえ、性的マイノリティは堂々と差別されていた。
むしろ、差別するほうが正常だという感覚を、日本国民は共有していた。在日外国人や被差別部落出身者や障害者を嘲笑してはいけないと認識している人たちが、性的マイノリティのことは平気で嘲笑するのだから、当事者としてはたまったものではない。「ホモ? 気持ち悪いこと言うなよ!(笑)」といった調子だ。むしろ「ホモ/レズ」を嘲笑しないと自分が「ホモ/レズ」と疑われるし、「ホモ/レズ」を軽蔑し嫌悪することこそが正常であるという価値観にこの社会は支配されていた。
つまり、私たち性的マイノリティは社会の最底辺の存在だった。そして、だからこそ、だれが「ホモ/レズ」であるかは秘密とされていた。私たちは、目には見えない賤民だったのだ。
令和の今となっては大げさだと思われるかもしれないが、90年代なかばにバイセクシュアルの作家としてカミングアウトしていた私は、当時の空気をはっきり覚えている。一神教の国々とは違い、我が国では同性愛を理由に逮捕されたり処刑されることはないが、嘲笑によって、我々は迫害されていたのである。
植村氏と私は、年齢は8歳離れてはいるものの、そのような同じ時代を経験している。植村氏は差別者側であり、私は被差別側として。当然、植村氏には、被差別者がどんな気持ちで当時を生きてきたか、ある程度想像することはできても、実感することは不可能だろう。
そもそも、植村氏のような異性愛者の中高年男性は、私たち性的マイノリティからすると、最強の属性だ。しかも、植村氏はジャーナリスト。いくらでも意見を発信することができる立場であり、特に、ネットではなく活字が中心の時代には、まさに権力者であった。
朝日新聞の記者をされていた1990年代に、はたして植村氏は、性的少数派差別を批判する記事を書いてくださっただろうか? おそらく、ないだろう。なにしろ、そんな記事を書いては、今度は植村氏が「おまえ、ホモなんじゃないか?」という目を向けられることになる。
流れが変わったのは、同性愛者差別事件「東京都青年の家事件」裁判の判決が確定してからだ。
1989年、同性愛者団体アカー(動くゲイとレズビアンの会)が合宿のために東京都の施設「府中青年の家」を利用した際に、他団体から侮蔑的ないやがらせをされ、アカー側は青年の家側に対処を求めたが、反対に拒絶され、さらなる侮辱を受けた。そして、それは後に裁判へと発展した。アカーが東京都を提訴したのが1991年、東京都の控訴が棄却される形でアカー勝訴で判決が確定したのが1997年。長い闘いだった。
ウィキペディア「東京都青年の家事件」
アカーは非常に真面目で、当時としては急進的な同性愛者団体だった。そんな彼らが、いかがわしい存在として行政に堂々と差別されたという事実が、我々当事者には非常に衝撃的だった。あの裁判でアカーが闘い、勝ってくれなければ、おそらくは今も我々は、最底辺の被差別者であったことだろう。
私は、植村氏への質問状では次のように申しあげている。
「私は90年代なかばにバイセクシュアルとしてカミングアウトした作家です。デビューは1991年ですが、それ以前には、会社員をしながら、ゲイ&レズビアン解放運動の末端で活動をしてきました(当時はLGBTなどという言葉はありませんでした)。その後も、東京都青年の家事件の抗議集会に参加したり、性的マイノリティ団体の会合に出席したり、団体が発行するミニコミ誌を購読したりしてきました」
そんな私が、なぜ、今、LGBT当事者の「敵」として、差別主義者とLGBT活動家を並べなくてはならないのか。
それは、LGBTの運動に、陰惨なリンチ事件を起こした「しばき隊界隈」と称される運動体、すなわちC.R.A.C.(旧レイシストをしばき隊)、カウンター、ANTIFAと呼ばれる界隈の反差別活動家が参入し、LGBT活動家やそのシンパまでが暴言や恫喝を運動手法とするようになったからだ。すなわち、それは、運動の変質であった。
これでは、LGBTへの理解を社会に求めるどころではない。現在では、LGBT当事者がLGBT活動家の暴言・恫喝のせいで、肩身の狭い思いをすることも、しばしばだ。
かつて、被差別部落出身者の真摯な人権運動が「エセ同和行為」を生み出し、かえって差別を後押ししてしまったのと、よく似た図式だ。「同和は怖い」に続き「LGBTは怖い」と世間でささやかれる事態になることを、私たちLGBT当事者は危惧している。
参考ページ・ 「えせ同和行為」を排除するために 法務省
私たちが、多数派である異性愛者の中でもLGBTに寄り添う意志をお持ちの方々に求めたいのは、先述の「①差別主義者」だけでなく「②LGBT活動家およびそのシンパ」の道を外れた暴言・恫喝・脅迫もきっぱり拒絶していただくことだ。どちらもLGBTへの理解を阻害するという点では、同レベルである。
実は②に関しては、本心を言えば、「一部LGBT活動家とそのシンパ」と「一部」を入れた形で表記したかった。決してLGBT活動家すべてが悪いのではなく、暴言・恫喝を繰り返している一部の者たちを批判しているのだ、と。
しかし、その「一部」の暴言・恫喝を批判するLGBT活動家は、今現在、一人もいないのだ。中には、私がかつて尊敬していた活動家もいるのだが、すっかりオラつき集団に取り込まれてしまっている。暴言・恫喝が常態化しているというのに、仲間内から一人も批判者が出てこないのなら、それはすでにその集団が自浄作用を失い、カルト化しているということだ。
私は、LGBT活動界隈のオラつきを批判できるLGBT活動家が出てきてくれないかと、日々、待っているのだが、完全に待ちぼうけをくらっている。
以上、長々と、我々LGBT当事者の闘いについて、解説させていただいた。次回では、私が植村氏からいただいた回答をご紹介すると共に、反論を含めたお返事をさしあげたいと思う。読者諸氏にはもう少しおつきあいいただければ、幸いだ。
▼森 奈津子(もり・なつこ)
作家。1966年東京生。立教大学法学部卒。1990年代よりバイセクシュアルであることを公言し、同性愛をテーマにSFや官能小説、ファンタジー、ホラー等を執筆。ツイッターアカウント:@MORI_Natsuko
https://twitter.com/MORI_Natsuko
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