◆「お前なら沢村忠に勝てるぞ!」

富山勝治(とみやまかつじ/1949年2月8日宮崎県延岡市出身)は4人姉弟の長男で、姉一人、妹二人。本名は富山勝博。キックボクシングの帝王、沢村忠の後継者として、飛び後ろ蹴りを必殺技に戦い続けたTBSキックボクシング全国ネットの代表的スター選手。花形満、稲毛忠治、サミー・モントゴメリーとの壮絶な戦いは今も語り草となっている。

初の回転バック蹴りヒットの姿、当時のプログラム裏表紙より

キックボクシングを始めた切っ掛けは、高校卒業後入隊した海上自衛隊での上司の森嶋日出春氏の言葉だった。

「富山くん、お前なら沢村忠に勝てるぞ!」

九州では当時まだキックボクシングの放送は無く、「沢村って誰?」と思うほど、まだキックボクシングの存在も知らなかったが、広島の呉港に停泊した時、初めてテレビで沢村忠vsポンニット・キットヨーテン戦を観て、「これが沢村か、なーにこの野郎なんか一発だ!」と思ったという。

後々、3年間の海上自衛隊を満期退職し上京し、目黒ジムに入門。

「お前は目黒ジムじゃないと駄目だぞ。」と森嶋氏に言われていたとおり、「野球で言えば、巨人の王・長嶋のように大手のジムへ行け!」という忠告に従ったとおりだった。

入門後、朝は早いが夜練習できる環境を作る為、神田の青果市場で働いた。全日本系のトップ選手、錦利弘(協同)も働いていたという。

キックボクシングの選手を見付ける度に「よーし、いつかこいつを倒してやるぞ!」と思うばかりの粋がった新人時代だった。

◆関門海峡渡れない

デビュー戦は1970年(昭和45年)8月9日。山梨県甲府市でKO勝利。当時は目黒ジム隆盛期。「沢村さんっていつ練習しているんだろう。」と思うほど、ジムでは出会わなかったという。また400人ほど居たというほど練習生や選手も多く、同門対決も多かった。

同門の先輩、神田昭広戦では遠慮ない足踏みつける荒技を使いながらのローキックでのKO勝利。

「富山の野郎、汚い野郎だ!」と囁かれる反響の中、野口プロモーションの野口修社長には「根性ある!」と言われ、これで当時、アメリカ進出を狙っていた野口氏にロサンゼルスへ連れて行かれ、将来性を買われた一歩抜きん出た存在となった分岐点でもあった。

1972年1月2日、先輩の斎藤元助が東洋ウェルター級王座獲得すると、富山勝治は同年2月19日、空位となった日本ウェルター級王座を花形満(東洋)と争った。痛烈なノックダウンを何度も喫する劣勢の中、試合前に母親から「お前が負けたら関門海峡渡れないぞ!」と脅かされていた言葉を思い出し、何とか起き上がっての逆転KOは感動を呼び、TBSでは2週連続で同カードを放送される特例の事態。富山勝治は地方区から全国区へ飛躍した、更なる人生の大きな分岐点となる名勝負を残した。

日本系(野口プロモーション)復興で久々の後楽園ホール登場(1996.6.30)

◆絶望感漂う敗戦

1973年(昭和48年)1月2日、初防衛戦は急成長して来た稲毛忠治(千葉)と引分け、ライバルがすぐ後ろに迫っている危機感に圧されながら勝利を重ね、1974年1月2日、東洋ウェルター級王座決定戦でサネガン・ソーパッシン(タイ)を倒し、沢村忠と肩を並べる地位へ上昇。

しかし1975年1月2日、東洋王座初防衛戦となった稲毛忠治との2年ぶりの対決は、初回わずか76秒、パンチで倒された衝撃の展開。正月早々からキックボクシングテレビ放映史上最もショッキングと言われるほどの落城だった。

その稲毛忠治戦で最初のノックダウンの際、右足くるぶしを骨折した為の療養で、5ヶ月ほど戦線離脱。復帰後、空位の日本ウェルター級王座決定戦で飛馬拳二(横須賀中央)にノックダウン喫する逆転成らずの判定負け。これでポスト沢村は一層遠のき引退が囁かれた。

しかし、当初から決定していたとされる稲毛忠治へのリターンマッチへ再浮上を懸けた戦いへ進んだ。

「稲毛忠治に親父と御袋の前で倒された後、ちょっと弱気になったけど、姉に電話した時に『勝坊、もう宮崎に帰って来い!』と言われて涙が出たけど、その言葉でもう一回考えて、もう一回やろうと思った。もう一回復活せにゃならんと!」。

“このままでは終われない”と奮起した復帰。飛馬拳二に敗れても辞める気は無かったという。

翌1976年1月2日の稲毛忠治とのリターンマッチは、どうしても勝たねばならない土壇場からのヒットアンドアウェイ戦法で僅差ながら判定勝利。評価はともあれ復活にファンは安堵した。

東洋王座復帰後も思うように勝てぬスランプは続いたが、同年、沢村忠が7月2日の試合を最後にファンの前から突如姿を消すと、富山勝治のテレビ登場はより増えていった。ライバル的存在のタイのランカー、チューチャイ・ルークパンチャマ戦は1勝1敗の後、1978年1月2日、TBSのキックボクシング2度目の生放送で、乱闘で熱くなる中、飛び後ろ蹴りで第4ラウンドKO勝利。

TBSテレビ運動部長の森忠大氏が試合後の控室を訪れ、「富山くん、やっと沢村を越えたな!」と言ってくれたその言葉は嬉しく、今も耳に残っているという。

「後ろ蹴りは田舎の先輩で空手の達人が居て、高校時代から習った後ろ蹴りはずっと意識していた技で、まだランカーの頃、タイ選手との試合で後ろ蹴りをやった時、軸足を蹴り上げられたから、飛んで回ればいいと考えて飛び後ろ蹴りを始めたもので、ずっと続ければいつか閃くものです!」と語る。

旧ゴング誌編集長、舟木昭太郎さんのトークショーで久々にファンの前に登場(2019.4.20)

そうしてポスト沢村を手中にした富山勝治は、同年5月8日に日本武道館での、TBS放送500回記念興行が3度目の生放送として、全米プロ空手を迎え入れることになった最初の興行にメインイベンターとして出場。USKFAジュニアミドル級チャンピオンのサミー・モントゴメリーに、第2ラウンドに右ストレートを受け、右肩から落ちて脱臼骨折。大ピンチから5ラウンドまでローキックで逆転寸前に追い込むも判定負け。この大怪我でまたも戦線離脱となってしまった。

しかしそれも3ヶ月で復帰し、8月20日のラスベガス興行に臨んだ。キックボクシングが世界的メジャー競技になる為のアメリカ全土征服は野口修氏がキックボクシング創設当初から狙っていた野望だったという富山勝治。メインイベンターとしてエディ・ニューマンを第4ラウンドKO勝利で存在感を示した。

◆富山勝治は健在!

沢村忠引退後、全国ネットでお茶の間に君臨したメインイベンターは富山勝治が担ったが、TBSで10年半続いた月曜夜7時枠のゴールデンタイムを離れ、諸々の事情はあったものの、深夜放送に移った1979年4月以降と放送完全打ち切りとなった1980年4月以降、活躍する姿を全国に届けることは極めて難しい時代に入ってしまった。ここからテレビ放映復活へ試行錯誤を繰り返した野口プロモーションであり、メインイベンターとして戦った富山勝治であった。

後のテレビ朝日での3度の特別番組の中、1981年1月7日には日本武道館で、野口修氏が老舗の威信を懸けたWKBA世界二大タイトルマッチ(10回戦)を開催。ウェルター級で富山勝治がその大役を任された。やがて32歳を迎え、体力的なピークも過ぎての過去最高峰の戦いは過酷だった。ディーノ・ニューガルト(米国)に初回から右ストレートでアゴを打ち抜かれてダメージを引き摺りながら第9ラウンドまで踏ん張ったが2分41秒、テンカウントされても動けないKO負けで、今までのような怪我とは違う、身体的ダメージと体力的限界が感じられたことは否めなかった。

日米決戦、ロン・ホフマン(米国)戦、テレビ朝日放映3戦目(1981.5.9)

ジョー・ヒギンス(米国)戦、テレビ東京放映2戦目(1981.11.20)

後のテレビ東京に移ったレギュラー枠も1982年1月7日のエドワード・ラメッツ戦でKO勝利後、「テレビ東京からあと何年かやってくれと言われたけど、もう闘争本能が湧いて来なかったから、やらなかったですよ!」と語る。

エドワード・ラメッツ(米国)戦、テレビ東京放映3戦目(1982.1.7)

エドワード・ラメッツ戦勝利後、インタビューを受ける(1982.1.7)

この現役最後の頃からスパゲッティ屋「がんがん石」を展開。渋谷、新宿、自由が丘、高円寺、小倉に3店、博多、宮崎と全部で9店舗。「店を広げ過ぎたな!」と言うほど長くは続かなかったが、実業家としての第一歩はビジネス拡大への縁も深く繋いでいった。

1983年11月12日、後楽園ホールでロッキー藤丸(西尾)を相手に引退試合を行ないKO勝利で有終の美。これで富山勝治だけでなく、TBS時代からのキックボクシングは寂しい終焉を迎えた時代の流れだった。

ラストファイト、ロッキー藤丸戦のリングに入場(1983.11.12)

全力を尽くしたロッキー藤丸戦(1983.11.12)

引退後はジム経営、プロモーター、トレーナーといった何らかのキックボクシング運営に一切関わらなかった富山勝治氏。

「沢村さんが一切マスコミなどメディアにもキックボクシング関係にも出なかったから、その貫く意思を尊重しました。沢村さんあっての自分の存在があったから、沢村さんがやらないなら私もこの業界に残ることはしませんでした。」と語られています。

続編では富山勝治さんの経歴の裏側とその語り口をお話致します。

有終の美を飾って祝福を受け、記念のチャンピオンベルトを巻いた富山勝治

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」