◆大村藩の謎は板坂家の謎

そろそろ本題に入る。前述したとおり江戸時代の初期から大村藩の御典医であった板坂家初代の板坂卜庵という人物、いったい何者だったのか。言語学者だった叔父の板坂元が調査したところ、何と「徳川家康から当時は超高級品だった朝鮮人参を直々に拝受、その時着ていた上下(かみしも)の肩衣を脱ぎ、包んで持ち帰った」という嘘か本当か判らないような話が残っていたそうである。

要するに徳川家康に仕えていたのだがすぐに大村藩に出向したわけで、叔父は「多分、監視役も兼ねていたんだろう」と推測していた。それってほとんど忍者のような存在だったってこと?と私は勘繰ってしまった。

大村喜前の棄教と禁教は全国に先駆けて実行されたが、先代の大村純忠が日本初のキリシタン大名として知られていた史実と照らし合わせると、キリスト教への対応は真逆だが、親子とも変わり身の早さが目に付くのが何となくいかがわしい。

「喜前の突然の棄教の理由として、キリスト教が幕府により厳しく取り締まられることを、喜前は見越していたと考えられます。いち早い禁教政策のおかげで全国禁教令を問題なく乗り切りましたが、多くの潜伏キリシタンを生み出すことになり、後に「郡崩(こおりくず)れ」という潜伏キリシタンが大量発覚する重大事件がおこる要因を作りました」(大村市立資料館特別展『解大藩書─大村藩を解く』)

こういう状況だったのなら、幕府側が禁教政策を実施されているか、いつまた藩主の気が変わってキリスト教を容認することになるのではないか。そもそも大村喜前の棄教は偽装では……といった疑念にかられるのは当然だろう。監視役が必要だったという説にも頷ける。

それにしても私の先祖が、その昔、江戸から長崎大村の地まで派遣された『公儀隠密渡り鳥』であったとは、嗚呼……。

◆その日、歴史館にて

長い間、故意に興味の対象から外していた家系という縦軸の共同体が、いきなり私を呼び寄せているような気がして、行ってみた。

コロナ禍まだ治らぬ折り、国論を2分した「ぼったくられ5輪」に対する憤懣も、原発事故や放射能に関する問題は封印されたかのような世相への反発も胸に秘めたまま、遠隔地への移動は現実からの逃避かとも思えたが、現実を解明する鍵は過去にある、現在は過去の結末であるという自説に基づいての旅路だった。

先祖が大村藩でどんな役割を果たしのか、そんなことは調べても判るはずはない。ただ先祖がどこに住んでいたのか、そこはどんな場所だったのかが判ればいい。そこからきっと伝わって来るものがある……と霊感豊かな私は予測していたのだった。

写真提供=小滝勝

写真提供=小滝勝

そしてその通りになった。

市の中心地にあった大村市立史料館に足を踏み入れてから、数分後に私はその場所に行き着いたのだ。その場所、と言っても、史料館内の最も目立つ展示室に設置されていた城下町の立体的な復元図面内の話だが、百を超える武家屋敷の中に板坂俊道という名前が記された札が置かれていた。

この人は江戸時代の最後を飾った14代目、祖父の先代板坂立栄の父親にあたる板坂家の13代目である。この図面は江戸時代末期の状態を復元したものだものなのだろう。

しかし、江戸時代の末期と言えば、大村藩は長州藩と同盟を結び、倒幕運動に加担している。秋田の角舘にまで出兵して徳川の残党を討伐する戦いにまで決起している。

大村藩を監視するために徳川幕府から派遣された初代の子孫たちは、幕末にはどのようにふるまったのか、気になるところであるが、立体図面をじっと眺めていると何となく判ってしまうことがある。

板坂の邸の前には広い河川敷があり、河川敷はそのまま砂浜に連なっている。江戸時代の板坂家の人々は屋敷を出て河に沿った道を海辺まで歩き、左折して海を眺めながら登城したのだろう。

250年を経て、大村の地が故郷となった人々には初代の思惑はもはや風化していたに違いない。

ただこの立体図面を見て、あらためて感じるのは復元されているのは城と家臣の武家屋敷のみで、農家はもちろん町民の家も全くないことだった。そこには当時の農民や町民、つまり一般民衆にとって、城はあまりにも遠い異次元の世界であり、民意は決して支配者には届かないという過去の「現実」が示されていた。

長崎の原爆による惨禍も、隣県の原発に対する反感もそこからは感じられない。当たり前だ。しかし人間には支配する者と支配される者の2種類がある。その結果が原爆や原発であり、あらゆる争いごとが利権の奪い合いに過ぎないことが感じられると、今はただ沈黙するしかないのだろうか。(おわり)

本稿は『季節』2022年春号掲載(2022年3月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

◎板坂 剛 長崎・大村紀行 キリシタン弾圧・原爆の惨禍 そして原発への複雑な思い[全3回]
〈1〉家系という負の遺産を背負って
〈2〉暗い過去を秘めた大村藩
〈3〉大村藩の謎は板坂家の謎

▼板坂 剛(いたさか・ごう)さん(作家/舞踊家)
1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年春号 能登大震災と13年後の福島 地震列島に原発は不適切

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