連休中に木寺一孝監督の「正義の行方」を観た。映画は1992年福岡県飯塚市で起きた女児2人の殺害事件(飯塚事件)をめぐって、2006年の死刑決定からわずか2年後に死刑執行された久間三千年さんの妻と弁護団、久間さんを取り調べた当時の警察官、事件を追ってきた地元の西日本新聞の記者たち、三者が事件を振り返りそれぞれ語っていく。
元刑事たちが、カメラの前で堂々と語っていることには結構驚いた。再審請求審で「久間さんは本当に犯人だったのか?」との疑念がふつふつ沸いてるなか「いや、俺たちがやったことは間違いないばい」と訴えなければとの思いもあるのだろう、どの刑事も堂々としている。しかし、何人かの刑事は取材を頑なに断ったという。
西日本新聞は、当時、警察の会見を鵜呑みして「重要参考人浮かぶ」などといち早く久間さん犯人説をスクープしてきた。当時の刑事事件のサブキャップ傍示(かたみ)文昭さんは「一審、二審から腑に落ちないというか、久間が本当に犯人なのか」との思いもあったため、死刑が確定して「ホッとした」という。
徳田靖之弁護士と岩田務弁護士は、死刑確定後、すぐに久間さんに再審を依頼されていたが準備が遅れていた。その間に突然死刑が執行されたことで、取り返しのつかないことをしてしまったと悔やみに悔やみ、再審無罪に向けた必死の取り組みの中で、久間さんが犯人ではなかった可能性を次々と明らかにしていく。
久間さんの早すぎる死刑執行に元刑事・飯野和明さんも「ほかの死刑囚がまだなのに、久間早かったなあ。率直な気持ちでした」と述べている。久間さんのあまりに早すぎた死刑執行が「自分たちの記事は正しかったのか」と疑念を持つきっかけとなった傍示さんだが、再審請求審には「死刑執行後に再審開始はありえないだろう」と冷めた目でみていた。2014年、再審請求は棄却されたが、裁判所は久間さんを犯人と断定したDNA型鑑定の証拠価値を事実上却下した。
久間さんの鑑定と同じ手法で行われていた足利事件の菅家さんのDNA型鑑定は既に誤っていたとして、菅家さんに無罪判決が下されている。しかし、そのとき久間さんは既に死刑執行されていた。何かを隠すためだったのではないかと疑われるのも当然だ。
疑念をふつふつと募らせていた西日本新聞の傍示さんは、2017年編集局長に就任、同じ時期スクープ記事を書いた宮崎さんは社会部長に。「この二人ならできるんじゃないか」と傍示さんは飯塚事件の検証キャンペーンを企画する。宮崎さんを中心に、しかし、実際の取材はこの事件に全く関わっていない記者にさせようと、中島さんという編集委員と中原記者を抜擢。
木寺監督はあるインタビューで「観る側に全てをわかってもらう必要はなく、ギリギリわかるところまで情報量を抑え、ジェットコースターのように息もつかせない展開にしよう」と目標を掲げた、と話している。確かに、158分があっという間、なんならもう一回乗ってみたいという感じ。
ネタばれになったらすまないが、ちょっと身震いするシーンを2つ紹介する。
福岡県警・山方(やまがた)泰輔捜査一課長(当時)の無謀な捜査手法が良く表れているシーンだ。逮捕後も一貫して否認を続ける久間さん、一方、二度目のDNA型鑑定は「久間さんのものではない」となった。
そこで、山方一課長は、ある仕掛けを企てる。実は飯塚市では3年前にも近くで女児アイ子ちゃんが行方不明になっている。その時アイ子ちゃんに最後に会ったのが近所の久間さんだったということで久間さんが疑われた。久間さんは当時、仕事を辞めて家事、子育て、外で働く奥さんの送り迎えなどやっていた。そんな久間さんを「昼間からぶらぶらして」と警察は偏見の目でみていたのではないか。
そこで3年前のアイ子ちゃん事件も久間がやったに違いないと、久間さんをDNA型鑑定と並ぶもうひとつの科学捜査、ポリグラフ(ウソ発見器)にかける。「アイ子ちゃんはどこにいる?」みたいな質問を続けるうち、ある場所で針が激しく動いたという(山方捜査一課長が指でぽーんと針を飛ばしたに違いない)。
警察は「ここに何かある?」と捜索を開始。駆り出された捜査員らは「長時間かかるだろう」と昼飯を持参して山に入ったが、捜査開始からわずか25分でアイ子ちゃんの赤いジャンパーがみつかる。
西日本新聞の宮崎さん「5、6年も置かれていたのに、なぜそんなにきれいな状態で見つかるのかと不思議だった」。
そりゃ、そうだ。袴田事件でみそ漬けにされた衣類と同様、警察がそっと置いてたからだ。現場の雑木林は数キロにわたる広さだが、近くにいた作業員は「捜査員がきてすぐロープが張られた」という。
山方捜査一課長が「ジャンパーはあの辺に置いて。すぐわかるように周囲を囲ってくれたらよかばい」と指示したのだろう。あまりにおそまつだ。
もう1つの戦慄が走る場面。編集局長傍示さんの指示で検証取材にあたる中島さん、中原さんは、女児2人が連れ去られたとされる三叉路で、久間さんの乗っている車と同じ車を見たという目撃証人を必死で探す。
約1年なかなか探せずにいる時、ふらりと寄った喫茶店で、店主に男性の写真をみせる。すると店主が「その人ならつい最近までうちの2階におったよ」という。奇跡だ。そしてその男性に会えることに。
何十年も前の事件、しかも殺人で死刑執行までされた事件で、当時の自分の証言を取材したいといわれ、相手はやんわり拒否するか、覚えてないというのでは……と思っていたら、男性はすんなりと取材に応じてくれた。
中島さんが「なぜ一瞬のことなのに、車種を正確に覚えていたか?」と聞くと、男性は「次にその車を買おうと考えてたから」と答える。それは警察での供述調書にも、法廷の証人尋問でも出ていなかった話だ。なるほどと納得する中島さん。そしてここから更に驚く展開が……。
「何か警察に供述を誘導されたこととかありますか?」と聞いたときだ。「ああ、警官に、車のナンバーに1、6、9があっただろうと何度も言われた」。そして「1は2つあっただろう」とも。久間さんのナンバーは「6112」。2と9が間違っているが、男性が刑事に何度も何度も言われたため、何十年間も記憶していた数字だ。恐ろしい。きっちり久間さんへ誘導しているではないか。
ラストのシーン、元西日本新聞でスクープを書いた宮崎さんが三叉路に立ちながらこう話す。「ペンを持ったお巡りさんになるなとよく言われるんですけど……ペンを持ったお巡りさんでした。死ぬ前に一個何かお願いを聞いてくれるなら、あの朝、何があったのか、巻き戻してみせて欲しい。どっかのカメラが、これが本当だって、30年間巻き戻して」
西日本新聞の当時のサブキャップ傍示さん、スクープを書いた宮崎記者は、自分たちがどうこの事件を取材してきたか、それは正しかったのかどうかを必死に検証してきた。しかし、久間さんはもう殺された。国と警察と検察と裁判所に。そしてマスコミに。
5月22日の袴田さん裁判後の記者会見、翌日の西山美香さんの国賠後の記者会見に参加した青木恵子さんが「本当につまらない質問ばかりだった」と嘆いていた。私らが暑い中、1時間前から傍聴券の抽選に並んでいるのに、開廷ぎりぎりに法廷に入ってくる一階の記者クラブの記者たち、「涼しいフロアにいましたから」みたいな顔でカーディガン羽織ってたりする。みなさんも「ペンを持ったお巡りさん」なのか?
ということで青木さんが6月5日飯塚事件再審の決定が出る福岡地裁に行くことになり、徳田弁護士、岩田弁護士に拙著『日本の冤罪』をお渡しするというので、昨日会って渡してきた。
もう一度言おう。久間さんはもう殺された。
◎[参考動画]「飯塚事件」死刑が執行されたいまも多くの謎/映画『正義の行方』予告編(2024/02/05)
▼尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58