柔軟剤や煙草など、広義の「香害」をどう診断するかをめぐる議論が沸騰している。日本では、「香害」による体の不調を訴える人が、専門医を受診すると、ほとんど例外なく化学物質過敏症の診断を受け、障害年金の受給候補となってきた。「香害」に取り組む市民運動体が、公表している被害の実態も、極端に深刻さを強調するものになっている。
たとえば『週刊金曜日』(2024年2月9日)の特集記事「その香り、移しているかもしれません」の中で、環境ジャーナリストの加藤やすこ氏は、フェイスブック上の市民団体が実施したアンケートの結果を紹介して、「香害」の凄まじい実態を紹介している。
それによると、回答者600人のうち、「家の中に入る人や、近隣からの移香や残留で、家の中が汚染される」と回答した人が90.7%を占めたという。アンケートの主催者が、「香害」に抗議している人々が主体となった市民団体なので、必然的にアンケートに応じる回答者も「公害」に苦しんでいる人々が多数を占め、その結果、このように高い数値になった可能性が高い。ファクトチェックが欠落しおり、常識的にはありえない数字である。
◆坂部貢医師の報告、精神疾患との併症率は80%
「香害」による被害を訴える人を、容易に「化学物質過敏症」と決めつける風潮に対して、このところ疑問を呈する声が広がっている。一定の割合で、「香害」の中に精神疾患のケースが混じっているという見方である。従来の「香害」=化学物質過敏症という構図の誤りである。
たとえば、化学物質過敏症に詳しい坂部貢医師は、「平成27年度 環境中の微量な化学物質による健康影響に関する調査研究業務」と題する報告書の中で、化学物質過敏症と同じ症状を現わす患者には精神疾患の症状が見られるケースがあると述べている。精神疾患との併症率は、なんと80%にもなるという。
坂部医師と同じ観点に立って、化学物質過敏症の診察を実施しているのが、舩越典子医師(典子エンジェルクリニック、堺市)である。「香害」を訴える患者の中に、一定割合で精神疾患を持つ人が混じっているとする主張である。その根拠を示す具体的な一例を紹介しよう。2024年度のケースである。
◆「洗濯物を干すときにじろじろと見られた」
「香害」を訴えて、舩越医師のオンライン診療を受けたのは、50代の主婦A子さんである。マンションの2階に、夫と成人の息子の3人で住んでいる。舩越医師は、Aさん本人だけではなく、夫からも事情を聞いた。その結果、訴えについて次のようなことが判明した。
Aさんはコロナに感染して高熱を出した。療養後、Aさんは奇妙なことを口にするようになった。向かいの家に住んでいる70代の高齢男性が煙草を吸っている。その匂いが耐え難い。匂いは、窓を閉めていても家の中まで闖入してくる。
「向かいの民家と、自宅の距離はどのぐらいありますか?」
「20メートルぐらいです」
あまりにも匂いが強いので、Aさんは老人に3度ほど注意したという。しかし、老人は禁煙には応じない。
舩越医師は、Aさんの話の信憑性を確認するために、Aさんの夫に、本当に煙草の匂いは、自宅に入ってくるのかを問うた。夫は、自分も息子も匂いは感じないと答えた。さらに詳しく話を聞いてみると、Aさんが老人による「香害」とは別の加害も訴えていることが判明した。たとえば理由なく怒鳴りつけられたとか、洗濯物を干すときにじろじろと見られたとか、窓のカーテンを閉めているにもかかわらず、覗き込まれたといった言動である。
舩越医師は、Aさんが精神疾患を患っている可能性を疑った。Aさんの訴えと家族による観察が整合していないことが、その主要な理由である。それに物理的に見て、20メートルの距離を置けば、煙草の匂いは拡散されてしまうことも考慮に入れた。そこで、精神科を受診するように勧め、知人の専門医を紹介した。
Aさんは、自分が「香害」の被害者であると固執して、精神科の受診を拒んだが、家族が説得して、受診にこぎつけた。その後、紹介先の医師から、Aさんが被害妄想、注察妄想、幻聴などを呈しており、妄想性障害であるとの報告書が届いた。
Aさんは向精神薬であるリスパダールの処方を受けた。約2週間後、オンライン診療でAさんと再会したとき、すっかり以前とは様子が変わっていた。妄想は消えて、表情が和らいていた。妻がすっかり別人の様に良くなったと、夫はとても喜んでいた。2人とも以前には見られなかった笑顔だった。
このケースでは、「香害」という訴えの信憑性を見極める過程で、家族が大きな役割を果たしたのである。
◆「香害」の複雑さと真実
「香害」の訴えを、単純に化学物質過敏症と診断すると、副次的な問題を引き起しかねない。その典型的な例が、横浜副流煙事件がある。この事件では、町医者から専門医までが、「患者」の訴えを鵜のみして、化学物質過敏症、あるいは「受動喫煙症」と言った病名を付した診断書を交付した。それを根拠に、隣人に約4500万円を請求する裁判を起こした。
しかし、裁判の中で原告が提訴の根拠とした化学物質過敏症の診断に、十分な根拠がないことが次々と判明した。逆説的に言えば、それだけ「香害」は複雑な要素を孕んでおり、ネット上のアンケートで実態を把握できるほど単純な問題ではない。
Aさんにとって幸いだったのは、家族が真剣に問題に向き合ったことである。また、舩越医師が「香害」を訴える人々の中に、一定の割合で精神心疾患の患者が含まれている実態を認識していたことも大きい。
「香害」を訴える患者の中には、一定の割合で、精神疾患の患者が含まれているのである。この点を無視して、「香害」を語ると、前出の『週刊金曜日』の記事に見るような極論になってしまう。
▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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