◆平塚らいてうと与謝野晶子との違い ──「現実を見る眼」の有無

“時代の現実を見る「眼」は大切”、「時代の現実に背く者は迷走する」が今回のテーマだが、まずは肩慣らしに私たちのwebサイト「ようこそ よど号日本人村へ」の「よど号LIFE」コーナーに書いたものポイント的に述べてイントロダクションに……

似て非なる晶子とらいてう

最近、衛星放送BS1の歴史ドキュメント「英雄の選択」で与謝野晶子をテーマに取り上げた“我は女の味方ならず”を観た。

「京都青春記」の一時期、行動を共にした立命文学部女子に「作家志望の詩人」がいた。彼女は私に言った、「憧れの作家は明治の近代黎明期に彗星の如く現れた平塚らいてうや樋口一葉、でも与謝野晶子はあまり好きじゃない」と。与謝野晶子は“ああ君死にたもうことなかれ”が教科書にも出てくる有名な歌人だから「あまり好きじゃない」という彼女の言葉がちょっと気になった。でも理由は聞きそびれた。

今回観たドキュメント“我は女の味方ならず”で何となくその理由がわかるような気がした。

与謝野晶子は歌人であると共に社会批評もやったが、中でも有名なのが平塚らいてうとの母性保護論争を取り上げていた。

平塚らいてうは女流文芸誌「青鞜(せいとう)」の有名な創刊の辞で「元始、女性は太陽であった。真性の人であった」と高らかに宣言した女性解放運動の先駆者として有名だが、これに共感した与謝野晶子も「青鞜」創刊号のために「山の動く日来(きた)る」という詩を書いて寄稿した。この詩に感動したらいてうは晶子の詩を巻頭に飾った。

そんな互いに尊敬し合う間柄の二人は、やがて「母性保護論争」という激しい論戦を繰り広げることになる。

晶子は男女平等の実践として「女子が自活し得るだけの職業的技能を持つということは、女子の人格の独立と自由とを自ら保証する第一の基礎である」と女性自身の覚醒と努力を説いた。要するに男性に経済的に依存する女性にはなるな、自活しうるだけの職業的技能を持ちなさいと、そんな「女性の自立」の側面を強調した。

更に晶子は「女はあらゆる男子の、知識と筋力と血と汗を集めた労働の結果である財力を奪って我が物の如くに振る舞って居る」と当時の女性一般を批判、ついには「私はまず働かう、私は一切の女に裏切る」とまで宣言。「女性の経済的自立」、たしかに正論ではあるが、「私は一切の女を裏切る」という晶子の宣言は当時の女性の置かれた現実を無視した「唯我独尊」になりかねない。

そんな晶子はついには「我は女の味方ならず」と題した一文を「青踏」に発表した。

このような晶子の主張に8歳年下のらいてうが噛みついた。

「実に人間としての婦人の権利の主張のみならず、女性としての婦人の権利も主張されねばならない」と。

要は男女平等とは言っても男性と女性の違いは厳然とした「現実」であること、「女性としての婦人の権利も主張すべき」こと、特に「母性保護」を婦人の権利として強く主張した。

らいてうは「子供というものは、たとへ自分が生んだ自分の子供でも、自分の私有物ではなく、其の社会の、其の国家のものです」とし、だから国家は婦人の母性を保護する責任があるという論理を立てた。

後に晶子は「(らいてうと)私とは決して目的に於いては異なって居ないのです」とこの論争からは降りるが、らいてうはその後も若き日の市川房枝らと「婦人と母と子供の権利の擁護」を掲げ「新婦人協会」設立に至る。さらに老いては私たち戦後世代と共にベトナム反戦、反安保の闘いにも身を投じ「おかしい現実」を変革する社会運動家としての生涯を全うする。

当時の女性が晶子のような才女、「男に依存しない」自立した職業婦人になれるのはごく希(まれ)で、ましてや男にはない母性保護という婦人特有の問題もかかえている。らいてうはこうした現実の女性問題を解決しようと社会運動に身を投じた。

らいてうと晶子の違い、それは「現実を見る眼」の有無。

長々とらいてうと晶子のことを述べたが、言いたかったのは「現実を見る眼」を持つことがいかに大切かということだ。

らいてうと晶子のそれと同次元で語れないと思うが、「時代の現実」から目を背け、これに挑戦するものはどうなるか? が今回のテーマだ。

いま「覇権の終焉」という「時代の現実」から目を背ける米国の迷走ぶりが目に余るものになりつつある。そしていまだに「米国についていけば何とかなる」戦後日本の悪しき思考方式から抜け出せず、「時代の現実」に挑戦する米国と運命を共にする「日米同盟新時代」という時代錯誤に同調した日本政治も混乱を極めている。

◆「進むも地獄、退くも地獄」── 決断に迷う米国

この連載の8回目、9月30日号で私は「窮鼠、猫を噛む」と題して米国がゼレンスキー「最後の勝利計画」の要求に応えて「米欧提供の長射程ミサイルのロシア領内攻撃に許可を与える」だろう、それは「ウクライナ惨敗=米覇権秩序瓦解の証明」を恐れての「NATOとロシアの戦争への発展」覚悟の窮余の策、米国の意思表示だと書いたが、それも先行き不透明感が出てきた。

10月11日朝日新聞朝刊に「苦境のウクライナ」と題して次のような記事が出た。

「ドイツで12日開かれる予定だった(ウクライナ)支援国による首脳会談は延期になり、来月の開催をめざしていた(ウクライナ)平和サミットも、現時点では実施が見通せない」

ウクライナ軍“突然の撤退”

9月国連総会出席のゼレンスキー訪米時のバイデン大統領との会談ではバイデンは米供与の地対地ミサイル「ATACMS」のロシア領内攻撃に使用許可をまだ与えず渋った。そして上記の記事のように10月のドイツでの支援国による首脳会談でその結論が出るだろうという予想も崩れた。「ハリケーン被害対応のため」のバイデン欠席が首脳会談延期の理由とされたが、これは眉唾ものだ。

おそらく肝心の米国が「ゴーサイン」の決断に迷っているからだ。

決断に迷う米国、それは「進むも地獄、退くも地獄」の米覇権の窮地ぶりを示すものだ。

「NATOとロシアの戦争」はまさに「窮鼠、猫を噛む」窮余の一手だけに何か勝算があるわけではない、一つの大博打に過ぎない。これにも負ければ「家産のぶっ飛ぶ大損(おおぞん)」、「米覇権時代の終わり」を早めるだけだ。

また「NATOとロシアの戦争」になればマスコミが「極右」と呼ぶ台頭著しい欧州内の自国第一主義勢力の反対にあって戦争遂行すらおぼつかないだけでなく、さらには国民の戦争への不満を背景に彼らが欧州各国の政治を握りかねない。事実、フランスではルペンの国民連合が議会選挙の第一回投票で第一党に躍進し、ドイツではAfDが有力州議会の第一党勢力に伸張、国政選挙でも躍進が予想されている。その危険性の高まる独仏はNATOの基軸国家という点もロシアとの戦争をちゅうちょさせる要素だ。そして当然ながらグローバルサウスなど世界の多数派、非米・脱覇権勢力の猛反対に会うのも覚悟しなければならない。

だからといって、これを恐れて手を拱(こまね)いていては「ウクライナ惨敗=米覇権秩序瓦解」は時間の問題となる。

こうして米国が決断に迷っている間にも「ウクイライナ惨敗」の様相はますます色濃くなっている。

ロシア軍との攻防の基本戦線、ウクライナ東部戦線ではウクライナ軍が「撤退戦」に踏み切る窮地に追い込まれている。

ウグレダルというウクライナ軍「最強の要塞」とされる拠点がロシア軍の包囲殲滅作戦の危機を前に撤退戦を余儀なくされるという事態に陥った。ウグレダルはウクライナ式には「ドネツク州」、ロシア式にはロシア系住民が独立を宣言したドネツク共和国内のウクライナ軍占領下にある重要戦略拠点であり、「ドネツク州」の3分の1ほどの再占領地域に築いた要塞化された拠点だ。ウクライナ軍がウグレダルを撤退すれば「ドネツク州」のもう一つの戦略拠点ボクロフスクも崩壊の危機に瀕するだろう。そうなればドネツク共和国はほぼ完全にロシア軍の制圧下となりウクライナ敗戦は決定的になる。

もう一つの独立を宣言したロシア人地域、ルハンスク共和国はほぼロシア軍の支配下にあり、南部のザポリージャ州、ヘルソン州(クリミアに隣接)もほぼロシア軍が制圧しており、最後の不退転の拠点としてウクライナ軍が主要力量を投入しているのが「ドネツク州」3分の1再占領地域だ。

ゆえに「ドネツク州」の攻防がこの戦争の帰趨を決すると言える。「ドネツク州」からのウクライナ軍の撤退、それは米国の代理戦争であるウクライナ戦争の敗戦=米国の敗戦を意味するだろう。それは米覇権秩序の瓦解を全世界に可視化するものでもある。

まさに「進むも地獄、退くも地獄」、それが米国の現在、直面する窮地だ。優柔不断、迷走は許されないところに来ているが、いまだ米国は決断に迷っている。

この迷走は二転三転する米大統領選にも現れている。

◆「確トラ」から「もしリス」、そして再び「もしトラ」へ ──「溺れる者は藁(わら)をもつかむ」

「白紙ばかりのハリス本がベストセラー」というネット記事が送られてきた。

白紙本“カマラ・ハリスの功績”

そのハリス本とは9月下旬に米国で出版された『カマラ・ハリスの功績(The Achievements of Kamala Harris)』という書籍だが「ハリスの功績」についての「経済政策」「教育」「外交」など各章は白紙ばかりという書籍としては「異例の代物」だった。ところがこの「中味のない本」が異様の売れ行きを見せ、アマゾンでの売り上げ急増もあって10月9日時点でベストセラーのランキングでトップ20に入っており、「政治的ユーモア」部門ではトップという異例の事態になっているという。

要は「ハリスの功績」は「白紙」、何もないということに共感する米国民が多いということだ。

また韓国の「中央日報」にワシントン・ポストからの引用記事として「米大統領選終盤“ハリス危機論”拡散」が掲載された。その要は「バイデンとの差別化失敗」論だ。

最近のABCインタビューで「4年間バイデンとは違って行ったことを教えてほしい」という質問に「思い浮かぶことが一つもない」とハリスは答えた。これは事実上、自ら「バイデンのアバター」であることを認めた言葉だと解釈された。

米大統領選終盤戦にこうした「ハリス危機論」が出てきたのは偶然とは思えない。

いまバイデン民主党政権の米国が「進むも地獄、退くも地獄」に直面して決断を下せない混迷に陥っている。特に外交安保政策ではバイデン路線を踏襲する「無能」ハリスではこの危機に対応できない、こう米覇権支配層が考えても不思議ではない。

私は、この連載の前々号に“「確トラ」から「もしリス」へ”(「もしリス」は私の造語、一般には「もしハリ」)というようなことを書いた。

それは老衰懸念のバイデンに代わってハリス が民主党大統領候補になってトランプに肉迫する人気を得ることになった新現象を踏まえ、その背景を考えての推測だった。

その推測は、トランプでなくても「ウクライナ敗戦」で対ロシア戦争はいずれ終結する、その後は「対中国に集中する」が米国の狙いだが、ガザをめぐる中東戦争との二正面作戦を避ける上でイスラエル側に偏(かたよ)るトランプでは終戦は望めない、またトランプはNATO諸国とは折り合いが悪い、対中対決にNATO諸国を引き入れる上でトランプではまずい。このような米覇権支配層の思惑から“「確トラ」から「もしリス」へ”と流れが変わったのだろうと推測を立てた。

ところが上記のように「ハリス危機論」から「もしトラ」へと流れがまた変わりつつある。

以下はあくまで私の推測だ。

バイデンが「進むも地獄、退くも地獄」に陥ったウクライナ戦争終結で「プーチン大統領と話ができる」トランプなら米国にさして損害を与えない「手打ち」交渉も可能だ。

また中東戦争の収拾策でも最近、こんな話も出てきた。「ネタニヤフ首相もトランプの話には耳を傾けるだろう、バイデンやハリスでは話にならない」と。

このようにウクライナ、中東の二正面戦を「無難に」終結した上で「対中対決に集中する」、だからトランプ。

また対中対決でロシアと朝鮮を中国から引き離す上でトランプは使い勝手がある。トランプはプーチン大統領だけでなく金正恩総書記とも話ができる、トランプなら朝米対話も不可能ではない。また「朝露の戦略的パートナーシップ協定締結によって中国と朝鮮が疎遠になった」と日本のマスコミはとらえている。だからトランプ大統領を使ってロシアと朝鮮を米国に引きつけた上で中国を孤立させるという打算が働いてもおかしくはない。

でもこれもあくまで米国の希望的観測、まさに「溺れる者は藁をもつかむ」の類(たぐい)だ。

“「確トラ」から「もしリス」、そして再び「もしトラ」へ”という米大統領選の迷走ぶり、それは米覇権、というより「覇権主義の終焉の時代」という「現実」を受け容れず、この「現実」に背くがゆえの「溺れる者は藁をもつかむ」米国の混乱ぶりを示すものだと思う。

◆石破首相が起こした10月政局の混乱から駒が? 

最後に総選挙に絡む10月の日本の政局の混乱の積極的意味について少し考えてみたい。

この連載の7回目、8月31日号でこう書いた。

うがった見方をすれば次期政権は自民・立民の挙国一致政権、「新政権の課題は9条改憲」、「非核の国是放棄」、これがあながち邪推とは言えない時代が来たと思う。

エマニュエル駐日米大使が岸田国賓訪米時に述べた「一つの時代が終わり、新しい時代が始まる」、すなわち日米同盟新時代が始まる、これを担い推進する挙国一致政権の登場のことを念頭に置いた推論だ。

日米同盟新時代の基本は「日米安保の攻守同盟化」、日本が「国際秩序を護る」戦争、具体的には対中・代理“核”戦争のできる国に変容する、これが米国の要求だ。だから新政権の課題は「9条改憲」(実質改憲含め)、「非核の国是放棄」となる。この難題は国民の理解を得られる政権にしかできない、国民が愛想を尽かした自民党政権では無理、だから与野党連合、「挙国一致政権への変容」でなければならない。

橋下徹「政権変容論」はこの日米同盟新時代を担う「政権変容」を次のように構想した。

「政権の交代というより、野党予備選で候補者の一本化を果たし、本選での与野党逆転を実現した上で、野党側が石破氏など国民的に人気のある自民党有力者を総理に担いで与野党合同とも言える政権への変容を実現する」

この橋下徹の思惑に反していま野党候補の一本化は進まず、総選挙で過半数を占める自公による政権存続の可能性が高いという。でも野田代表の立憲民主党の選挙公約は「外交安保政策は岸田政権のそれを堅持する」だから石破・自公政権にこの点では協力できる、すなわち「日米同盟新時代」の安保外交政策は石破・野田で与野党「挙国一致」体制はできる。当然、維新、国民民主も同調する。これも「政権変容」の一つの形だ。

もし自公過半数割れになってもその逆もまた可能だ。

選挙結果がいずれであっても与野党合同、「政権変容」はできる。

ただここに一つ新たな混乱、波乱要因が加わった。

石破新総裁率いる非安倍派とこの間、政府と党の人事からも選挙の公認からも二階派とともに排除された安倍派との大きく二つに自民党が分裂する可能性が出てきた。

自民総裁選の第一回投票では安倍派の結集軸でもある高市早苗氏が大方の予想を裏切り石破氏を上回る党員票を獲得、石破氏を破って第一位になった。決選投票ではこの事態に慌てた岸田前首相が旧岸田派の議員41票を石破にまわしてかろうじて石破総裁が実現した。この一件で自民党には安倍派を中心にした隠然たる「反石破」勢力の存在の大きいことが浮き彫りになった。党人事や公認を巡る二階派、安倍派の鬱積した不満が相まって「日米同盟新時代」推進の挙国一致政権を揺るがしかねない可能性、不安要素が出てきた。

もう一つは、この間、政権交代「救民内閣」樹立を公言しながら、今、鳴りをひそめている泉房穂さんの存在がある。これも国民的人気を背景にできれば「日米同盟新時代」挙国一致政権をストップさせる侮れない政治勢力になりうる。

安倍派には、国家主義的で対米面従腹背的な側面が多分にある。欧州で台頭する「極右」、自国第一主義勢力のような存在になりうる要素を秘めている。もちろん彼らは「靖国神社参拝」積極派、覇権主義的で「大日本帝国の夢よ再び」の古い軍国主義勢力の側面を持つ。しかし岸田政権が踏み切った「日米同盟新時代」、それは日本が軍事のみならず全ての分野で米国に統合、溶解されること、彼らはこれをよしとしない勢力であることも容易に想像できる。

安倍元首相を使えるだけ使った米国がいまや安倍派を敵視する理由がそこにあると思う。「米国による安倍暗殺」陰謀説さえ語られる所以(ゆえん)だ。

話は少し横道にそれるが、最近、「愛国とロック」という高市早苗礼賛本が出た。デジ鹿連載の「ロックと革命」の剽窃? まさか!? それは冗談として彼女もバンド少女だったのは事実、ロックバンドをやるのはだいたい自己主張人間、何となく高市早苗という人物がわかる本の標題だ。彼女の「愛国」は私のそれとは真逆の方向を向いている。でも彼女の愛国が心からのものなら日本が米国に統合、溶解される「日米同盟新時代」といういまの現実は「愛国とロック」と相容れないはずと私は空想するのだが……

他方、泉房穂氏は岸田国賓訪米時に「いったい誰の顔を見て政治やっとるんや」と批判した人、「日米同盟新時代」をよしとしない政治家だ。

この「救民内閣」樹立の泉氏と高市早苗氏に同調する保守民族派が「日米同盟新時代」推進政権反対で共同歩調をとれないとは誰も断言できないと思う。

いまはあくまで可能性、空想の段階だが、石破首相が引き起こした10月政局の混乱は、その可能性、空想の根拠を与えたのも事実だ。

いまの私たちは吠えることしかできないが、根が楽観主義者だから「ピョンヤンから感じる時代の風」がいつかは必ず日本にも吹くことを信じて引き続き吠えていきたい。

「戦後日本の革命」成就のために!

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

◎ロックと革命 in 京都 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=109

◎ピョンヤンから感じる時代の風 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=105

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』