11月4日、京都大学構内に潜入していた川端署の公安警察が学生に発見され、学生が取り押さえ身分確認などを行うという諍いがあり、京都大学当局は警察の行為を(学生の行為ではない)「極めて遺憾」と表明した。学生が潜入した公安警察を取り押さえたのは「極めて当然な行為」である。

「大学の自治」、「学問の自由」などについてはこれまでもこのコラムで触れてきたが、その究極は「大学の国家からの自由」であり、国家の暴力装置たる警察を大学が拒絶するのは、原理的に自明過ぎるほど自明である。

近年、こういった大原則についての不理解や、国家の側からの締め付け、更には痴呆化した大学が自ら警察を学内に招き入れるなどという、自殺行為が何の疑問もなく横行しているので、京大生の今回の行為を正しく理解できなかったり、奇異な目で見る向きもあるようだ。だが、大学と警察の間に本来、親和性はないし、あってはならないのだ。

しかも今回、京大に潜入した公安警察はその数日前に行われたデモで京大生が逮捕されたことに対する抗議集会を探りに来ていたというのだから、学生に拘束されたのは、あまりにも当たり前である。デモにおける京大生逮捕(公務執行妨害)がでっち上げであるにもかかわらず、警察とはかくも陰湿な手を使い学生や大学を監視、弾圧するのである。

小出裕章=京都大学原子炉実験所助教

◆小出裕章=京大助教に見る「筋の通し方」

同じ京都大学に在籍する原子炉実験所の小出裕章助教は先ごろ前首相菅直人の訪問を打診され、それを受けたものの、SPが付いてくると分かったため、大学の構内に入れることをよしとせず、勤務終了後に学外で菅直人と会ったそうだ。これも研究者として、「極めて当然な行為」である。

また、小出助教が暮らす職員宿舎は手狭で老朽化しているために、改築工事を行うとの提案が過去あったそうだ。改築すれば1軒当たりの面積も1.5倍程度に増えるので利用者は喜んだが、からくりがあった。同じ国家公務員ということで、「京大教職員宿舎」にもかかわらず、海上保安庁の職員を入居させたいと大学当局は打診してきたという。これに対し、小出助教は「海上保安庁職員はいわば海の警察官だからそんなものは認めることができない」と発言し、住民達も同意したので結局改築自体が見送られることになった。このような行為や姿が大学としては当たり前なのだ。

◆お隣の同志社は学内に交番を設置した恥ずかしい大学

京都大学の面する「今出川通」を西に1キロ強の位置に同志社大学がある。この大学はあろうことか、昨年からその敷地の一部を交番に提供している。つまり大学の敷地の中に警察を常駐させているのだ、知を探求する大学の姿勢として「最低レベルの大学」と言わねばならない。交番設置にあたり、大学内では教職員組合が大学執行部に質問を行った程度の議論はあったようだが、はっきりとした反対運動もなく「国家権力の暴力装置」を学内に招き入れている。恥ずかしい大学だ。

原発事故後に大学で原発推進の講義を行うエセ学者に抗議をしたために「無期停学」処分を下したり、大学に対する学生の抗議に対して「営業権」という、腰を抜かすような理屈を持ち出したり、学生弾圧専門の体格の良い専門家を用意して平然と暴力を振るったり、学生の抗議を見えづらくするために不要な工事を行ったり、公安警察を平然と学内に招きいれたりする腐りきった大学がそのうちに出てくるであろう。

と、未来形で語れないのがこの時代の悲劇だ。交番を設置したアホな大学として同志社をあげたが、西の横綱が同志社であれば、東の正横綱は「法政大学」である。法政大学の教職員は今すぐ京都大学に出向き、大学の根本を学んでくるべきだ。同志社大学の教職員もお散歩がてら京大へ1日研修に赴いてはどうか。

私は以前、大学職員時代に公安警察と懇意にしていた旨のコラムを書いた(「公安警察と密着する不埒な大学職員だった私」)。それは全て「警察から情報を引き出し、それを学生に与える」のが目的のゲリラ戦法だった。個人のスタンドプレーともいえる。警察(公安)を騙しても、学生を騙すことは金輪際しなかった。私の行為は決して褒められたものではないけれども、大学存立の大原則は踏み外さないよう意識した。

◆卑劣な反動の矢に当局が屈した時に大学の存立意義は終焉する

京大生と京大の「極めて当然な行為」に対して、いずれ反動の矢が飛んでくだろう。

東大ポポロ事件」のように。(※Wikipediaの記事の中には一部正確さを欠く部分があるが大筋はご理解いただける)

そして飛んでくる反動の矢は「ポポロ事件」とは比べ物にならないくらい卑劣で激烈なものだろう。しかしそれに抗することを放棄しては大学の存立意義は終焉する。

私は京大生の行為を「極めて当然な行為」と評価する、褒め称えない(本音を言えば心の中で喝采しているけれども)。何故か。京大には「警察を学内に入れる際には当局と学生の了解がなければならない」とする内規があり、今回の行為はその内規に沿うもので、言わば「ルール通り」の行動だからだ。

京大にこの内規がなければ、目下、学生がやられ放題に弾圧されている法政大学のように京大の学生たちも簡単に警察に売り飛ばされたであろう。京大だって当局がいつ態度を翻すかは油断ならない。京大には内規があるものの、今や良心的な教職員は少数派だからだ。この事件の行方から暫く目が離せない状況だ。

▼田所敏夫(たどころ・としお)

兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。

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