前回の記事で「マスプロ教育」私的経験、「心理学」を担当していた高橋某を引き合いに出した。さて本丸はこの男、「竹内洋」である。

竹内は関西訛りが全くなかったので調べてみたら、東京生まれの佐渡島育ちらしい。1942年生まれだが現在でも写真を見ると年より若く見える。彼の講義を受けたのは約30年前になるが、そういえば「ぼんぼん」の如き顔つきと振る舞いだった。

竹内洋=関西大学東京センター長

◆80年代の大学時代に感じた竹内洋の「現状肯定」主義

竹内は我々の1年次「必修科目」である「社会学」の後期担当だった。前期の担当は徳岡秀雄でこの方は堅実に「社会学」の基礎を語って頂いた記憶がある。真面目一直線で面白味はないけども、彼に教室で教わった学術用語の深みを今でも記憶してるので実直な方だったと思う。

それに対して竹内は「ハイカラ」さんだった。自分のことを「ボク」と称し、こんなところに英語必要なのか?と思うほど話に横文字が多用された。

「つまりさ、ボクの言ってるササイエティーっていうのは、ポピュラーな意味でのそれとはだいぶ違うんだよ。コンセプトのコンフリクトを除外したらメークセンス出来ないんだよ」

ってな具合で、巨人の長嶋が知ってる限りの英単語を多用してカール・ルイスに話しかけたのと少し似た(勿論竹内の英語力を長嶋と比較するのは失礼だけれども)「竹内ワールド」が展開されていた。

でも「竹内ワールド」時々見落とせない片鱗を表出してもいた。彼は様々な社会的制度を例に挙げ、それを彼なりの解釈で読み解いてゆくことを独自の話法としていた。旧来の社会学者の見解を紹介しながらも最後には実に個性的な解釈で事象を解読するのだが、私にはその結論のほとんどが「現状肯定」に落ち着いているように聞こえて仕方がなかった。ある時竹内は「共通一次試験」について語った。今日の「センター試験」と名称を変えた統一大学入試の原型だ。

「ボクはさ、『共通一次』って可愛そうだと思うんだ。だってね導入された時から批判されることが分かりきっていたんだから」

はて、何故かわいそうだのだろうか?と私は彼の真意を理解しかねた。今日の「センター試験」は国公立だけでなく、広く私立大学も利用している。竹内が語った「共通一次」への批判とは「全国の国公立大学受験者が、異なる大学を受験するのに同じ試験を受験しなければならないのは、大学の個性を無視するのではないか。また私立大学の存立の意義に立ち返れば『入試』を『統一試験』に頼るなど、建学の精神を異にする大学間で理念的に可能であるはずがない。文部省(当時)はいずれ私立大学支配の足掛かりに私立大学へも『共通一次』への参加を迫って来るのではないか」という懸念だった。

当時の懸念は、不幸なことに見事すぎるほど的中してしまっている。私立大学で「センター試験」を全く利用しない大学の方が現在では少数になってしまった。竹内が「可愛そう」と言ってみせた「共通一次」はとてつもない成長をとげ、弱小私立大学に重荷を背負わせることになっている。

◆安全地帯から一歩も出ない学者論法

ことほど左様に竹内の論法は紆余曲折した挙句、現状制度を何らかの方便で擁護する、あるいは暗にではあるが革新的な言辞への批判が込められていた。竹内が巧妙なのは「時代」をしっかり認識して、危険を冒さないところだった。その竹内は21世紀に入り小泉が首相に就いたあたりから、本性を見せ始める。『丸山真男の時代 大学・知識人・ジャーナリズム』 (中央公論新社、2005年)ではまだおとなしく、昔ながらの竹内論法から大きく離れてはいなかったけれども、『革新幻想の戦後史』 (中央公論新社、2011年)では旧来の回りくどさを排除して、革新勢力への総合的な批判を展開するようになる。

私は革新勢力全体を支持するものではないが、2015年1月を生きている身としては、革新勢力が懸念、抵抗していたしていた数々砦が崩壊する姿を安穏と無視できない。現政権権力が行っている政治、あるいは改憲と戦争へ加担する勢力は極めて悪辣だと誇張なく感じる。のっぴきならない時代だ。

30年前から今日的危機の萌芽を竹内はちらつかせていた。自身は常に安全閾に止まりながら。

◆格差社会の現実を「フラット化」、「権威なき時代」と呼ぶ詭弁

そして、行き着くところがこの1月5日の京都新聞朝刊に掲載された「戦後70周年を語る」シリーズにおける、竹内による「日本は限りなくフラット化する社会になっている」だ。

竹内は「昨年11月の衆議院本会議で、議員の万歳三唱をやり直す場面がテレビに映し出された。議長が『日本国憲法第7条により、衆議院を解散する』と解散勅書読み上げ、天皇陛下の署名と公印を示す『御名御璽』という前に、万歳三唱が始まったからだ。戦前ならば考えられない光景だ」と述べ、次いで「議員たる人たちが与党も野党もそろっていた。特別な意識はなかったと思うが、天皇でさえも、さらっと流されてしまう。ヒエラルキーなき、権威なき時代になった」のだと言う。

そうだろうか? 国会解散の際の「万歳三唱」は馬鹿げた習慣だ。にしても「解散」となると与野党問わずに「万歳三唱」は毎度行われる。その意味するところは竹内が指摘するように「解散勅書」、すなはち「天皇」の命を受けての「万歳」である。少なくない数の議員と一部(いや、かなりか?)や国民は、ただの習慣でまたは「またここに帰ってこよう」との意味で万歳をしていると誤解しているが、そうではない。あの万歳は「天皇陛下万歳」に他ならない。

だから「万歳三唱」自体が極めて反動的な行為なのだが、その「フライング」をやり直した光景を見て竹内は「ヒエラルキーなき、権威なき時代になった」と言う。ここだ。竹内流詭弁の骨頂だ。

議員の中には万歳の意味を知らぬ人間が多数いる。だから万歳の「フライング」が起きたのだろう。にしても、「万歳三唱」をやり直させた議長の行為を竹内はどう解説するのだ。天皇の「権威」に慮った伊吹文明(衆議院議長)がやり直しをさせたのではないのか。国会における前代未聞の「天皇」への忠誠行為=万歳三唱のやり直しと見るのが素直ではないか。なにが「ヒエラルキーなき」だ。これほど露骨な国会における「天皇制」の露出はないではないか。これ以上ない「ヒエラルキー」を目にして「天皇さえもさらっと流されてしまう」と語る竹内は単なる詭弁使いではないようだ。

更に竹内は言う。

「一方、論壇では天皇制に対する批判が起こり、天皇制こそが戦争の元凶であり、あがめるシステムこそ問題だとする考えが主流を占めた。戦前の天皇制について丸山真男は『無責任の体系』だと厳しく批判し、大きな影響を与えた。そうかといって庶民感覚からすれば、『天皇制』という言葉さえ受けつけにくい。どちらかと言えば『孤独でおかわいそうな存在』だったのではないか。論壇は草の根の感情を捉えきれなかった」そうだ。

長年本音を隠してきた悪人が本音を吐露するとこういう言葉になるのだなと、大学1年次に感じた違和感の完成形を目にして得心が行った。

「庶民感覚からすれば『天皇制』という言葉さえうけつけにくい」というが、ここでの「庶民」は一体どの時代、どの地域の庶民を指しているのか。竹内は調査や研究の結果を一切示さずに断言している。全く根拠なき独断的な決めつけには呆れるほかない。竹内は学問の世界に長く身を置き「京都大学名誉教授」の肩書を持つ人間なのだから、論理の整合性や論拠の重要性は知っているはずだ。学者という者は根拠を示して論を展開しなければ相手にされない世界であることは基本中の基本。それを30年前に教壇から私たちに説いたのは他ならぬ竹内だったではないか。

しかし、ここで竹内が述べている天皇制に関する「感想」は軽薄な評論家が軽々しく語っている程度の説得力も持ち合わせない。

私は幼少の頃より祖父母や両親、あるいは多くの年長者から戦争中の話、「天皇」あるいは「天皇制」の話は何度も聞かされてきた。また同世代の人間と「天皇制」について議論を交わした。私は自分が「庶民」だと思っていたが竹内の論によると私や私の関わってきた人々は「庶民」ではないことになる。

また、今の天皇はともかく明治憲法下太平洋戦争の最高司令官であった「昭和天皇」の戦争責任は竹内がのんびり語るほど悠長な問題だったのか。竹内の本音はこれに次ぐ文章で完成を見る。

「天皇への人々のまなざしは理屈で割り切れない感情という側面があった。日本には、主体的に自分の頭で考える理念があまりなかった」

「日本には、主体的に自分の頭で考える理念があまりなかった」と仰せられるが、かなり覚悟をして腹を括らなければ吐けない挑発的発言だ。これを読んで民族派右翼の諸君は立腹しないだろうか。「昔の日本人は馬鹿だった」と言っているのに等しい。これこそ本来的な意味で「自虐史観」じゃないのか。また「天皇へのまなざし」は明治維新以降天皇が「現人神」との強制に基づくものであるという事実への視点が竹内には決定的に欠如している。「天皇制」は自然現象ではない。「富国強兵」を進めようとした明治政府が方便として持ち出した「神話」を根拠とする「国家宗教」だったことは誰でも知っている。いわば国家的カルトだ。

「理屈で割り切れない感情」などと竹内はお気楽に解釈するが、反抗すれば命を落としかねない権力構造(三権の長を天皇と定めた明治憲法)と法体系(大逆罪、治安維持法)の中で育ったのが「天皇制」である。実際大逆罪で死刑にされた人間が少なからずいることを竹内は知らないわけではあるまい。「理屈で割り切れない感情」とは敗戦後もその「洗脳」が解けず、後遺症が様々な形で残存してしまった「天皇制PTSD」と言い換えた方がいいのではないか。

竹内によれば「日本は限りなくフラット化する社会になっている」そうだ。所得格差が広がり、差別が平然と横行し、アジア諸国を罵倒する言辞が横行するこの時代。「反日」という言葉(「非国民」と言い換えられる)が若者の間にもあふれる時代が「フラット化する社会になっている」らしい。

合掌

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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