東電によるマスコミ接待ツアー「愛華訪中団」に少なくとも03年、04年、05年、06年、08年、11年の震災直前に参加していた「大物」編集長が花田紀凱氏である。
花田氏の経歴は、じつに華麗だ。文藝春秋社に入社して『週刊文春』編集長を振り出しに、94年に『マルコポーロ』編集長、96年に文藝春秋社を退社して朝日新聞社『uno!』を創刊、98年に角川書店へ移籍し、『メンズウォーカー』編集長となる。2000年に角川書店を退社して宣伝会議に移籍、『編集会議』の編集長となり、04年にワック・マガジンズに入社、現在は『WiLL』編集長である。
「およそマスコミ人なら、鏡にしたいほどの輝かしい経歴の持ち主です。しかしそれぞれの会社の辞め際は、あまり綺麗とは言えません」(古参の出版社社員)
悲しいかな『週刊文春』時代に大下英治氏や、佐野眞一氏らの黄金メンバーとやりとりしていたツワ者とは思えない迷走ぶりを、文藝春秋退社後に見せる。
「確かにサッカーの中田や、キムタクなど、人脈は豊富です。しかし、それにしても経費を使いすぎるので、各出版社には疎まれています。一説には角川書店を辞めたのは、『経理部が本当に人と会っているか、経費の使い道の裏取りを各店に事実確認したため』と囁かれています。さらに『編集会議』を辞めたのは、読者に編集の技術を伝えてほしい宣伝会議側と、編集長や編集方法にスポットを当てたい花田氏が対立したためだと言われています」(元文春ライター)
そう、案外くだらない理由で各出版社を追われている。そもそも、『マルコポーロ』にて「ナチスのガス室はなかった」という噴飯ものの記事を作って話題になった(1995年2月号において、ホロコースト否定説を掲載。サイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受け、同誌は廃刊)が、民衆がもう忘れたタイミングを見計らって、かつて文春時代にさんざん批判した朝日新聞社にて復活した経緯がある。あまりにも機敏な転回ぶりに呆れる。
『WiLL』は一時期、センターをカラーにして「電気事業連合会」のPRページをなんと5ページにも渡って掲載していた。11年5月号では「クイズに答えると日本が明るくなる!?」と題して、原発がいかにも安全であるかのようなQ&Aをズラリと並べている。
また、柏崎原発持ち上げの広告も発見した。
「夢に向かって真っすぐに! ふるさと柏崎の電気は歌を、未来を、照らし続けます!」
ときている。ワック・マガジンに大量の広告が入るからくりは、つぶさに追及するならワックの母体に元新潮社の大物がいて、この男の誘導によるものだが、別の機会で追撃しよう。
さて、最新の原発事故調査委員会は、当時の首相、管直人の責任を厳しく追及している。
私たちは、「東電マネーという禁断の甘い汁を吸ったマスコミ人たち」には、管直人以上の責任があると見ている。
鹿砦社・松岡利康社長は語る。
「世間はいまだに花田氏を大層なジャーナリストと見なしているようですが、逆の道を生きてきた私にしたら反面教師です。先の元木にしろ花田にしろジャーナリスト生命は終わっていると思っていますし、なんでこういう連中がいまだにマスコミの世界で生きていけるのか、到底理解できません。ここにこそ、日本のマスコミ、ジャーナリズムの危機があるのではないでしょうか。”マスゴミ”となじられる所以です」
震災直後、福島県双葉町からさいたまスーパーアリーナに逃げてきた、被災者は言った。
「あんたたちマスコミも責任があるだろう! あんた、何回原発に反対する記事を書いた?」
その言葉は私にも重くのしかかる。しかし同様の問いに花田氏よ! あなたも答えるべきではないのか!?
(渋谷三七十)
(参考資料)
第3回訪中団<03年11月2~8日>
訪問地=呉江、北京、上海、杭州
団長
大森義夫(NEC専務)
副団長
水谷克己(東京電力常務)
森本正(中部電力常務)
団員
生駒昌夫(関西電力支配人)、長岡正道(NEC中国担当)、石原圭子(東海大学助教授)、野口敞也(連合総研専務)、元木昌彦(週刊現代元編集長)、花田紀凱(週刊文春元編集長)、赤塚一(週刊新潮元編集次長)、有馬克彦(全国栄養士養成協会常務)、高橋透(ラストリゾート代表)
顧問
石原萠記(日本出版協会理事長)、徐迪旻(亜州友好協会理事長)
張香山(21世紀日中賢人会議代表)、呉江市長、趙凱(文匯新報グループ社長)、黄誠毅(国家電力代表)、江綿康(上海市プランナー・江沢民氏次男)、王国平(杭州市常任書記)ほか。趙凱(上海文江新報集団社長)。精華大科技センターで討議。
〔『続・戦後日本知識人の発言軌跡』(自由社)〕