東日本大震災、それに伴う福島第一原発事故から、1年が経った。
「新幹線は、通常通り動いているんですか?」
昨年の夏、福島原発から30キロ圏内にある南相馬市立原町第一中学校を訪ねた時、校長から聞かれた言葉が耳に残っている。その時、東北新幹線は、通常ダイヤで動いていた。
当初、日本全体を襲ったかに思われた災害も、東北新幹線の復旧をシンボルに日本社会は落ち着きを取り戻し、日本の一部を襲った災害と見なされていった。
その孤立感を、校長の言葉は如実に語っていた。
昨年9月に、緊急時避難準備区域が解除されるまで、原町第一中学校は校舎が使えなかった。30キロ圏外にある鹿島小学校の体育館を使って、授業を行っていた。
「どんな苦労がありますか?」と聞くと、「見て、お分かりの通りの苦労です」と最初、校長は疲れ切った表情で答えた。
約230名の生徒が体育館で学ぶが、8つの教室を仕切っているのは、薄いパネルだけ。すべての教室の声が入り交じり、極めて困難な中で授業を行っていた。
緊急時避難準備区域は、緊急時に自力で避難できない子供、老人、病人は立ち入ってはならない、とされた区域だ。
だが原町第一中学校の生徒のうち、親の仕事の都合などで地元に残った子供たちは、緊急時避難準備区域内の自宅に留まっていた。
そのため生徒たちは毎朝、原町第一中学校に集合。観光用の大型バス5台に分乗して、鹿島小学校の体育館に向かう。下校時も同様だ。
親たち、先生たちの苦労は並大抵のことではなかった。
ひとしきり話すと校長の表情も穏やかになり、「東京のどちらか来られたのですか?」と私に聞いた。
池袋だと答えると、学生の頃に池袋にいたと言って、懐かしそうに話し出した。
東京で生きていくという選択もあっただろうが、思いがあって地元での教師の道を選んだのだろう。
自然が広がる穏やかな生活。それが原発の事故で破壊され、なんとか日常を取り戻そうと、もがいている。
東京を懐かしみながら、苦渋の表情が浮かぶ。
福島県の海岸よりの地方は、浜通りと呼ばれる。原発だけでなく、火力発電所も多い。それ以前には常磐炭田があり、一貫して東京にエネルギーを送るという役割を担わされてきた。
この地域の人々に聞くと、原発へのストレートな怒りは少ない。地域経済を何とかしようとして、自分たちが原発を受け入れたという自覚がある。あるのは、安全だと信じていたのに裏切られた、自分たちだけがなぜこんな目にばかり遭うのか、という悔しさだ。
翻って、東京の人々には、彼らに原発を押しつけたという自覚はあるだろうか。
原発が危険であることは、誰もが知っていた。政府、電力会社、推進派も皆知っていた。その証拠に、東京に原発を作らなかった。
東京湾岸に原発を作って同じ規模の事故が起こったら、立ち入れなくなる区域は、足立区、板橋区、練馬区にまで及ぶ。東京は機能が停止する。
政府、電力会社、推進派は、「やっぱり、こんな危険なものは、東京に作らなくてよかった」と胸をなで下ろしているだろうか。いや、最初から、東京に作るなどという発想は問題外だっただろう。
原発は危険だという声が大きくならなかったのは、このブログで追求し続けているように、広告を通じた東電マネーでマスコミが黙らされていたことが大きい。
原発の危険性に肉薄し続けてきた樋口健二氏の記事は、大手週刊誌に載る寸前に上層部から握りつぶされている。
東電マネーを受け取っていたマスコミは、情報を歪曲していた罪から逃れられることはない。それは、情報を伝えるメディアとしては、死んでいるのと同じことだ。
もちろん、樋口健二氏を始めとして、原発の危険性を訴えた本は、小さな出版社から出て書店に並んでいる。真実は隠されていたわけではない。大マスコミばかりを信じてきた国民は、目を覚ますべきだろう。
緊急時避難準備区域が解除され、原町第一中学校は除染を行った上で、昨年10月から自校舎での授業を再開している。
だが、原発から20キロ圏内の警戒区域の学校は、いまだに他校に間借りして不自由な中で授業を行っている。
苦闘しながら日常を取り戻そうとしている被災地に対して、様々な支援を続けていくのは当然のことだろう。
それとともに、地方に痛みを押しつけて都市の生活が成り立っているというあり方を、真摯に問い直していかなければならない。
(FY)