あまりにも当然なことだけれども、私達は日々「生活」をしている。「生活」の延長線上には、誰にも平等に「死」が待ち受けている。若くて持病もないうちは「死」を意識することはそうそうなないのだけれども、そこそこの年齢になり、友人の逝去や自分の身体の衰えを感じ始めるとおぼろげだった「死」について、嫌でも考えを巡らせる時期がやって来る。
個人的営為の最終章としての「死」くらいは、世相や流行と関係なく我流でお願いしたいと考えても、「終活」というマニュアルが葬儀関連企業や書籍によって示される。仕方がないと言えばそうなのだが、今日生れ出てから「死」を迎えるまで、意識しても、しなくても必ずその周辺に待ち構えている資本や企業や団体、時によっては宗教の食い物にされのを避けるのは至難の業だ。
◆不合理を隠して進むマニュアル化「就活」「婚活」
発語すれば同じ音である「しゅうかつ」を「就活」と表記した時に、その各段階でリクルートという企業が悪辣な仕組みを立ち上げ、巧みに利益を上げる構造を確立していることは過去にこのコラムで述べた。
「就職活動」が「就活」と言い換えられた時代にリクルートのこの分野での収益構造はたぶん完成していたのだろう。学校を卒業して直ぐに仕事を見つける作業は、その先が企業であれば採用側も、応募側もほぼマニュアル化していて、渦中の人達はその「不合理さ」や「非人間性」に気が付くことはない。
更に、伴侶探しに市場があると目星を付けた連中は「婚活」という言葉と収益事業を立ち上げた。「結婚相談所」という業種やボランティアは昔から大小含め全国にあったけれども、その業種に漂っていた、どこか「人には言いにくい」心理的側面を「婚活」という言葉で切り落とし、これまた多彩に「お見合いパーティー」や「価値の高い男・女になるために」、異性への話の仕方やデートの方法、果てはプロポーズをするのに適した場所やその言葉まで丁寧に指導してくれる「婚活」セミナーが出現した。
女性が美(と言われているもの)を追及するエステティックサロンは昔から存在したが、近年男性は頭部以外の体毛が嫌われる傾向にあるらしく、脚や腕から始まってヒゲの脱毛も女性の好感を得るには有効との宣伝がある。その手の男性エステの広告には出演料も高かろうにジャニーズのタレントなどが多用されている。
ヒゲなんかを脱毛して皮膚に悪影響はないのだろうか(私が心配する筋合いは微塵もないのだが)、一体いくら取られるんだろうかと、面倒くさい(馬鹿らしい)から取材する気にもならない。どうでもいいのだが、どうしてそこまでして自分自身の価値を一時的な流行、しかも企業が作り出したそれに沿わせようとするのだろうか。
◆とめどなく広がりつづける「●活」というマニュアル世界からの離脱
「活」が幅を利かせているのはそれだけではないようだ。まだあまり一般的ではないかもしれないがかつては「胎教」と呼ばれた言葉を「妊活」(妊婦としてどう過ごすか)と言い換えたり、「育活」(要するに育児)なども「活」と言う範疇に囲い込まれようとしている。「現代用語の基礎知識」にはその他「離活」、「朝活」、「保活」、「温活」、「寝活」、「ソー活」、「友活」など、ここまで来るともう訳が分からない「活」が満載されている。
出産も育児も教育も、そして進学も就職も結婚も、更には「死」も、言わば人生の全てが情報商品化の対象となり、折々その周囲に控えている企業や医療機関、教育機関や冠婚葬祭社へのより収益性の向上が見込まれるキャッチコピー「○○活」と名付けられる。薄気味悪い。人生の「総マニュアル化」と言ったら言い過ぎだろうか。
「慶弔ごとは値切らない」という慎ましくも(払わせる側には)ずうずうしい習い性のようなものが長く支配的であったこの島国では「婚活」や「終活」で結局ボッたくられる人が多発しているだろう。「婚活」をしたことはないけれども、少なくないの「葬式」を出した経験から、黙っていると本来支払えばいい額の数倍を要求してくる葬儀業者が少なくないことを不幸にも私は知っている。そんな業者に限って綺麗なパンフレットで生前からの「終活」を勧める互助会などへの勧誘に熱心だ。
◆自分の「生活」を全うすること──誰かに命じられたり誘導されたりしない生活
生活していれば楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、悔しいこと、様々経験して最後に人生を閉じる。それは似ているようでいても一人一人全く異なる人生史の編纂作業であり、便利で自らの個性に合致した制度やサービスは採用すればよいけれども、企業が利益目的に「これが今トレンドですよ」と誘導する選択肢に人生を委ねるほど、没個性的な事はない。それはまた、遠くかけ離れてはいるけれども「付和雷同」、「事なかれ主義」といった社会態度を底支えするものともなり、さらにうがった見方をすれば、2015年時点での現社会体制=戦争準備の時代に少し加担することにも繋がる、と此処まで言うと極端が過ぎようか。一人一人が誰かに命じられたり誘導されるのではなく自分の「生活」を全うすることが、実は地味に見えて大切なのではないかと思う。
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。
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