地元の自治会で、市が関与する「防災・震災セミナー」に出てみた。思えば緊急避難場所も、緊急被災場所という言葉の違いも知らなかった。「緊急避難場所」は、一時的な避難場所で、宿泊するところを「緊急被災地」というのだ。
セミナーに行ってみてはっきりと感じるのは「行政はまだ何も考えていない」ということだ。私が住む地域では、「地域防災計画」というものが市の防災課がリードして展開されている。

「計画書」を見て驚くべきは、まだどこの自治会も「緊急避難場所」をどこの公園にするか決定していない、という事実である。「一応、避難場所はA公園で、宿泊できるとなると近くのB小学校しか体育館がないから、『緊急被災場所』はそこにするように申請はした」と自治会長は言う。
冗談じゃない。自治会のエリアは、ざっと800人が住む。果たして、一時的に野球の内野ほどしかない広さの公園に集まってパニックになりやしないか。いかにも机上の空論である。

防災計画の工程表を見ると、地元のFMラジオ局を緊急放送局とするのも、生活用品がコンビニのローソンを経由することも決定しているが、工程表を見ると「帰宅困難者の食糧備蓄」は平成27年度に、「危機管理センター」の情報ハード・ソフトは平成25年度まで、移動無線の整備は平成26年度いっぱいと、実にのんびりしたことになっている。
「冗談じゃないですよ。これでは、長生きしてくれないと行政が震災の準備が追い付かないとはじめから言い訳しているようなもの。きちんと予算をつけてすぐに準備していただきたいね」(地元住民)

震度7クラスの地震が来ると、東京都では1万人近くが死亡するという予測が出た。
震災が来れば1万人の命を失うと、あらかじめ行政は先手を打って予告したのである。
たとえば、一般家屋は平成12年までに建築された木材住宅が危険だとされている。平成12年以前は、まだ家屋を建てるときに、天井から床まで斜めにつなぐ柱の補強が義務づけられていなかった。

「およそ平成12年以前に作られた家が仮にすべて倒壊するなら、倒れたという前提で退避のルートを示したマップを作る必要があると思いますし、神戸大震災や東日本大震災はビルからものが落ちてきたりして人が死亡しているわけで、そうした街の景観も見直さなくてはいけない。緊急にそうした防災見直しの予算をつけるべきです。たとえば尖閣諸島などを買っている金があれば、まわすべきです」(自治会関係者)

正論であるが、もっと危機を感じるのは「自分だけは大丈夫だ」というまったく根拠がない開き直った住民たちである。
「死ぬときは死ぬのさ。もうじたばたするなよ」と友人は言う。
だが、震災はいつ来てもおかしくない。明日かもしれないし、あさってかもしれないのである。よく言われるが震災では「自助」「共助」「公助」だといわれる。

私たちはあまりにも、「自助」について意識が足りないし、「公助」はあてにならない。そうした中、東北地方では、日本人ならではの連帯で、たくさんの命が助かった。「共助」で助かった命はあまりにも多い。
「自助」と「公助」への意識を高めることが重要だと思う。そして、現状の行政では、ズバリ震災時の防災計画はあてにならない。役人よりも、簡易トイレやカンパンを買い込み、介護している親を逃がすためストレッチャーを買った近隣のおばさんのほうが、よほどしっかりしていると思う。

(渋谷三七十)