凄い時代だった。政治的抗議のために焼身自殺したフランス人女性、フランシーヌ・ルコントを題材にした、反戦歌『フランシーヌの場合』が80万枚を超えるヒットなり、テレビのベストテン番組で歌われていたことが、まず驚きだ。そして、歌っていた新谷のり子は、成田空港反対の闘争現場である三里塚に通っていた。
そんな時代の真ん中にいた、新谷のり子、はしだのりひこ、みなみらんぼう、PANTAが、『この人に聞きたい青春時代2』(鹿砦社)で、熱く語っている。
1978年、子供の頃から歌が得意だった新谷のり子は、新橋のジャズスポットで歌っていた。反戦デーの日に、帰りに見に行こうと新宿に行くと、機動隊とのぶつかり合いの後で、学生たちがヘルメットをぶら下げて歩いている。
それから興味を持ち集会に行くようになり、翌1969年3月30日に三里塚に行く。奇しくもそれは、フランシーヌが焼身自殺した日だった。
それから3カ月後、新谷のり子は『フランシーヌの場合』を歌ってヒットさせる。その後も三里塚に通い、空港反対の農民の農作業を手伝った。
だが転機が訪れる。三里塚闘争を支援している動労千葉のストライキで、新幹線が停まったのだ。それで修学旅行に行けなくなった子供たちがいる、というのを知って、「人を大切にしていないじゃないか」と新谷は思ったのだ。
しばらくの間、歌う意味を見失っていた新谷だが、その後は政治意識を取り戻し、北朝鮮、韓国、パレスチナなどでも歌っている。
はしだのりひこも、そんな時代の真ん中を生きた。はしだのりひこ、加藤和彦、北山修で結成されたフォーク・クルセダーズは、『帰ってきたヨッパライ』という不思議で愉快な歌を大ヒットさせてデビューした。
だが、第2弾の『イムジン河』が、東芝レコードにより発売自粛の憂き目に会う。
事前に歌の内容を知った、公安、内閣調査室、警視庁が来て、やんわりと圧力をかけたのだ。
イムジン河(臨津江)は、北朝鮮と韓国を分かつ軍事境界線の近くを流れる河。フォーク・クルセダーズの歌は、とうとうと流れるイムジン河、それを超えて自由に飛んでいく鳥を歌うことで南北分断の悲劇を浮き彫りにしている。しかし北朝鮮で作られた原曲は、北の鳥は自由で幸せだが、南の土地は荒れ果てている、と北を称える歌だった。原曲通りに歌うべきだと水面下で朝鮮総連が主張して、国際問題になりかねなかったのだ。
レコードは発売されなかったが、コンサートでは『イムジン河』は歌い続けられた。
時が経ち、北朝鮮、韓国、両方の籍の在日が集まるコンサートでは、特別にせがまれて歌った。
あちこちで肩を組み、円陣を組んで、こぶしを突き上げて、「オモニー」「アボジー」と叫んで、歌に応えたという。
「銃をとれ」と歌って、1枚目2枚目ともアルバムが発売禁止になったのは、PANTAのバンド「頭脳警察」だ。
『赤軍兵士の歌』を初めて歌ったのは、過激セクト・中核派の政治集会。竹竿でぶつかり合うセクト同士の内ゲバの現場に、こっそりと登場し、見ていて弱い方に加勢したこともあった。
『KISS』『唇にスパーク』などスウィートなアルバムも出しながら、歌い続けてきたPANTA。警視庁のOBと談笑していて、「エルベの友よ!」と抱きつかれたことがある。
立場は違っても、同じ時代を戦ってきた同胞意識のようなものがあるという。むしろ、何もやらなかった奴は信用できない、という感覚があるのだ。
『ウイスキーの小瓶』で29歳で歌手デビューした、みなみらんぼう。それまでは、ラジオの台本を書いたり、作詞・作曲などをしていた。『ウイスキーの小瓶』も中村雅俊に書いた歌だったが、ひょんなことから自分で歌うことになり、ヒットした。
32歳の時に出したのが、『途上にて』。一歩でも半歩でもいいから、前に行かなくちゃいけない。後ずさりになるかもしれないけれど、気持ちだけは前向きに持っていなければいけない。そんな思いで、今でも『途上にて』を歌うという。
皆、今でも途上。青春時代は続いている。
そんな思いを共有したいあなたに、ぜひ手に取っていただきたい。
(FY)