安倍内閣は「人質の身代わり」に大臣を派遣すべし!

人質処刑のタイムリミット過ぎたが、本稿執筆現在までのところ悪い知らせは届いていない(1月24日に人質の一人、湯川遥菜さんが殺害されたとされるビデオ映像が動画サイトに投稿されたものの真偽は未確定)。条件や交渉内容はどうであれ人質の解放が切に望まれる。

そして、日本政府が思い知るべきは、今回安倍が5億ドルの「対テロ支援」を宣言したことにより、このような事件が引き起こされたという教訓である。

安倍は「いや、あれは人道支援だ」などと、この期に及んで言い訳しているが「このような過激集団には毅然と対応する」と事件直後に語っていたではないか。その時の安倍の内心は「よっしゃ! 思ったより早く仕込みが効いてきたわい」ではなかったか。もう取り返しはつかないけれども、国際政治で「敵」をわざわざ作り出すような愚かな行為を繰り返さないことだ。

日本国内でも安倍の気まぐれな「対テロ支援」については批判が高まっているし、人質解放に向けて際立った判断や交渉が進展しているふしはない。欧米列強も口では「支援」と言ってはいるけども内心「日本の事は日本で解決しろ」という態度が見て取れる。特に米国の日本無視は露骨だ。

◆「安保と危機管理」に精通した石破国務大臣を人質の身代わりにしてはどうか?

そこで、私は「イスラム国」も必ず飲む交渉方法を提案する。

石破国務大臣 (地方創生・国家戦略特別区域担当)を2人の人質の代わりに差し出すのだ。そうすれば交渉の時間は稼げるし、いくら武装勢力とて「簡単」に現役の大臣を処刑することは出来ないだろう。何故石破氏かと言えば、彼こそは最近の政権右傾化と軍事化を先頭でけん引してきた人間であるからだ。国防の重要性やテロの危機を常に口にして防衛大臣の椅子にも座った。本音を言えば「安倍本人を」と言いたいところではあるが、さすがに首相自らが現場を離れることは難しかろうから、大臣が適任だ。

即だ。石破氏をシリアに飛ばすのだ。石破氏は嫌がりは出来まい。これまで散々「テロの危機」を説いてきたご本人だ。その危機に対応するのは政治家としての道義的義務でもある。心配しなくとも「地方創生」の仕事など、石破氏は実際には何の興味もないのだし、彼がいなくともがなくとも代わりはい幾らでもいる。「戦争」や「テロ」を語るからには現場に赴き自分が体でその緊張感と現実を体験してくるのが何よりの勉強ではないか。「軍事オタク」としても戦場で人質になる、これ以上、刺激的な体験があろうか。

◆安倍自民は「よど号」ハイジャック事件に学べ!

私の提案は荒唐無稽に聞こえるだろうか。でも同様の人質交換には前歴がある。1970年赤軍派による「よど号」ハイジャック事件の際、ソウル金浦空港で膠着状態に陥った機内に民間人の人質に代わり、単身乗り込んでいったのは山村新治郎議員だった。彼が一人で人質となり「よど号」はソウルを離れそのまま朝鮮に飛んでいった。山村氏は朝鮮で数日を過ごしたが帰国し、春日八郎が「身代わり新太郎」という歌まで歌ったほど、一気に時の人となった。

どうだ。この歴史を見れば石破氏には「世界のイシバ」と名をはせる絶好のチャンスではないか。また、安倍も本心では石破を嫌っているから、最悪石破が銃殺されても「心外だ。石破氏の死を無駄にはしない」と一応沈鬱な顔で語ればいいだけの事で、目の上のたんこぶを除去できるではないか。おまけに武装勢力の恐ろしさもさらに誇張できる。これぞ誰もが損をしない最高の解決策ではないか。

冗談に聞こえるかもしれないけれども、武装勢力を敵に回すということはそういうことだ。少なくとも彼らはこれまで日本を敵視はしてこなかった。これは「イスラム国」に限らず「タリバン」しかり、あるいはアラブ諸国全般に言えることだ。日本は欧米と親密でありながら、アラブの側は日本を欧米と同列に扱ってはこなかった。とても幸いだったのだ。

ところが、この僥倖もまたしても安倍の愚劣な思い付きにより、破綻を見ることになった。安倍自身が言うようにこれから日本人を狙った同様の攻撃は増加するだろう。日本自身が「あなたたちに敵対します」と宣言したのだから仕方がない。

安倍! お前はどうやって責任を取れるというのだ!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

◎「イスラム国」人質事件で見えてきた「人命軽視」の安倍外交
◎2015年日本の現実──日本に戦争がやってくる
◎「シャルリー・エブド」と「反テロ」デモは真の弱者か?

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《大学異論29》小学校統廃合と「限界集落化」する大都市ニュータウン

文科省は1月19日、公立小中学校の統廃合に関する手引き案を公表した。小学校は6学級以下、中学校は3学級以下で統廃合するかどうかの判断を自治体に求めるという。

このコラムでは日頃、大学の問題を中心に論じているが、少子高齢化は当然初等教育にも大きな影響を与えている。紹介した文科省の手引き案で言われる所の、小学校6学級とは、1学年に1クラスしか構成できない児童数を意味する。

◆児童数が激減する大都市郊外の巨大ニュータウン

都市集中で過疎地や限界集落にはそのような小学校があろうとぼんやり考えていたが、意外な場所にも児童数激減小学校があった。

それは多摩(東京)、千里(大阪)、高蔵寺(愛知)などの「ニュータウン」と呼ばれる地域だ。ニュータウンはこの3つに限ったわけではなく、全国に規模の大小はあれ、点在する。

そこで今、凄まじい人口減少が進行している。その結果ニュータウン内の小学校は児童数が激減し、既に廃校になった小学校も出てきた。ニュータウンはかつての住宅年整備公団が開発運営をしていたが、賃貸の団地が地域の多数を占める。

大規模ニュータウンの開発は1960年代終盤から始まり、全盛期にはニュータウンだけで、市が構成できる程の人口が溢れていた。小学校は1学年5クラス、6クラスは当たり前で、それでも児童を収容出来ない小学校が続出し、運動場の隅や校舎の間にプレハブ校舎が建てられた。

当然いつまでもそんな環境で子供に勉強させるわけには行かないから、新しい小学校が開校する。そうやってニュータウンは人口減など想像もせずに学校を増やしていった。

しかし、居住面積の割に高額な家賃、また設備の老朽化などが嫌われ、バブル辺りから団地には空室が目立ち始める。その後も人口減少に歯止めがかからず、現在は最盛期の4割程の居住者しかいない団地も珍しくない。当然、子供の数も大幅に減る。

◆3000名近くいた児童数が300名以下に激減!

私自身が数年間通ったニュータウンの小学校は当時1学年最低5クラスあり、総児童数は1000名を超えていた。だが昨日調べてみたら、なんと2年前に児童数減少で閉校していた。お隣の小学校に吸収されたようだが、それでもようやく各学年2クラス維持できる児童数しかいないようだ。

かつて2つの小学校で3000名近くいた児童が今では300名もいないわけだ。少数精鋭で教育できると言うプラス面もあろうが 、あまりに急激な人口の増減である。

小学校は児童数が減っても、教育ができないわけではない。でも街としてのニュータウンはもう限界近いだろう。空室だらけの団地は気持ちのいいものではない。安全面からも問題が多いだろう。

ニュータウンへ引っ越した後、幼ごころに感じたものだ。
山を切り開きコンクリートの団地を立てた地面からは、土地のすすり泣きが、切り開いた山に再度植えらえた街路樹からは、動物園の檻の中にいる飽きらめきった動物の哀愁のようなくぐもった声が。

新興住宅街とはそんなもんだよ、と思われるかもしれないが、ニュータウンの無機質ぶりは、人が長く住めるそれではなかった。結局、私の通った小学校は42年で閉校したそうだ。ニュータウンも人口減と高齢化が進展し、かつての新しい街が過疎化に苦しんでいる。

人間の歴史は400万年位らしい。あちこち移動しながら住みやすい場所に落ち着いていったのだろう。落ち着くにあたっては試行錯誤があったのだろう。何も古い街が優れていると言いたいのではない。古い街にだって過疎は起きているし、高齢化は全国的現象だ。ただニュータウンは余りにも乱暴をしすぎた為に街自体の寿命が極端に短かったのだろう。

利便性や経済性への配慮はあっても、人間の営みヘの視点が欠けていた。

それは今日我々の生活に通底することでもある。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

《大学異論28》気障で詭弁で悪質すぎる竹内洋の「現状肯定」社会学
《大学異論27》「学ぶ権利」を奪われたマスプロ教育の罪──私的経験から
《大学異論26》「東大は軍事研究を推進する」と宣言した濱田純一総長声明文
《大学異論25》ロースクール破綻の無策と「裁判員裁判」の無法
《大学異論24》日本テレビが喧伝する「箱根駅伝」の不平等
《大学異論23》青山学院大学──経営者自らがぶち壊す「青学ブランド」

【復刻新版】近兼拓史『FMラルース 999日の奇跡』発売!

 

 

「イスラム国」人質事件で見えてきた「人命軽視」の安倍外交

イスラム国は、日本人人質2名を条件を飲まなければ処刑すると宣言した。前日に安倍が、中東諸国に25億ドルの援助を発表した直後の発覚だった。

しかし人質にされている方は昨日今日に身柄を拘束されたわけではなく、昨年来イスラム国側から保釈の条件を交渉するメールが御家族に届いていたという。御家族はもちろん政府に相談をなさっていたようだが、結果的に政府は身柄釈放に配慮することなく、イスラム国への宣戦布告に等しい周辺諸国への多額の援助を発表した。

◆「命」を救う気があるのか?

私は不思議なのだが、首相とはいえ25億ドルもの援助を事前に国会や政府の了解がなくとも勝手に決めても問題はないのだろうか。巨額の援助は外交政策だけでなく、予算にも関わる事項ではないのか。

何よりも昨年来、身柄を拘束されている方の「命」について何らかの戦略や配慮があるのだろうか。

ジャーナリストでイスラム国と独自のパイプを持つ常岡浩介氏は、人質解放のチャンスはあった、と述べている。もっとも常岡氏自身が大学生がイスラム国へ参加を計画していた嫌疑の協力者との咎により日本政府によりパスポートを没収されているそうで、動きが取れなかったようだ。

私は安倍が中東への対テロ対策援助を発表した時点から、安倍は意識的にイスラム国を刺激したがっているなと感じていた。そしてそれは現実のものとなった。イスラム国は人質開放の条件として中東援助と同額を支払え、と要求している。

武装勢力による人質事件の場合、解決には当事者同士ではなく、仲介役が大きな役割を果たす場合が多い。仲介役は表立って名前を出す時もあるけども、全く報道などに名前を出さないこともある。

日本政府は「英国や欧州の国と情報交換を行って」などとほざいているが、イスラム国からすれば、それらの国はいずれも敵国だ。素人目には全く成果が望めないのではと考えてしまうが、安倍や外務官僚には秘策があるのだろうか。

◆イスラム国から敵視されていない交渉役を抜擢せよ!

安倍は一応、人命尊重と口にはしているけれども、その前後の文脈から人質の命についての真剣味は感じられない。安倍は最初から、過激主義とイスラム教は違う、など的外れも甚だしい無知を毎日のように披歴しているけれども、私は訝る。

安倍の本心はイスラム国による邦人の犠牲者を期待しているのではないか。国内でもテロを警戒するよう指示したというが、その原因を作ったのは誰だ? テロが起これば軍事化へ向けた格好の口実に利用できる。安倍はテロを期待してはいまいか。

イスラム国の本質について私は正確な分析を行う情報を持ち合わせていない。しかし、自分がイスラム国の人間であれば、と仮定して考えれば自ずと展開は予想できる。

今、常岡さんやイスラム国に繋がりがある同志社大学客員教授の中田考さんが交渉役を担っても良いと表明している。人質の解放を望むなら彼らに交渉を依頼すべきではないか。

少なくとも彼らはイスラム国からは敵視されていない。彼らを猜疑的に疑い、前述の大学生がイスラム国参加問題が起きた時二人の自宅を家宅捜索したのは、日本の警察だ。

無能な外務官僚や安倍より交渉に於いては期待できる方々だろう。だが、それを政権が許容するだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

2015年日本の現実──日本に戦争がやってくる
「シャルリー・エブド」と「反テロ」デモは真の弱者か?
なぜテレビはどこまでも追いかけてくるのか?

《大学異論28》気障で詭弁で悪質すぎる竹内洋の「現状肯定」社会学

前回の記事で「マスプロ教育」私的経験、「心理学」を担当していた高橋某を引き合いに出した。さて本丸はこの男、「竹内洋」である。

竹内は関西訛りが全くなかったので調べてみたら、東京生まれの佐渡島育ちらしい。1942年生まれだが現在でも写真を見ると年より若く見える。彼の講義を受けたのは約30年前になるが、そういえば「ぼんぼん」の如き顔つきと振る舞いだった。

竹内洋=関西大学東京センター長

◆80年代の大学時代に感じた竹内洋の「現状肯定」主義

竹内は我々の1年次「必修科目」である「社会学」の後期担当だった。前期の担当は徳岡秀雄でこの方は堅実に「社会学」の基礎を語って頂いた記憶がある。真面目一直線で面白味はないけども、彼に教室で教わった学術用語の深みを今でも記憶してるので実直な方だったと思う。

それに対して竹内は「ハイカラ」さんだった。自分のことを「ボク」と称し、こんなところに英語必要なのか?と思うほど話に横文字が多用された。

「つまりさ、ボクの言ってるササイエティーっていうのは、ポピュラーな意味でのそれとはだいぶ違うんだよ。コンセプトのコンフリクトを除外したらメークセンス出来ないんだよ」

ってな具合で、巨人の長嶋が知ってる限りの英単語を多用してカール・ルイスに話しかけたのと少し似た(勿論竹内の英語力を長嶋と比較するのは失礼だけれども)「竹内ワールド」が展開されていた。

でも「竹内ワールド」時々見落とせない片鱗を表出してもいた。彼は様々な社会的制度を例に挙げ、それを彼なりの解釈で読み解いてゆくことを独自の話法としていた。旧来の社会学者の見解を紹介しながらも最後には実に個性的な解釈で事象を解読するのだが、私にはその結論のほとんどが「現状肯定」に落ち着いているように聞こえて仕方がなかった。ある時竹内は「共通一次試験」について語った。今日の「センター試験」と名称を変えた統一大学入試の原型だ。

「ボクはさ、『共通一次』って可愛そうだと思うんだ。だってね導入された時から批判されることが分かりきっていたんだから」

はて、何故かわいそうだのだろうか?と私は彼の真意を理解しかねた。今日の「センター試験」は国公立だけでなく、広く私立大学も利用している。竹内が語った「共通一次」への批判とは「全国の国公立大学受験者が、異なる大学を受験するのに同じ試験を受験しなければならないのは、大学の個性を無視するのではないか。また私立大学の存立の意義に立ち返れば『入試』を『統一試験』に頼るなど、建学の精神を異にする大学間で理念的に可能であるはずがない。文部省(当時)はいずれ私立大学支配の足掛かりに私立大学へも『共通一次』への参加を迫って来るのではないか」という懸念だった。

当時の懸念は、不幸なことに見事すぎるほど的中してしまっている。私立大学で「センター試験」を全く利用しない大学の方が現在では少数になってしまった。竹内が「可愛そう」と言ってみせた「共通一次」はとてつもない成長をとげ、弱小私立大学に重荷を背負わせることになっている。

◆安全地帯から一歩も出ない学者論法

ことほど左様に竹内の論法は紆余曲折した挙句、現状制度を何らかの方便で擁護する、あるいは暗にではあるが革新的な言辞への批判が込められていた。竹内が巧妙なのは「時代」をしっかり認識して、危険を冒さないところだった。その竹内は21世紀に入り小泉が首相に就いたあたりから、本性を見せ始める。『丸山真男の時代 大学・知識人・ジャーナリズム』 (中央公論新社、2005年)ではまだおとなしく、昔ながらの竹内論法から大きく離れてはいなかったけれども、『革新幻想の戦後史』 (中央公論新社、2011年)では旧来の回りくどさを排除して、革新勢力への総合的な批判を展開するようになる。

私は革新勢力全体を支持するものではないが、2015年1月を生きている身としては、革新勢力が懸念、抵抗していたしていた数々砦が崩壊する姿を安穏と無視できない。現政権権力が行っている政治、あるいは改憲と戦争へ加担する勢力は極めて悪辣だと誇張なく感じる。のっぴきならない時代だ。

30年前から今日的危機の萌芽を竹内はちらつかせていた。自身は常に安全閾に止まりながら。

◆格差社会の現実を「フラット化」、「権威なき時代」と呼ぶ詭弁

そして、行き着くところがこの1月5日の京都新聞朝刊に掲載された「戦後70周年を語る」シリーズにおける、竹内による「日本は限りなくフラット化する社会になっている」だ。

竹内は「昨年11月の衆議院本会議で、議員の万歳三唱をやり直す場面がテレビに映し出された。議長が『日本国憲法第7条により、衆議院を解散する』と解散勅書読み上げ、天皇陛下の署名と公印を示す『御名御璽』という前に、万歳三唱が始まったからだ。戦前ならば考えられない光景だ」と述べ、次いで「議員たる人たちが与党も野党もそろっていた。特別な意識はなかったと思うが、天皇でさえも、さらっと流されてしまう。ヒエラルキーなき、権威なき時代になった」のだと言う。

そうだろうか? 国会解散の際の「万歳三唱」は馬鹿げた習慣だ。にしても「解散」となると与野党問わずに「万歳三唱」は毎度行われる。その意味するところは竹内が指摘するように「解散勅書」、すなはち「天皇」の命を受けての「万歳」である。少なくない数の議員と一部(いや、かなりか?)や国民は、ただの習慣でまたは「またここに帰ってこよう」との意味で万歳をしていると誤解しているが、そうではない。あの万歳は「天皇陛下万歳」に他ならない。

だから「万歳三唱」自体が極めて反動的な行為なのだが、その「フライング」をやり直した光景を見て竹内は「ヒエラルキーなき、権威なき時代になった」と言う。ここだ。竹内流詭弁の骨頂だ。

議員の中には万歳の意味を知らぬ人間が多数いる。だから万歳の「フライング」が起きたのだろう。にしても、「万歳三唱」をやり直させた議長の行為を竹内はどう解説するのだ。天皇の「権威」に慮った伊吹文明(衆議院議長)がやり直しをさせたのではないのか。国会における前代未聞の「天皇」への忠誠行為=万歳三唱のやり直しと見るのが素直ではないか。なにが「ヒエラルキーなき」だ。これほど露骨な国会における「天皇制」の露出はないではないか。これ以上ない「ヒエラルキー」を目にして「天皇さえもさらっと流されてしまう」と語る竹内は単なる詭弁使いではないようだ。

更に竹内は言う。

「一方、論壇では天皇制に対する批判が起こり、天皇制こそが戦争の元凶であり、あがめるシステムこそ問題だとする考えが主流を占めた。戦前の天皇制について丸山真男は『無責任の体系』だと厳しく批判し、大きな影響を与えた。そうかといって庶民感覚からすれば、『天皇制』という言葉さえ受けつけにくい。どちらかと言えば『孤独でおかわいそうな存在』だったのではないか。論壇は草の根の感情を捉えきれなかった」そうだ。

長年本音を隠してきた悪人が本音を吐露するとこういう言葉になるのだなと、大学1年次に感じた違和感の完成形を目にして得心が行った。

「庶民感覚からすれば『天皇制』という言葉さえうけつけにくい」というが、ここでの「庶民」は一体どの時代、どの地域の庶民を指しているのか。竹内は調査や研究の結果を一切示さずに断言している。全く根拠なき独断的な決めつけには呆れるほかない。竹内は学問の世界に長く身を置き「京都大学名誉教授」の肩書を持つ人間なのだから、論理の整合性や論拠の重要性は知っているはずだ。学者という者は根拠を示して論を展開しなければ相手にされない世界であることは基本中の基本。それを30年前に教壇から私たちに説いたのは他ならぬ竹内だったではないか。

しかし、ここで竹内が述べている天皇制に関する「感想」は軽薄な評論家が軽々しく語っている程度の説得力も持ち合わせない。

私は幼少の頃より祖父母や両親、あるいは多くの年長者から戦争中の話、「天皇」あるいは「天皇制」の話は何度も聞かされてきた。また同世代の人間と「天皇制」について議論を交わした。私は自分が「庶民」だと思っていたが竹内の論によると私や私の関わってきた人々は「庶民」ではないことになる。

また、今の天皇はともかく明治憲法下太平洋戦争の最高司令官であった「昭和天皇」の戦争責任は竹内がのんびり語るほど悠長な問題だったのか。竹内の本音はこれに次ぐ文章で完成を見る。

「天皇への人々のまなざしは理屈で割り切れない感情という側面があった。日本には、主体的に自分の頭で考える理念があまりなかった」

「日本には、主体的に自分の頭で考える理念があまりなかった」と仰せられるが、かなり覚悟をして腹を括らなければ吐けない挑発的発言だ。これを読んで民族派右翼の諸君は立腹しないだろうか。「昔の日本人は馬鹿だった」と言っているのに等しい。これこそ本来的な意味で「自虐史観」じゃないのか。また「天皇へのまなざし」は明治維新以降天皇が「現人神」との強制に基づくものであるという事実への視点が竹内には決定的に欠如している。「天皇制」は自然現象ではない。「富国強兵」を進めようとした明治政府が方便として持ち出した「神話」を根拠とする「国家宗教」だったことは誰でも知っている。いわば国家的カルトだ。

「理屈で割り切れない感情」などと竹内はお気楽に解釈するが、反抗すれば命を落としかねない権力構造(三権の長を天皇と定めた明治憲法)と法体系(大逆罪、治安維持法)の中で育ったのが「天皇制」である。実際大逆罪で死刑にされた人間が少なからずいることを竹内は知らないわけではあるまい。「理屈で割り切れない感情」とは敗戦後もその「洗脳」が解けず、後遺症が様々な形で残存してしまった「天皇制PTSD」と言い換えた方がいいのではないか。

竹内によれば「日本は限りなくフラット化する社会になっている」そうだ。所得格差が広がり、差別が平然と横行し、アジア諸国を罵倒する言辞が横行するこの時代。「反日」という言葉(「非国民」と言い換えられる)が若者の間にもあふれる時代が「フラット化する社会になっている」らしい。

合掌

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

《大学異論27》「学ぶ権利」を奪われたマスプロ教育の罪──私的経験から
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1.17と3.11は忘れない──鹿砦社の震災・原発書籍

 

《大学異論27》「学ぶ権利」を奪われたマスプロ教育の罪──私的経験から

大学に進学する学生に学習意欲があろうがなかろうが、大学が学生の「学ぶ権利」を奪ってはいけない。が、近年は少なくなったものの大規模大学や学生数の多い学部を持つ大学では、時に大学側から学生の「学ぶ権利」を奪うに等しい「ズル」が行われる。

教室の収容定員を大幅に超える履修者を配置すると学生の意欲は短期間で低下する。やかましくて講義を聴くどころではなくなるからだ。私は学生として、また大学職員としてこの「定員オーバー」講義に直面した。職員の立場からすれば、大学側が言い訳をしたくなるケースもない訳はない。選択科目で予想をはるかに超える履修者が偏ってしまい、他に使える教室がない場合はやむを得ず「定員オーバー」の教室を配当することしかできない。学生には申し訳ないと思いつつも他に手の打ちようがない。

◆定員オーバーの教室で「講義を静かに聞け」の無茶矛盾

だが逆もある。悪質なのは最初から履修者数が教室の定員を上回ることを承知で、しかも「必修科目」(卒要するためには必ず取得しておかなければならない科目)を「定員オーバー」の教室にあてがう行為だ。「必修科目」は1年次に配置されていることが多いので、入学間もない学生は真面目に教室へ足を運ぶ。そこには出勤時間の満員電車のような混雑が待ち受けている。詰めて座っても到底全員は席に就けない。それどころか立ち見の学生も同じ場所に立っているのがままならず体がぶつかり合う。

そんな状況で「講義を静かに聞け」と要求するほうが無茶だ。またどうあろうとも教室に収まらない学生の講義を担当させられた教員も気の毒と言えなくもないけれども、やはり被害者は学生である。

私の学んだ学部は「社会学」と「心理学」が1年次の「必修科目」だった。収容定員300名の教室に400名以上の学生が詰め込まれた。もっとも「必修科目」と言っても毎回の出席が取られるわけではなく「試験だけ通れば単位が取れる」と学生達が知るに従い教室の混雑は解消されていくのであるが、「全員学ぶように!」と大学が決めておきながら、まともに学べる環境を意図的に提供しなかった大学の姿勢は褒められたものではない。

◆学生の私を幻滅させた「心理学」「社会学」大講義のお粗末さ

しかもだ。その講義の内容が見事にお粗末だった。

まだ真面目な学生だった私は「心理学」、「社会学」とも初回から最終回まで欠かさず出席した。両科目とも前期と後期を別の教員が担当する形式だったが忘れられない教員が2人いる。「心理学」の前期担当で元少年刑務所の所長などを歴任していた高橋某(正しい名前は失念)という男と、後期「社会学」の竹内洋だ。

前置きが長くなったが、本音を明かすとこの二人の批判を書きたくてウズウズしていたのだ。だが彼らの講義がどんな状況下で行われたかも知っておいて頂きたかった。メインターゲットは竹内なのだが竹内は今日に至るも言論活動を続けている。竹内は近く徹底的に叩くこととして、名前を出したから高橋某の事に触れておこう。

高橋はヒステリックだった。初回講義で教室に入って来るなり「うるさーい!、だまれー!」と叫んでから講義を始めた。確かに教室はうるさい、というよりも押し合いへし合いだからざわついている。でもそれは学生の責任ではない。文句があるなら彼は教授会で問題を指摘すべきだった。怒鳴りつけられた学生の方が「なんでやねん」という気分だった。こんなに受講生がいるのであれば、クラスを2つに分けるなり時間をずらして同じ講義をするなりの対応を何故とらないのか、とやや腹立たしかったことだけは記憶している。

高橋の講義を聴き彼の素振りを見て、行政機関上がりの心理学者の権威主義ぶりと、ゆがんだ人間性を思い知った。講義を進めながら高橋は周期的に「うるさーい!、だまれー!」と叫ぶ。その言葉以外は決して喧騒を咎める言葉を口にしない。「話したいんだったら教室の外で話せ」とか「静かにしなさい」だとか言い回しは他にもありそうなものだが、十数分毎に突然発作のように「うるさーい!、だまれー!」と叫んだあとはまた何事もなかったかのように淡々と話を続けていくのだ。同じ言葉を叫ぶことが彼にとってはカタルシスになっていたのだろうか。精神科医に診せれば何らかの病名がついたことだろう。

◆自慢話と勘違いばかりの「心理学」講義が学生を絶望に誘う

高橋には自慢話があった。歴史的政治テロ事件として有名な社会党党首浅沼稲次郎が講演中に刺殺された事件の犯人、山口二矢(おとや)が逮捕された後、高橋が所長を務める東京少年鑑別所に送られてきたそうだ(匿名報道の観点から山口の名前の扱いにつては議論があろうが、もう有名なので実名にしておく)。大江健三郎が山口を主人公に描いた「セブンティーン」は高校時代に読んでいたので、この時は珍しく高橋の話に興味がわいた。

高橋は「こういう事件を起こした少年は自殺をする傾向があるから注意深く見守っておくように」と部下に指示を出したそうだ。だがご承知の通り山口は首を吊って自殺してしまっている。不思議なことに高橋は山口の自殺を防止できなかったことを少しも後悔していなかった。それどころか「自分は適切な指示を出したのに、現場の人間が不出来だった」と語り「どうだ、私は人を見抜く力があるだろう!」とばかりに神経質そうな顔をこの時ばかりはにやつかせ、眼鏡をかけた痩身が教壇の上で胸をはった。何という神経の持ち主か。こんな性格の人間が所長を務める少年鑑別所の中の地獄模様を想起せずにはいられなかった。

また高橋は「毎日5合ほど酒を飲んでいると必ず目の前に虫が飛ぶような幻覚を見るようになる」と頻繁に口にしていた。左党に聞かせたら「何をあほゆうとんねん」と一蹴されるだろうが高橋はそう信じていた。高橋は下戸だったのだろう。もしくは酒に絡んだ嫌な思い出があったのか。

どちらにしても、学生の学習意欲を削ぐために準備されたのではないか、と訝らざるを得ない教員と教室環境だった。高橋の講義を聞いて「心理学」に幻滅した学生は少なくなかったろう。「心理学」だけでなく「大学」そのものへの絶望を誘うに十分な「必須科目」であった。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

《大学異論25》ロースクール破綻の無策と「裁判員裁判」の無法
《大学異論24》日本テレビが喧伝する「箱根駅伝」の不平等
《大学異論23》青山学院大学──経営者自らがぶち壊す「青学ブランド」

1.17と3.11を忘れない!鹿砦社の原発・震災関連書籍

 

 

詩人・中山容さんから聞いた京都「ほんやら洞」奇跡の物語

1月16日未明に京都にある老舗喫茶店「ほんやら洞」が全焼した。京都新聞は被害者が出ていない喫茶店の火災を扱う記事としては異例ともいえる扱いで、1面と社会面へ大きな記事を掲載している。

「ほんやら洞」は1972年に開店した。詩人や歌手、学者が集まる場所で、京都だけでなく全国へ様々な文化発信を行っていた。近年は大きなニュースを聞くことも少なくなっていたけども、その名を聞いて懐かしく思う人は少なくないだろう。京都では京大西部講堂と同様の存在感を長年維持していた。

私はといえば行きがかりで2、3度店に入った事はあるものの、ただそれだけの繋がりしかなかった。でも「ほんやら洞」を創立した人々とは職場が同じだったこともあり、様々な話を聞かせてもらっていた。

◆中山容という素敵な詩人

もう亡くなったけれども中山容という詩人がいた。彼は私の勤務していた大学の教員だった。眼鏡をかけて口髭を生やし、ちょっと前かがみに歩く。私が就職したとき彼は学部長を務めていた。こういっては失礼だが、「指導力」や「政治力」ましてや「政治的野心」とは全く縁のない彼が教授会で司会をこなすのを見ているのは本当にかわいそうだった。「教授会」と言う響きは、なにか荘厳と言わぬまでもある種の権威を持った人間の会議のような誤解を導く罠が、それは間違いだと思い知った。

中山さんが学部長を務めていた学部の教授会は、毎回さながら「サファリパーク」のようだった。肉食獣や草食獣が分け隔てなく会議室に集まり、発言する教員がいても別の教員が同時に発言をする。挙手もしないでそれに対する反論や感想を複数の教員が口にする。小学校の学級会でももう少しおとなしかろうと思うほどに、騒々しく秩序がない。中山さんは大声を張り上げてなんとか議事をまとめようとするが、まとまったのか、そうでないのかもよく分からない。陪席として参加していた新人職員の私には腰を抜かしそうな経験であった。当時その学部の教員には極めて強力な人材がそろっていたのであのような会議になっていたのだろうか。

中山さんは歌手の中山ラビさんの元配偶者だか、それに近い存在だか、人には説明しにくい関係だか(本当のところ私は知らないのだけども)・・・とにかく中山ラビさんと良い仲だったことのある人だ。彼はコーヒーとタバコが大好きで、事務室にやってくると我々の机にコーヒーのカップを置き、独特のしゃがれた声と、語り口で和ませてくれた。そういえば「中山容」と言う名前は就職後数年経てから耳にした。中山さんは職場では別の姓名を名乗っていた(蛇足だが大学教員の中には彼のように「芸名」で通している人が意外に多い)。

◆タイのライブハウスで聞いた「ほんやら洞」の魔法

後年中山さんはタイに関心を持つようになり、熱心にタイ語の勉強をしていた。電車の中で単語カードをめくる受験生のよう中山さんがしょっちゅう目撃されていた。中山さんは戦後第1号のフルブライト奨学生だった。だから語学の才能は並外れていたのだろう。1年余りの学習で横で聞いていると大概の話をタイ語でこなすようになっていた。

ある時仕事で中山さんとタイで合流することになった。昼間の仕事を片付けたあとにライブハウスで時間を過ごした。「このドラムはまだ固いね。クッツクッツとこないとね」。バンドの演奏を聴きながら音楽には疎い私に中山さんはロックについてたくさん楽しい話を教えてくれた。そう、かれはやはりフルブライト奨学生だった片桐ユズル氏と共に「ボブディラン詩集」を訳した人でもあるのだ。私なんかが言葉足らずで説明しなくてもその世界では相当の有名人だ。

タイのライブハウスで「ほんやら洞」の話題になった。「いったい何をやっていたんですか?」と無知な質問をぶつける私に「そうだねー。いろいろあったねー。ああ、即興詩の朗読はいつもやってたね。岡林(信康)とか、(片桐)ユズルさんとか、(中尾)ハジメさんとかね」、「僕がここに1行書くでしょ、次に岡林が1行書くの。でまた次に僕が書いて。それで岡林がギター持ち出すと歌になっちゃうんだな、これが!」

魔法のような話だけど、そんなやり取りの中から有名なフォークソングがいくつも生まれてきたのだと教わった。「ほんやら洞の詩人たち」というCDが発売されているし、書籍にもなってる。酒は大して飲まないけれども中山さんの語りには心地よい味があり教養にあふれていた。才能のある人たちは違うんだなーと感心したものだ。

だが、中山さんは定年を待たずに癌にかかってしまった。もう手術できないほど進行していた。私が病院を私が見舞ったのは確か無くなる3日前だった。高石ともやさんと岡林信康さんが病室にいた。なんて豪華な見舞い人なんだと感心した。でも中山さんは気の毒なほどうめいていた。

「痛いよー」、「死ぬのが怖いよー」

詩人でもある中山さんだったからだろうか。「死ぬのが怖いよー」の言葉が今でも忘れられない。

洒落てて、威張らなくて、女性に優しいく、コーヒーとタバコを愛した中山さんが亡くなって10年以上たつ。

全焼した「ほんやら洞」を見たら中山さんは何というだろうか。

「あーあ。焼けちゃったね。でも怪我人がいなくてよかったよな。何とかなるよ。な、そうだろう」

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

《大学異論26》「東大は軍事研究を推進する」と宣言した濱田純一総長声明文
《大学異論25》ロースクール破綻の無策と「裁判員裁判」の無法
《大学異論24》日本テレビが喧伝する「箱根駅伝」の不平等
《大学異論23》青山学院大学──経営者自らがぶち壊す「青学ブランド」

1.17も3.11も忘れない!鹿砦社の震災・原発書籍

 

 

《大学異論26》「東大は軍事研究を推進する」と宣言した濱田純一総長声明文

東京大学総長の濱田純一は1月16日以下の声明を発表した。
下記やや長いが、後世歴史的に重要な文章となろうから敢えて全文を引用する。

◎東京大学における軍事研究の禁止について(広報室)

濱田純一=東京大学総長

学術における軍事研究の禁止は、政府見解にも示されているような第二次世界大戦の惨禍への反省を踏まえて、東京大学の評議会での総長発言を通じて引き継がれてきた、東京大学の教育研究のもっとも重要な基本原則の一つである。この原理は、「世界の公共性に奉仕する大学」たらんことを目指す東京大学憲章によっても裏打ちされている。

日本国民の安心と安全に、東京大学も大きな責任を持つことは言うまでもない。そして、その責任は、何よりも、世界の知との自由闊達な交流を通じた学術の発展によってこそ達成しうるものである。軍事研究がそうした開かれた自由な知の交流の障害となることは回避されるべきである。

軍事研究の意味合いは曖昧であり、防御目的であれば許容されるべきであるという考え方や、攻撃目的と防御目的との区別は困難であるとの考え方もありうる。また、過去の評議会での議論でも出されているように、学問研究はその扱い方によって平和目的にも軍事目的にも利用される可能性(両義性:デュアル・ユース)が、本質的に存在する。実際に、現代において、東京大学での研究成果について、デュアル・ユースの可能性は高まっていると考えられる。

このような状況を考慮すれば、東京大学における軍事研究の禁止の原則について一般的に論じるだけでなく、世界の知との自由闊達な交流こそがもっとも国民の安心と安全に寄与しうるという基本認識を前提とし、そのために研究成果の公開性が大学の学術の根幹をなすことを踏まえつつ、具体的な個々の場面での適切なデュアル・ユースのあり方を丁寧に議論し対応していくことが必要であると考える。

平成27年1月16日
東京大学総長 濱田純一

[東京大学広報室の2015年1月16日掲載「お知らせ」を全文引用転載]

この持ってまわった言い回しは「東大話法」(安冨歩言うところ)の典型であり、浜田純一の得意とする詭弁でもある。あれこれいったい何が言いたいのか、本当の所はどうなのか、と煙に巻きながら結論は「軍事研究を推進します」と言う宣言に他ならない。

◆あまりに支離滅裂な濱田総長声明の「非論理性」

あまりに支離滅裂で、矛盾を全て指摘していると長くなり、読者には退屈だろう。だからこの文章の「非論理性」を象徴している一部だけを指摘しておこう。

「軍事研究の意味合いは曖昧であり」

と濱田は言う。そんなことは全くない。軍事研究は軍事研究に他ならずそれ以外の何物でもありえない。誰にでも分かる極めて自明な事柄を平然と歪曲している。

「学問研究はその扱い方によって平和目的にも軍事目的にも利用される可能性(両義性:デュアル・ユース)が、本質的に存在する」

これは一面事実ではある。科学技術、工業技術は最終的な完成品が何であるかによって、その性格付けがなされる。だから、平和に与するための科学はより慎重でなければならないとこれまで明確に「軍事研究」の禁止を建前にしていたものを、こともあろうに危険極まる「両義性」を理由に「どっちかわからないんだから軍事研究をしてもいいじゃないか」と開き直っているのだ。

東大が平然と軍事研究を行うと宣言したからには、おこぼれにありつこうとこれから雑魚どもが後に続くだろう。解釈改憲、有事法制の悪質な準備、そして大学における「軍事研究」の明確な開始宣言。悪くするとあと5年で徴兵制導入もあながち絵空事ではなくなってきた。

◆2012年3月の質疑応答で感じた濱田総長への不信感

総長一人でこの決定をしたわけだはないだろうけれども、私には濱田に対する決定的な不信感が以前からある。濱田は大学の秋入学実施を提言してみたり、目立ちたがりの人間であるが、研究者としての業績は極めて少ない。確かに話をさせるとなかなかの詭弁使いではあるけれども、その詭弁も以前から「これが東大総長のレベルか」と聞いている方が情けなくなる内容だった。

2012年3月3日東大で「日本マス・コミュニケーション学会60周年記念シンポジウム『震災・原発報道検証ー「3・11」と戦後の日本社会』が開催された。当時この学会の会長だった濱田は基調講演を行った。だが、ご想像の通り「原発報道」に関する問題指摘は一言もなく「表現の自由が、『絆』、あるいは頑張ろうという気持ちを醸しだしている」などと頓珍漢な話に終始した。

シンポジウムの最後に質疑の時間があった。そこで私は濱田に「マスコミの話をする前に原発推進大学の総長としての見解を聞かせろ」と質問をした。濱田は「確かに原発を推進した学者もいたが反対した学者もいた。組織として一定の考えを意見の内容や研究の内容について何か意思決定する、ということはすべきではないと思っています」と答えた。そして「私が今日お話したことは、表現ということ、情報を伝えるということの原点についてのお話しでした。それについてはご理解いただきたい。それと、原発の関係の学者が答えていない、とおっしゃいました。それをご本人たちがどう答えるかはわかりません。しかし、私は、きちんと自分たちで検証しろと。それは促しています。その結果彼らがどういった形で発表していくのか。それはわかりません。私は、組織としては、本人に対して検証しろと言う、それで十分だと思いますと」と語った。

濱田が私に答えた最後の部分は非常に重要な意味を持っている。「私は、きちんと自分たちで検証しろと。それは促しています。その結果彼らがどういった形で発表していくのか。それはわかりません。私は、組織としては、本人に対して検証しろと言う」と学会の場で約束をしたのだ。

東大の原発推進御油学者どもに発表の方法は決めないが「自分で検証しろ」と命じる、と明言したのだ。

さて、その後どうだろう。嘘八百を並べ立ててこの国を、あわや滅亡の危機にまで陥れた学者どもが何らかの反省の弁や、自分の検証をしただろうか。そんな奇特な輩は今のところ一人も見当たらない。

さて、この話には後日談がある。マスコミ学会は主催したシンポジウムなどをまとめて年に1度学会誌を出してる。そこには講演内容だけでなく質疑応答も掲載される。だが、私が質問をし、濱田が答えたこの日の質疑応答だけは学会誌に掲載されていないのだ!

空手形を口にしてしまった濱田が恣意的に削除したか、マスコミ学会の判断かは分からないが、濱田が「御用学者に検証させます」と約束した証拠を残したくなかったのだろう。
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

《大学異論25》ロースクール破綻の無策と「裁判員裁判」の無法
《大学異論24》日本テレビが喧伝する「箱根駅伝」の不平等
《大学異論23》青山学院大学──経営者自らがぶち壊す「青学ブランド」

 

阪神淡路大震災20周年でテレビはなぜ震災の本質映像を流さないのか?

「爆撃を受けた街」──。1995年1月17日早朝に起きた阪神淡路大震災の翌日、阪急電車西宮北口駅を降りた時の感想だ。駅周辺のアーケード商店街は軒並み潰れている。線路沿いを歩くと新築以外の一戸建て住宅はほぼすべて全壊している。ここは閑静な住宅街だった。幼少期を過ごした街は誇張なく「壊滅状態」だ。更に線路に沿って歩いているとかなり強い余震がある。電柱を見上げると揺れている。幾度も幾度も余震はやってくる。

完全に壊れ落ちた二階建て文化住宅の中には人の体の一部が見える。まだそこまで救助の手が回っていないのだ。この寒さの中動かない。もう亡くなっているだろう。新幹線の高架が何か所も落下している。地震発生が早朝であったのが不幸中の幸いだった。揺れがあと2時間遅ければ、落下した高架に突っ込んで更なる惨状が展開したに違いない。

地震発生直後、数分間は普通の電話が使えたけども、すぐに不通になった。関西地域では数日間に渡り電話がかかりにくい状態が続いた。私は事情があって当時既に携帯電話を持っていた。携帯電話は通常通りの通話ができた。

◆芦屋の知人のマンション廊下はひし形に変形していた

被災地を訪れたのはボランティアで普及作業をするためでも、取材のためでもない。知人が何人もそのあたりに住んでいて安否を確認したかったからだ。関西学院大学のあるあたりも相当にやられている。古い家は傾き、新しい家でも内部は家具が倒れるなどして惨憺たる状況だ。

そう、思い出した。まだあるのかどうか知らないが、関西学院大学正門前のパン屋はたった4つのロールパンを1000円で売ろうとしていた。売り主の顔が見たかった。

私の知人は全員無事だった。といっても家が全壊したり、半壊したり被害が少ないわけではない。とにかく命は取りとめていた。その日は別口からの要請もあって、倒壊した阪神高速道路近くの芦屋まで、車を確保して向かった。途中国道は警察が封鎖していると聞いていたので、ボンネットに大きく「重体患者移送中」と書いた紙を貼った。検問所で警察が寄って来たけどもボンネットを指さしたら肯きながらすんなりと通してくれた。救急車を要請しても圧倒的にたらない。119番は機能していなかったから警察も検問を固くはしていなかった。

芦屋の知人宅はマンションだが、廊下が菱形に変形していた。いつ崩れてもおかしくはないように感じた。

次の日は神戸、三ノ宮に出かけた。高層ビルがいくつも倒れてる。倒れないまでも大きく傾いているビルがある。そのビルが倒れる瞬間を撮影しようと多数のテレビカメラが狙っている。人影は極端に少ない。長田で燃えていた火事の煙はまだここからも見て取れる。

◆「記憶の風化」を憂うならばテレビは震災当時の映像をそのまま流せ!

阪神大震災から20年が経った。「記憶の風化」とか「経験を後世に伝えるべきだ」とか長年散々言われてきた。

不思議で仕方ない。そのような心配をするのであれば(私は見ないけども)当時のテレビ映像をそのまま流せばいいのだ。

悲しみを慰める行為として語り継ぎは個人的には大いに意味があるだろう。それを否定はしない。でも文字や人の語りでいくら状況を伝えようとするよりも、実際の映像を見せた方が絶対的に迫力がある。当時を知らない子供にも恐怖は伝わる。勿論PTSD(心的外傷後ストレス障害)の方や、惨状極まる記憶思い出したくもない人もいるだろう。そういう方々は見なければいい。

テレビは今年も「阪神大震災から20周年」の特集を放送した。そこでは身近な人を亡くした悲劇とそれに立ち向かう人の姿が描かれ、「この経験を風化させてはいけない」で結ばれる。

異議あり!だ。

悲劇は無数に起きている。そんな事は先刻承知だ。6000人以上が亡くなっているのだ。悲しい思いやつらい経験の片鱗は私にだってある。だがそれは人々の心的経験だ。

何が起きたか? 震度7の激震が神戸周辺を襲い街が壊滅した。心的悲劇を語る前にその事実の圧倒的な衝撃をこそテレビは繰り返し流すべきだ。「冷蔵庫が宙を飛ぶ」と言われる震度7の激震は人間が構築したものなど数秒で破壊し尽す事をこそ忘れてはならない。

でも不思議なことにその映像は流れない。演歌調のお涙頂戴ストーリーか、そこから立ち上がって前を向く人々の人間模様。テレビが好きなのはそういう「定型的」な物語なのだ。

嘘だとは言わない。でもそれは本質ではない。この国のテレビには「死体を放送してはならい」という不思議な自主規制コードがある。何か大切なことを示唆しているように思う。死体のある光景こそを逃げずに凝視するべきだ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

JAXAの「夢」は国策詐欺──巨額浪費をし続ける軍事開発機関の無益
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1.17も3.11も忘れない──鹿砦社の原発・震災関連書籍

『復刻新版 FMラルース999日の奇跡』を出版するにあたって

阪神淡路大震災は「ボランティア元年」という言葉を生んだ。1995年1月17日は、戦後未曾有の自然災害だった。その後、もっと大規模な東日本大震災が起きたが、20世紀末の阪神淡路大震災が未曾有の自然災害だったことには間違いなく、関西のみならず全国からボランティアが駆けつけ復旧、復興に尽力してくれた。

しかしながら、現在のようにまだネットや携帯電話も普及しておらず、情報伝達の手段に事欠いていた。

こうした中、地元在住のフリーライター、近兼拓史さんらが始めたのが地域(コミュニティ)FMだ。

「『ラジオ局を作ろう』
そんなビラを作って配るところから始めた
小さな街の声、署名運動から始めた
たったマイク一本から始めた
あきらめるのは簡単だった
たった八畳の何もないスタジオ
わずか百メートルも届かない電波
でも気持ちは伝わった、人の輪が広がった
この本はそんなボランティアたちが作った
小さなラジオ局の物語です」

震災から4年後の1998年にまとめられた『FMラルース999日の奇跡~ボランティアの作ったラジオ局』の巻頭には、上記のような言葉が記されている。

近兼さんは今、「鈴木邦男ゼミ」「浅野健一ゼミ」、そして本年2月から開始する「前田日明ゼミ」の会場となっている「カフェ・インティライミ」を主宰されているが、自宅、実家、事務所が全壊しながらも、震災から数年間は、持てる資金や自宅などを投げ打って「FMラルース」という地域(コミュニティ)FMラジオ局を開始し、多くの若者らを集め運営していた。残念ながら、西宮市との半官半民の「さくらFM」として発展的解消し、その後(本書には記述はないが)資金的にも行き詰まり解散、「FMラルース」という名は伝説のコミュニティFMとなり今はない。同時期に神戸市長田で生まれた「FMわぃわぃ」は今も頑張っている。

私たちは当時、この「デジタル鹿砦社通信」の前身にあたる、週刊のファックス通信「鹿砦社通信」を発行し、ジャニーズ事務所などとの裁判闘争レポートや対ジャニーズ事務所批判を行っていたが、震災後4年経っても、阪神間の公園という公園から仮設住宅がなくならない現状に心を痛めてもいた(当時まだ5800世帯、約1万人の方が仮設住まいだったことが記録されている)。それは、時に、いつもとは趣の異なる記事となって配信されている。「われわれは被災地の出版社としてマスコミ・出版関係者に、怒りを込めて問いかける!『君はもう阪神大震災を忘れたのか!と。」「甲子園の出版社=鹿砦社は高校野球の狂騒を怒る!!」「被災地にとって高校野球はいかなる意味を持つのか? 甲子園球場の周囲に仮設住宅があるという風景を、大会関係者は全国に知らせる必要がある!」「被災地に根づくコミュニティFMの遥かなる想い」「風化する震災の記憶の中で」「われわれは被災地の出版社である!! この時期にだけ"震災特集“でお茶を濁す"東京発”マスコミのご都合主義を笑え!」……(当時の「鹿砦社通信」は『紙の爆弾 縮刷版鹿砦社通信』として一冊にまとめられているので、関心のある方はご購読されたい)。

この頃、震災交流誌『WAVE117』という小冊子の発行も引き受けている。これは7号までしか続かなかったが、灰谷健次郎、富野暉一郎、妹尾河童、野田正彰、稲垣美穂子、タケカワユキヒデ、横尾忠則、永六輔、石川好、田中康夫、辻元清美、辛淑玉(敬称略)……といった著名な方々が寄稿、協力されている。もっと頑張れば継続できたかもしれないが、当時、財政的にも精神的にも余裕がなかったことが悔やまれる。

阪神淡路大震災から20年-――私たちは“ある想い”を持って、近兼さんと合意し『FMラルース 999日の奇跡』の「復刻新版」を出版した。

私たちは20年前、「被災地の出版社」を高らかに宣し、爾来20年、拠点を被災地の西宮に置き、私たちなりに一所懸命頑張ってきたつもりだ。浮き沈みはあったが、その苦労も、震災で亡くなられた方々の無念に比すれば取るに足りないもの、お蔭様で何とか生き延びてこれた。

かつて身近にあった仮設住宅も今はなくなり、阪神地方は、曲がりなりにも復興したといえる。本当に復興したかどうか議論も問題もあろうが、東北の現状を思えば、これでよしとしなければならないだろう。

震災直後に甲子園で開かれた高校野球で、亡くなられた方々に黙祷さえしないことに怒り、日々瓦礫を運ぶトラックの行き来を眺めながら、いささか宗教的にさえなった、当時の想いこそ、私たちの<原点>であり、今生きて、生業の出版の仕事を、相変わらずやれる幸せに感謝しなければならない。

[松岡利康=株式会社鹿砦社代表取締役]

【復刻新版】近兼拓史『FMラルース 999日の奇跡』1月15日発売!

 

1.17阪神淡路大震災から20年に想う [鹿砦社代表=松岡利康]

「もう20年経ったのか」……鹿砦社のホームグラウンド・阪神地域を襲った大震災から20年が経った。無我夢中で生きてきたので、長かったのか短かったのか分からないが、バカはバカなりに真面目に考え、ひとつの感慨はある。

この震災では6500人ほどの方が亡くなり、建物の損壊など被害が甚大だったことは言うまでもない。この震災、全国の人から見れば神戸で起きたイメージが強いが、阪神地域の西宮、芦屋、宝塚などの被害も大きかったことも忘れないでいただきたい。

神戸市は広いので、区を一つの行政区分として亡くなられた数を見てみると、
① 東灘区  1471人
② 西宮市  1126人
③ 灘区   933人
④ 長田区  919人
⑤ 兵庫区  555人
⑥ 芦屋市  443人
⑦ 須磨区  401人
⑧ 中央区  244人
⑨ 宝塚市  117人

意外と思われるかもしれないが、鹿砦社本社の在る西宮市の死者の多さに驚かれる読者も多いだろう。

話は逸れるが、西宮という所は地味な市で、震災の死者数もさることながら、甲子園球場がある市だということも、意外と知られていない。甲子園球場の名は、日本で例えば100人に聞いても100人全員知っているだろうが、(関西以外の人で)それが西宮にあるということを知っている人はあまりいない。

また、面積の狭い芦屋市の死者の多さにも、あらためて驚く。震災直後に、私が見て回ったところでは、芦屋の被害の密度の濃さは印象が強い。当時の女性の市長は、自宅が全壊しながら、市長室に寝泊まりしながら復旧の指揮を執られていたことを思い出す。

阪神・淡路AID SONG『心の糸』 (1995年4月26日発売)

もう一つ、意外と知られていないことを記しておこう。

震災復興の象徴的な歌としては、震災当時、神戸市の中学校の先生が作詞・作曲した『しあわせ運べるように』が有名である。今では全国的にも、名が広まっているので、聴かれた方も多いだろう。

しかし私は、「阪神・淡路AID SONG」と銘打って、当時すでに人気も勢いもあった若手女性演歌歌手、長山洋子、香西かおり、坂本冬美、藤あや子、伍代夏子らが歌った『心の糸』という歌を思い出す。メロディも悲哀に満ち、かつ5人の女性歌手の歌も良く、名曲といっていい歌だが、ほとんど流行らなかった。震災追悼番組で2度ほどテレビに出たのを観たぐらいで、被災地の人でさえ全くといっていいほど知らない“隠れた名曲”だ。「エグゼクティブ・プロデューサー」として「芸能界のドン」周防郁雄バーニングプロ社長の名が記されているが、「芸能界のドン」の威光で流行らせて欲しかったところだ。関心のある方はYou Tubeででもご覧になってほしい。

♪覚えててあなた 私がここにいることを
忘れないであなた 歩いた道のほとり
心の糸を たどりながら 過ぎし日を 重ねてみたい
心の糸を 手さぐりながら 夢の続き さがしていたい

震災から4年経った頃、私は次のように記している(ファックス版「鹿砦社通信」1999年1月18日号)。―――

「いずれにしても、『われわれにとって、阪神大震災とは何だったのか?』という<問い>に常に否応ながら迫られつつ、これからのわれわれの行く末があることは間違いがないだろう。われわれはいやしくも出版人として、これに少しでも<答え>を出していきたい」

阪神淡路大震災から20年、一時は、阪神間の公園という公園には仮設住宅があり、多くの方々が、暑い日も寒い日も過ごされていた。阪神間の公園から仮設住宅が完全に撤去されるまで何年の月日を要したのだろうか。一方、近くの甲子園球場では、高校野球やプロ野球が華々しく開催されていて、そのギャップに心を痛めていたこともあった。

今、3.11からもうすぐ4年、被害の規模、死者数など阪神淡路大震災よりも遥かに被害が大きく、加えて原発事故による放射能の被曝に怯えつつ暮らしている東北の方々のことを想うと、曲がりなりにも復興(この解釈については今は置く)した私たちは、東北の方々のことを一時(いっとき)も絶対に忘れてはならないということを、あらためて肝に銘じなければならない。

[松岡利康=株式会社鹿砦社代表取締役]

1.17も3.11も忘れない!鹿砦社の原発・震災関連書籍