《脱法芸能32》加勢大周[Ⅲ]──悪名に翻弄され続けた二人の「加勢大周」

◆93年6月の控訴審判決──加勢側が逆転勝訴

1993年6月30日、加勢大周の独立に絡んで提起されていた訴訟の控訴審判決が言い渡された。控訴審判決では、業界中から大きく注目されていた争点であり、1審では認められた「加勢大周」の芸名使用禁止が覆り、加勢側が逆転勝訴した。

加勢を訴えた元所属事務所、インターフェイスプロジェクトの社長、竹内健晋は、雑誌のインタビューで「そのときほど、人を殺したいと思ったことはなかった」と明かしている。判決に反発した竹内は、新たな対抗策をぶち上げた。

「加勢大周という芸名はわたしが付けたもの。ウチに所属するタレントを“加勢大周”の芸名で近々デビューさせる!」

7月7日、竹内は港区白金台の八芳園にNHKを含めた80人の報道関係者を集め、元祖加勢大周と同姓同名の「新加勢大周」をお披露目した。

◆デビュー会見20日後に「新加勢」は「坂本一生」に芸名を変更

「新加勢大周」こと坂本一生

元祖加勢大周に勝るとも劣らない二枚目の新加勢大周は180センチで72キロの20歳で、高校時代には水泳をでインターハイにも出場したというスポーツマンだという。竹内はたまたま東京近郊にあるスポーツジムにいた彼を発見して、スカウトしてきたという。

「歌もうたえるし、英語にも堪能。スポーツで発散するタイプですから、川本くん(加勢の本名)のように“女性に走る”ということはない」
と、竹内は自信満々に豪語し、黒いタンクトップを着た青年を紹介した。

元祖加勢大周は、この報道にうろたえ、「第2の加勢クンがボクより売れたらまずいよなァ。名前の1字を変えてほしい。裁判を何回もやったんだから……」と困惑気味にコメントした。

元祖加勢側は、新加勢の動きを封じようと手を打った。「加勢大周」「元祖加勢大周」「東京加勢大周」の4つの名前を商標登録し、新加勢の出鼻をくじいたのだった。

7月27日、竹内は再び記者会見を開き、「川本伸博クンに『加勢大周』の名前をプレゼントする!」と宣言した。新加勢は登場してから20日後に「坂本一生」に芸名を変更し、芸名戦争は一応の決着を見た。だが、加勢と竹内の確執は続いた。

◆「新加勢」坂本一生も竹内との金銭トラブルで移籍独立

だが、新加勢大周こと坂本一生も、95年4月、竹内のもとを去り、他の事務所に移籍してしまった。原因は金銭トラブルだった。坂本はこう語っている。

「ただ働きでした。はっきりいって、(竹内社長のもとにいるときは)ただ働きだったんです。もちろん、通常のタレントの方と同じで、給料はギャラの何パーセントといった形式で、契約を交わしていました。でも、1度もギャラとしておカネをもらったことはなかった。

おカネがないので、仕事のないときは部屋にひとりでこまりっきりで、宅配ピザやカップラーメンをすすってました。ホント、毎日が不安で、みじめで……」(『アサヒ芸能』95年6月8日号)

坂本は、2年間、肉体派タレントとしてテレビのバラエティ番組で活躍してきたが、給料が支払われないどころか、600万円もの持ち出しを余儀なくされたという。竹内にギャラについて尋ねても、「次の仕事をとるために金が必要なんだ」と言うばかりで埒があかなかった。

もっともショックだったのは、坂本が番組のゲームで優勝し、100万円の賞金を獲得したときのことだった。坂本は他のチームのキャプテンと相談し、賞金を山分けすることにしていた。番組が終わって楽屋で他の出演者とともに和気あいあいと待っていたが、とうとう賞金は届かなかった。

給料を払わないだけでなく、竹内は坂本に女性との交際を禁じた。それが高じて、坂本のホモ説まで報じられる事態となった。心底うんざりした坂本は、事務所を飛び出す決意をした。

◆「いわく付きの名は更正の原動力になった」──服役を終えた元祖加勢の告白

一方、加勢の方も竹内との抗争で疲弊し、芸能活動は長期間低迷し、その挙げ句、2008年10月5日、覚せい剤取締法違反(所持)と大麻取締法違反(所持)の現行犯で逮捕され、芸能界を引退した。

服役を終えた加勢は、都内でバーテンとして働いた。『週刊新潮』(11年12月29日号)に新加勢大周騒動を振り返り、こう語っている。

「こんなエピソードをほかに誰も持っていないでしょうから、ボクが死ぬとき、生きていておもしろかったことのひとつに挙げられると思います。『加勢大周』はいわく付きの名前になってしまいました。それを使ってまた仕事を始めることは、今は考えられません。ただ、この名前は自分のモノだという思いはあります。こんなボクでも、待ちで『加勢大周さんですよね。一緒に写真撮ってください』と話しかけられることがあります。こうして覚えていてくれる人がいることが、いい意味で足かせになり、更正の原動力になる」

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
加勢大周[Ⅱ]──裁判で事務所社長に芸名を奪われる
加勢大周[Ⅰ]──独立で勃発した竹内社長との「骨肉の紛争」
爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇
《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

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《大学異論23》青山学院大学──経営者自らがぶち壊す「青学ブランド」

青山学院大学(高校・中学を含む)教職員の285人(総数の約2割)の人々が原告になり、同学校法人を相手取り一時金の減額を巡り、提訴がなされていたことが明らかになった。

毎日新聞の報道によると、「教職員の一時金は1953年以降、就業規則で定める規定に基づいた額が支給されていた。しかし学院側は2013年7月、『財務状況が非常に厳しい。取り崩し可能な資金にも余裕がない』などとして、規定の削除と一時金の減額を教職員の組合に提案。その後、組合の合意を得ないまま就業規則から規定を削除した。2014年夏の一時金は、規定より0.4カ月分低い2.5カ月分にとどまった。学院側は教職員側に対し、少子化や学校間の競争激化を理由に挙げ、『手当の固定化は時代にそぐわない』などと主張。一方、教職員側は『経営状態の開示は不十分で、一方的な規定削除には労働契約法上の合理的な理由がない。学院と教職員が一体となって努力する態勢が作れない』などと訴えている」そうだ。(毎日新聞2014年12月25日付

なるほど。組合との合意がないままの一方的一時金の減額というのが表面上事件の様相だ。

このような「一時金」あるいは「給与」の一方的カットは、本当に経営状態が思わしくない大学では、珍しいことではない。だが青山学院大学は定数割れを起こしている学部があるわけでもなく、「MARCH」(明治、青山学院、立教、中央、法政)と呼ばれる東京の人気私大の一角を占める、いわば「勝ち組」大学だ。ではなぜ青山学院でこのような争議が起こっているのか。

◆国会議員、ファンド、裏社会まですり寄ってきた青学経営陣の拝金主義

私は「《大学異論12》大学ゴロ──学生確保の裏で跋扈する悪徳業者たち」(2014年10月16日)の中で名前を「AG大学」と伏せて青山学院大学の不祥事を予告していた。

青山学院大学の理事会と理事長は数年前から視野狭窄、拝金主義に走っていた。とりわけ理事長周辺には実に多彩な人間がすり寄っていた。現職の国会議員や新興ファンドの経営者、果ては裏社会の人間までが列をなしているという話を議員会館で何度も耳にした。私にこう教えてくれた人物は自身も企業の社長を務める民主党の議員だった。「金に汚いですよ」と顔に書いてあったし、その腹の内も隠さなかった。彼もおこぼれにあずかろうと息まいていたが、今では落選し落ち穂拾いをしているようだ。理事長はここ10年で数人代わっているけれども、その中でも青山学院の経営を大きく方向転換させたのは2005年から2010年まで理事長を務めた松澤建氏だった。

歴史があり、偏差値も高く、ましてやセンスがいい大学という評判の青山学院大学は、普通の経営をしていれば「財政状況が非常に厳しく」なることはない。大学の財務諸表は、専門知識のある人であれば、収入と支出を簡単に操作できるので、実際は安定的な財政状況であっても、短期的に「厳しく」見える指標を作り出すのはいとも簡単な操作である。が、2012年と2013年の青山学院の財政状況を見たが、収入、支出とも前年度より伸びており、特段の問題は見当たらない。「厳しい」どころかむしろ「拡大路線」まっしぐらだ。

◆拡大路線が引き起こす大学の瓦解

だとすると、ここで起きていることは、この連載コラムの第1回(8月19日)第2回(8月20日)でも紹介した立命館大学での事件、川本八郎氏が引き起こした「一時金減額」事件と同様の性格を帯びていると考えるべきだろう。大学内での歪な権力集中、経営者の暴走が止まらないのだ。

青山学院大学は2015年4月から「地球社会共生学部」を発足させるという。学部のコンセプトとして「青学らしいグローバル人材育成」と謳われている。今年、新興宗教団体である幸福の科学が大学を設立しようと文科省に申請をしたが却下された、設立を目指した幸福の科学大学の学部名には「人間幸福学部」や「経済成功学部」があった。「地球社会共生」も学部に冠する名前としては、不思議な語感と匂いが漂う。幸福の科学大学に似ていなくもない。混迷に陥った大学でしばしば起こる現象ではある。「独りよがり」によりバランス感覚を失ってしまうのだ。

私の知人に青山学院大学の「地球社会共生学部」の受験を考えている人がいれば、迷わず止める。もう合格票を手にしていても他大学への進学を勧める。

青山学院のスキャンダルはこの事件に止まらないだろう。

青山学院は理事長の専制と理事会の正常化が図られなければ、数年以内に凋落が明らかになることは明白だ。「青学ブランド」を経営者自らが壊すのはもったいない話である。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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《脱法芸能31》加勢大周[Ⅱ]──裁判で事務所社長に芸名を奪われる

所属事務所のインターフェイス・プロジェクトから独立した加勢大周だったが、これまでに本連載で紹介してきた他のタレントのように業界からの圧力で干されることはなかった。加勢の仕事場にインターフェイス側と加瀬側のマネージャーが何人も現れて混乱するということはあったものの、加勢に仕事の依頼が止まらず、ドラマやCMに出演していた。

その理由の1つには、インターフェイスが小さな芸能事務所だったことが挙げられる。インターフェイスは、加勢との契約で音事協の統一契約書の体裁を採っていたが、インターフェイスは音事協には加盟していない。契約書では「社団法人音楽事業者協会」とあったが、「社団法人日本音楽事業者協会」が正しい。音事協の名前を出して、加勢を威圧することが目的だったのだろうが、こけおどしにすぎなかった。

◆「自業自得」とも囁かれた竹内健晋社長の悪評

加勢大周主演のTVドラマ「POLE・POSITION 愛しき人へ…」(1992年日本テレビ)

また、業界では、インターフェイスの社長、竹内健晋の評判も良くなかった。竹内はもともとモデルプロダクション上がりで、芸能界でのタレントの売り出しノウハウがなかった。そこで、加勢のプロモーションについて大手事務所に協力を要請したが、加勢の人気が高まってくると、利益を独り占めしようと謀り、大手事務所を激怒させていた。加勢が竹内から逃げ出しても、業界では「自業自得」という非難の声が上がり、竹内を応援しようという者は現れなかったのである。一部報道では、竹内が右翼を頼ろうとしたという話もあったが、相手にされなかったという。業界を味方にできなかった竹内は、加勢を潰すためにひたすら司法の手を借りたのである。

逆に加勢の方が業界の実力者の力を借りようとしたのは、加勢の方だった。インターフェイスの元社員で独立した加勢についた業界の大物として知られる廣済堂プロダクションの長良じゅんに調停を依頼し、いったんは長良の預かり、加勢が竹内に2億円を払って和解するという調停案が示され、解決しかかったが、加勢側は別にスポンサーを探して、独立の道を突き進んだ。

長年、芸能事務所を経営してきた長良としても、全面的に加勢を支援するわけにもゆかなかったのだろう。『FOCUS』(91年5月17日号)で、長良は次のようなコメントを出していた。

「たかだかデビュー8ヶ月目くらいで人気が出たから独立なんて、芸能界はそんな甘いモノではない。そういう行儀の悪いことをするんなら彼も終りだ」

◆「商標登録された芸名は事務所の所有物」と認めた92年判決の衝撃

一方、インターフェイスが訴えた裁判は、92年3月20日に判決が言い渡された。その要旨は、被告、川本伸博は加勢大周なる芸名を使用して、第三者に対し、音楽演奏会・映画・ラジオ・テレビ・テレビコマーシャル・レコードなどの芸能に関するすべての役務の提供をしてはならない、というものだった(新事務所との専属契約の禁止、5億円の損害賠償請求は棄却された)。

この判決は、業界全体に大きな衝撃を与えた。判決に影響を与えたのは、竹内が加勢大周の名を商標登録していたことだったが、加勢の裁判が判例として定着すると、事務所が所属タレントの芸名を商標登録した場合、タレントは独立や移籍の際、いちいち芸名を返上し、新しい名前で芸能活動をしなければならなくなる。明らかに芸能事務所側に有利な判断がなされたが、これはタレントにとっては死活問題だった。

ただちに加勢は控訴した。高裁での判決は93年6月に言い渡され、今度は加勢に芸名使用の許可が出た。だが、これで一件落着とはならず、94年になってから、インターフェイス側はまた訴訟を起こし、独立してから1年間の損害があったとして、3億7000万円を請求した。

さらにトラブルは続き、加勢が独立した際、協力をした顧問、安西一人が新事務所、フラッププロモーションの社長を務める加勢の母親とマネジメントをめぐって対立し、事務所を辞任すると、週刊誌が「加勢はマザコン、無気力、女にうつつを抜かしている」という安西の暴露インタビューを掲載した。

こうしたトラブルが何年にもわたって続いた結果、加勢のイメージは極端に悪化し、ピーク時には11本あったCM契約も、すべてなくなってしまった。

そして、加勢大周の独立スキャンダルの極めつけは、芸名の所有権を主張する竹内が嫌がらせとしてぶつけてきた「新加勢大周」の登場だった。(つづく)

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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加勢大周[Ⅰ]──独立で勃発した竹内社長との「骨肉の紛争」
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《脱法芸能30》 加勢大周[Ⅰ]──独立で勃発した竹内社長との「骨肉の紛争」

1988年7月、芸能事務所インターフェイス・プロジェクトの社長、竹内健晋は世田谷区駒沢にある喜多呂という焼き鳥屋に入った。すると、アルバイトをしていた抜群にハンサムな少年に目が止まった。

竹内はその少年と目が合うなり、上半身がガタガタと震えだした。芸能界生活25年の間に70人ものタレントを育てた経験から竹内に、「これはモノになる」という直感が降りてきたのだった。

少年は都立多摩川高校の3年生で、教材会社に就職が決まっていたが、翌月から竹内の事務所に所属し、目指すことになった。コンタクトレンズ会社の営業部長をしているという父親は、「仕事がら新製品を売り出すことのむずかしさはわかっています。社長さんのご恩は一生忘れません」と言った。

少年は名前を川本伸博といったが、竹内は芸名として「加勢大周」と名付けた。

◆デビュー当初の月給は9万円──工事現場で働き、身体を鍛える

加勢大周写真集『ライバル』 (1990年ワニブックス)

最初の1年間に入ってきた仕事はCMモデルの仕事がたったの2件しかなく、加勢の稼ぎはたったの6万円だった。身体を鍛えることも兼ねてよるの工事現場でアルバイトをした。その間、竹内は毎月9万円の給料を払ったが、事務所の経営は苦しく、加勢が「給料のうちから5万円を使ってください」と申し出たこともあった。

ところが、90年に入ると、桑田佳祐監督の映画『稲村ジェーン』で主役として抜擢され、コカコーラのCMが決まり、次々とドラマから出演オファーが舞い込んできた。たちまち人気に火が付いた加勢は、吉田栄作、織田裕二とともに「トレンディ御三家」と呼ばれ、売れっ子俳優になった。

◆母親が立ち上げた事務所に移籍したとたん始まった竹内社長との法廷闘争

だが、ほどなくして、加勢は事務所から独立し、竹内と対立した。

まず、加勢は4月4日付でインターフェイスに対し、契約解除の通告書を送付した。そして、6月1日、母親を社長とする新事務所、フラッププロモーションを設立し、数人のスタッフとともに移籍した。

これに対し、インターフェイス側は、「契約上、契約解除の意思表示は契約が満了する5月末の3ヶ月前までにしなければならないのに、加勢はそれを怠った。従って契約は自動延長されるので、契約解除は無効」と反発し、91年8月1日、加勢と新事務所との契約は無効だとして、加勢にテレビなどへの出演禁止、芸名の使用禁止、5億円の損害賠償などを求める訴訟を東京地裁に提起した。

竹内は、提訴した翌日、記者会見を開いた。記者からギャラについての質問が出ると、竹内は加勢への支払明細書を見せた。それによれば、90年6~12月の給与は税込で17万5000円、91年1~6月は25万円で、1年間の合計は247万5000円。ただし、歩合給与として、年間2107万6576円を支払っていた。トータルで2355万1576円だった。そして、次のように言った。

「(給料は)新人時代の小泉今日子、工藤静香は、3年間は11万円以下ですよ。まわりの業界人からは、そんなに払うとナメられるからといわれたぐらいです。加勢本人は、仕事や金のことをとやかくいわない好青年でしたよ」

「(芸名は)姓名判断、血液型、人相から調べて、勝海舟が好きだった私が、力、勇気、アイディアをもってもらいたくてつけた名前です。当初、本人は外国人みたいな名前でイヤだといってましたが……。もし、話し合いがつかない場合、彼には使わせたくない。第2の加勢大周を探したい。彼には、本名でステップしてくれといいたい」

「(5億円の損害賠償については)取ろうとは思いませんが、もしほかでやっていくというなら、それ以上も……」

「おまえも早く……男らしく、一発ひっぱたかれてもという気持ちをもって会いにきてほしい……。裸になってサウナで語りあいたいですね」

一方、加勢サイドは、訴訟代理人を務める弘中惇一郎弁護士が記者会見を開き、「相手の主張は80%がウソです。いい加減で、違法性の高い契約書を根拠に、加勢クンを拘束しようとしているだけ。こちらが提出した異議文書も無視されています。それに加えて、加勢クンの妹役募集と称して応募者4000人から総額240万円を集めたり、21歳の女性をムリヤリにアダルト・ビデオに出演させたり……」などと反論した。

加勢側の主張によれば、2000万円とされた歩合給にしても、加勢の取り分は10%に過ぎず、また、実際に支払われたのは、竹内が公表した金額より1000万円低い、という。

加勢の独立は、まさに骨肉の紛争へと発展していった。(つづく)

▼星野陽平(ほしの ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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病院経営の闇──検査や注射の回数が多い開業医は「やぶ医者」と疑え!

◆営業目標を露骨に掲げるクリニックの事情

忘年会真っ盛りである。「一年間お疲れ様」なのか「理由はどうでもいいからまあ飲もうや」なのか、とにかく忘年会である。

地方都市で個人経営のクリニックに勤務する知人がいる。そのクリニックは地域ではなかなか盛況らしく、医師は一人だがスタッフは常勤非常勤を合わせると20名を超える。例年12月中盤の土曜午後に忘年会が行われるそうでそこには医師、スタッフのほか出入りの製薬会社や関係者も顔を出すので総勢は30名を超える規模になる。

先ごろ行われた忘年会の乾杯前の挨拶で、院長は参加者へのねぎらいを述べた後「まだ目標にする数字○○○人には到達していません!」と目標患者数を挙げたそうだ。常勤スタッフだけでなく、参加者の多くが少し惑いの表情を見せたという。この話を聞いて私自身、開業医が保険会社じゃあるまいに、「患者の来院目標数」を設けているのかと聞いて驚いた。医師不足、病院不足が問題にされる中、個人開業医のなかにはあたかも株式会社のごとく、収益目標を露骨に掲げて経営が行われているクリニックがあるようだ

◆領収書の明細でわかる病院の食い扶持

クリニックや病院から受け取った領収書をお持ちの方はそれをご覧いただきたい。領収書の明細は病院を問わず「区分」がほぼ同じであることがわかる。

「そういえば」と知人は続ける。整形外科であるその医師はやたらと患者に検査を行うそうだ。初診の患者には症状の如何にかかわらず、ほぼ例外なくX線撮影を行う(「画像診断」)。病院の治療代は点数制だ。1点が10円である。厚生労働省に尋ねたところ、X線撮影(画像診断)は同じ部位でも角度や撮影方法により点数が細分化しており、「一概に何点(何円)かかるとは言えない」そうだ。「それではX線撮影の最低は何点からあるか」と聞くと「30、40点くらいですね」という回答だった。いかにもあいまいでわかりにくい。それだけクリニックや病院が自由に判断する幅があるという事だろう。ちなみに今年私自身が大病院で腰を5、6枚撮影してもらった際には581点かかっていた。

このクリニック平日の午前診療時間(9時から12時)で平均20名弱の被撮影者がいるという。現在X線撮影はほとんどデジタル化されており、消耗品は少ない。昔のように現像する必要もない。だからはっきり言えば「X線撮影」は非常に儲かる。患者一人平均のX線撮影点数が仮に200点とすると、1日の撮影人数は午前、午後合わせて約40名だから40×200で8000点となる。8000点は8万円ということだ。クリニックの開業日数は年間240日あまり。だからX線撮影だけでも年間2000万円近い収入があることになる。

平日午前の診療は高齢の患者さんが中心らしい。X線撮影をしても医師はほとんどの場合、「まあ、たいしたことはないわ。お歳もお歳やから、うまく付き合っていくしかあらへんね」としか言わず、リハビリにまわすか投薬をするだけだという。年配者だけならばまだしも、幼稚園にも通わないような年齢の幼児にも通院のたびにX線撮影を行うことが多い。明らかに過剰なX線の乱用だとクリニックスタッフも内心心配しているどうだが、いかんせん医師一人が経営するクリニックだからなかなか進言できる雰囲気ではない。人柄は穏やかだそうだが明らかに「ヤブ医者」だ。

しかも、前述のとおり「営業目標」を掲げるような考えの持ち主である。「営業目標」が語られた忘年会はたぶん出入りの製薬会社が経費の一部(もしくは全部)を負担しているのではないか、と知人は述べる。忘年会のほかにも年数会、同様の会合がありその際は製薬会社が会費を負担するという。

企業がクリニックに便宜をはかるのは構わないが、患者を「営業目標」の対象と見られてはたまったものではない。

◆こんな開業医は要注意!

知人は言う。「開業医でやたらに検査を行う医師は疑ってかかったほうがいい」、「歯科で患者数がさほど多くなさそうなのに虫歯の治療に何ヶ月もかけるクリニックも要注意」、「軽症で患者が積極的に望んでいないのに、やたら注射を打ちたがる医師は要注意」だそうだ。

一方で公立の大病院では過酷な労働条件の下働く医師も多い。やはり知人で大病院に医師として勤務する知人は「開業医と勤務医の収入は別業種位に差があるよ」と言う。彼は最近地方都市に「30年ローン」でマンションを購入したと言うので「お前みたいな高給取りがなんでローンなんや」と聞くと「俺たちの手取りなんか夜勤含めても○○万円くらいやで」と意外に低い数字を口にした。

ともあれ、体にかかわることなので、病院(クリニック)選びは慎重さが必要なようだ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

速報!『革命バカ一代』塩見孝也氏が清瀬市議選に出馬へ!
「守る」ことの限界──「守る」から「獲得する」への転換を!
秘密保護法施行日の抗議活動を自粛した金沢弁護士会にその真相を聞いてみた
自民党の報道弾圧は10日施行の秘密保護法を後ろ盾にした恫喝の始まり
読売「性奴隷表記謝罪」と安倍2002年早大発言が歴史と憲法を愚弄する

いつも何度でも福島を想う

 

《脱法芸能29》爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折

女性タレントの話題が続いたが、ここからは男性タレントと所属事務所の紛争についても触れてみたい。

『週刊アサヒ芸能』の10月30日号で「干された芸能人100大事件」という10ページの特集記事が掲載された。週刊誌がこの種のテーマでこれだけのページを割いたケースは過去にないが、内容は、これまでの芸能マスコミの論調を踏襲したものに過ぎなかった。つまり、芸能事務所の論理を代弁し、違法で不当な芸能界の構造にまでは踏み込んでいない。
この特集は表紙でも大きく扱われていたが、そこには「干された芸能人」の筆頭として爆笑問題の名が記されていた。

太田光と田中裕二のお笑いコンビ、爆笑問題は、日大芸術学部で知り合い、1988年に結成された。渡辺正行主催のラ・ママ新人コント大会に出場したところ、太田プロダクションにスカウトされた。

爆笑問題はテレビに出演すると、たちまち視聴者からの人気を集め、若手芸人のホープとなった。そのまま行けば看板番組を任される目されていた爆笑問題だったが、90年に突如、太田プロから独立し、その後、徹底的に干された。それ以降、爆笑問題は、数年間にわたってテレビに出られなくなり、その間、太田はパチンコ三昧となり、田中はコンビニのアルバイトに精を出した……。

◆「たけしを育てた男」に騙された

爆笑問題DVD『2014年度版 漫才 爆笑問題のツーショット』(2014年6月アニプレックス)

この話は、爆笑問題のファンなら誰でも知っているだろうか。では、なぜ爆笑問題は太田プロから独立したのか。その経緯については、これまでほとんど明らかにされてこなかったが、10月6日放送の『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)で、出演した太田と田中が初めてこれに触れた。

大竹まこと 最初は、事務所を移るどうのこうので、10年くらい出れなかったもんな?
田中 3年くらいです。太田プロから。
太田 元々、たけしさんが悪いんですよ、アレは。
大竹 なんで?
太田 俺らをスカウトしたヤツがいて、「俺がたけちゃんを育てた」って言うから、その人に付いて行ったんですよ。そしたら、後でたけしさんに訊いたら、「あんなヤツ、知らねぇよ」って。
阿川佐和子 ああ、サギにあったんだ。
太田 それで、一回、たけしさんに初めて会った時に、たけしさんの担当だったっていうマネージャーが、「たけちゃんに会ったことないだろ?」って。
田中 僕らが新人の頃ですよ。たけしさん、お正月の『ヒットパレード』の時で。
太田 フジテレビの特番で、それこそたけしさんが白塗りして何かやってたんですよ、相変わらず(笑)。
田中 コントみたいなのね。
太田 あの頃から、本当に進歩してないですね(笑)。
たけし うるせぇよ(笑)。
太田 フジテレビが、まだ河田町の頃ですよ。それで、俺らが緊張してたら、そのマネージャーだったって人が、「大丈夫だよ。俺が育てたようなもんだから」って。
阿川 友達みたいなね。
太田 それで、「今からたけちゃんのところ行くから」って言って、「殿!」って言ったんですから、そいつ(笑)お前、さっきまでと全然違うじゃねぇかって。「殿、すみませんけど、今、よろしいでしょうか?」って。
たけし だって、アイツはその後、「たけしと爆笑問題を育てた男」ってなってんだよ。それで、お笑い塾なんてやってて。
阿川 まだご存命なんですか?
太田 ご存命ですよ。
田中 どっかで息づいてます。どこかで。

◆「オレらのギャラの3割は学会の寄付」

この話については、『噂の真相』(95年3月号)に掲載された「吉本興業が独走するお笑い業界の群雄割拠の構図」という匿名鼎談記事でも触れている。記事に以下のような発言がある。

B(芸能記者) 太田プロの敏腕マネージャーだった瀬名に誘われ一緒に独立。瀬名も敏腕というわりには、太田プロを辞める理由が「家業を継ぐため」と、今時、転職するOLでも使わない手口。狭い業界なんだから、太田プロが怒って爆笑問題を2年も干したのも無理ないか。
C(若手芸能タレント) 独立後、ようやくテレ朝の「ガハハキング」で復活したとき、爆笑に話を聞いたら「オレらはだまされたんだ」といっていた。実は、瀬名が太田プロを辞めた理由が、なんと、瀬名が創価学会の会員で、もっと献金を増やすために独立し、その稼ぎ頭として爆笑を引っ張ったというんだから、爆笑の太田光がいっていたけど、「オレらのギャラの3割は学会の寄付」だって。このほうがよっぽど、“爆笑問題”だよ(笑)。

太田プロの自称「ビートたけしを育てた敏腕マネージャー」の「瀬名」というのは、瀬名英彦氏のこと。同氏のツイッターのプロフィール欄には、「過去にお笑いタレントをスカウトしてました。ツービート、若人あきら(現在の我修院達也)、コロッケ、ダチョウ倶楽部、爆笑問題他多数… 今でも新人のお笑いで売れそう人を見るのが楽しみです」とある。

◆経営陣の公私混同が酷すぎてタレントが逃げ出す「東の老舗」太田プロ

太田プロは創業は1963年と歴史が古く、老舗の部類に入る。「西の吉本、東の太田プロ」と呼ばれるほど伝統的にお笑いに強い。

だが、芸能事務所の場合、由緒ある大手だからといって、タレントにとって信用できるわけではない。太田プロは、昔からタレントとのトラブルが絶えず、爆笑問題やビートたけしなど独立していったタレントも少なくない。

なぜ、タレントは太田プロから、離れてしまうのだろうか。

『噂の真相』(2000年6月号)に掲載された記事「お笑い番組ブームで稼ぎまくる太田プロの搾取と公私混同の裏事情」に太田プロの内幕が詳細にレポートされている。

それによれば、たとえば、1000万円のCM契約が取れても、事務所はタレントには500万円と伝え、差額はまるまる事務所の収入となる。タレントに契約書を見せる必要はないから、バレることもないという。

では、ピンハネされた金はどうなるのか。記事によれば、「驚いたことに、太田プロ社内では、幹部クラスですら、はっきりとした金の流れを把握できない」という。

特にひどいのが磯野社長と泰子副社長の公私混同ぶりだ。磯野社長は2000万円もする碁盤を衝動買いして会社の経費で落とし、泰子副社長は洋服や宝石など月に300万円以上も衣装代に費やし、事務所に請求する。また、太田プロには、草津温泉や北海道、アメリカなど各地に社員寮を持っているが、実質的には社長夫妻が個人的に使っている別荘であり、社員は利用できないという。

経営トップにならって、幹部社員も横領に余念がない。「猿岩石の全盛期のマネージャーは都内に一軒家をキャッシュで建てた」という噂が流れたほど、太田プロの経営はどんぶり勘定だったという。

当然、そうした資金の出所は、タレントからの搾取だ。「バカらしい」と思って逃げ出すタレントも後を絶たない。

ビートたけしや爆笑問題、伊東四朗、大川豊総裁率いる大川興業、電撃ネットワークの南部虎弾、春一番など、これまで多くの芸人が太田プロから逃げ出していった。

ただし、太田プロは事務所の規模と比べて業界での政治力は強くない。デビュー直後の爆笑問題程度であれば、独立後、何年も干すことができたが、大物タレントだったビートたけしの独立は防げなかったのである。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

—————— 星野陽平の《脱法芸能》——————-
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
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《紫煙革命14》スウェーデンに学ぶスヌース──煙ばかりがタバコじゃない

前回の記事で書いたように、北欧のスウェーデンは世界で唯一「女性の方が喫煙率が高い国」であります。確かに男性の「喫煙率」は17%(女性は21%)と世界トップクラスの低さを誇ります(誇る?)。

しかし「喫煙率」が低いからといって、「タバコ率」が低いわけではないようです。スウェーデン男性にはシガレット(紙巻タバコ)よりも、スヌース(嗅ぎタバコ)の方が人気が高いのです。

スウェーデン男性の21%、女性の4%がスヌースを毎日使用しているといいます。なんでも「あんまりお洒落じゃないから女性の人気がない」とかいうことのようです。

◆スヌースを探して町に飛び出した

三鷹で見つけた『アルカポネ・ミント』

タバコのことをああだのこうだのと書いているくせに今までスヌースを体験したことがなかったことを恥じて、早速こっそりと慌てて急いでゆっくりと近所のタバコ屋さんを訪ねました。私、生まれも育ちも東京都三鷹市なのですが、三鷹には『みわた』というタバコ屋さんがあっていつもお世話になっています。

シガレット(紙巻タバコ)、シャグ(手巻きタバコ)、シガー(葉巻)、パイプ、キセル、スナフ(嗅ぎタバコ)など扱っている商品が実に豊富で、もちろんスヌースもありました。

タバコ本来の味や香りを楽しみたいので、着香していないものがいいと思ったのですが、残念ながらレギュラータイプは売り切れ。メンソールタイプのものしかありませんでした。残念だのなんだのとごちゃごちゃ申しておりましたら、店長が『アルカポネ・ミント』というスヌースの試供品をくれました。ま、結局メンソールタイプなんですけど、ありがたく頂戴いたしました。

◆体験者は語る

では、スヌースの初体験レポートといきましょう。

 

紅茶のティーバッグのようなスヌース

粉状のタバコが紅茶のティーバッグのような不織布の袋に入っています。大きさは28mm×15mmで、ちょうどSDカードの半分のサイズでした。親指の爪くらいといった方がわかりやすいでしょうか。

パッケージには「一包を歯ぐきと頬の内側に挟んで下さい。味わいの強さは口腔内の水分量によります。」と、使用方法が書いてあります。

メンソールタイプは刺激が強くて歯茎がヒリヒリと痛い

唇を指で引っ張って、スヌースを上の歯の歯茎の奥に挟みました。メンソールタイプだからでしょう、ヒリヒリと刺激が強くて歯茎が痛いです。フリスクとか辛いミントのガムみたいな感じです。

女性が敬遠する理由がなんとなくわかります。唇がもっこり膨らんで鼻の下が伸びたような状態になるし、しゃべっている時にペロとスヌースが見えたらかっこ悪いです。

タバコの香りもするような気がしないでもないですが、ミント感が強いのでなんだかよくわかりません。味は、ぼんやりと甘いです。甘味料として漢方やお菓子でもよく使われる甘草(リコリス)が使用されているようです。砂糖とは違うこざっぱりした甘さです。

 

砂糖とは違うこざっぱりした甘草(リコリス)の甘さ

口の中の水分量によって味わいが強くなるということですが、スヌースに唾液が染みてくると甘みが強くなります。そして、メンソールのヒリヒリ感が炸裂しまして、こりゃたまらん、一旦中断です。噛んでるガムを口から出すような遣り場にこまる感じです。幾人か友人に試してもらったところ、半数くらいは最初の一分以内にリタイアしました。結構痛いんです。スヌースを挟む場所を替えて、下唇の歯茎に移したらこちらの方が敏感なようで激しく痛いです。

気を取り直してリトライしてみます。バーやレストランが全面禁煙のスウェーデンでは酒を飲みながらスヌースを使用するようなので、コーヒーを飲んでみました。コーヒーの水分に触れてスヌースから発揮される刺激がより一層強くなります。口が痛い余談ですが、ニコチンを摂取するとカフェインの代謝が早まるそうです。コーヒーを飲むとタバコが吸いたくなるのは生理的な欲求もあるみたいですね。

使用時間の目安はだいたい30分くらいだというのですが、まだ味がなくなったガムをいつまでも噛んでるような感じで、各々の好みで唇に挟んでいればよいもののようですが、注意書きにこう書いてあります。

・ 本製品はニコチンを含むタバコ製品です。絶対に飲み込まないで下さい。
・ 袋がやぶけている場合は使用しないで下さい。
・ 本製品の使用により気分が悪くなる等の症状が生じた場合には、すぐに使用を中止して下さい。

注意書きです

粘っていつまでも口の中に入れているとあまりいいことはなさそうですね。寝タバコで火事が起きるのと同様に、スヌースの誤飲でニコチンの急性中毒とかありそうです。40分くらして飽きたので口から出して捨てました。

◆嫌煙時代の救世主

スヌースを体験し終えた今、一番何がしたいかと聞かれたら迷わずこう答えます。

「タバコが吸いたい」

喫煙の目的が何かという問題ですが「ニコチンを摂取したい」というよりは「煙を吸い込みたい」ということのような気がします。もっと云えば喫煙というのは「手持ち無沙汰だから何か口にくわえていたい」ということのような気がします。

パイプや葉巻のように、煙を肺まで吸い込まない「口腔喫煙」を初めて体験した時にも同じようなことを思いました。私たち第二次世界大戦以降の世代は肺に煙を吸い込まないと満足感を得られない「シガレット世代」だと云っても間違いではないでしょう。

タバコはあくまで嗜好品なので、だらしない酒飲みのように「酔っぱらえればなんでもいい」というような下品な発想に陥らないようにしたいものですね。嗜好品はエレガントに楽しまなければ悪しき因習です。

副流煙による健康被害を理由に嫌煙ブームの昨今、スヌースはオルタナティヴな提案(代替案)として面白いのではないでしょうか。現にスウェーデンではシガレットよりもスヌースの方が人気があるわけです。煙の出ないスヌースは空気を汚さないので、冬の寒さの厳しい地域で重宝されるのは納得できます。

ニコチンパッチやニコレットで頑張って禁煙するくらいならば、スヌースという選択肢の方が遥かに豊かだと思いませんか?

またひとつ世界が広がりました。次回はもう少し掘り下げて、スヌースの健康被害に関する考察をお届けします。

▼原田卓馬(はらだ たくま)
1986年生まれ。幼少期は母の方針で玄米食で育つ。5歳で農村コミューンのヤマギシ会に単身放り込まれ自給自足の村で土に触れて過ごした体験と、実家に戻ってからの公立小学校での情報過密な生活のギャップに悩む思春期を過ごす。14歳で作曲という遊びの面白さに魅了されて、以来シンガーソングライター。路上で自作のフンドシを売ったり、張り込み突撃取材をしたり、たまに印刷物のデザインをしたり、楽器を製造したり、CDを作ったりしながらなんとか生活している男。早く音楽で生活したい。

ご意見ご感想、もしくはご質問などはtwitter@dabidebowie
このコーナーで調査して欲しいことなどどしどしご連絡ください

《紫煙革命13》世界の男女別喫煙率から見えてくるカラフルなタバコ・カルチャー
《紫煙革命12》実録!タバコ工場見学の巻(後編)
《紫煙革命11》実録!タバコ工場見学の巻(前編)
田中俊一委員長自宅アポなし直撃取材を終えて

いつも何度でも 福島を想え! 『NO NUKES voice』Vol.02

 

《大学異論22》真っ当に誠実さを貫く北星学園大学の勇断に賛辞と支援を!

本コラムでも言及していた北星学園大学問題。田村信一学長が至極全うな声明を9月30日付声明を出して以来、同大学をめぐる状況はさらに悪化し、学外からの攻撃が激化した。一時は非常勤講師として勤務する元朝日新聞記者、植村隆氏の非常勤教員としての来年度契約を「結ぶのが難しい」と田村学長がこぼすまで状況は悪化していたが、同大学は英断を下した。

北星学園大学は12月17日付、北星学園大学理事長大山綱夫、北星学園大学学長田村信一両氏の連名で声明を発表した。詳細は北星学園大学のHPを参照されたいが、近年まれに見る格調の高さと、大学としての覚悟に満ちた歴史的とも言える内容だ。

◆「北星、ようがんばっとるやないか」では済まされない

この決断までには、紆余曲折があったことは既に報じられている。卑劣極まりない脅しや攻撃が北星学園大学だけでなく、植村隆氏さらにはそのご家族にまで及んでいた。安寧な生活が送れないほど植村氏の生活は脅かされていた。

大学の非常勤講師というと、名誉ある仕事であるように響くけれども、はっきり申し上げれば極めて給料の安い仕事である。90分講義を1コマ担当して、1か月2~4万円が相場だ。多くの有名大学在学生は「家庭教師」をすることにより、大学の非常勤講師よりもはるかに高い報酬を得ている。

しかし問題は金ではない。植村氏に対する卑劣な攻撃に対して、一時は腰が砕けそうになった北星学園大学が「この時代本当にそんなことがあるのか!」と驚くほどの勇気ある決断を理事長、学長が下した意味は非常に重い。

「決断」を示す文章が何をも「自負」したり、「構えて」いないことに更に頭が下がる。これまでの経緯を誠実に綴り、ブレがあったことを認めながらも最終的に植村氏の雇用継続に至ったことを包み隠さず語っている。

このような決断を前にすれば、その姿勢に賛辞を送り背中を押した人間達にもそれなりの責任が生じてくる。「北星、ようがんばっとるやないか」では済まされない。自らの名前を名乗る勇気も無い、しかしながら攻撃の手段を選ばない卑劣な輩たちは更に攻撃をエスカレートさせているに違いない。

孤立無援、苦境で戦う時、外部からの支援ほど力になるものは無い。理事長、学長が腹をくくったのだから、内部では議論があろうと頑張ってもらうしかない。幸い今日は誰でも気軽に応援する方法がいくらもある。応援の電話やメールは困難内部にいる人間に、勇気を与える。

私自身、かつて大学職員時代に大きな力で潰されかけた時、見知らぬ人からのメールにより、砕けそうになった心を取り戻し再度自分を奮い立たせることが出来た経験を思い出す。

私は暴虐の時代に決然とした姿勢を明らかにした北星学園大学に最大級の賛辞と賞賛、更に少ないけれどもカンパを送る。

◎関連記事?《大学異論11》「草の根ファシズム」の脅迫に抗した北星学園大学にエールを!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

速報!『革命バカ一代』塩見孝也氏が清瀬市議選に出馬へ!
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いつも何度でも福島を想う

 

《脱法芸能28》中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)

中森明菜が自殺未遂事件を起こしてから、所属する芸能事務所、研音から独立に至るまでには、その背後で大人たちが綱引きを繰り広げていた。

◆メリー喜多川の意向で進んだ明菜の移籍先

中森明菜『LIAR』 (1989年4月ワーナー・パイオニア)

1989年7月11日、近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂事件を起こした明菜は、しばらく病院に入院した。そして、退院3日前の8月2日、都内某所で関係者が集まって会談をした。出席者は、研音の花見赫(あきら)社長、ワーナーパイオニアの山本徳源社長、ジャニーズ事務所のメリー喜多川副社長、それにメリーが連れてきたMMGレコードの小杉理宇造社長、音楽評論家の安倍寧の5人。

その席上、メリーは機先を制するように言った。

「あなた方、明菜の自殺の原因が何だか知っているんですか。山本さんの会社の社員のことをいっては何ですが、おたくの寺林さんが明菜を独立させようと画策したからなんですよ。寺林さんは事務所(研音)やスタイリストなどの悪口を明菜に吹き込み、人間不信になった明菜が自殺したんです」

会談はメリーのペースで進み、翌日、小杉社長が明菜を預かることが決まったという。

ワーナーパイオニアの制作本部長、寺林晁は確かに明菜と親しく、明菜の独立に向けた活動を進めていたらしい。自殺事件の2日前にも明菜と六本木で食事をし、「どうして私のマネージャーはくるくる辞めてしまうのか」「事務所に搾取されてしまうのではないか」といった相談に応じていたという。

研音は明菜が入院中、担当医に診断書を要求したが、明菜がそれを拒絶したというし、警察が明菜に事情聴取をした後で花見社長に対し「おたくの事務所はひどいらしいですね」と言ったという。

また、明菜の母親が「マネージャーにお金を騙し取られたのよ。億単位の金だったから、自殺するのは当たり前じゃない」と明かしていたという話もある。

同年12月31日に行われた「中森明菜復帰緊急記者会見」で明菜は、「自殺の原因は?」と聞かれ、「私が仕事をしていて、一番信頼していた人が、信頼できなくなったことです」と答えていた。

◆明菜に隠れて金を受け取っていた家族との決別

明菜は自殺未遂事件の後で家族と関係が悪化したが、その理由も研音に関わることだった。明菜が事件を起こして病院に運ばれたとき、駆けつけた父親が「事務所やレコード会社に謝れ!」と叱った。実は明菜の家族は、毎月100万円から200万円を研音から給料のような形でもらっていたが、明菜はそれを知らなかった。

「私に隠れてお金をもらって、それなのに死のうとまでした私を罵倒するなんて、私は絶対に親を許さない!」と言って明菜は怒り、家族と絶縁した。

確かに自殺未遂事件の前から明菜は研音に対する不信感を持っていたようだ。そして、それはメリーの思惑とも合致していた。当時、明菜は近藤と結婚したいという希望を持っており、その近藤をエサにすることでメリーは明菜をコントロールできる立場にあった。

近藤は翌年にデビュー10周年を控え、大事な時期だった。メリーとしては明菜の自殺未遂事件の原因を研音のせいにして、近藤は無関係ということにしたかった。メリーが「マッチの立場も考えてあげて」と言えば、明菜は何でも言うことを聞いた。

そして、メリーは明菜を研音から独立させ、自分の子飼いである小杉の事務所に所属させようと画策した。メリーにとっては、明菜が研音に預けているよりも、自分の周辺にいる方がコントロールしやすく都合がいい。また、自分とは別に明菜に接触し、独立をそそのかしていた寺林は邪魔な存在だったから、先の5者会談で「自殺の原因」として糾弾し、明菜利権から排除しようとしたのである。

メリーが連れてきた小杉は明菜にとっても、信用の置ける人間だった。小杉はかつてRCAレコードの社員として近藤のプロデュースをしたことがあった。明菜は近藤に熱を上げるあまり、近藤と接点があるというだけで人を信用する傾向があった。

大晦日の記者会見で明菜は「すてきなスタッフが一緒だったら、つらいことも耐えていけると思って頑張ります」と語っていたが、「すてきなスタッフ」というのは、小杉のことを指している。

◆移籍金で拗れ、人間不信に陥った明菜の孤独

だが、年末の記者会見の段階では確定していた、明菜が研音から独立し、小杉が預かるという路線は暗礁に乗り上げた。

まず、移籍金問題が明菜復帰を阻んでいるという報道があった。研音としては明菜を待っていても戻ってこないとあきらめたが、それでも明菜は「金のなる木」だ。「明菜が独立するなら、10億円を支払え」と研音側が小杉側に主張したという。その額は10億円とも言われ、レコード会社がこれを立て替えるという案も浮上した。

次いで出てきたのが、明菜の身元引受人だった小杉が明菜に手を焼いているという話だった。完全主義者で自己主張の強い明菜には小杉ももてあまし、「自分はもう手を引くから、研音でもう1度、明菜を引き取ってくれ。研音が明菜を引き取らないなら、4億円の移籍料で明菜を独立させたいが、どうだろうか」と打診したという。

こうしたトラブルも解消されたのか、90年2月23日、明菜のための新事務所である株式会社コレクションが登記された。ワーナー・パイオニアが9割を出資し、代表取締役は小杉の片腕とされる中山益孝社長で、明菜も取締役に名を連ねた。

だが、コレクションと明菜はうまくゆかず、91年、明菜は新しい事務所、コンティニューに移籍することとなった。当時、明菜と親しかった、フリーの番組ディレクター、木村恵子の暴露本『中森明菜 哀しい性』(講談社)によれば、コンティニューは運営資金を明菜の移籍に際してビクターから支払われた3億5000万円に頼っていたが、経営陣は高級外車を何台も購入したり、必要以上に豪華な事務所を借りるなどして短期間のうちにそれをすべて使い果たし、明菜に支払われなければならない1億円のアーティスト料も支払わなかったという。結局、明菜はコンティニューとも喧嘩別れして、93年からMCAビクターがマネジメントの窓口も担うことになった。その後も明菜はレコード会社と芸能事務所を転々と渡り歩いた。

明菜が歌えば、CDが売れ、コンサートに大勢のファンが集まる。「金のなる木」である明菜には、様々な人間が群がり、たびたび騙した。次第に人間不信に陥った明菜は、人を寄せ付けなくなっていった。

そうした中で、明菜の芸能活動は低迷を続けた。2010年10月以降は、体調不良を理由に芸能活動を休止し、公の場に姿を現していない。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。
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《脱法芸能27》中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)

中森明菜と松田聖子は、ともに80年代を代表する女性歌手であり、よく比較されてきた。

聖子がデビューしたのは80年。その2年後の82年に明菜はデビューした。2人は歌謡界で頂点を極め、ともに所属事務所から独立したが、独立後の芸能活動は対照的だった。

◆明菜を手土産に研音社長に就任した日本テレビのプロデューサー

「ファム・ファタル〔Femme Fatale〕」(1988年8月ワーナー・パイオニア)

明菜は81年、16歳の時、日本テレビの歌手オーディション番組『スター誕生!』に出場し、翌年、『スローモーション』でデビューした。

『スター誕生!』では合計11社の芸能事務所やレコード会社が獲得の意向を示すプラカードを上げ、記録的なオファー数だったという。その中から、明菜が選んだのは、研音だった。研音というと、今では大手事務所となったが、当時は有名タレントは一人もいなかった。明菜が研音を選んだのは、『スター誕生!』のプロデューサーが研音を推薦し、両親も「研音にしよう」と言ったためだという。

研音は笹川良一の日本船舶振興会と関係が深く、資金も潤沢だったという。明菜の家族は貧しかった。研音は多額の契約金を積んだのだろう。そして、明菜の研音入りと同時に日本テレビのプロデューサーだった花見赫(あきら)が研音の社長に就任した。明菜は研音への手土産のようなものだったと言われる。

◆1989年の自殺未遂事件──「だって、私は本当に死ぬつもりだった」

そして、デビューから7年目の89年に衝撃的な事件が起きた。同年7月11日、明菜は当時交際していた歌手の近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂事件を起こしたのだった。

明菜はデビュー直後、17歳の時から近藤と交際し、7年間、同棲していた。89年1月23日、2人はパリで家具を購入しているところを目撃されていた。その後、2人はハワイに移動し、明菜だけが一人で帰国し、近藤はニューヨークに渡った。その頃、ニューヨークには、全米デビューの準備をしていた聖子がいた。

聖子が宿泊していたパークレーンホテルのワンブロック離れたところに、あまり日本人が利用しないエールフランスのホテルがあった。そこで2月2日、3日とかけて聖子と近藤が密会しているところを写真週刊誌に撮られてしまった。

明菜はこれにショックを受け、体重が36キロにまでやせてしまったという。明菜が自殺未遂を起こしたのは、聖子と近藤の密会報道の3ヶ月後のことだった。

一時、明菜と親しくしていた元番組ディレクター、木村恵子の暴露本『中森明菜 哀しい性』(講談社)によれば、明菜は「だって、私は本当に死ぬつもりだったし、彼とは七年間もずっと一緒にいたから」と、いつも繰り返していたという。明菜の自殺未遂事件は、巷間で言われているように近藤との関係に思い悩んだ末に起きたものだと考えられる。

◆大晦日の謝罪会見──明菜は近藤との婚約発表だと思っていた

この時期、明菜の主導権を握っていたのは、ジャニーズ事務所の副社長、 メリー喜多川だった。明菜は事件の後も近藤との結婚を望んでいたから、近藤が所属するジャニーズ事務所との関係を良好なものにしたいと考えていた。近藤と結婚するためには、メリーに気に入られなくてはならない。

自殺未遂事件直後の7月27日、ジャニーズ事務所はマスコミ各社に明菜がメリーに送った手紙を公開した。その中で明菜は、「自分勝手な行動を取ってしまったと反省しています。今度の事は近藤さんにはまったく関係ありません」と述べている。その翌日、近藤のコンサートがあった。

そして、暮れも押し迫った頃、「婚約発表をするから、マッチと一緒にテレビに出てくれ」というオファーが明菜の元に舞い込んできた。電話で連絡していた近藤からも、同じ趣旨のことを言われた。

12月31日、すっかり舞い上がった明菜はめかし込んで記者会見に出かけていった。だが、会場に行ってみると、婚約発表ではなく、近藤に対する謝罪会見だと知らされた。会見で明菜は訳も分からず、近藤への謝罪の言葉を口にさせられた。

明菜に自殺未遂事件を起こされて以来、近藤に対する風当たりは強く、芸能活動も振るわなかった。それを何とか挽回したいと考えたメリーは、明菜の自殺未遂事件と近藤を切り離すべく、あの手この手を使って工作を仕掛けていたのである。

そして、自殺未遂事件から、「みそぎ会見」に至るのとほぼ同時期に明菜の独立騒動が持ち上がっていた。(続く)

▼星野陽平(ほしの ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

『芸能人はなぜ干されるのか?』

好評連載!星野陽平の《脱法芸能》

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