『NO NUKES voice』11号!格闘家、前田日明激白「日本国メルトダウン」!

 

2011年3月11日から6年が経過した。あの日がなければ『NO NUKES voice』は発行される必要があっても、実際に世に出ることはなかったであろう。いま私たちは確実に核種が膨大に飛散し汚染された国土で生活をしている。そのことはとりもなおさず、日々人間だけではなく、動植物が「被曝」していることを意味する。原子力=核の問題根源は「被曝」だ。「被曝」が動植物の遺伝子を破壊しその健康状態や生命に悪影響を及ぼすから、「原子力=核」は極めて危険であり、生物が生きることと相いれないのだ(自然放射線はどうなんだ? という愚問は横に置く)。

◆「被曝」への危機感の薄さに苛立つ

「そんなことは知っている」と言われる向きもあろうが、実はなかなか理解されていない。悔しいけれども『NO NUKES voice』の認知度と変わらないほどに一般社会では「被曝」についての危機感が薄い。反・脱原発運動にかかわる人の中にすら、被曝問題を軽視する方もいる。専門家が何千回と警告を発し、原爆をはじめとする核災害の被害者が体を示してその恐ろしさと危険を示しても、まだ、本当の恐怖を理解してもらえない。

そうであれば仕方ない。この際、腕力で「被曝」の恐ろしさを知っていただこう。

腕力ではなかった。格闘技と表現せねば正確ではない。明日15日発売の『NO NUKES voice』には格闘家、前田日明さんが登場し、「被曝」の危険性から、少子化問題をはじめとする現代社会の諸問題、サンフランシスコ講和条約の欺瞞にまで踏み込んで読者にマウントポジションから遠慮のないパンチをぶつける。題して「日本国メルトダウン──原発を止められないこの国を変えるために」だ。

◆前田日明によるタブーなき場外乱闘「原発論」

前田さんは知る人ぞ知る読書家であり、歴史にも造詣が深い。そして独自の世界観を確立されている。前田さんのご意見は本誌編集部の歴史観や政治観と必ずしも多くの部分が重なるわけではない。だからこそ本誌編集部は前田さんが本音を語っていただいたことに深い感謝を感じるのである。われわれは多様な意見を尊重しながら、反原発の立場から脱原発を実現したいと思う。『NO NUKES voice』に前田さんがご登場いただいた意義が大きいのは、言論の多様性をわれわれが実践したいとの思いが伝わったからだと信じたい。われわれは前田さんの主張が批判を含め議論を喚起することを期待する。原発賛成の方にとっても必読のインタビューだ。

◆前田日明は「暗黙の掟」を破って本気の蹴りをさく裂させた

何年前になるだろうか。前田さんが新日本プロレスの若手として台頭していたころの姿を思い出す。新日本プロレスではアントニオ猪木が負けてはならず、全日本プロレスではジャイアント馬場が時に負けてもPWFのベルトだけは手放さない。これが見る側の常識とプロレス界の黙約であった。観客の本音は血を見たいくせに、最後は勝者が決まっている、いわば大掛かりな肉体演劇。タイガージェットシンがサーベルを持ってリングに上がれば、あの鋭い剣先で相手を刺せば良いものを、シンはサーベルの持ち手の部分で相手の顔面を殴ることしかしない。
「なんで刺さないの?」と親に聞いたら、
「本当に刺したら死んじゃうじゃない」
と至極真っ当ながら、子供にすればどこか興ざめな「解説」をしてもらった記憶がある。

ボボ・ブラジル(リングネームからはブラジル出身レスラーのように思えるが実はアメリカ国籍)は花束贈呈役、着物姿の女性から花束をむしり取ると花束を食べだす。なんたる野蛮で怖い人間がいるものか、と本気で恐怖にかられてけれども、あれも「演技」だった。アブドラザ・ブッチャーは白いズボンの中に先の「尖っていない」凶器を潜ませていた。レフェリーは見えているのに見えないふりをする。

子供心に「世の中は、ああそういうものか」と、当時のプロレスはある種の社会教育の役割も果たしてくれていたのだ。

ところが相手レスラーが誰であったかは忘れたが、まだ当時売り出し中の前田さんが「暗黙の掟」を破って本気の蹴りを相手の顔にさく裂させたことがある。格闘技好きにはたまないシーンのはずなのだが、テレビを見ているこちらがヒヤッとした。鍛え抜かれた人間の本気の蹴りと演技くらいは毎週二回プロレス中継をテレビで見ているだけの子供にでもわかる。

◆前田日明の蹴りには「怒り」こそあれ、「演技」は微塵もなかった

前田さんの蹴りには「怒り」こそあれ、「演技」は微塵もなかった。あれは当時のプロレスにあっては絶対にご法度(少なくとも見る側にとっては)の本気の蹴り、いわば「世の中はうそだ!」と言わんばかりの暴露にも近い衝撃を与える事件だった。

その「予定調和」を崩した若き日の前田さんは、のちに総合格闘技に転じるが、「予定調和崩し」の迫力がここに再現される。前田さんの「世界観」を存分にご堪能いただきたい。

[文]伊藤太郎 [写真]大宮浩平

『NO NUKES voice』11号3月15日発売開始!

大阪・ミナミ通り魔殺人控訴審「死刑破棄」をまったく予想できなかった理由

2012年6月に大阪・ミナミの路上で2人の男女が殺害された通り魔殺人事件で、殺人罪などに問われた礒飛京三被告(41)の控訴審判決公判が9日、大阪高裁で開かれ、中川博之裁判長は「計画性は低く、精神障害の影響を否定できない」などと述べ、一審・大阪地裁で裁判員らが下した死刑判決を棄却し、無期懲役を宣告した。この結果は私にとって、大変意外なものだった。前回公判を傍聴した際、死刑が回避されそうな雰囲気は微塵も感じられなかったからである。

礒飛被告が凶器の包丁を購入した現場近くの百貨店

◆「地裁の判決に従ってもらいたい!」

「今からでも遅くはありません。すみやかに控訴を取り下げ、地裁の判決に従ってもらいたい!」

昨年12月22日、大阪高裁の第201号法廷。被害者参加制度を利用し、公判に出席した被害者遺族の男性は証言台から被告人と弁護人に対し、怒鳴りつけるようにそう言った。被告人席の礒飛被告は表情こそポーカーフェイスだったものの、メモをとる手がとまって身をすくめ、遺族の怒りの意見陳述に気圧されているような雰囲気が窺えた。

覚せい剤取締法違反で2度の服役歴がある礒飛被告が事件を起こしたのは、2度目の服役を終え、出所した翌月だった。生まれ育った栃木で仕事が見つからず、刑務所内で知り合った男から「仕事を紹介してやる」と言われて大阪へ。しかし、紹介された仕事は詐欺や覚せい剤の密売人だったため失望。そして翌朝、覚せい剤精神病による「刺せ。刺せ」という幻聴に促され、ミナミの路上で音楽プロデューサーの南野信吾さん(当時42)と飲食店経営の佐々木トシさん(同66)の2人を包丁でめった刺しにして殺害したのだ。

◆遺族の陳述により死刑維持の雰囲気が出来上がっていたが……

一審・大阪地裁の裁判員裁判は責任能力の有無が争点になったが、判決は犯行時の礒飛被告に完全責任能力が認め、死刑を選択した。この地裁の死刑判決に従うように法廷で礒飛に求めた冒頭の男性は、南野さんの実父Aさんだ。近年、心臓と大腸ガンの手術を相次いでうけ、「今ここに立っているのが奇跡に近い状態」というAさんが気力を振り絞って繰り広げた20分余りの意見陳述は怒りと悲しみに満ち溢れ、凄まじい迫力だった。

「生命の代償は、生命しかありえない!」と礒飛に強く訴えたかと思えば、亡き息子になりきり、「これからという時になぜ、俺を刺す? なぜ、君は音楽に救いを求めなかったのか?」と礒飛に語りかけたAさん。礒飛被告にとって、遺族から浴びる怒りや憎しみの言葉は検察官の死刑求刑などよりはるかに重く感じられたことだろう。

その後、佐々木さんの長男や南野さんの妻も意見陳述したが、「一審の判決後、弁護士を通じて謝罪文を渡したいと言ってきましたが、控訴しておいて何を謝罪するんですか」(佐々木さんの長男)、「夫は還ってこないのに、なぜ礒飛は生きているのでしょうか」(南野さんの妻)などとそれぞれ被害者遺族ならではの鎮痛な思いを吐露。この時も法廷は終始、緊迫したムードだった。遺族の意見陳述が終わった後、礒飛被告が被告人質問で「本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」と反省の言葉を述べたが、裁判官たちが心を動かされたような様子は微塵も感じられなかった。この公判を傍聴していて、死刑判決が破棄されることを予想できた者はおそらくいなかったろう。

2008年12月に被害者参加制度が始まって以来、同制度を利用して刑事裁判に参加した犯罪被害者や遺族が被告人に質問したり、求刑意見を述べるケースは年々増えている。この件に関し、裁判官や裁判員が犯罪被害者や遺族の意見に影響され、厳罰化が進むのではないかと指摘する声は一部にあるが、私もその指摘は当たっているのではないかと思っていた。しかし、この裁判の控訴審は遺族の意見から完全に独立したものだった。裁判とは、本当に先が読めないと私は再認識させられたのだった。

礒飛被告が南野さんと佐々木さんを刺殺したミナミの路上

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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キックボクシングは何ラウンド制が妥当なのか?

延長戦が採用されたオープントーナメントで全6ラウンドを戦った足立秀夫(左)(1983.1.7)

「5回戦から3回戦に短縮されたこと、どう思われますか?」

2004年4月、新日本キックボクシング協会もついに3回戦化された頃、ある役員からこんな質問を受けました。反対意見を幾つか述べさせて頂いた後、仲間内の某記者に話したところ、「改革直後は批判多くても、やがて順応しますよ、ボクシングだって世界戦が15回戦から12回戦になった時も何かと反論出たけど、それも収まってこれが当たり前になったし」という返答。改革というものは馴染んでしまえば解決したことになるのでしょうか。

◆90年代、K-1ブームに触発され導入された3回戦

来日後もあらゆるルールの下、試合をこなしたゴンナパー・ウィラサクレック。3回戦でも5回戦でも問題なし

1990年代前半にK-1が出現し、ヒジ打ち禁止、首相撲無しの3回戦が行われていきました。テレビ向きと言われたルールでラウンドの少なさ、1ラウンドからアグレッシブに展開し、凡戦になっても3ラウンドで終わる飽きない展開は、“お茶の間目線の競技”でした。

そのブームで、キックボクシング界にも恩恵が回って来ることは結構なことでしたが、やがて先駆者的立場であるはずのキックボクシングの各団体がその3回戦ルールを取り入れ出しました。メインイベンタークラスまでも3回戦が定着。アグレッシブさが増し、凝縮された展開に「短縮は正解」と喜ばれる反面、反対論者も多く居たことは確かでした。

古いキック関係者の中には、「キックボクシングはパンチ、キックで終わらない4ラウンドからの首相撲とヒザ蹴りを含めたスタミナ勝負の苦しさ激しさが増し、その流れをカットしてしまってはキックボクシングではない」という意見もありました。

ある団体では、ラウンドを短縮した理由に「ムエタイでは1~2ラウンドは様子見、3~4ラウンドに勝負を懸け、5ラウンドは流すだけ、といった中の、アグレッシブな3ラウンドを見せるのがコンセプト」という説明をされたことがありましたが、その3回戦によって引分け試合が多くなる事態もあり、初回から主導権支配し続けないとポイントで優ることは難しく、しかし3回戦になっても様子見は必要で、戦略が狂う選手も多かったと言われます。

「プロボクシングは最低4ラウンド見なければ選手の技量が量れない、だから新人でも4回戦なのではないか」とは某テレビ解説者のどこかのメディアでの説明がありました。

ボクシングが4ラウンドならば、キックは3ラウンド見なければ技量が量れないと思いますが、メインクラスでも3回戦では、そこからの展開が見られないのは惜しい気がします。

ところが近年、ムエタイの本場タイ国でも3回戦が増えているそうなのです。タイも日本同様にケーブルテレビなどや、デジタル放送の新しい放送局が急速に普及し、ムエタイも大事なコンテンツとなり、そこで視聴者目線の3回戦が流行り出したようです。しかし断然日本と違うのは、二大殿堂スタジアムや政府管轄下のタイ国ムエスポーツ協会認定試合は“公式5回戦”がブレずに行われており、さすがに国技と思わせるものですが、日本にはそんな法律も管轄する公的機関も無いので、私的団体の主催者都合のキックボクシングのままで、「本来の5回戦に戻さねばならない」と考えが及ぶ関係者も多いのです。

◆かつては7回戦も10回戦も存在した

日本人キックボクサーとして唯一10回戦フルラウンドを戦った千葉昌要(左)。しぶとい戦法が定評だった
7回戦フルラウンド戦ったのが葛城昇、延長戦を申し入れるほど闘志満々だった。画像はその後のもの(1986.3)

キックボクシングを世界的な競技に育て、ワールドチャンピオンカーニバルなるものを発案していた野口修氏は、1981年(昭和56年)1月にWKBA世界王座決定戦2試合を初開催し、そこでは世界戦としてグレードを上げ10回戦が行われました。

ウェルター級で富山勝治(目黒)vs ディーノ・ニューガルト戦、ジュニアウェルター級で千葉昌要(目黒)vs ハワード・ジャクソン(米国)戦を行ない、富山は1ラウンドに強烈なパンチを食らってダウンし、朦朧と9ラウンドまで粘るもこの回2分41秒KO負け。千葉は激しく打たれつつも善戦の判定負け。過去10ラウンドをフルに戦ったのは千葉昌要とハワード・ジャクソンだけだったことになります。
(補足ですが、1979年に藤原敏男がノンタイトル10回戦出場した記録は1R・KO勝利。他、プロ空手等では世界戦で2分制12回戦が存在)

その後、行われたWKBA世界戦では5回戦か7回戦で、1996年6月、新妻聡(目黒)がヘクター・ペーナ(米国)に挑み、6ラウンドKO負けでしたが、過去にも日本国内で7回戦は存在しました。

1982年1月4日に行なわれた日本プロキック連盟4階級王座決定戦は、それまでの5回戦を打ち破り、「チャンピオンは7回戦を戦えるスタミナを持っていなければならない」をコンセプトに7回戦制を実施も、いずれも5ラウンドまでにKOで決着する展開でした。

1983年に行われた1000万円争奪オープントーナメントの決勝戦(2試合)で7回戦で行われ、5ラウンドまでにKOで決着がつく、多くの7回戦がなぜか7ラウンドも要らないかのようなKO決着でしたが、その前年の5月に日本プロキック・フェザー級王座決定戦で、玉城荒二郎(横須賀中央)vs 葛城昇(北東京キング)戦だけが7回戦で引分け、唯一フルラウンド戦った試合でした。

以上の現実を考慮しつつも、「6回戦以上の長丁場は必要か」というラウンド短縮とは真逆の観点で考えると、これは戦った者に聞いて見るしかないですが、3回戦しか経験がない選手と7回戦制を経験した選手とでは意見が別れるでしょう。

典型的キックの申し子・立嶋篤史、5回戦で数々の話題を残した、かつての全日本フェザー級チャンピオン

「段階的なシステムとしては必要かもしれませんが、5回戦を超えるラウンドは戦略的にやり難い気がします」という7回戦経験者の意見と、「5回戦が妥当、新人は3回戦から勝ち上がって5回戦に昇格するシステムがあった方が目標を持ちやすく、これを超えるラウンドはムエタイでは行わないし、キックでも必要とは思えない」という1990年代に王座挑戦を経験した選手の意見がありました。王座決定戦での延長戦で6ラウンド目に入るパターンは最近でも行われるものの、公式戦で6ラウンド以上は、ここ20年は行われていません。

◆原点に返ろうとする5回戦は定着するか?

団体側やプロモーターが「3回戦でやっていく」と宣言すれば選手や若いジム会長はそれに従うしかありません。タイトルマッチだけは5回戦を崩さない団体は多いですが、ノンタイトル戦でも5回戦を希望する選手も増えており、メインクラスだけ5回戦を認める団体や興行も増えています。

こんな時代に「自分たちがやってきたキックボクシングの原点に返ってヒジ打ち有り5回戦を貫いていく」というコンセプトで始まったのが小野寺力氏が始めたイベント「KNOCK OUT」です。そして「ここに出るんだ」という目標を持ってリング上でマイクアピールする選手が増え、他団体興行でもアグレッシブに攻める試合が増えました。

一方でK-1の“ヒジ打ち禁止3回戦”の存続もあり、ビッグマッチ中心のイベント的には二つの柱が共存する現在です。今後“K-1とKNOCK OUT”のどちらの影響が現れるでしょうか。全国的に浸透しているのがかつてのブームK-1で、KNOCK OUTによるキックファンが増えている現在、群集の力は凄いもので、どちらかの意見の総合力が業界全体に導く結果となるでしょう。偏見な理想論ですが、“5回戦奪還”は馴染んでしまえば解決となるでしょう。

いずれも5回戦が当たり前の時代にキック人生を送った佐藤正男(左)、小野瀬邦英(中央)、渡辺信久代表(右)(1997.2.23)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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TOKYO 3・11──理由なき過剰規制と発動する従順スイッチ

[参考動画]渋谷3・11

大きなガラス越しに見える東京湾方向ビルの上には黒い煙が見える。都心中央の地上6階にあるこの温泉は揺れに揺れた。サウナに入り共有スペースで韓国から遊びに来た友人夫妻とビールでも飲もうかと、飲食スペースに移ったときに揺れは始まった。耐震建築だろうから、それでも崩壊してしまえば運が悪かったとあきらめるしかない。でも地震経験がほとんどないであろう友人の奥さんには、気の毒すぎる経験となる。

友人はほぼ完全な日本語を話すことができるから、「とりあえずじっとしているしかない。天井には落ちてきそうなものはないけど、奥さんを念のためテーブルの下に頭を入れて」と頼んだ。

[参考動画]東京タワー3・11

大きな船に乗って感じる「時化(しけ)」のような揺れは次第に激しさを増す。外が見渡せるようにしつらえられたガラス窓が割れたら、パニックが起こるだろうし怪我人も出るだろう。数分の揺れが少しおさまったのですぐに「急いで着替えて外に出よう」と夫妻に告げた。床のあちこちに水があふれ、そこに腰を抜かしたご婦人が座り込んでいる。

温泉だけでも数百人は入っているだろうから、さらに上位階の人々が非常階段に殺到したら、そこでの将棋倒しが怖い。長く激しい揺れは気持ち悪かったが、私は阪神大震災を経験している。あの時の揺れが体に染みついていて、ある種の耐性のようなものになっていた。

[参考動画]赤坂3・11

非常階段を降りて地上に出た。地下鉄の出口から人波が駆け出してくる。当然地下鉄は止まっている。地下鉄駅近所の公園に多くの人が集まっていた。周囲に高層ビルがなく災害時の「避難場所」に指定されているからだろう。余震は続く。高いビルがお互いの距離を縮めるように不規則に揺れている。隣に立っている会社員風の若い男性がスマートフォンでテレビのニュースを受信し始めた。

「揺れ激しかったですね」
「死ぬかと思いましたよ。でも東北がやばいみたいです。もう津波来てます」

[参考動画]秋葉原3・11

男性の持つスマートフォンからは早くも、東北地方を襲った津波を撮影した映像が映し出されていた。友人はすべてを理解し、奥さんにハングルで状況を説明している。地震体験のない韓国から来た友人の奥さんは、本当に怖かったろうに、思いのほか冷静で、むしろそのことに驚かされた。

「震源が三陸沖でこの揺れだとまだ余震がかなり続く。電車もいつ動くかわからないだろうからとりあえず歩こう」私は友人にそう提案して三人で投宿地、池袋駅へ向けて歩き始めた。

ビルの6階で感じた揺れは、ずいぶん長かったし大きかったから街中の被害はかなりのものだろうと想像していたが、歩きながら街を観察すると、少なくとも外見は思いのほか(と言っては東京でも被災され亡くなった方もいるので失礼にあたるが)被害が少ない。建物の被害は古い民家に集中していて、それも「崩壊」というまでのレベルではない。これまた阪神大震災の経験が無意識に揺れと被害の関係を比較させるのであろうか。

[参考動画]横浜ランドマーク展望レストラン(70階)3・11

小学校からは防空頭巾をかぶった児童たちが集団下校している。その場で取りうる限りの「防災対策」を少なくとも小学校はとっていることを目の当たりにした。しかし訓練ではない防空頭巾を被った小学生集団下校の列には、地震直後にもかかわらず、自然災害と全く無関係な怖さも感じた。

1時間強ほど歩いたであろうか、目的地池袋駅に到着した。しかし多数ある池袋駅の入り口はすべて閉鎖されていて駅構内を通り抜けることができない。私たちが泊まっていたホテルは駅の向こう側である。駅の構内を通り抜けるか、おそらく大きく遠回りをしなければたどりつけないのだが、恥ずかしいことに私は池袋駅周辺の地理がほとんどわからない。迂回するにしても誰かに聞かなければたどり着くことはできないだろう。

[参考動画]液状化3・11

蟻が密集したように、数千人の人が、駅の封鎖解除と電車運転の再開を待っている。日が傾いてきて寒さも増してきた。友人は私と同年齢だ。韓国には兵役がある。かれは徴兵されたときに朝鮮との国境沿い(危険度がかなり高いとされる場所)に配置されたそうで、実戦の経験こそないが夜間に銃撃戦を経験したことがある、と過去に何度も聞いていた。日本に長く住んでいたから小さな地震の経験もある。

「どうしようか。このままでは膠着状態だよ。もしここが韓国だったら市民はどう行動する?」私がそう聞くと
「日本人はおとなしいね。さっきの温泉でも火事があるかもしれないのに精算の列に黙って並んでいたでしょ。あんなこと考えられない。自分の命を守るために脱出すると思うな」

[参考動画]品川3・11

「だから、私が精算係に『こんなことしている場合じゃない、早く非常階段を開放しろと怒鳴ったんだよ』」
「田所さんは日本人じゃないから(笑)。でも駅だって電車が止まっているだけだから封鎖する理由ないんじゃないかな」
「そうだよ。これはおそらく治安対策で、万が一の暴徒化に備えているんだと思う。そうと決まれば答えは簡単だな」
「アリゲスムニダ(わかりました)」
といたずらっぽく答えた友人は、私たちが言葉では相談してはいないけれども内心同意した行動を奥さんに説明し始めた。
「いいかな? もし警察が捕まえに来たらハングルだけをしゃべるようにね。先頭は私が歩く」

[参考動画]靖国3・11

頷いた奥さんの顔を確認して、三人は規制線の最先端まで人波をかき分けて進んだ。
「行くよ」
と声をかけて私は規制線のロープを持ち上げて誰もいない池袋駅構内に足を踏み入れた。友人と奥さんが続く。なんのことはない。警察も駅員も誰も私たちをとがめはしない。やましいことはないので悠々と歩く。規制線の向こう側からは多数の人が私たちを眺めている。でも誰も私たちに続こうとしない。

「これが日本だね。日本の良いところでもあるし、日本人の弱いところでもある」
そろそろ目的の出口に近づいたころ友人が口走った。

[参考動画]池袋3・11

「そうだね。そうかもしれない」
出口では警察官が数人立っていて駅構内への人の入りをけん制している。私たちはその逆からやってきて警察官の背中を見ながら規制ロープを持ち上げて駅の外へ出た。

「しかし考えてみれば怖いね。理由の説明もなく駅が封鎖されても誰も文句を言わない。23区内で今日よりもう少し大きな地震が起きたら自家用車は使用禁止になるらしいし」
「北韓(朝鮮)が攻めてきたらソウルもそうなるよ」
「それは戦争でしょ」
「ああそうか」

「日本では別に大規模な訓練をしているわけでもないけど、市民はこの通り不気味なくらいおとなしい。規制に理由があれば仕方ないけど、あのまま駅の向こうにいたら、夜まで待たされていたよ」

[参考動画]ミヤネ屋放送時3・11

東北地方の惨事を知りながら、まだ原発が危機的状況にあることを知らなかった3・11夕方都心にいた私の最も強い印象は不謹慎にも、人々の行動の過剰なまでの整然さ(不気味さ)であった。不必要に整然とした人々の姿は時に不可視のようでいてますます常態化しているかのような感覚がある。錯覚か。

理由なく規制された池袋駅構内を歩いて通過した人は、われわれのほかにもいたのか、いなかったのか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。


[参考動画]NHK3・11

『NO NUKES voice』11号3月15日発売開始!
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本日「逆転無罪」確定! 冤罪被害者の煙石氏が警察・検察・裁判官の悪事を告発

2012年10月に広島の放送局「中国放送」の元アナウンサー・煙石博(えんせき・ひろし)氏(70)が自宅近くの銀行店内で他の客が記帳台上に置き忘れた封筒から現金6万6600円を盗んだ容疑で逮捕された事件について、本日(10日)午後3時から最高裁第二小法廷(鬼丸かおる裁判長)で煙石氏の上告審判決公判が開かれる。

煙石氏は一貫して無実を訴えながら、1審・広島地裁で懲役1年・執行猶予3年の有罪判決を受け、2審・広島高裁でも無実の訴えを退けられたが、最高裁は本日、煙石氏に逆転無罪判決を宣告することが確実視されている。それに先駆け、7日に広島弁護士会館で弁護人・久保豊年弁護士と共に会見を開いた煙石氏は、改めて無実を訴えると共に自分を冤罪に貶めた警察、検察、裁判官たちの悪事を告発した――。

◆4年を超す人生の貴重な時間を奪われた

最高裁では1年に数千件の事件で判決や決定を出しているが、2審までの有罪判決を覆し、逆転無罪判決を出すことは年に1件あるかないかだ。そんな中、煙石氏が本日、最高裁で逆転無罪判決を宣告されるのが確実視されている理由は、先月17日、最高裁第二小法廷で弁護人と検察官がそれぞれ弁論する公判が開かれたことだ。最高裁は通常、審理を書面のみで行い、公判審理を行うのは、「2審までの結果が死刑の事件」と「2審までの結果を見直す事件」に限られる。煙石氏は後者に該当するとみられているわけだ。

当欄で2013年よりこの事件が冤罪であることを伝え続けた私としても、この明白な冤罪事件の裁判が逆転無罪という形で決着するのは大変うれしいことだ。だが、だからといって、おめでたいことだと喜んでばかりもいられない。なぜなら、このような明白な冤罪事件で逮捕、起訴され、2度も有罪判決を受けた煙石氏やご家族は4年を超す人生の貴重な時間と膨大な裁判費用など様々なものを奪われたからだ。

その煙石氏が7日に広島弁護士会館で開いた会見で読み上げた声明文について、今のところ全文公開しているメディアは見当たらない。警察、検察、裁判官がいかにひどかったかを詳細に訴えたその内容をより多くの人に知ってもらいたいので、いよいよ逆転無罪判決が出る今日、ここで全文を公開しよう。

・・・・・・・・・・以下、煙石氏の声明文・・・・・・・・・・

私は煙石博です。6万6600円を盗ってもいないのに、盗ったとされました。

私は無実です。この事件で、定年後の、人生の貴重な時間と仕事を失ってしまっただけでなく、長年、私の築いてきた信用と信頼を一気になくし、私の人権も社会的存在も失ってしまいました。さらに私の家族にも大きな負担をかけ続けてきました。私はお金を盗ってはいません。無実です。

最高裁が1審・2審の判決を見直すとして、弁論を開くということは、本当にまれなケースだそうですが、2月17日にその弁論を傍聴しました。弁論の後、司法記者クラブに移動して、共同記者会見に臨みました。その時、私の思いとこれまでの事の次第を20分余り話しましたが、この時の様子は、すでに私のホームページに立ち上げていますので、ぜひご覧下さい。

今日は、これに少し補足もしますが、かいつまんで申し述べます。

無実を訴えると共に捜査や裁判の不当性を告発した煙石氏(2017年3月7日、広島弁護士会館にて)

◆最高検検事の弁論に言い表せない怒りがこみ上げた

最高裁の弁論では、久保豊年弁護士は、論理的な説明によって、私の無罪を主張して下さいました。最高検の野口元郎検事は、1審・2審の論理的でない判決をそのまま信じて、上告棄却を求めてきましたが、すべて結論は「有罪」ありきの、防犯カメラの映像の真実にも背いた、あまりにもひどい、非常識な内容で、改めて、言い表せない程の怒りがこみあげてくる弁論でした。特に防犯カメラの映像に関しては、「防犯ビデオの映像自体によって被告人が封筒から現金を抜き取ったと断定することは困難であるが、他方で、防犯ビデオの映像は、被告人がそのような行為に及んでいないことを明らかにするものでもない。すなわち、被告人が、一旦記帳台を離れてから再び戻ってくるまでの間に封筒から現金を抜き取ったか否かという点に関して、防犯ビデオの映像は、どちらの側にも決定的な証拠となるものではない」と言いました。

そんな馬鹿な、と思いました。1審の広島地裁、2審の広島高裁はその防犯カメラの映像を証拠に、私に懲役1年・執行猶予3年という有罪判決を下しました。その後、私も防犯カメラの映像を何回も見ましたが、普通に見れば、私がお金を盗っているような動作やしぐさはありません。最高検の検事はそれを認めたのです。この4年4カ月は何だったんでしょうか?

私は、広島銀行大河支店で6万6600円を盗ってもいないのに、盗ったとされていますが、全く身に覚えがありません。広島地裁・広島高裁の判決は不当判決です。私は無実です。

◆机をたたいたり、すごんだりして自白を強要された

私は、2012年10月11日の朝、突然やってきた刑事2人に「防犯カメラの映像に証拠が映っている」と言って、逮捕状の呈示もなく逮捕され、広島県警の南警察署へ連行されました。取り調べ室で、「『防犯カメラの映像に、盗ったところが映っている』と言って、私をここへ連れて来たのですから、証拠の映像を見せて下さい」と何回も頼みましたが、聞いてもらえませんでした。

しばらくあって、刑事が、マスコミにニュースで出すようなことを言ったので、「私は犯人ではありません。容疑者ですから、マスコミには、まだ発表しないで下さい。よく調べて下さい」と頼みましたが、結局、私はお金を盗ってもいないのに、テレビでは当日、新聞では翌日、大きく報道されたことを家族との面会で知り、私は、人生も、すべてを失ったと思いました。

警察での取り調べは、尋常ではない取り調べで、最初から、私を犯人だと決めつけたストーリーを作っており、私はお金を盗ってもいないのに、刑事が作った「こうしてお金を盗ったのではないか」というひどい推測と、思い込みで、強引に話を進められました。私は、どうしても、私を犯人にしようとしている強い意志を感じ、恐怖感を覚えました。

「防犯カメラの映像は、誰が見ても、お前が盗っている。やったことを認めなければ裁判になって、法廷で防犯カメラの映像をみんなで見て、その映像がニュースで流されて、お前は恥をかくんだ!」などと、脅迫じみたことを言いながら、防犯カメラの映像は見せず、そうかと思うと、「6万6600円の窃盗はたいしたことはない。初犯だから刑も軽い、人の噂も75日、すぐに忘れる。すぐ社会復帰できる」と自白を誘導し、さらには、何度も「マスコミが報道したから、世間はお前を窃盗犯だと思っているんだ!!」「お前は頭がおかしいと思われるよ!」などと言ったり、机をたたいたり、すごんだりして、自白を強要されました。

◆検事はひたすら示談を勧めてきた

検察では、私は盗っていないと、一生懸命説明しましたが、検事は「盗ったか、盗らないかは別にして、6万6600円に色をつけて10万円位払えばすむことだ」と、とにかく最初から示談の説得ばかりされました。次の日もその検事は、「ゆうべも、防犯カメラの映像を何度も見たが、あなたは、お金を盗っている」などと言って、ひたすら示談を勧めました。おかしい話です。もし盗ったというのであれば、私が納得できる証拠をはじめから見せるべきではないでしょうか。取り調べの最後に、やっと防犯カメラの映像の一部を見せられましたが、もちろん、お金を盗っているところはありませんでした。

検事は「これ以上、事を荒立てないために、検事としては、変化球であるが、金を払って不起訴という方法を勧める」「これも有名税だと思え」などと言いましたが、私は絶対お金を盗っていないのですから、お金を払ってと言われても、どうしても納得がいきませんでした。私は、お金を盗っていないので、示談を断りました。すると検事は、その翌日に起訴しました。私は無実なのに、広島県警の南警察署の留置場に28日も勾留されました。

広島地裁での裁判は、1年近くかかって、防犯カメラの映像に、私がお金を盗っている映像がないのに、証拠がないのに、懲役1年・執行猶予3年という信じられない有罪判決が出ました。

もともと、刑事が「確たる証拠が防犯カメラの映像に映っているんだ」と言って逮捕したのに、その映像をなかなか見せず、裁判では、映像のクリア化を申し出ても拒否されました。さらに、証拠品の封筒には、私の指紋がついていませんでした。一番疑問に思うことは、「封筒に、お金が入っていなかったのではないですか」と初めから何回も刑事に言っていたのに、「もう調べてある」と言って、取り上げてくれなかったことです。

◆絶対に納得できません!

その後、2審の広島高裁では、専門の鑑定会社に依頼して、私が封筒にさわっていないということが明らかになりました。裁判官はその証拠を採用したにも関わらず、それを無視しました。裁判官は、「防犯カメラの映像には死角があり、封筒から現金のみを抜き取り、ポケットなどに隠匿するなどするのに十分な時間と機会があったといえる」などと無茶苦茶な推認で、1審の判決に誤りはないとして控訴棄却しました。

しかし、防犯カメラの映像を普通に見ていれば、お金を抜き取って隠す時間と機会はないことが、映像から十分確認できますし、お金を盗るような動きやしぐさは、防犯カメラの映像にはありません。納得できないことばかりです。以下の点は絶対に納得できません!

・封筒の中に現金が入っていたという、被害者の供述を鵜呑みにしていること

・防犯カメラの死角でお金を盗ったと言いますが、その死角がどこにあるか特定していないこと。私には、防犯カメラがどこにあるか、じろじろ様子を窺うことはできないし、ましてや、その死角がどこにあるかは、わかりません

・お金を盗ったと言うなら、いつ、どこで、どのように盗ったのかを特定していないこと

・1万円札6枚、千円札6枚、合わせて12枚のお札をポケットに入れたとすると、かなりの厚みになります。お札12枚と500円玉1枚と、100円玉1枚を、どうやって封筒から取り出し、どこに、どうやって取り込んだというのか、全く説明できていないこと

そもそも、常識的にも、500万円を下ろしに行って、他人のお金を、危険をおかしてまで盗りませんし、もし、お金を盗るなら、最初から封筒ごとポケットに入れて、そのまま持って帰るでしょう。お金だけ抜いて、元の記帳台にまで、わざわざ歩いて行って、証拠になる封筒を元に戻すなどという窃盗ストーリーは、絶対にあり得ません。

◆警察、検察、広島地裁・高裁に大変な不信感と激しい憤りを感じている

報道陣の質問に答える久保豊年弁護士(2017年3月7日、広島弁護士会館にて)

久保豊年弁護士は、最高裁への追加補充書に、防犯カメラの映像の確かな部分、最後に警備員が記帳台から封筒を取り上げた位置と、その前に私が再び記帳台あたりに戻って、記帳台に手を置いただけの私の手の位置は、全く交わる点はないということを検証したものを送りました。つまり「私が、最初に記帳台にあった封筒を手にして移動したのち、中から6万6600円もの現金だけを抜き取り、わざわざ元の記帳台に戻って、証拠となる市・県民税の払い込み用紙、つまり、セップを戻した」という、常識では考えられない窃盗の犯行ストーリーは、ありえないことを指摘しました。もちろん、持ったと決めつけた封筒には私の指紋はついていませんでした。

思えば、最初から一貫して、警察は、私を犯人だとするストーリーを作って、犯人だと決めつけ、自白を強要し、検察は、警察の誤りを正すことなく示談を勧めました。信じられない警察や検察の対応でした。そして、広島地裁、広島高裁に至っては、正義と真実を大切にする、神聖で崇高な所だと思っておりましたが、それとは逆に、非常識極まりない、とんでもない事実誤認をしたまま、有罪とされました。私は無実です。

私は、今、警察、検察、広島地裁、広島高裁に、大きな不信感と激しい憤りを感じております。最高裁においては、それを払拭して下さる様な、正義と真実に基づいた、公正なる判断をお願いするばかりです。

私を支援して下さっている仲間が、「煙石博さんの無罪を勝ちとる会」を立ち上げて、街頭行動での訴えや、最高裁の公正な裁判を求める請願署名の活動にも骨を折って下さり、これまでに9500名を超える署名をいただいております。ありがとうございます。私は絶対に6万6600円を盗っておりません。私は無実です。私の事件の経過は、「煙石博さんの無罪を勝ちとる会」のホームページに示しています。是非ご覧下さい。

2017年3月7日 煙石博

・・・・・・・・・・以上、煙石氏の声明文・・・・・・・・・・

さて、いかに警察、検察、裁判官が酷かったかおわかり頂けただろうか。煙石氏が逆転無罪という結果で裁判を終えられたのは良かったとしても、煙石氏を冤罪に貶めた警察官、検察官、裁判官が何の罰も受けず、今ものうのうと普通に暮らしているのは理不尽極まりないというほかない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している

※事件のこれまでの経緯に関心のある人は、後掲の過去記事もご覧下さい。

◎「冤罪」と評判の広島地方局元アナウンサー窃盗事件(2013年9月20日)
◎広島の元アナウンサー窃盗事件で冤罪判決(2013年12月6日)
◎広島の元アナウンサー窃盗「冤罪」事件の控訴審がスタート(2014年5月30日)
◎広島の元アナ「冤罪」窃盗事件で「公正な裁判を求める」署名が1500筆突破!(2014年6月6日)
◎こんなところにも土砂災害の影響が・・・広島の注目裁判で記者の傍聴取材が激減(2014年9月2日)
◎高まる逆転無罪の期待──上告審も大詰めの広島元アナウンサー冤罪裁判(2015年5月13日)
◎前回五輪の年から冤罪を訴える広島元放送局アナ 最高裁審理が異例の長期化!(2016年8月20日)
◎2017年冤罪予測──飯塚事件、和歌山カレー事件、広島元アナ事件の新争点(2017年1月3日)

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン

米国が一機当たり6億円値下げしてF35戦闘機を日本に導入させた理由

2月初頭、防衛省は導入予定の戦闘機、ロッキード・マーチンF35ライトニング2戦闘機の価格を当初の160億円から一機当たり6億円安く購入することになった、と発表した。第2ロット、第3ロットが低価格化することはあるが、すでに契約を終えた戦闘機が納入前に減額するのは空前の出来事である。

背後にはトランプ大統領がメーカー対して「F35は高すぎる」とクレームをつけたからともされている。アメリカでは大統領の指示を受けて米軍に提供する値段を下げた実績もあり、日本にも波及した形だ。


◎[参考動画]航空自衛隊F-35戦闘機・初号機の初飛行映像(USA Military Channel – 2016/09/30公開)

しかし、ことはそう簡単ではないと軍事ジャーナリストは言う。

「F35の日本への提供価格が異常に高いのは事実なのですが、それ以上にアメリカは自衛隊の『アメリカ機離れ』を嫌ったのではないでしょうか。日本がF35を購入すると決めたのは2011年でした。航空自衛隊は戦闘機としてF4ファントム、F15イーグル、日米共同開発のF2の3機種を運用しています。このうち、F4はベトナム戦闘時の機体でそろそろ交換しなければならない。F4の代替として、また場合によってはF15の一部と交替する戦闘機としてF35が採用されたわけです。ところが、実用化は遅れに遅れ、日本への第1号機の納入はいまだに実現していません。しかも、当初100億円程度と見込まれていたものが、160億円に膨れ上がる始末。採用時に防衛省はいくつかの機種を選んでコンペを行うのです、F35はコンペの候補にすら入っていなかった。というのももともとF35はアメリカが中心になってイギリス、オランダ、カナダ、トルコ、オーストラリア、ノルウェー、デンマークがスポンサーとなって開発していたんです。もし、日本がF35を買うとしても、完成機を受け取るのは10年以上先になる。政府としてはそんなに待てない、という判断があったわけです。しかも、当時F35はまだ不完全で日本としてはアメリカ製のF22ラプターという戦闘機を第一候補として考えていたのです。ところがアメリカはF22は新鋭機で海外には出せないとして代替機を提案してきた。中にはF/A18スーパーホーネットを推すバカバカしい提案もあったぐらいです。F/A18は、自衛隊がF15を採用した時に提案されて不採用になった機体です。日本もなめられたものです」

かなりアメリカ外交が脆弱な姿勢が見え隠れする。この国の首相は、トランプが大統領になる直前、急遽渡米して、「娘さんのピコ太郎動画を見た」とごまをするていたらくだ。兵器の輸入についての弱腰も推してしるべしだ。

「しかも、F35のような戦闘機は自衛隊としては使いづらい飛行機なんです。F22ラプターにしてもF35にしてもステルス性を活かして敵機を先制発見して長距離ミサイルで撃墜するのが目的です。ファーストルック・ファーストシュート・ファースト・キルという言い方をします。ところが日本の場合は国籍不明機が日本に接近してきたら戦闘機が出て行って警告を与えて追い返すのが主目的です。不明機が戦闘機であった場合、実際にミサイルを打つまでいかなくとも自分が有利な位置につかなければいけない。F22は空中戦能力が非常に優れているため長距離射撃だけでなく、近接戦闘にも強い。ところが、F35はJSF(ジョイント・ストライク・ファイター)とも呼ばれる単一の機種で複数のミッションをこなすのが目的です。実際、アメリカだけでもF16ファイティングファルコン、艦載機F/A18ホーネット、攻撃機A10サンダーボルト、海兵隊の垂直離着陸機AVー8Bアドバンスドハリアーを代替する計画を持っています。日本は制空戦闘機が欲しいのに戦闘攻撃機を押し付けられたわけです」 (同)

では、そもそもなぜF35が採用されたのだろうか。

「それこそ謎です。コンペ終了1週間前になっても本命はわからない。ヨーロッパ共同開発のユーロファイター「タイフーン」などはブラックボックスをつけない、という破格の条件を出してきました。一方、自衛隊はF22ラプターをあきらめない。いざ、発表されたところ、絶対にありえないとされていたF35が採用されていた。政治的な理由でアメリカが何としても自国機を売りたかったのでしょう。いずれにせよ、結果的にですが、日本国内にF35用のエンジンから、機体の組み立て工場までが建設されることになった。シンガポールや韓国、オーストラリアにも日本の工場で作られた機体が供給される予定です。アメリカと他の国との間にどのような交渉があったのかも不明です。ただ、政治的には中国との関係を考えたためともいわれています。アメリカは最終的にF35を5000機以上作る考えでいます。現代の戦闘機は機体とエンジンがあれば何とかなるようなものではありません。高度なレーダー、電波妨害装置、複数の通信装置、数種類のミサイルと機関砲を制御するファイアリングコントロールシステムが必要になります。結果的に大量の電子部品を調達しなければならない。その時、中国製でない電子機器を供給できる国は多くない。そこで無理やり日本にねじ込んだ、ともいわれています」

 では、なぜ今になって値引きをしたのか。

「一つは開発の遅れがひどすぎるという点。価格が高いと日本でもアメリカでも議会はなかなか承認しません。ですが、そんなことで採用数が減っては国防にかかわります。米空軍ではA10サンダーボルト2を退役させる予定でしたが、退役を中止して後付けのレーダーや、赤外線暗視装置をつけて使用を続けています。F35は一億ドルしますが、A10は1,000万ドルで、すでに支払いは終わっています。より悲惨なのは海軍で海軍用のF35Cが入ってこないので一旦退役させたホーネットを再整備して現役に復帰させました」 (同)

なんとなく「からくり」が見えてきた。軍事ジャーナリストが続ける。

「昨年、日本でも三菱F2の後継をどうするか、検討が始まりました。アメリカとしてはF35を売り込みたいところですが、F35の遅れによって日本が独自開発するとか、他の機種を採用する可能性が増えてきています。ミサイルの分野ですが、日本には前例というか、前歴がありますから。現在、アメリカ軍機の主要な空対空ミサイルはAIM-120、AMRAAMという機種で、射程距離おおよそ百キロという長距離ミサイルです。ところが、開発段階でAMRAAMは高性能すぎるため日本に売却されないのだはないか、という憶測が流れました。そこで、日本としては独自に九九式空対空誘導弾、AIM-4を自主開発しました。AIM120より若干大型ですが、対艦ミサイルを撃墜するため破壊力が大きくなっています。これを見て慌てたのがアメリカですよ。防衛省に対して必死の売り込みをかける羽目になったのです。その甲斐あってか、昨年、小数の調達が発表されました。AIM-4は大きすぎて、F35のウェポンベイに収まらないという説があります。おそらくF35用にAMRAAMを使用するのでしょう」

ミサイルがキーとなっていたのか。確かに日本のミサイル開発はものすごいスピードで進んでいる。軍事ジャーナリストが続ける。

「第二は性能的な問題です。現時点でアメリカはF15イーグルと、F16ファルコンを併用しています。F15イーグルは登場したとき「すべての戦闘に勝つ」ことを目的とした戦闘機でしたが、3,000万ドルとあまりにも高価でした。そこで比較的、危険度の低い戦場には安価なF16を投入して上空をF15が守る「ハイローミックス」構想で戦闘を組み立てました。この二機種は同じエンジンを使用していますが、F15は双発、F16は単発です。しかし性能的には段違いでF15一機で、F16五機から六機を相手にできます。実はF22ラプターとF35も基本的には同じエンジンを使っています。F35の方が新しいだけあってチューンされパワーは上がっていますが、性能差がどれぐらいあるのか公開されていません。他方ではヨーロッパで事件が起こります。クルージング中のF22ラプターを見つけたユーロファイターが模擬空中戦を挑みました。結果はラプターの惨敗です。もちろん、実際にレーダーを使用した戦闘ではステルス戦闘機であるラプターが全勝していますが、ラプターすら日本が求める格闘戦能力に劣る。劣化コピーであるF35ではどれぐらいの戦力になるのかという疑問が生じます」


◎[参考動画]F-35ステルス戦闘機の垂直着陸・在日米軍岩国基地(USA Military Channel – 2017/02/17公開)

要するにF35はアメリカから押しつけられた産物だというのだ。しかもいっぽうでロシアの軍事航空機の技術もかなり進んでいる。

「やはり、F35の遅れと、性能に関係してきますが、いわゆるライバル機の伸びも懸念されます。ロシアではミグ29フルクラムの性能向上型が実用化されています。エンジン出力を増加させ、電子機器を刷新した機体です。一時期、ミグ29は実戦で電子戦能力不足からアメリカ製機に後れを取っていましたが向上型で差を埋めたとみられます。また、F15イーグルのライバルとも言えるスホーイ27フランカーの性能向上型はすでに中国に輸出されています。イーグルは上昇性能、加速性能などあらゆる記録を塗り替えたレコードホルダーだったのですが、今では軒並みフランカーに破られています。さらにロシアは今年中にステルス戦闘機PAK-FAの実戦部隊を配備すると発表しています。PAK-FAの動画がすでに公開されており、こちらはフランカーの機動力と運動性を向上させたステルス機という趣きです。また、長距離ミサイルの開発ではロシアが先鞭をつけており、AMRAAMではかなわない、という見方もあります。普通、このような場合、アメリカは数で圧すのが通例なのですが、生産は遅々としてはかどらない。ずいぶん遠回りしましたが、アメリカは今作ることができる最高性能の機を何としても多数、そろえなければならない。そのためにはメーカーも薄利多売で行くしかない。日本の工場をフル稼働させるためディスカウントしたのだと考えられます」

そんなわけで外交の遡上にあがったトランプ大統領が押しつけてくるF35。果たして自衛隊が購入するのだろうか。ここでも安倍外交の実力が問われる。妻に学校の利権を貪らせている場合じゃないのである。

(伊東北斗)

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鹿砦社は野間易通氏アカウント凍結解除をツイッター社に求めるものではない!!

 
 

 
一昨日(3月6日)本コラム掲載の「『平成の黒百人組』野間易通氏ツイッターアカウント凍結の一刻も早い解除を!!」に対して、ある読者から厳しいご批判を頂いた。読者のご意見は「このタイトルでは野間氏のツイッターアカウント凍結解除に利用される、文末も相応しくない。訂正すべきだ」というものであった。

鹿砦社特別取材班の見解は、6日の文章で明らかにした通りである。しばき隊、しばき隊に批判的な方双方に本意が伝わる(揶揄を含めて)ものだろうと考えていたし、概ねしばき隊に批判的な方からは好評を頂いた。だが抗議をしてこられた読者は真剣そのものであったので、あえて解説を加えておく。

あの文章が文字で表現していることと、意図していることをいかように理解するかは、幾通りもの解釈があってしかるべきだろう。しかし、われわれの真意は伝わるだろう、というのが書き手としての心情だった。もっとも、われわれの文章力不足で、その本意が伝わらなかったので抗議をしてこられた方はご立腹であったのだから、表現活動を行う世界の末席を濁すものとしては筆力の不足をお詫びするしかない。

そこで、誤解を解くためにあえて加えるのであれば、ネット上での集団リンチの如き行為をわれわれは忌み嫌うし軽蔑する。さらに野間氏がこれまで繰り返し行ってきた「名誉毀損」、「虚偽」、「本人の望まないプライバシー暴露」などの行為は、法に触れるか触れないかを別にしても、社会通念上許されざる行為だと判断している。野間氏の「罪状」をここでいちいち詳述はしないが、ほかならぬ鹿砦社自身が被害にあっているのであるから、この考えに揺るぎはない。

さらに付言すれば鹿砦社は「M君リンチ事件」を引き続き追っている唯一の出版社であることも思い起こしてほしい。このような状態で鹿砦社が野間氏に対して「親心」を持つ理由があるだろうか。よって6日の文章はその前提の上で読み解かれるとの期待があったが、筆足らずであったようである。

野間氏が常套手段として用いる「ネット上の集団攻撃」にも賛同しない(ここまで言わなければわかっていただけないか……)。このことも再度明言しておく。野間氏は攻撃者としては常連だが、同様な行為がどのような勢力によってなされても、ツイッターを利用している人に「集団加圧」を強いる行為には賛同できない。その例といっては失礼だが、昨年野間氏がアカウントを凍結されたのとほぼ同時期にアカウントを凍結され、その後新アカウントで復活した合田夏樹氏のアカウントが3月7日また凍結された。

両氏の凍結が時期を同じくしていることは、たまたまの偶然か、あるいは何らかの集団が一斉にツイッター社に抗議を送ったのか、はたまた、ツイッター社独自の判断なのかはわからない。わかっているのは昨年同様、しばき隊の最重要人物の野間氏と、しばき隊に批判的な言説を繰り広げてきた合田夏樹氏がほぼ同時期にアカウントを凍結されたということのみである。

 
 

 

合田氏は凍結に先立つ数日前にお子さん襲撃をほのめかすツイートをされていた、いわば現在進行形では確実に被害者であるが、アカウントを凍結された。抗議された方は「これでは野間氏のアカウント凍結解除の材料にされてしまう」と述べておられたが、私たちにそれほどの力があるだろうか。また表題だけではなく、文章を読めばそれが「揶揄」を含んでいると理解はしてもらえないのだろうか、との思いは残る。

何が理由かはわからないが、ツイッターアカウントの凍結劇の理由はブラックボックスの中で、その理由をわれわれが推測してもあまり大きな意味はない。一私企業の恣意的な判断に社会正義があるとは思えないし、ツイッター社の倫理や正義をそこまで信用する気にはなれない、というのがわれわれの感覚である。

しかしながら、われわれの表現力不足で誤解を与えたのであれば、6日の文章を上記のように改める。これで鹿砦社特別取材班の意図はお分かりいただけるものと信じたい。

(鹿砦社特別取材班)

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1年過ぎても裁判が始まらない福岡女子予備校生刺殺事件・現場の謎と二次被害

福岡市で女子予備校生が同じ予備校に通う少年に刺殺されるというショッキングな事件が起きて、1年が過ぎた。逮捕後に20歳になった元少年は起訴され、裁判員裁判で裁かれることになったが、まだ公判の日程は決まっていない。事件現場を訪ねたところ、元少年の行動に疑問を抱かせる謎が浮かび上がると共に深刻な二次被害の痕跡を目の当たりにした――。

朝日新聞2016年3月12日付
朝日新聞2016年3月26日付

◆謎めいている元少年の人物像

事件は昨年2月27日夜、福岡市西区姪の浜の住宅街の路上で起きた。女性が男に襲われているという110番通報があり、福岡県警西署の署員が駆けつけたところ、予備校生の北川ひかるさん(当時19歳)が血を流して倒れており、病院に搬送されたが、ほどなく死亡が確認された。

一方、北川さんと同じ予備校に通っていた犯人の元少年(当時19歳)は犯行後ほどなくして「知り合いの女性を刺した」と近くの交番に出頭。両手を血だらけにしており、いったん病院に入院させられたが、翌3月11日、北川さんの首などを刃物で刺したとして殺人の容疑で逮捕された。地検は元少年が逮捕後に20歳になったため、家裁に送致せず、精神鑑定を実施したうえで起訴。現在は公判前整理手続きが続いている。

この事件に関しては、成績優秀だった北川さんが事件後に難関の大阪大学法学部に合格していたことが判明して涙を誘った一方、犯人の元少年は人物像が謎めいている。動機一つとっても「彼氏がいないと嘘をつかれた」とか「バカにされたと思った」などと報道の情報は錯綜気味。起訴前に行われた精神鑑定でも一度、鑑定留置が延長されるなど、水面下でドタバタしているような雰囲気が感じられる。

産経新聞2016年6月9日付

◆犯行後、川に飛び込んだそうだが……

私はそんな事件がまもなく発生から一年になりつつあった時期、現場を訪ねてみた。すると、犯人の元少年が犯行時、思った以上に不可解な行動をとっていることがわかった。

事件発生当初の報道では、元少年は北川さんを刺した後、現場近くの川に飛び込み、その後に交番に出頭したと伝えられていた。この情報から元少年について、自殺しようとしたが死に切れず、自首することを選んだかのように思った人は少なくなかったろう。

しかし現場を訪ねたところ、元少年が飛び込んだ川というのは、写真のように船着き場になっている河口付近で、水深も浅そうに見え、飛び込んでも死ねるとは到底思えなかった。元少年が川に飛び込んだ目的が何であれ、合理的な思考ができない異常な精神状態だったのはたしかだろう。起訴前に精神鑑定を施されたのも当然だと思わされた。

元少年が飛び込んだのはこんな場所。これでは死ねない

◆被害者が倒れていた場所は今……

事件発生当時の報道を見ていると、北川さんが元少年に刺され、倒れていた場所には、多くの花が手向けられていた。ところが、その場所を訪ねると、二次被害の跡が見受けられた。花が手向けられていたあたりの民家の外壁に次のような看板が設置されていたのである。

〈この場所は私有地です。ものを置かないで下さい〉

北川さんが倒れていた場所は、写真のように奇しくも祭壇のように使える状態だったから、その死を悲しむ人たちはここに花を手向けていったのだろう。しかし、この部分は看板を出した家の人の私有地で、迷惑したのだと思われる。花を手向けた人たちに悪気はなく、心から北側さんを悼んだのだろうが、結果的に二次被害をつくることになったわけである。私が訪ねた際には花は一切手向けられていなかったが、おそらく二度と花は手向けられないだろう。

元少年は今、自分がしたことをどう思っているのか。私は福岡拘置所に勾留中の元少年に取材依頼の手紙を出し、面会に訪ねたが、案の定、面会を断られた。元少年は動機から何から気になるところが多いので、裁判を傍聴できたら続報をお伝えしたい。

被害者が倒れていた場所への献花は迷惑だったらしい

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「平成の黒百人組」野間易通氏ツイッターアカウント凍結の一刻も早い解除を!!

 
 

   
3月5日正午現在、野間易通氏のツイッターアカウントが凍結されている。「鹿砦社特別取材班」は一刻も早い野間氏アカウントの凍結解除をもとめる。野間氏のアカウントが凍結されたのはこれが初めてではない。また凍結された理由もわれわれには不明である。しかし表現の自由が憲法21条で保障されている日本にあっては、あらゆる言論が封殺されたり、集団圧殺が行われたり、ましてや口を封じられることなどあってはならない。

野間易通氏は最近「のりこえねっと記者」としてご活躍の方でもあるが、今回のアカウント凍結はそのことが影響しているのであろうか。また野間氏は「集団リンチ」事件被害者M君の本名、所属大学などをたびたび掲載するなどしてM君から名誉棄損の訴えを大阪地裁に起こされている人物である(この裁判はすでに結審し5月26日に判決が言い渡される)。野間氏の「暴露癖」はなにもM君に限ったことではなく、彼が気に入らない人物には常套手段として用いてきた手法だ(鹿砦社刊『ヘイトと暴力の連鎖』『反差別と暴力の正体』ご参照)。

産経新聞2017年3月5日付
 
 

  
野間氏の書き込みには明らかな「名誉棄損」に該当するものも含まれ、野間氏はすでに一度敗訴を経験している(判決は確定済)。それでもツイッターにしがみつき度重なる凍結をものともせず、「独自」の発信を続けてきたのが野間氏である。敗訴経験がありながらも同様の名誉棄損を発信し続ける「確信犯的」行為(精神?)には、われわれ鹿砦社特別取材班も、立場はまったく異なるとはいえ、一定の尊敬とその「ぶれない」(森友学園の籠井泰典理事長同様の)姿勢に学ぶものが多い(かな?)。

そして、野間氏は「僕は軍隊を持っている」(外山恒一氏との対談)と自ら語っているとおり、いわゆる「しばき隊」のなかでは「尊師」と奉られている人物でもある。「しばき隊」の主たる武器はインターネット、とりわけツイッターだ。野間氏のアカウント凍結が続けば、一時に比べて激減したとはいえ「軍隊」の兵隊たちはどうすればよいというのだ。指揮官を失った兵卒が路頭に迷うじゃないか。そんな非人道的なことをツイッター社は認めてもよいのか。一人では何も発言する勇気も思想も哲学も持ち合わせなし、行動もできない「しばき隊」の兵隊が泣き寝入りするのを許すというのか!

彼らの多くはツイッター依存症であり、極言すれば「ツイッターがなければ何をしていてよいかわからない」市民たちだ。そんなか弱い市民に苦痛を負わせてはならない。野間氏のアカウントを一刻も早く凍結解除し、これまで通り彼独特の世界観から「しばき隊」の兵隊を「領導」しなければ、いらぬ混乱や最悪の場合には犯罪を誘発するのではないか。その証拠が「M君リンチ事件」である。野間氏の正しい「お導き」があれば「M君リンチ事件」は防ぐことはできたのではないか(そんなことはない!との意見も多いが……)。

唯一の救いはやはり野間氏がコントロールしている「C.R.A.C」アカウントは凍結されていないことだ。「しばき隊」の諸君!野間氏アカウント凍結解除までは、緊急避難的に「C.R.A.C」アカウントを参照しよう。

念のため申し添えるが、鹿砦社特別取材班は「M君リンチ事件」をメルクマールとし、引き続き「しばき隊」の病巣を、分析し抉(えぐ)り続けることを宣言する。「ヘイト」を金科玉条に浮遊する「下からのファシズム牽引部隊=黒百人組」の本質を追う。そのためにも野間氏の発信方法は確保されていなければならない。「ざまーみろ、野間凍結されやがって」などと表層だけで喜んでいる人がいるとすれば、それは鹿砦社特別取材班の立場とは違うことを明らかにする。われわれは原則的に彼らの病巣に切り込む。こちらの武器はネットでも、権威でもなく地道な取材だけだ。堂々と勝負しようじゃないか。そのために再度繰り返す。

「野間易通氏のツイッターアカウントの一刻も早い凍結解除を!!」

(鹿砦社特別取材班)

在庫僅少『反差別と暴力の正体――暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)
在庫僅少『ヘイトと暴力の連鎖 反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター』(紙の爆弾2016年7月号増刊)
『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン

埋もれた勇者──足立秀夫という男

足立秀夫(右)VS弾正勝戦。苦戦したが、際どい判定勝利。ベテラン弾正勝は強かった(1982年10月3日)
足立秀夫(右)VSタイガー岡内戦。西川ジムに移籍して3戦目はKO勝利。タイガー岡内は後に別団体でチャンピオンに就いた(1981年11月22日)
弾正勝戦。赤コーナーでインターバルを過ごし、会長のアドバイスを聞く(1982年10月3日)
強豪バンモット戦 。勇敢に攻めるもムエタイの壁は厚かった(1982年1月4日)
バンモットに敗れ、引き上げた直後、ヒジで切られる傷も痛々しい。しかし悩まないのが勇者(1982年1月4日)

チャンピオンに成れなかった選手でも、ファンに感動を与え記憶に残る試合を展開した名選手が過去に多く存在しました。そして毎度申します昭和50年代のキックボクシング低迷期の、モチベーションを維持し難い時代にも「明日(今後)は良くなる」と信じ頑張った選手とプロモーターが幾人もいました。

こんな時代にキックボクシング業界に踏み込んだ私(堀田)は撮影の為、足立秀夫というキックボクサーとしばらく行動を共にする機会を得ました。付き合った初めに感じたことは「キックボクサーって普通の人と同じ生活や人格なのだな」ということでした。怖い顔ながら面白いことを言ったり御茶目なイタズラをし、銭湯でとても活字にできない笑いを起こし、また人生観から厳しいことも言うことは当たり前ですが、決してヤンチャな風貌ではなく普通に街を歩く若者で、田舎から出てきたばかりの私にとってはキックボクサーのイメージが大きく変わった年になりました。これは足立氏だけでなく個人差はあれど、キックボクサー皆普通の人という感じでした。

1979年(昭和54年)4月、22歳になる年にデビューした足立秀夫は名門・目黒ジムで大きな期待を掛けられデビューから6連勝。子供の頃から気が弱いが、これを克服しようと走ることが得意だったことから自然と苦しい限界に自ら挑む精神を身に付け、マラソンでは常に一番になり、海上自衛隊在籍中、たまたまキックをやっていた隊員に誘われたことから目黒ジムを見学し、衝撃的にキックの凄さを実感したことから、いきなり自衛隊を辞めキックに転身。子供の頃からの走り込みで身に付いたパワーとスタミナでガムシャラに勢いだけで勝ち進むと、「この先はこれだけでは勝てなくなる、もっと強くなりたい、技術を磨きたい」とより一層そんな欲求に苛まれました。

しかし1981年(昭和56年)、キックボクシング業界は創設16年目を迎えて最大の危機に陥っていた時代でした。興行数は極端に減った中でも、“明日は良くなる”と信じ、技術を磨きにタイへ渡ることを決意。そのタイ修行中に出逢ったのが現地在住していた元・東洋フェザー級チャンピオン.西川純(目黒)氏でした。かつての創生期では沢村忠と二大看板となって戦っていた時代もある西川氏は、日本の選手の育っていない現状打破の為、ジムを始める計画を立てていた時期で、足立氏は日本で西川氏からムエタイ技術を学ぶことを望み移籍を決意。目黒ジムの系列から移籍の問題は無く、帰国後、西川ジムへ移籍したのは同年の夏でした。

そんな時期に日本のキック二大団体から分裂騒動が起き、“規模的”に第三勢力と言われた日本プロキックボクシング連盟が誕生し、西川ジムも加盟していました。

西川ジムは京成小岩駅から程近い路地にある共同アパートが選手の合宿所となり、当初は他のジムで間借り練習をしていましたが、以前から臨時にやっていた合宿所前の路地が練習の場となっていました。夕方から3時間ほどの練習に選手が集中し、路地が「ムエタイジムにそっくりなほど賑やかになった」と足立氏が言うほど。サンドバッグを吊るす柱が植え込みに建てられ、ラジカセで大音量で音楽を流し、選手のリズムを駆り立てるよくある練習風景。ミット蹴りの激しい音は路地を越えて広がり、立ち止まって見ていく通行人もいてテレビ放映が無くなった時代、「キックってまだやってんだ」という人もいたほどでした。初めて練習を間近で見た時は、足立氏の蹴りが速くて威力あって凄いこと。「プロの蹴りって凄いな」と思った瞬間でした。

迎えた1982年1月4日のバンモット・ルークバンコー(タイ)戦、1ラウンドから勇敢に向かう足立氏に「このペースなら勝てる」と囁いた西川会長。しかし来日4戦4勝のバンモットは怯まず調子を上げていき、足立氏は3ラウンドでパンチで倒されてしまいました。タイの元ランカーはやっぱり強く、負ける悔しさも観ている側もが感じた試合でしたが、「対バンモット戦は足立がいちばんいい試合をした」という評価がついて回る試合後の日々でした。ひとつ区切りがついた私の追跡撮影でしたが、次の課題を追って西川ジムにはその後もお邪魔しました。

そんな時期から1年あまり過ぎた頃、夕方の練習時に、おまわりさんが自転車でやってきました。

「近所から苦情が出ています。すぐやめてください。」

思えば通行人も遠慮しながら道を渡る日々。私が感じていた“キックボクサーは怖い人種ではない”という想いも集団で奇声を上げて練習していれば近所から見れば異様な光景だったのでしょう。“怖い人種ではない”この集団は試合が近いにもかかわらず納得し、直ぐに撤収しました。

ジムが無い頃の路上練習は、より集中的にそれなりの充実感があった(1981年12月27日)
1983年、初詣ロードワークを兼ねた初詣の帰り道。右は向山鉄也(1983年正月)
小岩の西川ジム風景。キツイ練習も充実した青春の時間(1983年8月10日)
小岩の西川ジム風景。「西川会長が持つミットが最も蹴りやすかった」とすべての選手は言う(1983年8月10日)
小岩の西川ジム風景。設備が整ったジムで思いっきりスパーリングも可能なことに感謝する選手たち(1983年8月10日)
小岩の西川ジム風景。後輩に声掛けアドバイス、ジョークも言うリラックスした瞬間(1983年8月10日)
一番印象深く、戦えるだけで光栄だった藤原敏男戦。足立秀夫は藤原敏男のラストファイトの相手となった(1983年2月5日)
藤原戦から3ヶ月後、目標としていた須田康徳(左)と対戦したがまたも敗れ去る。とはいえ足立にとっては充実した時期だった(1983年5月28日)

練習場を失っても足立氏は「ミット持ってくれる会長が居れば練習はどこでもできる。」と平然としたもの。西川氏が取った策は合宿所アパートの六畳間の壁を撤去した2部屋を練習場としてしまったことでした。さすがにどこでも練習はできる環境でした。いずれにせよ路上練習を長く続けるつもりはなかった西川氏は同年12月には国鉄小岩駅から200メートルほど離れたビルの一室を借り、設備整った西川ジムが本格始動しました。

ジム開きでは、足立氏は元ムエタイチャンピオン.藤原敏男氏をゲストに記念スパーリングを行なう貴重な体験をし、その時期に行なわれていたイベントが、1000万円争奪三階級オープントーナメント。分裂によって5団体に増えたキック界が総力を結集した一大イベントでした。過去何度も繰り返されての今度こそ“明日は良くなる”と信じた多くの関係者でした。

足立氏は4強に残り、準決勝で藤原敏男(黒崎)と対戦。150戦を超える、ムエタイ王座を制した藤原敏男氏には、その存在感だけで萎縮してしまう選手が多い中、いつもよりガードを高く上げ、スパーリング経験を活かし勇敢に攻める足立でしたが、軽く足払いで宙に高く舞わされるほど藤原敏男の動体視力とタイミングの良さ、当て勘に3ラウンドに隙を突かれた右ストレートで倒されました。その直後、伝説となった藤原敏男氏の引退宣言があり、足立氏は藤原敏男氏の最後の対戦相手となった話題に残る存在となりました。

藤原敏男氏と蹴りあったその経験はひとつの自信に繋がり、10日後に行なわれた香港遠征ではタイ選手にKO勝ち。「技も大事だが、心が充実することが最も重要」と語っていました。

飛鳥信也戦。ラストファイトとなった最後のリング。4年ぶりに衣笠真寿男リングアナにコールされる足立秀夫(1984年11月30日)

そんな香港連戦の中、同年5月にTBSキック(日本系)「最後のスター」と言われた須田康徳(市原)と対戦する日本プロキック・ライト級王座決定戦が実現。過去の分裂前の1981年9月に須田に挑戦する日本ライト級タイトルマッチを戦っている足立氏は“打倒・須田康徳”を目標に掲げ戦って来た現役生活でした。前回は僅差の判定負け。今度こその想いも叶わず、パンチで倒され3ラウンド終了TKO負けに終わりました。総力を結集したオープントーナメントが終っても業界の分散は続き、キック界の皆がいちばん途方にくれた時期だったかもしれません。それぞれが“明日を良くする目標”を持って道を切り開く中でも、足立氏に限らず選手のモチベーションの維持は難しかったでしょう。

そんな途方に暮れる中、ある実業家によって1984年(昭和59年)11月の統合団体が実現、一過性のオープントーナメントとは違い、定期興行が約束される日本キックボクシング連盟設立に至りました。ようやく本当の“明日は良くなる時代”がやってきましたが、足立氏はそれまでライバルを突き放し、上位へ挑戦し続けた現役生活、しかし次第に巻き返された昭和59年という年の、その設立興行に出場した足立氏でしたが、減量苦からくる体調不良で新鋭・飛鳥信也(目黒)にKO負け、引退を決意しました。

引退後に結婚し、後に故郷の静岡県袋井市に帰って焼肉店「東大門」を開店した足立氏。後々には焼肉店の隣に東大門ジムを設立し、選手育成も始めました。2000年代に入った頃のニュージャパンキックボクシング連盟興行で選手を連れて前日計量に現れた足立氏。笑顔で私と再会しました。この笑顔は現役時代には無かった穏やかな表情で「商売人は笑顔で居なくちゃ駄目だよ」と焼肉専門店の先輩から教えられたことから「笑顔で居るのが癖になっちゃったよ」と笑う足立氏。その影響はあるにせよ、ずいぶん表情も言葉も丸くなったものだと思う私でした。

地方に居てはなかなか選手も集まらない中、焼肉店支配人として二束わらじも大変でキックから遠ざかるも、今年You Tubeでその姿を見ることができました。昔と変わらない雑然としたジムの雰囲気、ミットの持ち方。こんな人があの時代を支えた一人であったこと懐かしく貴重に想うところ、かつて倒した相手が他団体でチャンピオンに成っていたり、空位王座が目立った他団体であれば足立氏はチャンピオンに成っていたことでしょう。加盟していた日本プロキック連盟ではチャンピオンには届きませんでしたが、“須田康徳を倒してこそ真のチャンピオン”と信じた現役生活に悔いは無く、「須田さんとも藤原さんとも戦えた充実したキックボクサー生活だった」と後に語っていました。

現在は息子さんが3人居て、皆成人しており、長男が消防士、次男が介護士、三男が警察官という何とも過酷な忍耐要る職種の息子さんたち。父親から受け継いだ忍耐心を持って挑んだ天職なのでしょう。もうすぐ60歳になるという足立秀夫氏。今は若い者に店を任せ、ジムに顔を出す時間を増やしたという。選手を育てるには時間は掛かるが、「また後楽園ホールに選手を送り込みたい」と日々頑張っています。

引分け勝者扱いながら変則的・翼吾郎を退ける(1983年1月7日)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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