鹿砦社は野間易通氏アカウント凍結解除をツイッター社に求めるものではない!!

 
 

 
一昨日(3月6日)本コラム掲載の「『平成の黒百人組』野間易通氏ツイッターアカウント凍結の一刻も早い解除を!!」に対して、ある読者から厳しいご批判を頂いた。読者のご意見は「このタイトルでは野間氏のツイッターアカウント凍結解除に利用される、文末も相応しくない。訂正すべきだ」というものであった。

鹿砦社特別取材班の見解は、6日の文章で明らかにした通りである。しばき隊、しばき隊に批判的な方双方に本意が伝わる(揶揄を含めて)ものだろうと考えていたし、概ねしばき隊に批判的な方からは好評を頂いた。だが抗議をしてこられた読者は真剣そのものであったので、あえて解説を加えておく。

あの文章が文字で表現していることと、意図していることをいかように理解するかは、幾通りもの解釈があってしかるべきだろう。しかし、われわれの真意は伝わるだろう、というのが書き手としての心情だった。もっとも、われわれの文章力不足で、その本意が伝わらなかったので抗議をしてこられた方はご立腹であったのだから、表現活動を行う世界の末席を濁すものとしては筆力の不足をお詫びするしかない。

そこで、誤解を解くためにあえて加えるのであれば、ネット上での集団リンチの如き行為をわれわれは忌み嫌うし軽蔑する。さらに野間氏がこれまで繰り返し行ってきた「名誉毀損」、「虚偽」、「本人の望まないプライバシー暴露」などの行為は、法に触れるか触れないかを別にしても、社会通念上許されざる行為だと判断している。野間氏の「罪状」をここでいちいち詳述はしないが、ほかならぬ鹿砦社自身が被害にあっているのであるから、この考えに揺るぎはない。

さらに付言すれば鹿砦社は「M君リンチ事件」を引き続き追っている唯一の出版社であることも思い起こしてほしい。このような状態で鹿砦社が野間氏に対して「親心」を持つ理由があるだろうか。よって6日の文章はその前提の上で読み解かれるとの期待があったが、筆足らずであったようである。

野間氏が常套手段として用いる「ネット上の集団攻撃」にも賛同しない(ここまで言わなければわかっていただけないか……)。このことも再度明言しておく。野間氏は攻撃者としては常連だが、同様な行為がどのような勢力によってなされても、ツイッターを利用している人に「集団加圧」を強いる行為には賛同できない。その例といっては失礼だが、昨年野間氏がアカウントを凍結されたのとほぼ同時期にアカウントを凍結され、その後新アカウントで復活した合田夏樹氏のアカウントが3月7日また凍結された。

両氏の凍結が時期を同じくしていることは、たまたまの偶然か、あるいは何らかの集団が一斉にツイッター社に抗議を送ったのか、はたまた、ツイッター社独自の判断なのかはわからない。わかっているのは昨年同様、しばき隊の最重要人物の野間氏と、しばき隊に批判的な言説を繰り広げてきた合田夏樹氏がほぼ同時期にアカウントを凍結されたということのみである。

 
 

 

合田氏は凍結に先立つ数日前にお子さん襲撃をほのめかすツイートをされていた、いわば現在進行形では確実に被害者であるが、アカウントを凍結された。抗議された方は「これでは野間氏のアカウント凍結解除の材料にされてしまう」と述べておられたが、私たちにそれほどの力があるだろうか。また表題だけではなく、文章を読めばそれが「揶揄」を含んでいると理解はしてもらえないのだろうか、との思いは残る。

何が理由かはわからないが、ツイッターアカウントの凍結劇の理由はブラックボックスの中で、その理由をわれわれが推測してもあまり大きな意味はない。一私企業の恣意的な判断に社会正義があるとは思えないし、ツイッター社の倫理や正義をそこまで信用する気にはなれない、というのがわれわれの感覚である。

しかしながら、われわれの表現力不足で誤解を与えたのであれば、6日の文章を上記のように改める。これで鹿砦社特別取材班の意図はお分かりいただけるものと信じたい。

(鹿砦社特別取材班)

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1年過ぎても裁判が始まらない福岡女子予備校生刺殺事件・現場の謎と二次被害

福岡市で女子予備校生が同じ予備校に通う少年に刺殺されるというショッキングな事件が起きて、1年が過ぎた。逮捕後に20歳になった元少年は起訴され、裁判員裁判で裁かれることになったが、まだ公判の日程は決まっていない。事件現場を訪ねたところ、元少年の行動に疑問を抱かせる謎が浮かび上がると共に深刻な二次被害の痕跡を目の当たりにした――。

朝日新聞2016年3月12日付
朝日新聞2016年3月26日付

◆謎めいている元少年の人物像

事件は昨年2月27日夜、福岡市西区姪の浜の住宅街の路上で起きた。女性が男に襲われているという110番通報があり、福岡県警西署の署員が駆けつけたところ、予備校生の北川ひかるさん(当時19歳)が血を流して倒れており、病院に搬送されたが、ほどなく死亡が確認された。

一方、北川さんと同じ予備校に通っていた犯人の元少年(当時19歳)は犯行後ほどなくして「知り合いの女性を刺した」と近くの交番に出頭。両手を血だらけにしており、いったん病院に入院させられたが、翌3月11日、北川さんの首などを刃物で刺したとして殺人の容疑で逮捕された。地検は元少年が逮捕後に20歳になったため、家裁に送致せず、精神鑑定を実施したうえで起訴。現在は公判前整理手続きが続いている。

この事件に関しては、成績優秀だった北川さんが事件後に難関の大阪大学法学部に合格していたことが判明して涙を誘った一方、犯人の元少年は人物像が謎めいている。動機一つとっても「彼氏がいないと嘘をつかれた」とか「バカにされたと思った」などと報道の情報は錯綜気味。起訴前に行われた精神鑑定でも一度、鑑定留置が延長されるなど、水面下でドタバタしているような雰囲気が感じられる。

産経新聞2016年6月9日付

◆犯行後、川に飛び込んだそうだが……

私はそんな事件がまもなく発生から一年になりつつあった時期、現場を訪ねてみた。すると、犯人の元少年が犯行時、思った以上に不可解な行動をとっていることがわかった。

事件発生当初の報道では、元少年は北川さんを刺した後、現場近くの川に飛び込み、その後に交番に出頭したと伝えられていた。この情報から元少年について、自殺しようとしたが死に切れず、自首することを選んだかのように思った人は少なくなかったろう。

しかし現場を訪ねたところ、元少年が飛び込んだ川というのは、写真のように船着き場になっている河口付近で、水深も浅そうに見え、飛び込んでも死ねるとは到底思えなかった。元少年が川に飛び込んだ目的が何であれ、合理的な思考ができない異常な精神状態だったのはたしかだろう。起訴前に精神鑑定を施されたのも当然だと思わされた。

元少年が飛び込んだのはこんな場所。これでは死ねない

◆被害者が倒れていた場所は今……

事件発生当時の報道を見ていると、北川さんが元少年に刺され、倒れていた場所には、多くの花が手向けられていた。ところが、その場所を訪ねると、二次被害の跡が見受けられた。花が手向けられていたあたりの民家の外壁に次のような看板が設置されていたのである。

〈この場所は私有地です。ものを置かないで下さい〉

北川さんが倒れていた場所は、写真のように奇しくも祭壇のように使える状態だったから、その死を悲しむ人たちはここに花を手向けていったのだろう。しかし、この部分は看板を出した家の人の私有地で、迷惑したのだと思われる。花を手向けた人たちに悪気はなく、心から北側さんを悼んだのだろうが、結果的に二次被害をつくることになったわけである。私が訪ねた際には花は一切手向けられていなかったが、おそらく二度と花は手向けられないだろう。

元少年は今、自分がしたことをどう思っているのか。私は福岡拘置所に勾留中の元少年に取材依頼の手紙を出し、面会に訪ねたが、案の定、面会を断られた。元少年は動機から何から気になるところが多いので、裁判を傍聴できたら続報をお伝えしたい。

被害者が倒れていた場所への献花は迷惑だったらしい

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「平成の黒百人組」野間易通氏ツイッターアカウント凍結の一刻も早い解除を!!

 
 

   
3月5日正午現在、野間易通氏のツイッターアカウントが凍結されている。「鹿砦社特別取材班」は一刻も早い野間氏アカウントの凍結解除をもとめる。野間氏のアカウントが凍結されたのはこれが初めてではない。また凍結された理由もわれわれには不明である。しかし表現の自由が憲法21条で保障されている日本にあっては、あらゆる言論が封殺されたり、集団圧殺が行われたり、ましてや口を封じられることなどあってはならない。

野間易通氏は最近「のりこえねっと記者」としてご活躍の方でもあるが、今回のアカウント凍結はそのことが影響しているのであろうか。また野間氏は「集団リンチ」事件被害者M君の本名、所属大学などをたびたび掲載するなどしてM君から名誉棄損の訴えを大阪地裁に起こされている人物である(この裁判はすでに結審し5月26日に判決が言い渡される)。野間氏の「暴露癖」はなにもM君に限ったことではなく、彼が気に入らない人物には常套手段として用いてきた手法だ(鹿砦社刊『ヘイトと暴力の連鎖』『反差別と暴力の正体』ご参照)。

産経新聞2017年3月5日付
 
 

  
野間氏の書き込みには明らかな「名誉棄損」に該当するものも含まれ、野間氏はすでに一度敗訴を経験している(判決は確定済)。それでもツイッターにしがみつき度重なる凍結をものともせず、「独自」の発信を続けてきたのが野間氏である。敗訴経験がありながらも同様の名誉棄損を発信し続ける「確信犯的」行為(精神?)には、われわれ鹿砦社特別取材班も、立場はまったく異なるとはいえ、一定の尊敬とその「ぶれない」(森友学園の籠井泰典理事長同様の)姿勢に学ぶものが多い(かな?)。

そして、野間氏は「僕は軍隊を持っている」(外山恒一氏との対談)と自ら語っているとおり、いわゆる「しばき隊」のなかでは「尊師」と奉られている人物でもある。「しばき隊」の主たる武器はインターネット、とりわけツイッターだ。野間氏のアカウント凍結が続けば、一時に比べて激減したとはいえ「軍隊」の兵隊たちはどうすればよいというのだ。指揮官を失った兵卒が路頭に迷うじゃないか。そんな非人道的なことをツイッター社は認めてもよいのか。一人では何も発言する勇気も思想も哲学も持ち合わせなし、行動もできない「しばき隊」の兵隊が泣き寝入りするのを許すというのか!

彼らの多くはツイッター依存症であり、極言すれば「ツイッターがなければ何をしていてよいかわからない」市民たちだ。そんなか弱い市民に苦痛を負わせてはならない。野間氏のアカウントを一刻も早く凍結解除し、これまで通り彼独特の世界観から「しばき隊」の兵隊を「領導」しなければ、いらぬ混乱や最悪の場合には犯罪を誘発するのではないか。その証拠が「M君リンチ事件」である。野間氏の正しい「お導き」があれば「M君リンチ事件」は防ぐことはできたのではないか(そんなことはない!との意見も多いが……)。

唯一の救いはやはり野間氏がコントロールしている「C.R.A.C」アカウントは凍結されていないことだ。「しばき隊」の諸君!野間氏アカウント凍結解除までは、緊急避難的に「C.R.A.C」アカウントを参照しよう。

念のため申し添えるが、鹿砦社特別取材班は「M君リンチ事件」をメルクマールとし、引き続き「しばき隊」の病巣を、分析し抉(えぐ)り続けることを宣言する。「ヘイト」を金科玉条に浮遊する「下からのファシズム牽引部隊=黒百人組」の本質を追う。そのためにも野間氏の発信方法は確保されていなければならない。「ざまーみろ、野間凍結されやがって」などと表層だけで喜んでいる人がいるとすれば、それは鹿砦社特別取材班の立場とは違うことを明らかにする。われわれは原則的に彼らの病巣に切り込む。こちらの武器はネットでも、権威でもなく地道な取材だけだ。堂々と勝負しようじゃないか。そのために再度繰り返す。

「野間易通氏のツイッターアカウントの一刻も早い凍結解除を!!」

(鹿砦社特別取材班)

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埋もれた勇者──足立秀夫という男

足立秀夫(右)VS弾正勝戦。苦戦したが、際どい判定勝利。ベテラン弾正勝は強かった(1982年10月3日)
足立秀夫(右)VSタイガー岡内戦。西川ジムに移籍して3戦目はKO勝利。タイガー岡内は後に別団体でチャンピオンに就いた(1981年11月22日)
弾正勝戦。赤コーナーでインターバルを過ごし、会長のアドバイスを聞く(1982年10月3日)
強豪バンモット戦 。勇敢に攻めるもムエタイの壁は厚かった(1982年1月4日)
バンモットに敗れ、引き上げた直後、ヒジで切られる傷も痛々しい。しかし悩まないのが勇者(1982年1月4日)

チャンピオンに成れなかった選手でも、ファンに感動を与え記憶に残る試合を展開した名選手が過去に多く存在しました。そして毎度申します昭和50年代のキックボクシング低迷期の、モチベーションを維持し難い時代にも「明日(今後)は良くなる」と信じ頑張った選手とプロモーターが幾人もいました。

こんな時代にキックボクシング業界に踏み込んだ私(堀田)は撮影の為、足立秀夫というキックボクサーとしばらく行動を共にする機会を得ました。付き合った初めに感じたことは「キックボクサーって普通の人と同じ生活や人格なのだな」ということでした。怖い顔ながら面白いことを言ったり御茶目なイタズラをし、銭湯でとても活字にできない笑いを起こし、また人生観から厳しいことも言うことは当たり前ですが、決してヤンチャな風貌ではなく普通に街を歩く若者で、田舎から出てきたばかりの私にとってはキックボクサーのイメージが大きく変わった年になりました。これは足立氏だけでなく個人差はあれど、キックボクサー皆普通の人という感じでした。

1979年(昭和54年)4月、22歳になる年にデビューした足立秀夫は名門・目黒ジムで大きな期待を掛けられデビューから6連勝。子供の頃から気が弱いが、これを克服しようと走ることが得意だったことから自然と苦しい限界に自ら挑む精神を身に付け、マラソンでは常に一番になり、海上自衛隊在籍中、たまたまキックをやっていた隊員に誘われたことから目黒ジムを見学し、衝撃的にキックの凄さを実感したことから、いきなり自衛隊を辞めキックに転身。子供の頃からの走り込みで身に付いたパワーとスタミナでガムシャラに勢いだけで勝ち進むと、「この先はこれだけでは勝てなくなる、もっと強くなりたい、技術を磨きたい」とより一層そんな欲求に苛まれました。

しかし1981年(昭和56年)、キックボクシング業界は創設16年目を迎えて最大の危機に陥っていた時代でした。興行数は極端に減った中でも、“明日は良くなる”と信じ、技術を磨きにタイへ渡ることを決意。そのタイ修行中に出逢ったのが現地在住していた元・東洋フェザー級チャンピオン.西川純(目黒)氏でした。かつての創生期では沢村忠と二大看板となって戦っていた時代もある西川氏は、日本の選手の育っていない現状打破の為、ジムを始める計画を立てていた時期で、足立氏は日本で西川氏からムエタイ技術を学ぶことを望み移籍を決意。目黒ジムの系列から移籍の問題は無く、帰国後、西川ジムへ移籍したのは同年の夏でした。

そんな時期に日本のキック二大団体から分裂騒動が起き、“規模的”に第三勢力と言われた日本プロキックボクシング連盟が誕生し、西川ジムも加盟していました。

西川ジムは京成小岩駅から程近い路地にある共同アパートが選手の合宿所となり、当初は他のジムで間借り練習をしていましたが、以前から臨時にやっていた合宿所前の路地が練習の場となっていました。夕方から3時間ほどの練習に選手が集中し、路地が「ムエタイジムにそっくりなほど賑やかになった」と足立氏が言うほど。サンドバッグを吊るす柱が植え込みに建てられ、ラジカセで大音量で音楽を流し、選手のリズムを駆り立てるよくある練習風景。ミット蹴りの激しい音は路地を越えて広がり、立ち止まって見ていく通行人もいてテレビ放映が無くなった時代、「キックってまだやってんだ」という人もいたほどでした。初めて練習を間近で見た時は、足立氏の蹴りが速くて威力あって凄いこと。「プロの蹴りって凄いな」と思った瞬間でした。

迎えた1982年1月4日のバンモット・ルークバンコー(タイ)戦、1ラウンドから勇敢に向かう足立氏に「このペースなら勝てる」と囁いた西川会長。しかし来日4戦4勝のバンモットは怯まず調子を上げていき、足立氏は3ラウンドでパンチで倒されてしまいました。タイの元ランカーはやっぱり強く、負ける悔しさも観ている側もが感じた試合でしたが、「対バンモット戦は足立がいちばんいい試合をした」という評価がついて回る試合後の日々でした。ひとつ区切りがついた私の追跡撮影でしたが、次の課題を追って西川ジムにはその後もお邪魔しました。

そんな時期から1年あまり過ぎた頃、夕方の練習時に、おまわりさんが自転車でやってきました。

「近所から苦情が出ています。すぐやめてください。」

思えば通行人も遠慮しながら道を渡る日々。私が感じていた“キックボクサーは怖い人種ではない”という想いも集団で奇声を上げて練習していれば近所から見れば異様な光景だったのでしょう。“怖い人種ではない”この集団は試合が近いにもかかわらず納得し、直ぐに撤収しました。

ジムが無い頃の路上練習は、より集中的にそれなりの充実感があった(1981年12月27日)
1983年、初詣ロードワークを兼ねた初詣の帰り道。右は向山鉄也(1983年正月)
小岩の西川ジム風景。キツイ練習も充実した青春の時間(1983年8月10日)
小岩の西川ジム風景。「西川会長が持つミットが最も蹴りやすかった」とすべての選手は言う(1983年8月10日)
小岩の西川ジム風景。設備が整ったジムで思いっきりスパーリングも可能なことに感謝する選手たち(1983年8月10日)
小岩の西川ジム風景。後輩に声掛けアドバイス、ジョークも言うリラックスした瞬間(1983年8月10日)
一番印象深く、戦えるだけで光栄だった藤原敏男戦。足立秀夫は藤原敏男のラストファイトの相手となった(1983年2月5日)
藤原戦から3ヶ月後、目標としていた須田康徳(左)と対戦したがまたも敗れ去る。とはいえ足立にとっては充実した時期だった(1983年5月28日)

練習場を失っても足立氏は「ミット持ってくれる会長が居れば練習はどこでもできる。」と平然としたもの。西川氏が取った策は合宿所アパートの六畳間の壁を撤去した2部屋を練習場としてしまったことでした。さすがにどこでも練習はできる環境でした。いずれにせよ路上練習を長く続けるつもりはなかった西川氏は同年12月には国鉄小岩駅から200メートルほど離れたビルの一室を借り、設備整った西川ジムが本格始動しました。

ジム開きでは、足立氏は元ムエタイチャンピオン.藤原敏男氏をゲストに記念スパーリングを行なう貴重な体験をし、その時期に行なわれていたイベントが、1000万円争奪三階級オープントーナメント。分裂によって5団体に増えたキック界が総力を結集した一大イベントでした。過去何度も繰り返されての今度こそ“明日は良くなる”と信じた多くの関係者でした。

足立氏は4強に残り、準決勝で藤原敏男(黒崎)と対戦。150戦を超える、ムエタイ王座を制した藤原敏男氏には、その存在感だけで萎縮してしまう選手が多い中、いつもよりガードを高く上げ、スパーリング経験を活かし勇敢に攻める足立でしたが、軽く足払いで宙に高く舞わされるほど藤原敏男の動体視力とタイミングの良さ、当て勘に3ラウンドに隙を突かれた右ストレートで倒されました。その直後、伝説となった藤原敏男氏の引退宣言があり、足立氏は藤原敏男氏の最後の対戦相手となった話題に残る存在となりました。

藤原敏男氏と蹴りあったその経験はひとつの自信に繋がり、10日後に行なわれた香港遠征ではタイ選手にKO勝ち。「技も大事だが、心が充実することが最も重要」と語っていました。

飛鳥信也戦。ラストファイトとなった最後のリング。4年ぶりに衣笠真寿男リングアナにコールされる足立秀夫(1984年11月30日)

そんな香港連戦の中、同年5月にTBSキック(日本系)「最後のスター」と言われた須田康徳(市原)と対戦する日本プロキック・ライト級王座決定戦が実現。過去の分裂前の1981年9月に須田に挑戦する日本ライト級タイトルマッチを戦っている足立氏は“打倒・須田康徳”を目標に掲げ戦って来た現役生活でした。前回は僅差の判定負け。今度こその想いも叶わず、パンチで倒され3ラウンド終了TKO負けに終わりました。総力を結集したオープントーナメントが終っても業界の分散は続き、キック界の皆がいちばん途方にくれた時期だったかもしれません。それぞれが“明日を良くする目標”を持って道を切り開く中でも、足立氏に限らず選手のモチベーションの維持は難しかったでしょう。

そんな途方に暮れる中、ある実業家によって1984年(昭和59年)11月の統合団体が実現、一過性のオープントーナメントとは違い、定期興行が約束される日本キックボクシング連盟設立に至りました。ようやく本当の“明日は良くなる時代”がやってきましたが、足立氏はそれまでライバルを突き放し、上位へ挑戦し続けた現役生活、しかし次第に巻き返された昭和59年という年の、その設立興行に出場した足立氏でしたが、減量苦からくる体調不良で新鋭・飛鳥信也(目黒)にKO負け、引退を決意しました。

引退後に結婚し、後に故郷の静岡県袋井市に帰って焼肉店「東大門」を開店した足立氏。後々には焼肉店の隣に東大門ジムを設立し、選手育成も始めました。2000年代に入った頃のニュージャパンキックボクシング連盟興行で選手を連れて前日計量に現れた足立氏。笑顔で私と再会しました。この笑顔は現役時代には無かった穏やかな表情で「商売人は笑顔で居なくちゃ駄目だよ」と焼肉専門店の先輩から教えられたことから「笑顔で居るのが癖になっちゃったよ」と笑う足立氏。その影響はあるにせよ、ずいぶん表情も言葉も丸くなったものだと思う私でした。

地方に居てはなかなか選手も集まらない中、焼肉店支配人として二束わらじも大変でキックから遠ざかるも、今年You Tubeでその姿を見ることができました。昔と変わらない雑然としたジムの雰囲気、ミットの持ち方。こんな人があの時代を支えた一人であったこと懐かしく貴重に想うところ、かつて倒した相手が他団体でチャンピオンに成っていたり、空位王座が目立った他団体であれば足立氏はチャンピオンに成っていたことでしょう。加盟していた日本プロキック連盟ではチャンピオンには届きませんでしたが、“須田康徳を倒してこそ真のチャンピオン”と信じた現役生活に悔いは無く、「須田さんとも藤原さんとも戦えた充実したキックボクサー生活だった」と後に語っていました。

現在は息子さんが3人居て、皆成人しており、長男が消防士、次男が介護士、三男が警察官という何とも過酷な忍耐要る職種の息子さんたち。父親から受け継いだ忍耐心を持って挑んだ天職なのでしょう。もうすぐ60歳になるという足立秀夫氏。今は若い者に店を任せ、ジムに顔を出す時間を増やしたという。選手を育てるには時間は掛かるが、「また後楽園ホールに選手を送り込みたい」と日々頑張っています。

引分け勝者扱いながら変則的・翼吾郎を退ける(1983年1月7日)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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台湾の旅[1]「千と千尋の神隠し」を彷彿させる山間の町・九份(ジォウフェン)を歩く

 

台湾北部の山間の町・九份(ジォウフェン)は、ジブリの映画、「千と千尋の神隠し」の舞台であるといわれている。宮崎駿監督は、この噂を否定しているようだ。宮崎駿「ええ、違います。」「映画を作ると、『自分の所(がモデル)だろう』という人は日本にもいっぱい居まして。トトロの時も…」「同じような風景はいっぱいあるっていう事です。」とインタビューにて答えている。

まあそれはそれとして、台湾は実にきれいな街並みだ。どこにいってもゴミがまったく落ちていない。だがそれは「中国本土みたいにならない」という意地の所作である。台湾人がきれい好きだとは限らない。

 

それはまあ別として、「ジォウフェン」という町はもともと金が発掘できるということで、かつてゴールドラッシュがおこり、山に無理くりに宿やらお店を大量に出した。と、いうわけで急な傾斜に立つ建物から下を見ると、あたかも巨人になったような気分になる風景が迫ってくる。

そして、台湾は食べ物も最高だ。小籠包も、タピオカも、チャーハンもおそらくアジアでナンバー1なのではないか。

ただし政治は別問題だ。台湾は今、アメリカとやりとりしたがる連中と中国本土に近い連中の間でつな引きが行われている。7月7日に台北市の松山駅で車両爆発事故が起きたが、一時、これは政治テロではないかという憶測も流れた。

台湾はIT立国であり、建物を見る限り、昭和の初期みたいだし、電車も昭和30年代のようだが、実は日本よりも進んでいる。ほとんど人が来ないような田舎の駅でさえも、wifiがとんでいる。

とはいえ、私自身は、これまでろくな中国人、ならびに台湾人に日本で会ったことがない。お台場あたりに行くとよくわかる。中国人や台湾人は「旅の恥はかきすて」とばかりに平気でゴミを捨てる。一度、ゴミを町中に置いていく東南アジア系と思しきツーリストに「常識外のことをするなよ。どこから来たのか」と聞いたら「台湾だ」と答えた。彼らの母国は綺麗だが、他国は平気で汚して帰る。

15年前のことだが、知人の台湾人ライターは「電気代も払えない」といっておきながら人に金を借りて、キャバレーに通っていた。厚顔無恥とはこのことで、いまだに彼は逃げている。こうした体験があるがゆえ、私は台湾人に良い印象を持っていない。台湾はたしかに美しい。だが、私が日本で出会った台湾人は残念ながら最低だったのだ。

台湾の美しき光景よ、聞くところによるとISが台湾で増えており、イスラムの輩が増えているようだが、せいぜい警戒すべし、である。

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

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関西大学最終講義は「受刑者のアイドル」Paix2ミニライブ&トークのサプライズ!

関西大学「人間の尊厳のために」最終回特別授業は
「受刑者のアイドル」Paix2(ぺぺ)のサプライズミニライブ&トークで締めくくりました!

7月15日、関西大学チャレンジ科目に開設された「人間の尊厳のために」の最終講義が行われました。昨年開講され2年間限定の本講義には浅野健一(ジャーナリスト)さん、小出裕章(元京都大学原子炉実験所)さんの両氏、そして私松岡の3人が講師として登壇し、各々専門の立場から学生に問題を訴えかけてきました。

特別授業が始まった

最終講義は、これまで講義が行われていた教室ではなく、階段状のマルチメディアAV大教室に変更されることだけが履修している学生たちには知らされていました。階段状の教室が用意されたのには理由がありました。私が講義で採り上げたPaix2に頼み込んで、特別にミニライブ&トークを行ってもらう“隠し玉”が用意されていたからです。まさに本講義のテーマの「人間の尊厳のために」を体現してきたPaix2の生の歌声と語りを聴いて欲しかったからに他なりません。サプライズのミニライブ&トーク──私も憎いことを考えるでしょう(笑)。

学生たちは何も知らずに教室に集まると担当のS先生から経緯の説明があり、その後私がPaix2を紹介し、引き続きPaix2のミニライブが始まりました。

講義終了後、手伝ってくれた学生らと

学生たちは驚き、あっけに取られていました。しかし日ごろ刑務所でのライブをこなしているPaix2の2人にとって、学生の心を掴むのはたやすいことだったでしょう。最初おとなしく、むしろ圧倒されていた学生の反応も自然に豊かになっていきました。途中、受刑者の娘さんからの手紙を読むところでは涙ぐむ学生も少なからずいました。そして約1時間のPaix2のミニライブ&トークはいったん終了しました。

しかし、なぜか曲目の中に代表曲『元気だせよ』が入っていなかったので、私が「『元気だせよ』はないの?」と言うと、Paix2はここぞとばかり『元気だせよ』を歌い出し、教室は一気に盛り上がりました。

講義終了後に提出されたアンケートでは、Paix2を絶賛する声が圧倒的でした。“生Paix2”の歌声と話を聴くと、これで感動しないほうがおかしいでしょう。Paix2の15年の活動こそ、まさに「人間の尊厳」を体現するものだといえるでしょう。Paix2が全国の刑務所や少年院などを回る「プリズン・コンサート」は現在393回、あと7回で未踏の400回。本年じゅうに達成の予定ということです。

フィギュアスケート世界チャンピオンの宮原知子(みやはら・さとこ)さんも受講してくれました

報道・原発・出版それぞれの視点から観た今日の社会の問題点を衝く「人間の尊厳のために」は華やかに、一応の幕を閉じることになりました。この2年間、本講義をコーディネートされた関西大学文学部のS先生は、
「この科目は何よりも浅野健一さん、小出裕章さん、松岡利康さんという3人の講師の方々のお力があってはじめて成り立ったものであり、また金山晴香さん、谷水麻凜さん、大田恵佳さん、塩山ちはるさん、重山航哉さんという5人のラーニング・アシスタントの学生さんたちが支えてくれたからこそ運営できました。またグループ討論などを交えたアクティブラーニングの手法は学内の教育推進部の新旧のスタッフ(岩崎千晶さん、須長一幸さん、三浦真琴さんら)が一から手ほどきしてくれました。登壇してくださった弁護士の橋本太地さん、『受刑者のアイドル』Paix2さんとマネージャーの片山始さん、いつも励ましてくださった鹿野健一さん、たくさんの来聴者の皆さん、そしてこの講義に参加してくれた300人近い受講生に心から感謝しています。この科目の設置を認めてくれた関西大学と労を厭わず世話をしてくれた事務スタッフにもお礼を申し上げます。この授業の効果はまだ何とも言えません。ただ、即効性はなくとも、受講生たちが社会の問題に直面した時に自ら考え行動する手がかりにしてもらえるよう願っています」
と謙虚に感想を述べておられます。謙虚な先生です。

しかし私から見れば、私はともかく、小出さんや浅野さんらを動かして本講義を実現させたのは、ひとえにS先生の情熱あってのことと思えて仕方がありません。理想家であるS先生の理想とされる講義になったのかどうか、私には分かりませんが、私も、小出さん、浅野さんも、S先生の理想と想いを汲んで一所懸命に取り組みました。S先生が仰る通り、学生たちに即効性があったかどうかも、まだ未知数でしょうが、必ず将来この講義を思い出し、あるいは悩んだ際解決の糸口となるに違いないと確信しています。

私は講義の中で、「人間の尊厳」とか「人権」とか抽象的で耳触りのいい言葉を語る時、<死んだ教条>を排し、<生きた現実>の中で語るように学生諸君に訴えました。また、この講義はきっと、今後の学生生活、あるいは卒業してからも記憶に残る講義になると信じています。そうであれば、私も逮捕・勾留された屈辱的経験を、まさに生き恥を晒して話した意味もあるというものです。 

▼松岡利康(鹿砦社代表)

Paix2『特別限定記念版 逢えたらいいな―プリズン・コンサート300回達成への道のり(DVD付き)』

反原発を捨てて閣僚になった河野太郎の罪と✖(バツ)

「貫くべき信念があります」河野太郎HP

まさに罪と×(バツ)だろう。
日刊スポーツを見ていて、頭にきた。血液が沸騰し、体温が40度以上になりそうだ。

こんな記事だ。タイトルは「河野太郎氏、原発批判封印 入閣した途端ブログ閉鎖」
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「脱原発」は封印か─。第3次安倍改造内閣で初入閣した河野太郎・行革担当相が自身のホームページ(HP)で公開していたブログ「ごまめの歯ぎしり」や「主張・政策」などの項目が8日までに、閲覧できない状態になった。
「メンテナンス中」と書かれ、これまで公開してきた過去記事などは読めない。河野氏は一貫して脱原発を訴え、安倍政権の原発政策を批判。先月3日のブログでは、自身が共同代表を務める「原発ゼロの会」の活動も紹介した。閣僚となり、持論と政府の政策が「閣内不一致」と批判される可能性もあり、一時的に「封印」した可能性がある。
7日から閲覧できなかったブログは8日深夜、更新され、「入閣に当たり」と題した文章が掲載された。
「これまでは政府の外から自らの主張を訴えるだけでしたが(略)政府の中で主張を訴えることができるようになった」とした上で、「私のすべての主張がそのまま政府の政策になるわけではないが、1つ1つ、実現に向けて努力をしていく」と釈明。「政府の一員になる以上、政府の外に向かっては、政府の政策を擁護していく」と、持論の「封印」に理解を求めた。
ただ、河野氏の持ち味は歯に衣(きぬ)着せぬ物言いだ。初入閣と引き換えに発言にブレが出れば、政権のアキレスけんになる可能性もあり「もろ刃の剣」といわれた河野氏の初入閣は、改造内閣船出早々、早速、波紋を広げた。
野党は今後、国会審議で河野氏を追及する。民主党の岡田克也代表は「これまでのはっきりした発言と整合性が問われる。内閣の一員としてどう折り合いを付けていくか、よく見ていきたい」と、けん制した。(日刊スポーツ2015年10月9日)
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『原発と日本はこうなる』(講談社2011年)

河野は、以前から原発に依存する危険性を、自民党にいながらして訴えていた。

J-CASTはこう伝える。
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脱原発派の河野氏は、九州電力川内原発1号機の再稼働についても批判的だった。14年7月のブログでは、「再稼働する前に、使用済み核燃料とどう向き合うか、国民を巻き込んでしっかり議論するべき」だとして「核のゴミには目をつぶり、やみくもに再稼働しようというのは無責任です」と主張していた。
だが、実際には放射性廃棄物に関する議論は深まらないまま、川内原発1号機は15年8月に再稼働。9月には営業運転に移行した。
こういった主張が書かれた河野氏のブログは入閣が決まった10月7日には「メンテナンス中」になり、過去の書き込みは削除されてしまった。
もちろん、こういった過去の発言との整合性については記者会見でも問われることになる。河野氏は、安倍首相が2012年自民党総裁選で、「長期的には原子力への依存度を下げる」と打ち出していたことを理由に、「ベクトルとしては同じ方向を向いていると思っている」と苦しい釈明をした。
「今までは外から言っているだけだったが、今度は政府内の議論に参加できるようになった。政府内の議論で、しっかり言うべきところは言っていくと思っているが、政府の一員である以上、決まったことについては、それを誠実に実行するということだと思う」などと説明した。記者はブログの記事が見られなくなった理由も質問していたが、河野氏は直接答えなかった。(J-CASTニュース2015年10月8日)
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週刊誌の政治記者は言う。
「行革担当大臣として、かつての主張をキープすることはできた。つまり『核のゴミが解決されない限り、原発は再稼働するべきではない』という主張だ。反原発の方向へ、原子力保安員や経済産業省にも意見ができる立ち位置だからだ。ところが閣僚入りで慌ててブログを閉じているということは、エネルギー関連の利権を官邸にちらつかせられた、もしくは『脱原発』を封印するかわりに、なんらかの将来的なポストを約束した、と見られてもしかたがない」

『「原子力ムラ」を超えて』共著(NHK出版 2011年)

「河野太郎の『変節』については、支持者からも絶望の声が上がっています。地元の神奈川の反原発活動家もあきれた。権力の中枢に入ると、急に『原発推進』が正しいことになってしまうのだろうか。それとも安倍が反乱分子をとりいれて『リベラルさ』を見せているのだろうか。いずれにせよ、安倍政権の傲慢さがちらつく人事だね。閣僚入りさせたからブログを閉じろと銘じたのは、菅官房長官だという話も出てる」(同)

ともあれ、そこまで変節するなら河野よ、原子力ムラを切り捨てたかつての著書 『「原子力ムラ」を超えて―ポスト福島のエネルギー政策』 (NHKブックス/共著)はどうする? 今すぐ、「変節してすみません」と言いつつ全国の書店をまわって丁寧に頭を下げて回収せよ。
あんたの脱原発は、しょせん大衆受けを狙った、時局によるパフォーマンスだ。ちがうというなら、脱原発の政策を、首相に突きつけろ、大衆を舐めるなかれ! だ。

※河野太郎公式HP=http://www.taro.org/

(小林俊之)

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うちな〜噺家、立川志ぃさーの笑いにひそむ、沖縄の真実

3月15日、立川志ぃさー(たてかわ しぃさー)の公演が、渋谷のリエゾンカフェで行われた。
立川志ぃさーは、立川志の輔の番外弟子の、うちな〜噺家(はなしか)だ。
落語の本拠は、江戸(東京)と上方(大阪)。地方出身者はそのどちらかで修行するが、地方の持ち味を芸に現すということはない。
だが、立川志ぃさーは、沖縄の語り口を活かし、笑わせながら、私たちの知らない沖縄を伝えてくれる。
それで、うちな〜噺家なのだ。

この日、第1席で語られたのは、昔から沖縄にいるハブと、ヤマトンチューが持ち込んだマングースとの闘い。
第2席で語られたのは、美ら海水族館の近くにある「美ら海水族館」という名の鮨屋のおばぁと観光客とのやりとり。
抱腹絶倒しながら、きれい事ではないウチナーンチュのしたたかさ、その底流にある哀しさまで伝わってくる。

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あの「元祖」ストーカー殺人事件の冤罪疑惑

新聞報道によると、長崎県西海市でストーカー被害を訴えていた女性の母と祖母を殺害したとして、殺人罪などに問われた男性被告が14日から長崎地裁で始まった裁判員裁判で無罪を主張しているという。率直な感想を言えば、報道されているような証拠が本当に存在するなら、無罪判決が出る可能性は低そうに思う。しかし一方で、このニュースに触れ、個人的に反省させられたところもある。

警察に捕まっただけに過ぎない人が世間の人々から「犯人」と思い込まれてしまうのは今も昔も変わらない。中でも「ストーカー殺人」と形容されるタイプの殺人事件は、その傾向がとくに強い。被疑者が「ストーカー」だったという情報がマスコミに報じられただけで、被疑者が白か黒かは議論にすらならず、「犯人の暴走」を防げなかった警察に批判が集まるのが常だからだ。かくいう筆者もこの長崎の事件の男性被告については、初期報道に触れた時に「犯人」だと思い込んだし、裁判で無罪を主張するなどとは夢にも思っていなかった。個人的に反省させられたというのは、自分のそういう見通しの甘さである。

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『八百長~相撲協会一刀両断』【ブックレビュー】

北の湖親方の再登板が、1月30日の日本相撲協会の理事長選で決まった。「無気力相撲は八百長ではない」「八百長はないと思う」などと公言してはばからなかった、北の湖親方。08年には弟子の大麻不法所持が発覚して、理事長から理事に、昨年には弟子の八百長への関与が発覚して、理事から役員待遇へと降格していた。

そんな人物が理事長として返り咲き、角界に自浄能力がないことをさらけ出している今、八百長問題告発の原点である、『八百長~相撲協会一刀両断』(鹿砦社)を読むべきだろう。15年前の発刊直前、著者の元・大鳴門親方と、共に八百長を告発していた橋本成一郎氏が、同じ日、同じ病院、同じ病名で亡くなり、いわくつきとなった本だ。

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