《書評》『紙の爆弾』2月号 諸悪の根源、電通を叩け 横山茂彦

新年、明けましておめでとうございます。厳しい政治経済状況のなか、皆様の一年が良い年でありますよう、心から祈念いたします。

 
好評発売中! 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

さて、われわれの社会は批判的な視点、批判の武器こそが発展の糧であります。その意味では活字を媒介にした雑誌メディアは、創造的な社会・文化の原動力とも言うべき役割を果たすものと思料します。

一般論で言っているわけではありません。政治批判・社会批判の切っ先を鈍らせ、あらかじめ企業批判の制約をかけるシステムが、メディアの中にも存在するからです。そう、その元凶は電通をはじめとする広告代理店、イベント代理店の存在にほかなりません。広告スポンサーの威力をもってジャーナリズムの機先を制す。この悪習はいまだ、わが国の前途を覆っているといえましょう。

『紙の爆弾』2月号は、まさにこの悪習が東京五輪という公共性を持ったイベントを食いものにしてきたこと、その中枢で電通が果たした悪行を暴露する記事が巻頭を飾りました。以下、読みどころを掻い摘んでご紹介しましょう。

『紙爆』2月号では、本間龍と片岡亮の論考「電通のための五輪がもたらした惨状」「東京五輪グッズ 新たな汚職疑惑」が、電通の犯罪的な立ち回りをあますところなく暴露している。あらためて、広告収入に頼らない本誌ならではの記事と称賛を贈りたい。

まず、電通が単体で世界最大の企業、グループで第6位に入るコングロマリットであることに、あらためて驚かされる。同じく男性衣料のトップメーカーである青木、出版界における最大手KADOKAWAと結びつくことで、電通の東京五輪は巨大疑獄へと発展したのだ。

広告代理店のシステムは、そもそも業界内提携にある。ビッグイベントに対しては、スポンサー契約という枠組みで利権の配分を「オフィシャルサポーター」としてグッズの販売、関連商品の販売特権をスポンサーに付与する。今回の場合は高橋治之被告が元電通役員であり、五輪組織委員会理事という立場を利用した贈収賄・官製談合だったところに、構造的な利権が露呈した。

かつて、電通のキャッチフレーズに「電通には人いがいに何もありません」というものがあった。そう、広告代理店業界は人脈と業界内の提携があるのみで、あとは芸術家づらをしたデザイナーと制作会社があるだけなのだ。小さな代理店に友人が居たら、その事務所に行ってみるといい。壁に代理店の電話・ファックスの一覧表が貼ってあるはずだ。

もちろんデータ通信、Eメールでも業務は行なっているが、主要なやり取りは電話とファックスである。なぜならば、広告クライアントの代理店同士のやり取り(年間広告費管理)は、すべて人対人の交渉力で決まるからだ。ほとんどすべての代理店が、電通と博報堂、東急エージェンシーなどの大手代理店に系列化されている。

その意味で、電通に「人いがいに何もありません」は実態を照らしているが、その人脈が国家レベルの巨大イベントに係る、人と人の関係、すなわち贈収賄であれば看過できない。本間は電通談合ルート構造がオリンピックの発注金額の膨張につながったこと、それを看過してきた大手メディアの責任を問いただす。大手メディアがスポンサー(電通)に慮るのであれば、司直の厳しい追及をうながすためにも、われわれのような在野メディアが奮闘するしかない。

片岡亮の「東京五輪グッズ疑惑」も、その背後に電通という「本丸」があることを指摘するが、取材は公式グッズの販売現場からだった。片岡はクアラルンプールの日系ショッピングモールで、一枚のTシャツを発見する。そのTシャツには、東京五輪のエンブレムとタグが付いていたが、胸のエンブレムは別のデザインで塗りつぶされていた。別デザインで塗りつぶしたのは東京五輪が終わったからだが、片岡が取材したところ、そこにはマネーロンダリングと旧エンブレム(デザインのパクリ疑惑で取りやめ)という、いかにも利権がらみの背景が判明したのだ。マネーロンダリングは日本から輸出することで、名目的な売り上げが五輪関係者に計上される、いわば伝票上の予算消化である。旧エンブレムの塗りつぶしは、あらためてデザイン選考が出来レースだったことを露呈させた。

これら五輪スポンサードに係る利権、グッズ販売における不透明な構造は、膨大なものになった建設予算とその後の管理費をふくめた収支決算として、情報公開が求められるところだが、大手メディアには期待できない。内部告発をふくめた、電通城の攻略こそジャーナリズムの使命ではないか。

◆左派の新党を待望したい

ほかに、統一教会被害の救済新法をめぐる各政党の思惑、公明党と立憲民主党の内幕が明らかにされています。「創価学会・公明党 救済新法骨抜きの重いツケ」(大山友樹)「ザル法に賛成した立憲民主党の党内事情」(横田一)。創価学会・公明党の場合は自公路線による支持者の減少、立憲民主党の場合は維新との共闘による独自性(および野党共闘)の喪失ということになるが、れいわ新選組を除いて野党共闘に展望があるとも思えない。共産党や社民党など、賞味期限の切れた党に代わる、たとえば参政党のような求心力のある左派の登場が待たれる、と指摘しておこう。

◆レールガンは脅威か、平和の使者か

小さな記事だが、マッド・アマノが注目する「レールガン(電磁砲)」が気になる。究極の防衛システムは、電磁波を発生させることで、誘導ミサイルや戦闘機など、電気で動く兵器を無力化するものだ。通常は核爆発による電磁波の発生で、電子系の兵器は無力化されると考えられている。そんな武器が手軽に、3Dプリンターで製作できるというのだ。ミサイル制御の精密電子装置の有効性は、ウクライナ戦争でいかんなく証明された。そして超高速兵器の脅威やドローン(パソコン誘導)の有効性も明らかになっている。最前線が電子機器である以上、それらを無力化する兵器が待望される。願わくば、すべての武器を無力化する「レールガン」の登場を。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

《書評》『紙の爆弾』2023年1月号 旧統一教会特集および危険特集 横山茂彦

政治と宗教の議論、および旧統一教会(世界平和統一家庭連合)問題の議論は、ようやく端緒についたばかりだ。わが「紙の爆弾」も特集といえる論攷、レポートが並ぶことになった。

 
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

いくつかの視点があると思う。政教分離を信教の自由における法的担保とする考え方は、戦前の国家神道(内務省による神社神道の国教化=官幣社制度)の批判、その下に行なわれた宗教弾圧である。

もうひとつの視点は、宗教団体といえども政治的自由は有しているので、他の圧力団体(各業界の生産者団体・労働団体・文化団体・各種企業)と同等に、政権への働きかけ、政党との提携・協定は自由であるというものだ。

前者を過度に強調すれば、宗教団体への規制となりうる。しかるに、宗教団体が支持母体の政党が政権を担ってよいのかどうか、議論は分かれるところだ。言うまでもなく、この議論の延長上には公明党が与党であることの可否が浮上する。議論の本格化を期待したい。

「旧統一教会と自民党 現在も続く癒着」(片岡亮)は、自民党が統一教会被害者への「守り」にとどまり、悪質な宗教団体の取り締まり、すなわち「攻め」に消極的であることを批判する。

さらに教団と癒着する萩生田政調会長が、ほかならぬ教団との窓口(調整役)を務めていると指摘する。前述したとおり、創価学会を支持母体とする公明党と自民党の現政権が、旧統一教会の規制(解散)に消極的なのは言うまでもない。そのうえ、ステルス信者となった教会員が自民党の選挙運動をになう動きが指摘されている。

あらためて言うまでもなく、自民党にとって韓国に本部を置く旧統一教会の「理念」ではなく、その会員の選挙運動力が「役に立つ」から癒着を断てないのである。政治は「政治理念」ではなく、敵の敵は味方という「政治の原理」で成り立っている。

また、片岡は幸福の科学が「自殺防止相談窓口」や駅頭での自殺防止キャンペーンに乗り出していることを指摘する。参政党の支持基盤でもあるというわjクチン反対運動の神真都Q、内部での厳格さが指摘されるエホバの証人など、新宗教の動きも気になるところだ。ほかに「統一教会『救済新法』めぐる与野党攻防」(横田一)が新法の問題点をあばき出している。

「旧統一教会における信仰とは何か」(広岡裕児)は、セクト(破壊的カルト)の判別規準をフランスの例から解説している。旧統一教会が多額の献金をさせるから問題なのではない、と広岡は指摘する。既成仏教でも多額の献金はあるし、それを伝統的な仏教宗派だからいいのだとすれば、それは新宗教への差別にほかならない。

それではマインドコントロールだからダメだと言えるのか? このテーマを、広岡はオウム裁判の判決理由から解説する。自由意志をどこまで確認できるのか、オウム被告(元死刑囚)たちの告白は迫真である。

「統一教会政界汚染と五輪疑獄をつなぐ闇」(藤原肇)の副題は「火だるまになる自公ゾンビ体制」である。その筆致は快刀乱麻ともいうべき痛快なものだ。描き方は陰謀論だが、旧統一教会が満州人脈をテコに、アメリカと日本の中枢に拠点を築き、日本そのものを乗っ取ってしまったというものだ。

キーパーソンは言うまでもなく岸信介であり、岸の娘婿安倍晋太郎亡き後は、安倍晋三に焦点を絞って政権乗っ取りを画してきたという。陰謀論だからといって、暗いばかりではない。やがて大掃除が始まり、大疑獄事件のすえに日本は生まれ変わるのだと。読んでいるうちに、楽しみになってきた。

「偽史倭人伝『プランA』」(佐藤雅彦)は危険な記事だ。

なにしろ第三次世界大戦のプランが進行しているというのだ。そして、そのプランを知ったうえで第三次大戦を欲しているのが、現在ロシアと戦火を交えているウクライナのゼレンスキー大統領だというのだから、危険きわまりない。評者もゼレンスキー政権の救国民族解放戦争を支持する立場だが、その祖国防衛戦争の延長に第三次大戦が招来するのであれば、話はまったく別ものになってくる。

いや、戦争は成り行き(敵と味方の攻防の弁証法)なのだから、やむを得ないものとしよう。問題は「プランA」がどこまで具体的で、現実性のあるシナリオなのかであろう。ロシアの解体という、いまだ誰も議論の俎上には上げていないものの、世界の新秩序を安定化させるキーワードの一つが「プランA」なのだ。すなわちプーチン政権の転覆であり、広大な国土と資源を持つロシア連邦の解体である。これまた読んでいるうち背筋が冷たくなり、しかしその恐怖が楽しみになったと告白しておこう。危険、危険。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2023年1月号 目次

《書評》『戦争は女の顔をしていない』から考える〈1〉 村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチと戦場に向かう女性たちの心境から 小林蓮実

ロシアのウクライナ侵攻が続いており、これまでにさまざまな意見がみられた。わたしは確実に明言できる答えにたどり着けないまま、こんにちにいたっている。ただし、1冊の聞き書きには、戦場の真実が赤裸々に記されていた。

今回も前回に引き続き、書物や言葉から現在を考えるということを試みたい。取り上げるのは、話題にもなったスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳/岩波現代文庫2016年)だ。

◆システムが我々を殺し、我々に人を殺させる

 
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳/岩波現代文庫2016年)

「『小さき人々』の声が伝える『英雄なき』戦争の悲惨な実態」。そう帯に書かれている。第二次世界大戦時、ソビエト連邦で従軍した女性は100万人超。本書はそのうち、ウクライナ生まれのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが500人以上の女性に聞き取りをおこなったうえで、その声をまとめたものだ。

彼女は、「戦争のでも国のでも、英雄たちのものでもない『物語』、ありふれた生活から巨大な出来事、大きな物語に投げ込まれてしまった、小さき人々の物語だ」と記す。前回、わたしは「権力や変えられぬ問題に対し、ある種の暴力が有効であることは、この間も証明されている」と書いた。

ここでまず近年、新作を追って読むことは個人的にはないが、村上春樹のエルサレム賞受賞時のスピーチで発せられたメッセージに触れておきたい。

「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです」

「そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは『システム』と呼ばれています。そのシステムは、本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです」

「私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです」

「一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。『戦地で死んでいった人々のためだ』と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと」

「システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」ともいう。

個人的には、ここに権力や暴力、戦争のすべてが語られているようにすら感じる。しかし、現実を眺めれば、壁と卵をどのような場にあっても常に見極め続けることができている人がどれだけいるだろうか。システムを作った自覚をどれだけの人が持ち続けられているのか。それは、もちろんわたしを含めてのことだ。


◎[参考動画]Japanese author Haruki Murakami receives book award(15 Feb 2009)

◆戦争や政治の犠牲となり、戦地の現実にさらされていく女性たち

前置きが長くなったが、今回の本題である『戦争は女の顔をしていない』に戻ろう。たとえば軍曹で狙撃兵だったヴェーラ・ダニーロフツェワは従軍のきっかけを、「『ヴェーラ、戦争だ! ぼくらは学校から直接戦地に送られるんだ』彼は士官学校の生徒だったんです。私は自分がジャンヌ・ダルクに思えました」と振り返る。彼女だけでなく多くの女性が、情熱や志をもって戦地へ赴くのだ。

ところが戦地の現実のなかでは、「下着は汚くてシラミだらけ、血みどろでした」と、野戦衛生部隊に参加していたスベトラーナ・ワシーリエヴナ・カテイヒナは口にする。二等兵で歩兵だったヴェーラ・サフロノヴナ・ダヴィドワは、夜中に墓地で1人、見張りに立つことに。「二時間で白髪になってしまったわ」「ドイツ軍が出てくるような気がしました……それでなければ何か恐ろしい化け物たちが」という。死と隣り合わせの状況で、それでも日々を生き延びねばならない。でも、率直に不快感を語ることができるのは、その時代では特に女性ならではといえることかもしれない。

女性たちの話が、さまざまに広がることもある。アレクシエーヴィチは、「戦争が始まる前にもっとも優秀な司令官たち、軍のエリートを殺してしまった、スターリンの話に。過酷な農業集団化や一九三七年のことに。収容所や流刑のことに。一九三七年の大粛清がなければ、一九四一年も始まらなかっただろうと。それがあったからモスクワまで後退せざるを得ず、勝利のための犠牲が大きかったのだ」と、記す。

大粛清とは、ヨシフ・スターリンがおこなった政治弾圧や裁判と、その結果、「反スターリン派処分事件」を指す。1930年代、司令官や軍のエリートだけでなく、さまざまな政治家、党員、知識人、民衆の約135~250万人が政府転覆を目論んだとして「人民の敵」「反革命罪」などとされ、約68万人が死刑判決を下され、約16万人が獄死し、全体としては800~1000万人が犠牲となったともいわれる。

ちなみにこの大粛清の要因としては、かつてはスターリンの権力掌握や国民の団結を狙う意図や猜疑心があったためといわれてきた。ここから前回の連赤にもつながってくるように思われるが、最近の研究では戦争準備としての国内体制整備などをあげるものが出てきており、関心ある人は調べてみてほしい。(つづく)


◎[参考動画][東京外国語大学]アレクシエーヴィチ氏記念スピーチ(2016年11月28日)

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター。労働・女性運動を経て現在、農的暮らしを実現すべく、田畑の作業、森林の再生・保全活動なども手がける。月刊『紙の爆弾』12月号に「ひろゆき氏とファン層の正体によらず 沖縄『捨て石』問題を訴え続けよう」寄稿。
Facebook https://www.facebook.com/hasumi.koba

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

《書評》『紙の爆弾』12月号 安倍トモ政治・旧統一教会癒着の再検証 横山茂彦

紙爆の最新号を紹介します。今回も興味を惹かれた記事を深読み、です。取り上げなかった記事のほかに、テレ朝の玉川徹処分の背景(片岡亮)、ヒラリー復活計画(権力者たちのバトルロワイヤル、西本頑児)が出色。読まずにはいられない情報満載の最新号でした。

◆安倍晋三の旧悪を追及することこそ、真の弔いになる

 
最新刊 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

国会における野田佳彦元総理の安部晋三追悼演説が好評だった。とりわけ、安倍晋三の「光」とその先にある「影」を検証することこそ、民主主義政治の課題だというくだりが、議員たちの政治家魂を喚起させたことだろう。

だがその検証は、安倍晋三の旧悪をあばき出し、現在もなお続いている安倍トモ政治を批判することにほかならない。それを徹底することにこそ、安倍晋三という政治家の歴史的評価が議論され、真の意味での弔いになるのだ。

その第一弾ともいうべきレポートが「旧統一教会と安倍王国・山口」(横田一)である。

安倍晋三が地元下関の市長選に並々ならぬ力を入れてきたのは、市長前職の江島潔の時代に「ケチって火炎瓶」(自宅と事務所への火炎瓶事件)、すなわち暴力団(工藤會)との癒着までも明らかになっていた。ちなみに、江島元市長は現在参院議員であり、統一教会のイベントに参加したことが明らかになっている。

◎[参考記事]【急報‼】安倍晋三の暴力団スキャンダル事件を追っていたジャーナリストが、不思議な事故に遭遇し、九死に一生を得た! 誰かが謀殺をねらったのか?(2018年8月18日)

安倍晋三の元秘書である現職の前田晋太郎市長もまた、旧統一教会の会合に参加していたことを定例会見で明らかにした。子飼いの政治家たちが、ことごとく元統一教会とズブズブの関係だったところに、「安倍晋三の影」(野田佳彦)は明白である。票のためなら相手が反日カルトであろうと斟酌しない、安倍晋三の選挙の強さは、ここにあったのである。

さて横田一の記事は、前田市長のあと押しで下関市立大学に採用され、今年4月に学長になった韓昌完(ハンチャンワン)が統一教会と深い関係にあるのではないかという疑惑である。

その疑惑を市議会で共産党市議に追及された韓学長は、事実無根として「虚偽告訴罪」での刑事告発を検討していると返答したのだ。

だが、韓学長が所属していたウソン(又松)大学を、安倍晋三と下村博文(安倍の子飼いで、元文部科学大臣)が訪問していた事実に、接点があったのではないかと横田は指摘する。

というのも、単科大学(経済学部)だった下関市立大学が、突如として「特別支援教育特別専攻科」なるものを新設し、教授会の9割以上の反対を押し切って韓教授を採用したからだ。

この事件がおきた2019年以降、下関市立大学では3分の1の教員が中途退職・転出しているという。学園の私物化が告発されてもいる。具体的には新設学部の赤字、市役所OBの天下りなどである。これはしかし、氷山の一角にすぎないのではないだろうか。

◆鈴木エイト×浅野健一 ── 旧統一教会問題

9月号につづいて、鈴木エイトの記事である。講演会をともにした浅野健一が鈴木の講演録を、わかりやすく紹介するスタイルだ。ちなみに、講演会の司会は「紙の爆弾」中川志大編集長が務めた。

まず第一に読むものを原点に立ち返らせるのは、カルト問題が政治と宗教の問題以前に、人権問題であるという鈴木の一貫した視点である。

そして第二に、信者たちを利用して「ポイ捨て」する政治家たちの「カルトよりもひどい」実態である。

全体にカルト統一教会の触れられなかった10年間を顧みて、ジャーナリズムが執着を持つことが必要だったのではないか。持続的、継続的な取材こそ、組織の闇を解明できるとの印象を持った。

この運動に関連する事件にも、少々触れておこう。

記事では触れられていないが、この連続講座の一か月後に開かれた「10.24国葬検証集会」において、浅野健一も参加した鈴木エイトの講演があった(記事中に記述あり)。このとき、機器の不具合で発言時間をオーバーした浅野にたいして、佐高信がクレームを付けたという。詳細は下記URLの浅野健一ブログを照覧してもらいたいが、声帯をうしなった障がい者(浅野)に、発言時間のオーバーを批判したのは明白な事実のようだ。

おそらく佐高において、初対面の障がい者ならばこのようなクレームはつけなかったであろう。かりに政治的慮りでクレームが左右されるようなら、明らかに障がい者差別である。浅野によれば佐高は過去にセクハラ事件(同志社でのイベント後の飲み会)を起こしているという。運動内部の批判は遠慮するべきではない。日ごろから批判的な論評をもっぱらとする者ほど、自分が批判されたときに謙虚になれないものだ。佐高は浅野の抗議に何も反応していないという。

◎[参考記事]10・24国葬検証集会エイトさん講演 佐高氏が浅野非難 : 浅野健一のメディア批評 (livedoor.jp) 


◎[参考動画]2022.10.24 安倍「国葬」を検証する ―講演:「自民党と統一教会の闇をさぐる」鈴木エイト氏(ジャーナリスト)、浅野健一氏(無声ジャーナリスト)、スピーチ:佐高信氏(評論家)

◆氷川きよし「活動休止」と「移籍説」の裏側

喉のポリープの手術後で、長期休養に入るとされていた氷川きよしの、事務所事情である(「紙爆」芸能取材班)。

2019年の芸能生活20周年を機に、自分らしく生きたいと(ジェンダーレス)表明したkiinaこと氷川きよし。舞台での女装や松村雄基との恋愛関係、プロ並みの料理など、スキャンダラスで華やかな魅力がファンを魅了してきた。


◎[参考動画]氷川きよし「革命前夜」in 明治座【公式】

肥った男性の女装は勘弁してほしいと思うことがあっても、kiinaの場合は別だという方は多いのではないか。LGBTQとは無縁なつもりでも、誰でもアニマ(内的女性性)・アニウス(内的男性性)があると言われている(ユング心理学)。

たとえば艦隊これくしょんや美少女ゲームに興じる男性には女体化願望があり、その願望がゲームの中の少女に同化するのだ。女性の場合はもっと露骨で、ボーイズラブ志向として、やおい小説・やおい漫画に熱中することになる。

このようなアニマを体現するリアル系が、氷川きよしの女装化だと言えるのだ。Kiinaの場合は、おそらく誰もが受け容れる美貌のゆえに、イケメン演歌歌手からロック女装、舞台での女装が歓迎されてきたのであろう。

しかるに長期休養の裏側に、事務所(神林義弘社長)の暴力的な体質があるというのだ。氷川きよしの自宅の抵当権(3億4500円)も長良プロが設定しているという。

問題は休養後に、長良プロからスムースに移籍できるか、であろう。記事のなかで氷川きよしの名付け親を、ビートたけしとしている(大手プロ役員)が、じっさいは長良プロの神林義忠会長(故人)である。ということは、芸能人がプロダクションを移籍するときに起こりがちな、芸名の商標登録をめぐるトラブルの可能性である。来年からのKiinaの休養が、つぎの活躍へのステップになるのを期待してやまない。記事ではほかにGACKTのスキャンダルもあり、美形歌手たちの危機が気になるところだ。 


◎[参考動画]氷川きよし / 限界突破×サバイバー ~DVD「氷川きよしスペシャル・コンサート2018 きよしこの夜Vol.18」より【公式】

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

『情況』第5期終刊と鹿砦社への謝辞 ── 第6期創刊にご期待ください〈後編〉 横山茂彦

終刊のお知らせだった記事の後半ですが、新たな創刊(『情況』第6期)のお知らせとなりました。68年に創刊し、「新左翼の老舗雑誌」と呼ばれてきた『情況』が、来年1月に第6期を創刊することを、謹んでお知らせいたします。これまで同様のご支援、ご愛読をいただければ幸甚です。

 
『情況』2022年夏号

本稿の前半では、中核派と共産同首都圏委員会の「米帝の戦争論」批判を紹介してきた(『情況』7月発売号の拙稿を抄録)。

ウクライナ戦争はロシアの侵略戦争であって、アメリカ・NATOは参戦していない。したがって、共産同首都圏委の「帝国主義間戦争」論は、ゼレンスキー政権が傀儡政権でなければ成り立たないと批判したのだった。

戦争と革命という、一般の読者から見れば浮世離れした議論かもしれないが、新左翼の論争とはこういうものだと。覗き見をしたい方はどうぞお読みください。

◆首都圏委員会の論旨改竄(論文不正)

この「侵略戦争論」と「帝国主義間戦争論」は現在、新左翼・反戦市民運動をおおきく二つにわけている。ところが、相手を名指しで批判(論争)しているのは革マル派(中核派の小ブル平和論の傾向を批判)、革共同再建協議会(いわゆる関西中核派=中核派のウクライナ人民の主体性無視・帝国主義万能論を批判)だけであり、論争らしいものにはなっていない。

『情況』は左派系論壇誌として、この論争・議論のとぼしい路線的分岐という運動状況に、一石を投じるものとして「特集解説 プーチンのウクライナ侵略戦争をどう考えるか? 真っ二つに割れた日本の新左翼・反戦運動」を、15頁にわたって掲載したのだった。

とくに帝国主義間戦争論を前面に掲げた、共産同首都圏委員会(「radical chic」44号)には、前回抄録紹介したとおり、全面的な批判を行なった。

ここまで批判しつくされたら、さすがに反論は出来ないであろうという読者の評判だった。だが腐っても、組織ではなく理論に拠って立つブント系党派である以上、沈黙することはないであろう。と思っていたところ、反論らしきものが出た。わたしの解説に対する正面からの批判ではなかったが、「radical chic」(46号・以下引用は号数で記す)に、「早川礼二」の筆名で「『情況休刊号』のコラムを読む」という文章が公表されたのだった。その意気やよし。

まず笑わせてもらったのは、本文15頁・1万8000字にわたる「特集解説」(二部構成で、目次付き)を、「コラム」と称していることだ。解説の筆者も「文責・編集部横山茂彦、編集協力・岩田吾郎」と明記しているにもかかわらず、早川は「コラム筆者」としているのだ。

つまり、自分たちが全面的な批判にさらされたのを何とか覆い隠し、コラムで扱われた程度のことにしたい、のであろう。その心情には、こころから同情する。

だが、論文作法としては、他者の記事や論文を引用するのであれば、タイトルと筆者を明記しなければならない。これをしないので困るのは、読者が容易に出典を引けないからだ。早川が雑誌情況の「コラム」と一般名称にしてしまっているので、読者は『情況』の30本前後ある記事の中からタイトルをもとには探し出せない。そもそも当該の論攷は「解説」であって、いわば雑誌の論説記事である。コラム(囲み記事)ではないのだ。原稿用紙換算45枚、大仰な目次まで付いたコラムなど、どこの雑誌にあるというのだろうか。まぁでも、これはどうでもいいだろう。

問題なのは、批判する相手の論旨を「改ざん」していることだ。他者の文章を引用する場合は、それが部分的なものであっても、絶対に論旨を改ざんしてはならない。これは論文だけでなく、文章を書く上での大原則である。

論旨の改ざんは論点をずらし、議論を成り立たなくする。それはもはや議論ではなく、論争をスポイルする不正な作為である。

蛇足ながら、他者を批判するときに、論証をともなわない批判は、単なる誹謗中傷となる。素人の文章にありがちな傾向である。

それでは、早川礼二による「特集解説」の論旨改ざん、みずからの文章の改ざんを具体的に見てゆこう。

◆核になるフレーズの削除で、180度逆の結論に

早川礼二は云う。

「コラム筆者は『米軍が直接参戦していない以上、首都圏委の言う「帝間戦争論」は成り立たない』とし、『反帝民族解放闘争の独自性を承認するのは、国際共産主義者の基本的責務である』と批判する」

「第一の疑問は、コラム筆者がウクライナ戦争で米軍が果たしている役割については触れようとしないことだ。米帝・NATOによるロシア封じ込め、米帝と結託したゼレンスキー政権の軍事的挑発に触れることが『プーチンの開戦責任を免罪することになる』という。」

早川の愕くべき論旨改ざんは「米帝が直接参戦していない以上」の前にある、わたしのフレーズ「ゼレンスキー政権が米帝の傀儡でなければ」を意識的に削ったことだ。このことで、わたしの主張の結論は180度ちがってくる。

首都圏委を批判するわたしの問いの冒頭は「それでは問うが、この戦争が帝国主義間戦争であれば、ゼレンスキー政権は米帝の傀儡政権・買弁ブルジョアジーとして、打倒対象になるのではないか?」なのである。

つまりここからは、ゼレンスキー政権が傀儡政権であれば、帝国主義間戦争は成立する、という結論がみちびかれる。それが誤った認識であれ、論としてはいちおう成立する。早川は論旨の改ざんに手を染めることで、みごとに180度違う結論を偽造したのだ。

わたしは帝国主義間戦争論が成り立たないと批判しているのではなく、ゼレンスキー政権の階級的な性格を明らかにせよ、傀儡政権として打倒対象なのか否か、と指摘していたのだ。

早川はこの質問には答えられないまま、「ロシア帝国主義による明らかな侵略戦争」であることを前面に主張しつつも、「かつ米帝・NATOによる帝国主義間戦争」だと、さらに言いつのる。くり返すが、ゼレンスキー政権が米帝・NATOの傀儡でなければ、代理戦争としての帝国主義間戦争論が成立しないのは言うまでもない。

いっぽうで「ロシアの侵略戦争」ならばなぜ、ウクライナ人民の救国戦争(民族解放闘争)を評価できないのか。「この戦争の基本性格はウクライナを舞台とした欧米とロシアによる帝国主義間戦争」(44号)としていた早川は、ウクライナ人民の救国戦争への連帯には、けっして心がおよばないのである。

およそ革命党派のしめすべき指針は、打倒対象と連帯するべき味方を明確にすることだ。ゼレンスキー政権を支持するウクライナ人民、ロシア帝国主義の侵略と戦うウクライナ人民への連帯を承認・支持できないがゆえに、早川の帝間戦争論は砂上の楼閣のごとく崩壊するのだ。

いま、全世界でウクライナ避難民が抗露戦争への支援を訴え、あるいはロシア連邦からの政治難民(ブリヤート人など)が「プーチンストップ!」を訴えている。抽象的な「世界の被抑圧人民・プロレタリアートと連帯」(46号・早川)などという抽象的な空スローガンではなく、具体的な指針を示すべきなのだ。現にロシア帝国主義と戦っているウクライナ人民との連帯、かれら彼女らがもとめる軍事をふくむ支援なのだと。

「あらゆる〈戦争国家〉に反対する」(44号・早川)も市民運動の理念としてはいいだろう。だが、首都圏委は革命党派なのである。そもそも民族解放戦争の大義、社会主義革命戦争の大義を語れなくなった党派に、共産主義者同盟の名を語る資格があるのか。この党史をめぐる議論に乗って来れない首都圏委には、稿をあらためてブント史論争として、議論のステージを準備したいものだ。

◆論旨の改ざんは、論争の回避である

さて、上記の引用中で早川は、もうひとつ大きな改ざんを行なっている。

「(横山の主張は=引用者注)ゼレンスキー政権の軍事的挑発に触れることが『プーチンの開戦責任を免罪することになる』という」(46号・早川)。

「触れる」? そうではなかったはずだ。44号論文から再度引用しよう。

「米帝・NATOの東方拡大によるロシアの軍事的封じ込め政策、多額の軍事支援とテコ入れにより二〇一五年の『ミンスク合意』を無視してウクライナ東部のロシア系居住区域への軍事的圧迫と攻勢を強めたゼレンスキー政権の強硬策がロシアを挑発し、今日の事態を招いた直接的な原因」だと。

ハッキリと、ゼレンスキー政権の強硬策が「直接的な原因」だと述べているではないか。「要因(factor)」などではなく「直接的な原因(direct cause)」だ。

「直接的な原因」とした以上、プーチンのウクライナ侵攻は「結果」にすぎないことになる。これが「プーチンの開戦責任の免罪」でなくて何なのか。

開戦の責任をプーチンにではなく、ゼレンスキーにもとめていた早川は、「直接的な原因」を「触れる」と言い換えることで、自分の論旨を改ざんしたのだ。

まともに論争をしようと思えば、自分の前言撤回も厭うべきではない。そこに相互批判による議論の深化があるからだ。論軸をずらさずに、誠実に議論することで新しい理論的地平も切り拓けるのだ。今回の早川の改ざんは、論争を回避する恥ずべき行為だと指摘しておこう。

◆太平洋戦争の原因は「ABCD包囲網」か?

かつて日本帝国主義は、中国戦争における援蒋ルート(蒋介石政権への欧米の支援=4ルート)を封じるために、フランスが宗主国だったインドシナに進駐した(仏印進駐・1940~1941年)。これに対して、アメリカ・イギリス・オランダが政治経済にわたる包囲網を敷いたのだった。この三国と中国をあわせて、日本に対するABCD包囲陣と呼ばれたものだ。

とりわけアメリカの対日石油禁輸が、日本経済を苦しめた。追いつめられた日本は、真珠湾攻撃をもって開戦に踏み切ったのである。これを歴史修正主義者は「アメリカが日本を戦争に追い込んだ」とする。まさに共産同首都圏委の主張(米帝・ゼレンスキー原因論)は、旧日本帝国主義を弁護するネトウヨなど、歴史修正主義者のものと同じ論理構成だと言えるだろう。

だが、ABCD包囲網をつくり出したのは、ほかならぬ日本帝国主義の中国侵略、傀儡国家(満州国)の建国にある。ウクライナにおいても、ロシアによる2014年のクリミア併合以降、欧米のウクライナ支援ロシア包囲陣が生じたのは、ほとんど日中戦争と同じ政治構造である。

1994年のブタペスト合意でのウクライナの核放棄(世界で三番目の核保有国だった)、ロシア・アメリカ・イギリスをふくむ周辺諸国の安全保障が、もっぱらロシアによって反故にされたこと。すなわち、兵士に肩章をはずさせたロシア軍による、クリミア・ドンバスへの軍事的圧迫が、ウクライナ人民をして、マイダン革命をはじめとする反ロシア運動の爆発となって顕われ、欧米の支援が「東方拡大」のひとつとして顕在化したのである。ロシアによるクリミア併合・東部・南部諸州併合は、日帝の満州国建国と比して認識されるべきものだ。

このような流れの中では、首都圏委が金科玉条のごとく持ち出す「ミンスク合意」(二次にわたる)は、ロシア軍が介入した内戦停止のための休戦協定にすぎないのである。何度ミンスク合意がくり返されても、ロシア帝国主義のウクライナ侵略は終わらない。なぜならば、ロシアはウクライナそのものを併合・併呑しようとしているからだ(プーチン演説)。

◆改ざんだけでなく、誤記満載の「反論」

共産同首都圏委員会は、わたしへの「反論」の中で、いくつかの論点を新たに提示している。ひとつは、わたしが主張した反帝民族解放闘争への疑義である。

中井和夫(ウクライナ史)の『ウクライナ・ナショナリズム』(版元は岩波書店ではなく東京大学出版会)から引用して、民族自決への疑問をこう呈している。

「中井も『国家の急増』が国際社会に与えてきている負荷・コストの大きさ」に触れ「民族自決」を「民族自治」にかえていくことと「他(ママ→多)民族の平和的統合の政治システムとしての連邦制の可能性」を論じている。(46号・早川)

そうではない。この「民族自治」と「連邦制」こそが、ソ連邦時代の「民族の牢獄」を形づくってきたものなのだ。中井和夫がいみじくも「帝国の復活を現代考えることは無理である」とする前提を見落として、早川が「民族自治」に着目することこそ、プーチンの帝国のもとにウクライナ人民をはじめとする諸民族を封じ込める発想。すなわち民族解放闘争の否定にほかならない。

レーニンの「分離の自由をふくむ連邦」を継承しながらも、スターリン憲法およびそれを継承したロシア連邦憲法は、分離の手続きの不備によって、事実上独立をゆるさずに、諸民族の自治に封じ込めてきたのだ。プーチンのクリミア併合以降は、領土割譲禁止条項によって、分離そのものが違法となったではないか。

ソ連邦の崩壊後のなだれ打った旧ソ連邦内国家の独立は、米・NATOの東方拡大だけではなく、東欧人民の反ロシア革命(民族独立革命および人民民主主義革命)だった。首都圏委が暗に主張する帝国主義の陰謀ではなく、これが人民による民族自決の体現にほかならない。

その反ロシア革命の動因は、膨大なエネルギー資源をもとにした軍事大国による圧迫への抵抗であり、世界最大の核兵器保有国による覇権支配への人民の恐怖と大衆的反発である。つまりロシアの帝国主義支配への民族的な抵抗なのである。したがって、21世紀のいまも帝国主義と民族植民地問題として、20世紀型の戦争と革命が継続しているといえよう。いや、プーチンにおいては18世紀型の帝国なのである。

70年代なかばのベトナム・インドシナ三国の反帝民族解放戦争の勝利、社会主義革命戦争とウクライナ戦争を比較して、早川は自信のなさそうな書き方でこう提起する。

「端的に言って、米ソ冷戦体制の下、帝国主義の植民地支配からの独立をめざしたベトナム人民の民族解放闘争と、グローバル資本主義が全世界を蓋い(ママ)、〈戦争機械〉と結託した帝国主義諸国の利害が複雑に絡み合いつつ、国境を越えて介入し他国の支配階級と結びついて暗躍し、権益拡大のために他国を容赦なく戦場化する時代のウクライナ戦争を、同列に論じることはできないのではないか。」(46号・早川)。

長いセンテンスで現代世界の複雑さを強調したからといって、何ら説得力があるというものではない。ベトナム戦争とウクライナ戦争の違いを、早川は上記の文章以上に論証することができないはずだ。

なぜならば、ベトナム・インドシナにおけるフランスの植民地支配、のちにはアメリカの介入を、現在のウクライナ戦争におけるロシアに置き換えれば、まったく同じ政治構造だからだ。ソ連のアフガニスタン侵攻、アメリカのイラク侵攻もまったく同じ、帝国主義の覇権主義的侵略戦争である。

第一次大戦以降、列強の利害は複雑に絡み合い、第二次大戦以降も、そして現在も、米ロをはじめとする帝国主義は「国境を越えて介入し他国の支配階級と結びついて暗躍し、権益拡大のために他国を容赦なく戦場化」(早川)しているのではないのか。

そして帝国主義の侵略が、ほかならぬ人民大衆の闘いと民族自決の奔流に強要された、悪あがきであることに着目できないからこそ、早川は現代世界の複雑さだけを、論証抜きで強調したくなるのだ。そこには大衆叛乱への信頼や共感は、ひとかけらもない。

それにしても、上記の引用における誤記・版元の誤り(別掲文献の版元名も間違えている)をみると、早川の論旨改ざんは意識的なものではなく、文章そのものを正確に判読できていない可能性もある。首都圏委においては、この頼りない主筆に代わり、組織的な討議を経た文章で、改ざんの釈明および誤記・版元間違いを訂正してもらいたものだ。

◆ウクライナ戦争はロシアの敗北でしか決着しない

いま求められている戦争の停止、もしくは終了がどのように展望できるのか。降伏の勧めや無防備都市の提案は、そのままロシアへの隷属・大量処刑を意味する。だが現実的ではないにせよ、すくなくとも具体的である。

もっとも具体的なのは、ゼレンスキー政権とウクライナ人民が、侵略者ロシアを国境の外に追い払うことである。いまそれは、第三次大戦の危機をはらみながらも、実現に向かっている。

ところが、あらゆる〈戦争国家〉に反対し、ゼレンスキー政権と闘うウクライナ人民(どこにいるのか?)に連帯するべきだと、首都圏委は呼び掛けるのだ。

ロシアの侵略に反対し、米帝・NATO・ゼレンスキー政権の戦争政策に反対する、世界プロレタリアートと連帯せよという。このきわめて原則的な反戦運動の呼びかけはしかし、現実に有効な階級闘争ではない。かれらの頭の中に創造された、死んだ抽象にすぎないからだ。

そして、現実のウクライナ戦争をになっている人民を無視するばかりか、ウクライナ人民の戦争支援の要求(兵器の供給)に反対しているのだ。このままでは、プーチンの侵略戦争の代弁者となり、ウクライナ人民の反帝救国戦争の敵対物に転落するしかないと指摘しておこう。

なお、1月創刊の『情況』第6期においても、ウクライナ戦争論争を他の論者を招いて掲載する予定である。われわれの「解説」の評価(賛意)や、早川礼二の民族解放闘争への不理解を指摘する声も上がっている。乞うご期待。(了)

◎『情況』第5期終刊と鹿砦社への謝辞 ── 第6期創刊にご期待ください
〈前編〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44351
〈後編〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44456

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』
『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

『情況』第5期終刊と鹿砦社への謝辞 ── 第6期創刊にご期待ください 〈前編〉 横山茂彦

わたしが編集長を務めていた雑誌『情況』が休刊しました。この場をかりて、読者の皆様のご支援に感謝いたします。同時に、広告スポンサー(表3定期広告)として支援いただいた鹿砦社、および松岡利康社長のご厚情に感謝するものです。ありがとうございました。こころざしの一端を等しくする鹿砦社のご支援は、いつも勇気を与えてくれる心の支えでした。

 
『情況』2022年夏号

なお、情況誌第6期が若い編集者を中心に準備されています。時期はまだ未定ですが、近い将来に新しいコンセプトを背負った第6期創刊が達成されるものと熱望しています。そのさいは、変わらぬご支援をお願いいたします。

さて、総合雑誌の冬の時代といわれて久しい、紙媒体構造不況の昨今。しかし専門的雑誌は、いまも書店の棚を飾っています。

ということは、21世紀の読者がもとめているのが総合雑誌ではなく、シングルイッシュー(個別課題的)に細分化されたニーズであるのだと思われます。

その意味では、ロシア革命100年、68年特集、連合赤軍特集といった、社会運動に特化した特集が好評を博し、このかんの情況誌も増刷という栄誉に預ったものです(増刷による在庫過多という経営的な判断は別としても)。

いっぽう、情況誌(というよりも左派系紙媒体)に思いを寄せてくれる研究者や論者、たとえば五木寛之さんなども「少部数でも、クオリティ雑誌をめざすという手があるのではないですか」と、ご助言くださったものです。

クオリティ雑誌といえば、高級商品の広告を背景にしたお金持ち相手の趣味系の雑誌や男性ファッション誌などしか思い浮かべられませんが、フランスの新聞でいえば「リベラシオン」(大衆左派系雑誌)に対する「ルモンド」のイメージでしょうか。人文系では岩波の「思想」や「現代思想」「ユリイカ」(青土社)あたりが情況誌の競合誌となりますが、学術雑誌(紀要)よりもオピニオン誌系をめざしてきた者にとっては、やはり左右の言論を縦断した論壇ステージに固執したくなるものです。

新しい編集部がどんなものを目指すのか、われわれ旧編集部は決定には口を出さず、アドバイスも控え目に、しかし助力は惜しまないという構えです。

さて、結局いろいろと模索してきた中で、新左翼運動の総括や政治革命、戦争への左派の態度など、おのずと情況誌にもとめられるものがあります。ちょうど50年を迎える「早稲田解放闘争」「川口君事件」つまり内ゲバ問題なども、他誌では扱えない困難なテーマで、本来ならこの時期に編集作業に入っていてもおかしくないはずでした。このあたりは、残された宿題として若い人を主体に考えていきたいものです。

もうひとつ、第5期の終刊にあたって心残りなのは、ウクライナ戦争です。いよいよロシアが占領地を併合し、侵略の「目的」を達しようとしている情勢の中で、早期終結を提言するべきだが、ウクライナ人民にとっては、停戦は「緊急避難」(ミンスク合意の焼き直し)にすぎないはずです。その意味ではロシアが併合を「勝利」として、停戦に応じたからからといって、プーチンの戦争犯罪が許されるわけではない。

また、ウクライナ戦争は台湾有事のひな型でもあり、日本にとっても重大なテーマと言えましょう。そこで、情況誌第5期休刊号において、新左翼・反戦市民運動の混乱(大分裂=帝国主義間戦争か侵略戦争か)について、解説記事をまとめて掲載しました。その核心部分を紹介することで、本通信の読者の皆さまにも問題意識を共有いただければ幸甚です。

なお、新左翼特有の激しい批判、難解な左翼用語まじりですが、ご照覧いただければと思います。筆者敬白

◆休刊号掲載のウクライナ論争

まずは記事の抄録です。中核派批判から始まり、筆者も過去に関係のあったブント系の分派(共産同首都圏委員会)の批判につづきます。

『情況』2022年夏号 21p-22p
 
『情況』2022年夏号 23p

【以下、記事の抄録】

中核派はこのように主張する。

「ウクライナ戦争は、『プーチンの戦争』でも『ロシア対ウクライナの戦争』でもなく、本質的にも実態的にも『米帝の戦争』であり、北大西洋条約機構(NATO)諸国や日帝も含む帝国主義の延命をかけた旧スターリン主義・ロシアに対する戦争であることが、ますます明らかになっている」(「前進」第3242号、5月2日「革共同の春季アピール」)と。

アメリカとNATO、そして日本までがウクライナ戦争に参戦し、ロシアに戦争を仕掛けているというのだ。事実はちがう。日本は北方開発と漁業でロシアと協商しているし、アメリカは武器支援にこそ積極的だが、軍隊を送り込んでいるわけではない。中核派は政治的な深読みである「米帝の戦争」を強調するあまり、プーチンの犯罪(開戦責任)を免罪してしまっているのだ。

中核派の「アメリカ帝国主義の戦争」を的確に批判しているのが『未来』(第342号、革共同再建協議会)である。革共同再建協議会はこう断じる。

「彼らは、今回のロシアの侵略戦争を米帝バイデンの世界戦争戦略が根本原因で、『米帝・バイデンとロシア・プーチンの代理戦争』と言い、さらには『米帝主導の戦争だ』とまで言う。そこには米帝の巨大さへの屈服はあっても、ロシア・プーチンの侵略戦争への批判は一切ない」と。

「プーチン・ロシアからの解放を求めて闘うウクライナ人民の主体を全く無視している。彼らの『代理戦争』の論理は、帝国主義とスターリン主義の争闘戦の前に、労働者階級や被抑圧民族は無力だという帝国主義と同じ立場、同じ目線であるということだ。ロシア・ウクライナ関係、ウクライナ内部にも存在する民族抑圧・分断支配に接近し、マルクスのアイルランド問題への肉迫、レーニンの『帝国主義と民族植民地問題』を導きの糸に解決していこうとする姿勢はない」と、厳しく批判する。

まがりなりにも「帝国主義間戦争」と言い切っているのは、共産同首都圏委員会である。だが米帝とゼレンスキー政権の強硬策が直接的な原因だとして、これまたプーチンの開戦責任を免罪するのだ。云うところを聴こう。

「この戦争の基本性格はウクライナを舞台とした欧米とロシアによる帝国主義間戦争であり、米帝・NATOの東方拡大によるロシアの軍事的封じ込め政策、多額の軍事支援とテコ入れにより2015年の『ミンスク合意』を無視してウクライナ東部のロシア系住民居住区域への軍事的圧迫と攻勢を強めたゼレンスキー政権の強硬策がロシアを挑発し、今日の事熊を招いた直接的な原因」(「radical chic」第44号、早川礼二)であると。

それでは問うが、この戦争が帝国主義間戦争であれば、ゼレンスキー政権は米帝の傀儡政権・買弁ブルジョアジーとして、打倒対象になるのではないのか? ベトナム・インドシナ戦争におけるグエン・バン・チュー政権、ロン・ノル政権と同じなのか。旧日本帝国主義の中国侵略戦争における、汪兆銘政権と同じなのだろうか。

「ゼレンスキー政権の民族排外主義、ブルジョア権威主義独裁に頑強に抵抗しつつ、ロシアの帝国主義的侵略に立ち向かうウクライナの人々に連帯する。ブルジョア国家と労働者人民を峻別することは我々の原則であり、自国も含めたあらゆる〈戦争国家〉に抗う労働者人民の国際連帯こそが求められている。」(前出)と云うのだから、わが首都圏委においては、戦争国家のゼレンスキー政権打倒がスローガンになるようだ。

だが今回の戦争の本質は、ロシア帝国主義の侵略戦争とウクライナの民族解放戦争である。抑圧された民族の解放闘争が民族主義的で、ときとして排外主義的になるのは、あまりにも当為ではないか。中朝人民における日帝支配の歴史的記憶が、いまだに民族排外主義的な抗日意識をもたらすのを、知らないわけではあるまい。ウクライナ人民のロシア(旧ソビエト政権)支配に対する歴史的な憤懣も同じである。

第一次大戦と第二次大戦も、帝国主義間戦争でありながら、植民地従属国(セルビア=ユーゴ・東欧諸国・フィンランド・中国・インド・東南アジア諸国など)の民族解放戦争という側面を持っていた。

それは支援国が帝国主義国(第二次大戦におけるアメリカの中国支援など)であるとかは、まったく関係がない。反帝民族解放闘争の独自性を承認・支持するのは、国際共産主義者の基本的責務である。

侵略戦争に対する民族解放・独立戦争はすなわち、プロレタリアートにとって祖国防衛戦争となる。それは侵略者に隷属することが、プロレタリアにとっては二重の隷属になるからにほかならない。だから民族ブルジョアジーとの共同闘争が、人民戦争戦術として必要とされるのだ。したがって首都圏委のように「ブルジョア国家と労働者人民を峻別する」ことは必要ないのだ。中国における抗日救国戦争(国共合作)がその典型である。

「民族生命の存亡の危機に当たって、我等は祖国の危亡を回復救助するために平和統一・団結禦侮(ぎょぶ=敵国からのあなどりを防ぐ)の基礎の上に、中国国民党と了解を得て共に国難に赴く」(中国共産党「国共合作に関する宣言」)。

わが首都圏委によれば、マイダン革命も米帝の画策ということになる。そこにはウクライナ人民が民族主義者に騙され、米帝の関与によって政変が起きたとする陰謀史観が横たわっている。世界の大衆動乱はすべて、CIAやダーク・ステートの陰謀であると──。

人間が陰謀史観に支配される理由は、自分たちには想像も出来ない事態を前にしたときに、安心できる説明を求めるからだ。自分たちの経験をこえた事態への恐怖にほかならない。シュタージの一員としてベルリンの壁崩壊に直面して以来、プーチンに憑りついた恐怖心は民衆叛乱への怖れなのである。おなじ恐怖心が首都圏委にもあるのだろうか。

オレンジ革命とマイダン革命に、国務省のヌーランドをはじめとするネオコン、NED(全米民主主義協会)などの支援や画策があったのは事実だが、数千・数万人の大衆行動が米帝の画策だけで実現するとは、およそ大衆的実力闘争を体験したことがない人の云うことだ。おそらく実力闘争で負傷したことも、逮捕・投獄された経験もないだろう。

陰謀史観をひもとけば、ジェイコブ・シフらのユダヤ資本がボルシェヴィキに資金提供したからといって、ロシア革命がユダヤ資本に画策されたと見做せないのと同じである。われわれは大衆の行動力こそ、歴史の流れを決めると考えるが、いまの首都圏委はそうではないようだ。

記事の抄録は以上です。ここからさらに、ブント(新左翼)史に引きつけて、革命の現実から出発してきた共産主義運動の軌跡、ロシアと中国を官僚制国家独占資本を経済的基礎とする覇権主義的帝国主義であると理論展開する。

ここまでボコボコに批判すれば、およそ反論は難しいであろう。この記事を読んだ市民運動家や元活動家の感想はそういうものだった。

しかし、他党派の批判など気にしない中核派(大衆運動が頼み)とちがい、ブント系(組織が脆弱なので理論だけが頼り)において、批判への沈黙は党派の死である。どんな反論をしてくるのか楽しみにしていたところ、それはもの凄いものだった。

なんと、首都圏委員会は相互の論旨を「改ざん」してきたのである。わたしの言い分を部分的に引用することで歪曲し、自分たちの主張も核心部(わたしの批判の核心部)を隠すことで、みごとに(いや、臆面もなく)論軸をずらしているのだ。つまり論文不正を行なったのである。あまりの愕きに、おもわず笑い出してしまったものだ。(愕きと爆笑の後編につづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号
『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』

《書評》森野俊彦著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』 田所敏夫

ふつうの暮らしをする人々にとって、「裁判所」や「司法」と積極的に関わりたい、と願う人は少ないだろう(一部に「傍聴マニア」を趣味とする例外的な方々は存在するが)。法廷は静寂が求められる場所であり、開廷の際、原告、被告(人)だけでなく弁護士、検察官そして傍聴者も起立を求められる。黒い法衣に身を纏った裁判官は、最低限かつ必要な発言に留めるのが通例であり、一段も二段も高い位置(大所高所)から私情を挟まずに、「法」と「証拠」に基づいて判断を下す。というのが一般に想像される裁判官の平均的イメージではないだろうか。

平均的イメージが存在するのだから「平均的ではない」裁判官も、理論的には何処かにはいてもおかしくはない。けれども市民がそのような「平均的ではない」裁判官と巡り合う僥倖は、ごくわずかの確率であるといえよう。

 
森野俊彦著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』(日本評論社)

そしてこの点も重要なのであるが、いくら「裁判所」や「司法」と無関係でありたい、と願ってもわたしたちはこの国の司法の下で生活を営んでいるのであるから、「司法」と無関係に生活をすることはできない。そんな前提で森野俊彦著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』(日本評論社 2022年)を手に取ると、新鮮な風に触れたような思いを体感できることだろう。

『初心 「市民のための裁判官」として生きる』の著者、森野俊彦氏は任官から退官まで、文字通り「市民のための裁判官」たらんと、裁判所の中で闘い尽くした類まれなる経歴の持ち主である。

本書第一章は「23期裁判官としてともかく生き延びて」から幕を開ける。「生き延びて」とは大げさなと思われる向きもあるかもしれないが、森野氏と同期の七名が裁判官に任官されなかったということがありこの処断に承服できない森野氏らは最高裁に対しての抗議行動にまで及んだ(このお話は初対面の時から幾度か伺っている)。詳細は本書に譲るが、裁判官として昇進などではなく、森野氏は常に「司法はいかにあるべきか」、「市民のための裁判官とは」を自問しながら試行錯誤し、冒頭に述べた一般的な裁判官とはまったく異なる裁判官として各地の地道な事件に積極的に取り組んでゆく。その延長線上に市民感覚に近い司法の実現や、市民の司法への関心喚起の必要性をお感じなられ、講演会をはじめ様々な啓発活動にも献身されてきたことも特筆すべきだろう。

ご出身は大阪で阪神タイガースの大ファンであることが『初心』の中で紹介されている。近年「大阪維新」の繁茂により、大阪人が「自由さ」や「反中央の気骨」を失ったのではないか、と感じさせられる場面が少なくないが、森野氏はその思想と行動において良質な「大阪人」としてのエッセンスを兼ね備えた人物であることが第二章「サイクル裁判官の四季だより」のそこここから伺える。

森野氏は大阪地裁堺支部勤務時代に、健康法も兼ねて自転車で通勤をしていたところ、たまたま担当していた境界確定訴訟の現場に行き当たる。自転車から降りて早速「検証」にとりかかると、書面から抱いていたイメージと現場の違いに気がついた。それ以降担当する事件については、可能な限り自転車で現場に向かい、自身の目で確かめて判断をを下すようになったそうだ。そこで自らを「サイクル裁判官」と命名してまとめられた「サイクル裁判官の四季だより」は「法学セミナー」の連載を中心に20世紀後半から2004年まで、森野氏が裁判官として脂がのり切った時期に接した事件や人物、風景を森野裁判官らしい温和な感性で綴った、一見読みやすいが硬派なエッセイ集といってよいだろう。多忙ななか読書、映画鑑賞、登山、旅行など多くの趣味を通じて社会を見聞し、現場や事件当時者への尽きない関心を持ち続けた森野裁判官の日常が、テンポよく軽妙に、そして彩り豊かに紹介される。

私が森野氏と知己を得たのは、退官を控えた時期だった。ある集まりでご一緒させていただいたのだが、「こんなに気さくな裁判官がいるんだな」と感心した。森野氏は文字にすれば標準語の文章を書くことはできるが、口語では大阪弁イントネーションが強いため格調の高い文節を駆使することができない(はずだ)。法衣を着ていなければ「大阪のおっちゃん」の呼称が似合うお人柄である。

『初心』では裁判員制度や夫婦別姓問題そして、日本国憲法と裁判官に対する森野氏の見解が中盤から後半にかけては展開される。法律家としての森野節が全開である。前半が海外も含め様々な場面と、裁判官生活における喜怒哀楽(もちろん森野裁判官に特徴的な)の記録、いわば読み物として良質なエンターテイメント性を備えた内容であるのに対して、後半は森野裁判官、もしくは法律家森野俊彦による現司法のありように対する、根本的な問題提起(法律書)であるといってよいだろう。

森野氏は退官後大阪弁護士会に弁護士登録を行い、あべの総合法律事務所に籍を置き、弁護士活動を続けている。「現場が好き」だという森野氏は、きょうも『初心』を心の中に抱きつつ、大阪を中心にあちこちを駆け回っておられることだろう。四方(しほう)は角だらけだけれども、司法の中に森野氏のような人が居てくれれば、どれほど市民が助かることかと、こちらからは願うしかないのであるが。

そんな森野裁判官にひょっとしたら筆者は京都家庭裁判所で、裁判官と申立人の関係で顔を合わせていたことがあったかもしれないのだ。私的な事件が発生し弁護士を選任して相談したところ、結局は家庭裁判所ではなく地裁への提訴する結果と相成ったが、あの時、京都地裁ではなく、京都家庭裁判所に申し立てを行い、運よく森野裁判官に当たっていたら、私の司法に対する感情や、人生自体がいまとは大きく異なるものになっていたかもしれない。

『初心』は春や夏よりも秋、できれば晩秋のできれば夜、手に取ると味わいが増すように感じられる。滋養強壮にも効果抜群であることを保証する。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。主著に『大暗黒時代の大学』(鹿砦社)。
amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846312267
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000528
※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

あさま山荘事件から50年後に考える「連合赤軍問題の本質」〈後編〉現在になぞらえるための書籍『連合赤軍を読む年表』 小林蓮実

前回、シンポジウムと書籍の前半を取り上げ、連合赤軍の問題から暴力などについて考えることを始めた。今回は、続きの内容を追った後、わたしがイベントや本書を通じて考えた暴力に関する考えを伝えたい。(以下、敬称略)

 
椎野礼仁・著『連合赤軍事件を読む年表』(ハモニカブックス)

◆時系列で「連赤」の真実を追う

まずは、本書、『連合赤軍を読む年表』椎野礼仁・著(ハモニカブックス)の続きを見てみよう。

「その後の『連合赤軍』」の章でも、大衆の反応のおそろしさに触れられていたり、坂口が手記に「誤りの根本原因は……政治路線抜きの目先の軍事行動の統一のみに走った連合赤軍の結成」としていたりといったことも書かれていた。離婚に関する永田と坂口の温度差には、ある種のせつなさは感じつつも、苦笑してしまう。また、坂口の途中までの黙秘に対する、永田の「それができたのは、何よりもあさま山荘銃撃戦を闘ったから……その闘いが取り調べに対する強い意思を与え……同志殺害に対する罪悪感を和らげることにもなった」などという言葉も取り上げられている。

一方、坂口は、森の「自己批判書」に対して責任転嫁を感じつつも誠意は認めていたこと、沖縄や田中内閣などの「新情勢」から『武闘の条件があるようには見えず、新しい時代に入ったことを感じざるを得なかった』」という。

その後、森が、この「自己批判書」を撤回し、坂口は森に対して批判的な手紙を送り、森は坂口に「君の意見を多く押さえてきたことに、粛清の道があったと思います」「この一年間の自己をふりかえると、とめどもなく自己嫌悪と絶望がふきだしてきます」というような遺書を残して自殺した。

前後して、永田には過食症があり、塩見は「連席問題の核心は思想問題である」という見解を示していたそうだ。重信は、「査問委員会で裁いて欲しい」と申し出る坂東に対し、「そんなつもりも資格もない。連赤の敗北に共に責任をとり、総括するために奪還した」と答えていた。そして、永田に対し、女性蔑視といえる判決が下される。本書には、わたしが知らなかったこと、忘れていたことが数多く記されていた。

連席関連の「ガイドブック」紹介を間に挟み、最終章は「インタビュー」となっている。植垣は「現在の日本ではテロもゲリラも必要ないし、むしろ有害だと考えています」「テロは政治的に有効ですらないということなのです」と語ってから、ゲリラ戦が有効である例をあげた。また、総括の暴力を「日本的な論理」「集団を支える強固な論理構造がある」と説明している。赤軍派は「一人一党」だったが、革命左派の前身グループは「家族的、あるいは閉鎖的だと言われていました」とも植垣は述べる。現在の運動の難しさについても語っており、展望や「未来図」が見えず、「社会主義」にも、官僚制や資本主義に代わるものもないともいう。

加藤倫教は、問題は「革命の私物化」にあり、「本来革命は大衆のためにあるはずなのに、自己目的化されていった」という。提案としては、「江戸時代の人口3000万くらいの規模への再評価が出てますよね」「地域々々でその環境が維持できる範囲の生活をするということです」としている。必要な権力の規模としては「江戸時代だったら、藩レベル」をよしとし、「力の押し付けをするんだったら、個人テロが多発する」とも口にしている。アンドレ・ゴルツ『エコロジスト宣言』やエンゲルス、安藤昌益の「直耕」、「現場主義を貫く」という言葉にも触れていた。

他方、岩田は「『共同幻想論』による連合赤軍事件の考察」という文章を書いており、その全文とあとがきも本書に掲載されている。

◆連赤の問題は、組織というものが内包する闇

山上による安倍銃撃後の現在、連赤の問題を考えると、また新たな視点をもつ。宗教や政治、ビジネスにも罪悪感、心配や悩みの利用があるとするならば、連赤もまた人の弱みが活動や組織に利用されてきたように思える。

ただしこれらは、あらゆる組織やグループに見られる問題であり、連赤はその象徴であるようにも感じられるのだ。権力や金を保持したいグループや人物がいて、完全に組織をオープンにすることは好まず、人の感情や自尊心を、言葉や評価で上下させる。権力や腐敗していく組織、金などを守るために、処刑や搾取を繰り返す。

では、どうすればよいのか。私たちは、権力や金、組織の維持をある程度あきらめてでもグループをオープンな状態に保たねばならない。もしくは山上のように、覚悟をもって、個として動く。

個人的には、さまざまな組織のもつ上記のような意図に嫌悪し、距離を置いた経験が多くある。プロジェクトで自らがリーダーとなって仕事を進める際などには、自らの「煩悩」や「欲望」に負けず、オープンでフラットな状態を保つよう、努めているつもりだ。

本書では、彼らの総括として、個人の問題にするのか、それとも思想の問題とするのか、というような揺れる文脈をたどってきたような気がする。暴力などに対し、簡単に答えを出すことはできない。

ある時、生協活動経験者に「生協は組織の問題があまりないイメージが強いのですが、いかがですか」と尋ねたら、「人間は集まればどこも一緒よ」と返ってきた。このようなことのほうが、個人的には本質に近いように感じる。それを思想の問題と捉え、未来へと進むなら、社会主義に権力者を据えず、互いに自由でフラットで固定されない関係性を追求するような社会を想定し、それを実現すべく日々、実行に移すことが有効であるかもしれない。

とすれば、アナキズムがやはり魅力的にうつるが、これが継続的で平和で自由でほどよい規模に維持されることを想定すると、やはりコミュニティの規模は小さく、それが外の多くのコミュニティとオープンな形で結びつくような形がよいだろう。

あらゆる問題を議論と歩み寄りによって解決することの困難を感じながらも実践することも重要かもしれない。武力をアピールすれば、怒りを買うことは、理解できる。そのうえで、権力や変えられぬ問題に対し、ある種の暴力が有効であることは、この間も証明されている。山上が失敗して安倍の命がつながれていたら、残念ながらここまでさまざまな問題が暴かれてくることはなかっただろう。

ここから先のことも連赤についても、日々の実践のなかで今後も考えていきたい。(了)

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター。『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『紙の爆弾』『NO NUKES voice(現・季節)』『情況』『現代の理論』『都市問題』『流砂』等、さまざまな媒体に寄稿してきた。労働・女性運動を経て現在、農的暮らしを実現すべく、田畑の作業、森林の再生・保全活動なども手がける。取材等のご相談も、お気軽に。
Facebook https://www.facebook.com/hasumi.koba

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』

内藤秀之さん一家を追った映画『日本原 牛と人の大地』 鹿砦社代表 松岡利康

 
映画『日本原(にほんばら)牛と人の大地』

右に掲載しているように、『日本原 牛と人の大地』という映画が全国のミニシアターで上映中です。朝日新聞10月7日夕刊に映画と、主人公の内藤秀之さんのことが掲載されていました。

この映画は、半世紀余り前に学生運動で頑張った方が、それまでとは違うやり方で基地反対運動に半世紀も頑張られたヒューマン・ドキュメントです。

内藤さんは、私も2、3度お会いしたことがありますが、朴訥としたお爺さんで、この人が、若い頃は学生運動の闘士、それも党派(プロ学同。プロレタリア学生同盟)の活動家だったとは思えません。若い頃にはブイブイいわせていたのでしょうか。

プロ学同は構造改革派の流れを汲む少数党派で、指導者は笠井潔さん(当時のコードネームは黒木龍思)や戸田徹さんら、かの岡留安則さん(故人。元『噂の眞相』編集長)もこの党派に所属していました。生前直接聞いています(氏との対談集『闘論 スキャンダリズムの眞相』参照)。

構造改革派は、過激な闘いではなく、ゆるやかな改革を目指す勢力でしたが、学園闘争や70年安保─沖縄闘争の盛り上がりと時期を同じくして分裂し、その左派のプロ学同やフロントは新左翼に合流しラジカルになっていきました。右派は「民学同」=「日本の声」派で、その後部落解放同盟内で勢力を伸ばしていきます。

さて、69年秋は70年安保闘争の頂点で、内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって虐殺されます。

1969年11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは虐殺された

下記新聞記事では、牛飼いになったのは「友人の死だった」とし(「友人」というより”後輩”でしょう)、「デモ隊と機動隊が衝突し、糟谷さんは大けがを負って亡くなった」と客観的に他人事のように記述されていますが、この頃の闘いは、まさに生きるか死ぬかの闘いで、熾烈を極めました。学生にも機動隊にも死者が出ています。それをマスコミは「暴力学生」のせいと詰(なじ)ったことを、くだんの記事を書いた朝日の記者は知っているのでしょうか!?

2022年10月7日付朝日新聞夕刊
 
『語り継ぐ1969 ― 糟谷孝幸追悼50年 その生と死』(社会評論社)

 

その後内藤さんは、ここが私たちのような凡人と違うのは、医学生への途をきっぱり拒絶し、糟谷さんの遺志を胸に人生を懸けて基地反対闘争を貫徹するために牧場家に婿入りしたというのです。

爾来半世紀近く黙々とこれを持続してこられました。当時流行った言葉でいえば「持続する志」です。

内藤さんの営為は、日本の反戦運動や社会運動の歴史、個人の抵抗史としても特筆すべきもので記録に残すべきです。

……と思っていたところの、この映画です。

また、これに先立ち内藤さんは、後輩活動家の糟谷さんの闘いの記録を残すために奔走されました。

一緒に決戦の場に向かった後輩が志半ばにして虐殺されたことが半世紀も心の中に澱のように残っていたのでしょう。

多くの方々のご支援で、これは立派な本として完成いたしました。そうして、今回の映画となりました──。

多くのみなさんが、内藤さんが中心になって出版した糟谷さんを偲ぶ書籍と、内藤さんと一家を追った映画をお薦めします。闘争勝利!

(松岡利康)


◎[参考動画]映画『日本原 牛と人の大地』予告篇

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

あさま山荘事件から50年後に考える「連合赤軍問題の本質」〈前編〉 暴力について「深く」思考するためのシンポジウムと書籍 小林蓮実

「武装闘争や内ゲバをどのようにとらえるのか」。それは、おそらく関係者も、もちろんわたしたちにとっても、明確な答えを出しにくい問いであるのかもしれない。

2022年6月18日、「あさま山荘から50年─シンポジウム 多様な視点から考える連合赤軍」と題されたイベントが開催され、会場である目黒区中小企業センターホールに多くの人が集まった。わたしは成り行きで受付の(役に立たない)手伝いをしていたが、客層は老若男女、多様だ。

このイベントでは、大学1年生の安達晴野さんからの暴力に関する質問に対し、岩田さんは「正義が勝つのでなく、世の中は勝った者が正義をつくっている」と、ガンディーに触れたことに対し、金廣志さんは「暴力についてはいちばん悩んできた。我々は暴力をなくすための暴力と考えていた」「歴史上、システムがチェンジする時に暴力が行使されなかったことはない」「本当にそんな暴力はあるのか、いまだに解決がつかない。あなたたちも一緒に考えてほしい」と答えていた。

さらに安達さんがガンディーは非暴力・不服従を訴えたことに触れ、暴力に異論を唱える。それに対し、金さんは「ガンディーのインドが世界で最も軍事大国の1つであることを含め、我々は暴力についてもっと深く考えたい」「非戦を語り続けること以外に、どうやって未来社会がつくれるんだということが、一応、わたしの建前上の考え」と返した。これらのことが、わたしにとっては特に印象に残ったことだ。

ガンディーは非暴力で御しやすかったからイギリスが評価したという内容の、アメリカの監督が描いたドキュメンタリー映画を観たことがある。非暴力を訴え続けるだけで争いがなくなるという形に、現在、なっていない。また、日常的に暴力にさらされ、報道もなされ続けている。

戦争や暴力が身近に語られるなか50年の節目にあたり、今回の前編と次回の後編を通じ、改めて連合赤軍の問題について考えたいと思う。(以下、敬称略)

シンポジウムにて、若者からの質問に当事者が答える様子
 
椎野礼仁・著『連合赤軍事件を読む年表』(ハモニカブックス)

◆時系列で「連赤」の真実を追う

1月10日、『連合赤軍を読む年表』(椎野礼仁・著/ハモニカブックス)が発行された。本書は、長年にわたる「連合赤軍の全体像を残す会」の活動や発行媒体などをもとに、50年の節目に向け、改めて発刊されたものだ。

連合赤軍は共産主義者同盟赤軍派と京浜安保共闘革命左派によって結成され、1971~72年に活動。革命左派は山岳ベースを脱走した2名を「処刑」し、連合赤軍としても山岳ベースではメンバー29名中12名の命を奪った。また、72年にはあさま山荘で人質をとって立てこもり、機動隊員2名、民間人1名も死にいたったのだ。

本書では、題名通り年表形式で、新左翼運動、革命左派・赤軍派、社会状況、警察・メディアの動きなどを追っている。メンバーが運動に参加するようになった背景・きっかけ、永田が川島に性的暴行を受けていたこと、永田と坂口の結婚、上赤塚交番襲撃時に警官による発砲でなくなった柴田のための救援連絡センター主催による人民葬、アジトの様子、最初の「処刑」決定に関する永田と坂口の記憶の食い違い、「処刑」に対する森の反応、森の論理や革命左派と赤軍派とのヘゲモニー争い。そんな内容から始まる。

次に、「連合赤軍の成立と『総括』」という章が立てられており、永田の女性問題への関心が批判へと結びついていく様子やセクハラ問題の対処から暴力への展開などが読みとれるのだ。また、「共産主義化」という方法論の登場、暴力に対する尾崎の感謝の言葉、その他、総括を要求される各人の反応、死亡者が出た際の周囲の反応などが、立て続けに記されている。さらに、逮捕時の永田の心境にも触れられていた。

続く「あさま山荘の10日間」の章では、坂口の、「敵から政治的主張を言えといわれたことで『政治的敗北をヒシヒシと感じざるを得なかった』」というような内面も吐露される。あさま山荘で人質にされた女性は、「銃を発砲しないで下さい! 人を殺したりしないで下さい! 私を楯にしてでも外に出て行って下さい」と叫ぶ。そして、妻を人質に取られた管理人の思いや坂東の父の自殺にも触れていた。この短い章の間にも、ドラマチックな展開を感じてしまう。

次回の後編では、続きの内容を追った後、わたしがイベントや本書を通じて考えた暴力に関する考えを伝えたい。(つづく)

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター。『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『紙の爆弾』『NO NUKES voice(現・季節)』『情況』『現代の理論』『都市問題』『流砂』等、さまざまな媒体に寄稿してきた。労働・女性運動を経て現在、農的暮らしを実現すべく、田畑の作業、森林の再生・保全活動なども手がける。取材等のご相談も、お気軽に。
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『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』