2週間の拘束となっている豪華クルーズ船ダイヤモンドプリンセスの乗客、3,771人(乗員1,000人余をふくむ)から、新たに3人の感染(累計64人)が判明した。濃厚接触者273人のほかに、70歳以上の乗客(1,000人)には、再検査が行なわれているという。

バカンスのためにクルーズしていたのに、まるで罪人のように船室に拘禁されるとは、乗船している方々に同情するしかない。報道によれば、船内感染を予防するために、船室から出ることも禁止されているという(窓なし船室の客だけデッキに出られる措置となった)。また、香港でも別のクルーズ船(3,000人乗船)に乗客の下船が禁止されている。日本政府は新たなクルーズ船の入港を拒否する方針だという。

2週間の経過観察の場合に心配されるのは、拘禁性ノイローゼ(拘禁反応)である。拘禁病と総称され、症状は多岐におよぶ。女性の場合はほぼ例外なく無月経となる。

わたしの経験(三里塚闘争で1年間の拘置)では、同じ被告(公判グループ約50人)のうち、2人にこの症状が出た。ひとりは吃音(持病)が恒常化し、公判廷で陳述書を読むのに苦労していた。獄外では人に対する指示も明快で、よく喋るほうだった人が、保釈後もまるで別人のように寡黙になったのを記憶している。

もうひとりは、ちょっとマズい感じというか、拘禁障害がヘンなかたちで現出した。おそらく無意識だろうと思われるが、近くにいる女性に抱きついてしまうのだ。弁護士をまじえた被告団会議で、相被告の女性に抱きついてしまった。襲いかかるという表現があてはまる感じで、その人の仲間(同志)から「女性差別行為」だと断定されたから困ったことになった。左翼運動の場合、たんなる痴漢行為が「差別」とされる。女性の政治的な決起を抑圧する行為、というのがその内容である。

年長の相被告(他党派)から「病気なのだから、治療の方向で考えるべき」という意見も出たが、とりあえず女性から離れた場所に座らせるなどの処置がとられたのだった。確信的な政治犯においてすら、自由を拘束された人間がいかに苛酷な精神状態に置かれるか、それは死刑囚における心神耗弱などにも類例は多い。重篤なウイルス感染かもしれないという不安、部屋から外出できない乗客たちが心配である。

ところで現在、乗客たちがクルーズ船に留め置かれているのは「船長命令」だという。感染者と診断された人は指定感染病罹患者として強制入院させることができるが、感染が特定されない乗客は「身分」が不確定なまま、14日間の経過措置ということになるのだ。しかも客船であることから、公海上・接続海域・領海という法的な区分で主権のおよぶ範囲が決まってくる(公海上ならイギリス)。現状では日本国の要請で、イギリス人(船籍はイギリス・船主はアメリカ)船長が命令を発しているという法的な状態なのだ。

しかし船長の命令権が船舶の安全な航行に関するものである以上、行動の自由(基本的人権=不当な拘束を受けない)と対立するのは明白で、乗客が船を降りようとすれば、これを阻止する法的な根拠はない。にもかかわらず、乗客を船内に停留する政府の方針に、病人は隔離するという発想があるのではないか。乗客は大半が高齢者であるという。持病をかかえ、常用薬が足りなくなっている人もいるという(優先的に搬入方針だと報じられている)。持病を持っている感染者が死亡に至るケースが増えているという。

感染とは別個に拘禁性の病状が出る前に、感染がない人たちは自宅に帰すべきではないだろうか。船内に留めて感染者が増えることをやむを得ない前提として、船外(一般社会)に出さないというのなら、それは棄民の思想である。ハンセン氏病の例にあるとおり、日本社会には病人を隔離する精神的な風土がある。

現段階では、インフルエンザに比べるとはるかに感染力は低く、症状の重篤性(死亡率)も低いとされている。症状が出ない症例があることから、危険なのだというのはウイルスが新型だからであって、ぎゃくにいえば基礎疾患がなければ無病状で終わるということでもあるのだ。ホテルでの隔離もふくめて、もはや拷問のような「船内拘置」はやめるべきではないか。


◎[参考動画]米国人乗船客の対応は日本政府に一任…米政府、判断(ANNnewsCH 2020/02/08)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

前回の記述を行う中で、忘却の彼方にあった記憶が甦ってきました。なにしろ50年近く前のことなので、忘れていたことが多々ありました。

72年2月1日の学費決戦に至る過程は、71年初頭からの三里塚-沖縄闘争との連関と無縁ではありません。  

71年三里塚―沖縄闘争(『季節』6号より)

三里塚第一次強制収容阻止闘争には、いわば代表派遣で数人を送り出すにとどまりました。「これじゃいかん」と本格的に関わることにし現闘団を常駐させることを決め、来る第二次強制収容に備えることになりました。同志社大学全学闘だけでなく京大などにも呼びかけ、取香の大木(小泉)よねさん宅裏の現闘小屋には、全京都の学生らが数多く集いました。ノンセクト学生の受け皿にもなりました。  

『われわれの革命』表紙

そうして5月17日に三里塚連帯集会を、今はなき学生会館ホールで開き東大全共闘議長・山本義隆さんを招き講演していただきました(講演内容は「同志社学生新聞」に掲載後、『季節』6号に再録されています)。

以後の運動の過程は、『われわれの革命――71~72年同大学費闘争ー2.1決戦統一被告団冒頭陳述集』(75年2月1日発行)というパンフレットのために作成した年表に詳しくまとめました。年表記述含め、パンフレットの編集は大学を離れる直前に私が編集し発行されたものです。

前回に71年全般の運動について概略を記述しましたが、いくつか付け加えておきます。

9月の三里塚闘争で、腰まで沼につかって逃げ逮捕を免れたことを前回述べましたが、沖縄闘争でも「アカン!」と思ったことがありました。

6月15日、曲がりなりにも統一集会を行っていた全国全共闘が、中核派(第四インターも)を中心とする「奪還」派と、反帝学評(社青同解放派)、フロント、ブント戦旗派などの「返還粉砕」派に分裂します。

71年6・17沖縄返還協定阻止闘争(「戦旗派コレクション」より)

「返還粉砕」派は6月17日に宮下公園で集会を開きましたので「宮下派」とも呼ばれましたが、私たちはこちらに参加しました。私は三里塚から参加しましたが、機動隊による弾圧は厳しく、なぜかブント戦旗派の部隊と共に行き止まりの路地に押し込められ逮捕されるかと観念したところ、なぜか背後から火炎瓶が何本も投げられ、戦旗派の指揮者の「同大全学闘諸君と共にここを突破したいと思います」とのアジテーションで戦旗派と共に突破し逮捕を免れました。「戦旗派コレクション」というサイトにアップされている写真は、おそらくその時のものだと察します。 

沖縄闘争では、5・19沖縄全島ゼネスト連帯京都祇園石段下武装制圧闘争で、最先頭で機動隊に突撃した全学闘争は14名も逮捕されていますが(全員不起訴)、私は、その前に情宣中にゲバ民に襲撃され病院送りになり退院したばかりで、部隊に入らず逮捕を免れました(苦笑)。

さて、学費闘争に話を戻しましょう。──

11・11の団交は、心ある職員からのリークで10月30日に極秘に理事会が行われることを察知し、その場に乗り込み、団交の確約を取ったことで開催されたのです。このことは、すっかり忘れていました。『われわれの革命』掲載の年表を見て思い出した次第です。

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

ところで、11月17日に第2回目の団交を確約しつつも、大学当局は約束を反故にし逃亡しました。以後の会議等はホテルで行ったといわれますが、私たちは、抗議の意味で学生部と有終館(文化財で大学首脳が勤務していました)を実力で占拠しました(72年1月13日まで)。翌18日には学友会中央委員会で23日までの期限付き全学ストを決議しました。

一部学友会は、それまでも学生大会で決議したりして期限付きのバリストをたびたび行い、学生の学費値上げ阻止の機運を盛り上げて来ていました。二部も、廃部の噂があり(実際に廃部されています)、無期限ストに突入し、神学部も独自にストに突入していました。二部や神学部は、独自の事情もあり、一部学友会(5学部自治会+学術団、文連などサークル団体、体育会、応援団で構成。当時は5学部でしたが、現在は学部が増えています。当時は文学部内にあった社会学科は社会学部になっています)とは別個に動いていましたが、敵対しているわけではなく、共同歩調を取っていました。神学部の長老のKKさんは11・11団交でも活躍されました。

当局は、逃亡を続け、遂に12月3日、なんと熱海で評議会・理事会を開き学費値上げを正式決定します。「なんだよ、逃亡の挙句、温泉に入って値上げ決定かよ」というのが私たちの率直な気持ちでした。

そうして、当局の逃亡と学費値上げ正式決定によって、私たちは越冬闘争に入っていくわけですが、そんな中もたられたのは、同志社では登場できなくて関西大学のストを指導していた中核派の正田三郎さんら2人が深夜革マル派によって襲撃され殺されるという事件が起きました。いつもなら中核派の立看はすぐに撤去されるのですが、この時は、さすがに私たちも、主張が対立するからといって壊すこともせず、師走の木枯らし吹きすさぶ中、長期間立てられていたことを想起します。中核派はこれ以後、革マル派を「カクマル」とカタカナで呼ぶようになります。革マル派とは「革命的マルクス主義派」の略ですが、「革命的」の「革」などおこがましいということでしょうか。70年の法政大学での革マル派東京教育大生死亡以降、71年には中核vs革マル派間の内ゲバによる死亡者は出ていなかったと思いますが、再び起きてしまい、以降内ゲバによる死者が続いていきます。

正月を挟んで、短期間の帰省もほどほどに再び京都に戻り、来るべき決戦に備えました。以前に明治大学では当局とのボス交で運動の盛り上がりを終息させたという負の歴史がありました。逆に中央大学では学費値上げ白紙撤回を勝ち取っています。私たちは、これら、かつての学費闘争から学び(特に中央大学の闘争)、明治大学のようなボス交や、いつのまにか振り上げたこぶしをおろした早稲田のようなアリバイ的な闘争を断固拒否し、一歩も退かず徹底抗戦することを意志統一しました。

まずは学友の意志や支持を確認するために1月13日、数々の大きなイベントをやった歴史を持つ学生会館ホールにて全学学生大会を開き、「学費値上げ阻止!無期限ストライキ突入!」を決議しました。記録では、出席2千余名、委任状4千700名を集めたとなっています。あの時の熱気は忘れられません。私も最後に決意表明しました。ジェーン・フォンダの講演を1回生の時にこの学館ホールで聴いたな。全学連大会、小田実さんや山本義隆さんの講演など、このホールは、多くの歴史的なイベントを見てきています。

「賽は投げられた!」── もう後には引けません。

毎日毎日、学友会ボックスにて闘う意志を確認しました。1月25日には、やはり学館ホールで学費値上げ阻止全関西集会を開き600名が結集し、全関西から駆けつけた他大学の学友が決戦直前の同志社の学費闘争への支援を鮮明にしてくれました。
連日の闘う意志を確認する過程で、中心的な活動家の中から突撃隊を選抜し、私たち4人が、今出川キャンパス中央にある明徳館の屋上に砦をこしらえ、〈革命的敗北主義〉による「学費値上げ阻止!」の不退転の決意を示すために立て籠もることになりました。他にも突撃隊、行動隊などをジャイアンツ、タイガース、ドラゴンズに分け組織し固めました。

入学試験を目前とした2月1日、機動隊導入-封鎖解除となりました。私たち4人は退路を断ち砦に立て籠もり、早朝の京都市内に向けてマイクのボリュームを最大にしアジテーションを行いました。アジテーターは私の担当でした。

2・1封鎖解除を報じる京都新聞(同日夕刊)

2・1明徳館砦で必死の抵抗も逮捕

さすがに歴戦練磨の機動隊、バリケードは、あっけなく解除されました。どうするか迷いましたが、コンクリートで固めなかったことが致命的でした。あと一時間もったら、支援の学友がもっと集まったと思いますが、それでも300名ほどの学友が学館中庭に結集したそうで(私は逮捕されて直接見ていませんので人数は後からの報告です。判決文では180名)、バリケード奪還に向けて丸太部隊を先頭に今出川キャンパスへ出撃しました。

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

1972年2月1日の闘い、私たちが「2・1学費決戦」と呼ぶ闘いは、意外と知られていませんが、前にも後にも、同志社大学では最大の闘いでした。これだけ逮捕者を出した闘いはありません。69年の封鎖解除でも、徹底抗戦をしませんでした(すでに同志社のブントが分裂、解体していて徹底抗戦などできなかったようです)。

120数名検挙、43名逮捕、10名起訴……大弾圧でしたが、私たちは、日和ることなく、学費値上げ反対の意志表示を貫徹することができました。私たちは〈革命的敗北主義〉の精神を貫徹することによって、後に続くことを願いましたが、その願望は挫かれました。

連合赤軍事件があったり、内ゲバが激しくなったりして、それまで曲がりなりにもあった学生運動へ一般市民や一般学生の理解が失くなりました。時代が変わり政治アパシーも蔓延したり、かつて全国屈指の学生運動の強固な砦だった同志社大学でも、私たちがあれだけ徹底して反対した「田辺町移転」も、小さな反対行動はあったものの、なされてしまいました(京都府綴喜郡田辺町はその後京田辺市になりました)。二部も廃止、結局は学友会解散(それも自主的に!)に至りました。当局や権力による弾圧で潰されたのならまだしも学生みずから解散するなど前代未聞です。先輩らが血を流すことも厭わず闘い死守してきた学生自治の精神をみずから捨て去るとは、バカかとしか言えません。私たちや、先輩方が、学生自治の精神を堅持し必死に守ってきた学友会は今はもうありません。涙が出てきます。世の中は、本当に私たちの望むようにはいかないものです。かつて私たちの精神的場所的拠点だった学生会館も解体され、私たちが〈自由の日々〉を謳歌した場所(トポス)も今は在りません。 

「被告団通信(準)」

裁判闘争は大学を離れてからも延々続き、判決は4年9カ月後の1976年11月3日でした。全員が無党派で、かつ運動から離れていたこともあったのか、予想に反し寛刑でした。党派に属し現役の活動家だったら、また違った判決内容になっていたと思料します。

起訴された10人、内訳は明徳館砦組4名と学館前組6名(内1人は京大)で統一被告団を形成し裁判闘争を闘いました。

明徳館砦組懲役3カ月執行猶予1年、学館前組懲役6カ月執行猶予1年、そうして京大のMK君は無罪でした。MK君は、『遙かなる一九七〇年代―京都』の共著者・垣沼真一さんと同じ京大工学部のノンセクト・グループの活動家で黒ヘルメットを被っていましたが、機動隊と衝突した後に黒ヘルを脱いでいたところを、機動隊に逮捕される際赤ヘルを強制的に被らせられたことが決定的になり無罪を勝ち取ることができました。大ニュースであり、大きく報道されて然るべきでところ、判決自体は小さく報じられた記憶はありますが、MK君の無罪判決がどう報じられたか記憶にありません。MK君無罪について裁判所は詳細に記述しています(が、ここではこれにとどめます)。

ペンネーム(山崎健)で書いた私の総括文

M君は晴れて無罪となりましたが、だからといって卒業後から無罪判決を得るまで安穏な生活をしていたわけではなかったと聞いています。しかし、さずがに「腐っても鯛」ならぬ“腐っても京大”、彼は努力して一級建築士の資格を取り自前の建築設計事務所を開いたそうです。

有罪の9人の判決文には、「被告人らはいずれも春秋に富む将来のある青年であること…」という古色蒼然とした名文句で結ばれていました。

実は、私はこの判決文を紛失していました。当時の資料を捨てずに、かなり持って「資料の松岡」と揶揄されていましたが(その後、ほとんどをリベラシオン社に寄贈しました)、私にしては珍しいことです。“再会”するのは30数年経った2005年7月12日、神戸地検特別刑事部に逮捕された「名誉毀損」事件での「前科調書」で検察側がこの判決文のコピーを出してきたからです。さすがに日本の権力機構の個人情報管理も侮れません。現在はデジタル化されて、もっと詳細になっていることでしょう。

被告人側、検察側、双方とも控訴せず確定しました。特にMK君無罪(冤罪!)に対して検察側は控訴して然るべきでしょうが、京都地裁の判断に勝てないと考えたのでしょうか控訴しなかったことでMK君の無罪が確定したわけです。

ちなみに、当時、新左翼(反日共系)の弁護は、社会党京都府連委員長でもあった坪野米男先生が京都地裁横で営んでおられた坪野法律事務所が一手に引き受けていましたが、ここに所属し(その後独立)、弁護士になりたての海藤壽夫先生らが本件を引き受けられました。海藤先生は、なんと塩見孝也(元赤軍派議長)さんと京大で同期で、塩見さんは「無二の親友」だとおっしゃっておられました。そんな(つまりだな、塩見さんのようなコワモテの)感じはせず当時から温厚な方でしたが、塩見さんの追悼会で発言され、私も先生にご挨拶しないといけないなと思っていたところ、海藤先生のほうから「頑張っているね」とお声をかけていただきました。
 

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

前編と併せ、すっかり長文になってしまいました。一年に一度ぐらいはご容赦ください。私たちにとって、ますます1970年代は遙か遠くになってきていますが、そろそろ〈総決算〉すべき時期に来ているようです。私にとっては、やはり〈原点〉はそこにありますので。

(付記:『われわれの革命』『被告団通信』、私の総括文はリベラシオン社のサイトの「関西の学生運動」の箇所に全文がアップされていますので、ご関心のある方はご覧になってください。http://0a2b3c.sakura.ne.jp/index.html 他にも貴重な資料満載です)

◎[カテゴリーリンク]松岡利康のマイ・センチメンタル・ジャーニー

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

 

リンチ直後の被害者大学院生M君

松岡 ご苦労様です。われわれが「カウンター大学院生リンチ事件」と呼び、巷間では「しばき隊リンチ事件」と呼ばれる、大学院生M君に対するリンチ事件で、ようやく確定判決で認められた賠償金が、金良平氏の代理人に就任した神原元弁護士からM君の代理人大川弁護士に振り込まれました。当初の代理人は別の弁護士でしたが、今年になり、なぜか代理人が交替しましたけど、まずはこの事件の一つの区切りといえるでしょうから、きょうは皆さんの意見や感想も聞かせてください。

A  ともかく、お疲れさまでした、が正直なところですわ。判決内容はともかく賠償金が支払われへんのちゃうか、って本気で心配しよりましたよってに。

B  難しいですよね。これで法的には一応終わったわけですよね? 私は本質的なところでは何も終わってはいないと思っていますが……。

C  M君の事件はね。でも鹿砦社は対李信恵第2訴訟(李信恵氏が原告となった進行中の裁判、第1訴訟は鹿砦社が原告、李信恵氏が被告で既に鹿砦社の勝訴が確定。第2訴訟は第1訴訟の反訴として提起されたが、取り下げ、あらためて別訴として提訴された)と、対藤井正美訴訟を抱えているから、終わりとはいえないよ。

D  長かったですよね。誰が管理してるのか知らないけど「支援会」の活動には頭が下がりました。

松岡 支援会は私が責任を持つ形で、少人数で運営しています。口座は既に閉鎖しましたので、遠からず会計報告ができるでしょう。

B  結局「支援会」のメンバーは最後まで僕らにも秘密でしたね。

松岡 秘密主義じゃないですよ。最低限の人数で動かしただけです。お金が絡む問題でもあり、口座は大川弁護士に管理していただいていたことをTwitterでも公表していました。いまだに会計報告をしないで少なからずの方々から首を傾げられている、どこぞの支援会と違い、私たちは1円のお金も飲食には使っていませんし、厳密に管理してきました。また、鹿砦社はM君裁判とは別に、李信恵氏や藤井正美らと訴訟を行っていますが、こちらにはもちろんですが、1円も使っていません。鹿砦社関係は鹿砦社の資金から裁判費用を出しています。

リンチ直後に出された金良平(エル金)[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)

C  これまで5冊だったっけ? この事件に関して出した本。最後にまとめみたいなことは必要だと思うな。

松岡 そうですね。今は緊急出版をいくつか抱えてきましたので後手になりましたが、早い時期に取り掛かりたいところです。

A  何年になるんやろ? まだ最初の頃、僕30歳やったもん。

B  もうすぐ4年やね。Aは突撃で下手ばかり打ってた(笑)。

A  そんなん、いきなり「国会議員Aのコメントとって来い!」言われても、東京の地理も知らん大阪人にできるもんちゃいますよ。

C  30歳超えてなにを甘っちょろいこと言ってるんだ!って怒ったよな、俺。

B  新聞や出版の経験があるのにね。たしかにAの詰めはいまだに甘いわ。

A  ……。

D  結局、僕らが問いたかったことが世の中に訴求したかどうか、その点は気になりますね。

C  最後はいつもそこで頭悩ますよね。でも、事実関係は確実でどこのマスコミも切り込まないアングルを維持したから、それは重要なことだったと思うね。おそらく、われわれがやらなかったら闇に葬られていたんじゃないかな。だってそうだろう、われわれが知ったのは事件から1年余り経っていたからね。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

B  そうですよね。不思議なのは後追いがまったくなかったことですね。世間で「リベラル」と言われている人で応援してくれた人といえば……?

A  元読売新聞記者の山口正紀さんくらい違います? あとは黒藪哲哉さんくらいやろか? 先頃亡くなった、『週刊金曜日』発行人だった北村肇さんら、ほんの一握りの方々ですよね。山口さんにしろ黒藪さんにしろ、当初はご存知なく、関心持たれたのは、われわれが資料を添えて説明してからですよね。『週刊金曜日』内部ではささやかれていて、北村さんは少しご存知のようでしたが、事件が起きた大阪と、遠く離れている東京では、事件に対するスタンスも温度差があって、われわれが事件を知って深刻になったのとはまた違う感じだったようです。

D  逆に想定外の「義絶」が相次ぎました。

C  そうそう。田所さんの「辛淑玉への決別」(田所敏夫「辛淑玉さんへの決別状」)にはじまり、社長の鈴木邦男への義絶(松岡利康「【公開書簡】鈴木邦男さんへの手紙」)へと。

A  社長の鈴木さんとの仲違いは、業界では話題になりました。

C  ちゃんと言葉をつかえ!「仲違い」じゃない!「義絶」だ、A!

A  あっ、すいません。

B  相変わらず詰め甘いな。

D  「踏み絵を踏ますな」という人もいたけど、そうじゃなかったですよね。「これ見てどうも思いませんか?」が僕らの原点。

松岡 最初に事件直後のM君の写真を見た時、単純に「これは酷い」と思いました。これが私の出発点でした。すぐに田所さんに連絡し、「これは黙っていたらアカン」と一致しました。まさか、こんなにたくさんのライターさんにお世話になって、5冊も出版することになろうとは思いませんでした。

B  社長を動かしてる動機ってなんなんでしょうか?

松岡 今も言ったように「これは酷いな」という単純なことですよ。もう少し込み入った事情もないわけではありませんが、そのあたりに興味のある人は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』を読んでください。

A  読みました。ベトナム戦争で死んだアメリカ兵の死体洗いの話、びっくりでしたわ。

松岡 Aさんは私の原稿も読んでくれましたか?

A  はぁ。読んだんですけど、ちょっと難しくて……。

C  しっかりしろよ!

松岡 私は学生運動や社会運動内部で繰り返されてきた暴力の問題、いわゆる内ゲバやね。それを長年考えてきていて、かつて作家の高橋和巳先生らが警鐘を鳴らしたのに軽視され、多くの犠牲者を出しました。「まだこんなことやってるんだ!」という義憤もあったね。いわゆる内ゲバでは、私の行った大学では2人亡くなっていますし、亡くなりはしませんでしたが、あるノーベル賞作家の甥っ子の先輩が、一時意識不明になったり。なによりも私も「ゲバ民」と言われた共産党の集団に襲撃され病院送りになったことなどが悪夢のように甦ってきたりしてね。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の後のほうに掲載している長文の拙稿(草稿)は、そうしたことについて、私なりに考え、書き連ねたわけです。

B  ともかく最後にまとめの、もう一本出すということですね。

D  新たな取材予定があるんだったら、社長早めにお願いします。

松岡 それは秘密です。

一同  えっ! まだあるんですか!

松岡 当たり前じゃないか。冒頭に述べたように、賠償金が払われ訴訟実務としては終結しただけで、本質的な問題は、まだ何も終わっていないんでね。特に、普段は元気がいいのに、この事件について質問したり取材すると、沈黙したり逃げたり開き直ったり隠蔽に加担したり豹変したり……「人間としてどうなの?」と言わざるをえない、いわゆる「知識人」の狡さに対しては徹底的に追及、弾劾しなくてはなりません。私のことを「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」と侮辱した徒輩がいましたが、「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」にも意地がありまっせ!

D  社長、若手使ってくださいね。俺もうフットワーク効かないし。

松岡 心配しないでください。無理は言いますから(笑)。この件だけでなく数々の直撃取材を成功させたHT君のような根性が欲しいよね。

B  これだから鹿砦社は……。

C  そうそう、忘れないように。M君から取材班にも「くれぐれもよろしく」ってメッセージありましたよね。

C  M君もこれを区切りに新しい未来を切り開いてほしいね。

B  きっといいことありますよ。

松岡 そう思います。自分で言うのも僭越ですが、何度も地獄に落とされたながらも浮上した私のように、人生、悪いことばかりではなく、きっと良いことがあるよ。M君も、国立大学の博士課程まで進んだ秀才だし、研究課題も、日本では珍しい分野なので、彼が必要とされることがきっと来ると私は信じています。アントニオ猪木じゃないけど、「苦しみの中から立ち上がれ!」と言いたいね。皆さん、あと少しよろしくお願いします。

A  社長、次あるんだったら、ちょっと前借りできまへんやろか?

松岡 それではAさんにはもうお願いしません。

A  キツー。

B  Aよ、HT君のように前借りできるくらいに仕事しろよ。

A  あっ忘れとった。こんなんあるんですけど。

C  お前なんで今まで出さなかったんだ! これ超ド級の資料じゃないか!

B  おいおい! また大騒ぎだぞ!

松岡 これはびっくりしました。使えますね。

(鹿砦社特別取材班)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

3月26日、福島県楢葉町のJヴィレッジからスタートする東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレールートに、福島県浜通りで唯一決まっていなかった双葉町が、追加される見通しとなった。これにより3月26日から始まる東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレーが、甚大な被害をうけた福島県浜通りのすべての町村を通過することになる。

一方、政府は、1月21日、3月11日に政府が主催する東日本大震災の追悼式を、発生から10年となる来年の式典を最後に終了することを発表した。聖火リレーで、福島をくまなく回り、福島は震災と原発事故から不死鳥のように蘇ったとアピールし、原発事故の被害をなかったこと、あるいは終わったことにするためだ。それは同時に、「原発は事故を起こしても、10年経てば『復興』できる」という、新たな「安全神話」を完成させることだ。嘘とまやかしの「復興五輪」の実態を暴いていこう。
 

◆徹底除染したのは「聖火リレー」のルートだけ?

3月21日、福島県は、福島県内の聖火リレールートの空間放射線量の測定結果を発表した。それによれば、空間放射線量の最高値は、沿道が飯舘村の毎時0.77マイクロシーベルト、車道が郡山市の毎時0.46マイクロシーベルトであり、国の被ばく許容限度の毎時0.23マイクロシーベルトを超える地点が、13ルートもあることがわかった。しかし県は、走者や応援者の滞在する時間を約4時間と考え、「開催に問題ない」としている。果してそうだろうか?

昨年12月、スタート地点の楢葉町のJヴィレッジ付近の駐車場で、地表で毎時70.2マイクロシーベルト、地上1メートルで毎時1.79マイクロシーベルトの場所が見つかり、環境省が東電に再除染を要請し、実施されたことが明らかになった。高い放射線量が残る地域、あるいは除染後に再び上がった地域は、ここだけではないはずだ。福島県三春町在住のカメラマン飛田晋秀さんは「除染はリレーが通過する道だけを対象にしているんです。その周辺には、まだまだ高線量の場所が存在すると思いますよ」と説明する。

広くて豪華な東電の社員食堂「大熊食堂」

実際、飛田さんが、昨年暮れにアメリカのマスコミを大熊町に案内した際、ゴーストタウンとなった大野病院近くの商店街周辺で、毎時44.5マイクロシーベルトを計測したという。周辺もだいたい毎時30マイクロシーベルト。

聖火リレーは、当然ここは通らない。大熊町のルートは、常磐道の高架下付近からスタートし、東電の社員寮、社員食堂などが立ち並ぶ大川原地区を走りぬけ、昨年新社屋に変わった大熊町役場をゴール地点とする約1.0キロのコースである。

昨年3月、私もここを訪れたが、瀟洒な東電の社宅が立ち並ぶその一帯は、「ビバリーヒルズ」をもじって「東電ヒルズ」と呼ばれている。広くて豪華な東電の社員食堂「大熊食堂」は、昼食時、一般客にも開放されているが、利用するのは、作業服姿の工事関係者や作業員、制服姿の役場職員がほとんどで、家の片づけ作業などで町に戻ってきたであろう人は、ごくわずかだった。

役場の近くに復興住宅が出来たが、「帰還しろ!帰還しろ!」という役場職員自身が、じつは福島市や郡山市、さらに遠い会津若松市から通っているという。戻る人は、どこの町村も同じで、65歳以上の高齢者であるという。

広くて豪華な東電の社員食堂「大熊食堂」

◆ハコモノからハコモノへ走る飯舘村の聖火リレールート

飯舘村の伊藤延由さんが飯舘村村内の聖火リレーコースのほぼ中間点で採取したデータ。道路脇から約2mの農地。ここに立って聖火リレーを応援?

私たち「西成青い空カンパ」が支援する飯舘村の聖火リレーのルートには、さらに驚かされる。飯舘村は、大阪市とほぼ同面積をもち、そこに20の行政区がある。原発事故後の復興計画では、当初、帰還困難区域の長泥地区を除く19の行政区で復興を進めると計画されていたが、その後、まずは「復興拠点」をきめて、そこを先行的.集中的に復興させように変わっていった。

安倍首相が、2013年9月、IOC総会で「汚染水はアンダーコントロール(制御)されている」とプレゼンテーションを行い、五輪招致を勝ち取って以降である。福島第1原発の汚染水がアンダーコントルール(制御)されていないことは、この間汚染水の処理問題を巡り、混乱を極めていることからも明らかだ。いわば安倍首相の嘘のプレゼンで、だまし取った東京五輪のために、飯舘村の復興計画が当初案から大幅に変えられてしまったのだ。

復興拠点に決まった深谷地区の幹線道路沿いには、飯舘村の道の駅「までい館」、「花き栽培施設」(ガラスハウス)、大規模太陽光発電所、村民交流センター「ふれ愛館」などが次々と建設されてきた。昨年3月、訪れた際には、までい館の裏手に村営住宅が建設され、までい館北側の敷地1万2,790平方メートルには、多目的ひろばの建設.整備が進められていた。聖火リレーは、まさにこの「ハコモノ」(ふれ愛館)から「ハコモノ」(までい館)の約1.2キロを走る。大阪市内ならば、心斎橋駅から難波駅ほどの距離だ。この短い区間を走って、飯舘村の良さが伝わるのだろうか?

◆東京五輪で福島は本当に「復興」するのか?

2月9日(日)14時より、私たちは、大阪市大国町にある社会福祉法人「ピースクラブ」にて、福島県三春町から飛田晋秀さんをお招きして講演会を行う。

もともと全国を回って職人さんを撮っていた飛田さんだが、2011年の大震災と原発事故後、事故の被害、被災者の苦しみを風化させてはならないと、被災地の惨状を撮り続けている。そうした貴重な写真の紹介しながら、福島の現状を語る講演会の回数は、国内外で300回にも及ぶという。

福島県内の聖火リレーのコースが決まった際、福島県の内堀知事は、原発事故から復興した「光と影」の両方を伝えていきたいと話した。しかし、決まったルートはすべて「光」の部分だ。そこだけ切り取ったようなルートもある。たとえば浪江町のルートは、国主導の「福島イノベーション・コースト」構想が進められている「福島ロボットテストフィールド」をスタートし、「福島水素エネルギー研究フィールド」をゴールとする、わずか0.6キロの距離だ。東京五輪開催にむけて、無理矢理「光」の部分をつくってみた、と穿った見方をするのは、私だけだろうか?

例えば、帰還困難区域の屋根が抜け落ちた建物、イノシシなど動物に荒らされてしまった室内、中身の味噌まで食べられてしまった味噌樽、ゴーストタウンになってしまった商店街、飛田さんの知り合いが、富岡駅から大熊町役場に歩いた際、誰とも会わなかったという、人の戻らない町なみ。マスクもしないパトロール中の若い警察官、ガードマン……。

2月9日、飛田さんには、こうした、大きなメディアが語らない、語れない、福島の復興の「影」の部分を大いに語っていただく予定です。

なお、当日は、飛田さんの写真集『福島の記憶 3・11で止まった町』の販売と、福島出身のあかりさんと戸張岳陽さんで結成する「アカリトバリ」の演奏もあります。多くの皆様のご参集を願っております。

2月9日(日)14時、大阪「ピースクラブ」で福島県三春町在住カメラマンの飛田晋秀さんが語る嘘とまやかしの「復興五輪」の実態

2月9日(日)14時、大阪「ピースクラブ」で福島県三春町在住カメラマンの飛田晋秀さんが語る嘘とまやかしの「復興五輪」の実態

◎[関連情報]飯舘村で聖火リレーコース(1.2km)の道路脇農地等の土壌測定を行っている伊藤延由さんのツイッター https://twitter.com/nobuitou8869

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。月刊『紙の爆弾』2020年1月号には「日本の冤罪 和歌山カレー事件 林眞須美を死刑囚に仕立てたのは誰か?」を、『NO NUKES voice』22号には高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」を寄稿
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58
◎[参考動画]飯舘村深谷地区の道の駅裏に建設・整備された村営住宅(著者ツイッター)

『NO NUKES voice』22号 尾崎美代子の高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」他

私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

2月1日の本通信で述べたように、私には3つの記念日があります。まずは誕生日の1951年9月25日、2つ目は、若かりし学生時代、学費値上げに抗議し最後まで闘い逮捕されたこと(1972年2月1日)、そして時は流れ再度の逮捕(2005年7月12日)です。

ここでは、2つ目の学費値上げ阻止闘争での逮捕について述べてみましょう。

 

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

先に出版した『思い出そう! 一九六八年を!!』 『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に記述されているように、日本のみならず世界的に、1960年代後半から70年にかけての時代は、叛乱と変革を求めた時代であったことは、今更言うまでもありません。

70年代は、そうした闘いが一段落し、60年代に比して、さほど評価されません。しかし、はたしてそうでしょうか? 「日本階級闘争の一大転換点」といわれた沖縄「返還」をめぐる闘い、新空港建設をめぐる三里塚闘争を中心として、60年代後半に劣らず盛り上がりました。72年に沖縄が「返還」(併合!)され75年にベトナム戦争が終結するまで闘いは続きました(いや、それ以降も闘いは続きましたが)。

ただ、69年に2人が亡くなった、新左翼内部での内ゲバが、70年代に入り激化し、さらには連合赤軍問題など、暗黒の時代になっていったこともまた事実です。私たちは、この問題も、いわゆる「7・6事件」(ここでは詳しくは述べません。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』収録の拙稿参照)の再検証、さらに、私たちが真相究明と被害者支援に関わった「カウンター大学院生リンチ事件」の解明によって、今後の社会運動内部における負の遺産として止揚していかなければなりません。それが、長い間、末席から学生運動、社会運動を見てきた私に課せられた課題として取り組んできました。

 

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

1970年に私は同志社大学に入学しました。同志社大学は、60年安保闘争以来、旧左翼(日本共産党)と袂を分かち、ブント(共産主義者同盟〔略称=共産同。下部の学生組織が社会主義学生同盟〔社学同〕)といわれる新左翼党派の一大拠点として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引していました。それが前年の赤軍派の分派で死者をも出し、ブントは解体、関西ブント系ノンセクトの「全学闘争委員会」(全学闘)が残り、いわば「独立社学同」化していました。60年安保闘争後、第一次ブントが解体した中で、大学によっては独立社学同として残ったと聞きますが、10年後の同志社もそうだったといえるでしょう。

当時、日本共産党は京都府知事を擁立し、京都は日本共産党の強固な地盤として在り、御所を挟んでその強力な拠点=立命館大学があり、そこから武装して出撃した日本共産党(あかつき行動隊ともゲバ民とも言われました)からの激しい攻撃に耐えて、学友会/各学部自治会を再建し運動を持続していました。そんな中、今では想像できないほどの多数の学生が頑張っていました。場所的拠点としての学生会館(今はありません!)があり、受け皿としての全学闘/学友会があったからこそですし、一部の先輩方がまとめていました。私見ながら、先輩の一人、KHさんがいなかったら、とっくに日本共産党に取られ、ほとんどの他大学がそうだったように、運動は混乱していたでしょう(運動の混乱は私たちが同大を去ってから訪れたそうですが)。

1970年ということで安保改訂の年でしたが、実質的には前年の大弾圧―大量逮捕で雌雄は決していて、70年はカンパニア闘争に終始しました。この年に、各運動体は、組織の建て直しを図った年だったと思います。

それでも、今では想像できないほどの人たちが学園や街頭で闘いました。12月には沖縄で「コザ暴動」が起き多数の逮捕者や負傷者を出し、沖縄「返還」を前にし翌年の闘いの爆発を予感させました。

そうして1971年、この年は年初から三里塚第一次強制収容阻止闘争で闘いの火蓋が切られ、4~6月沖縄返還協定調印阻止闘争(京都では初めて市内中心部での市街戦となった5・19祇園石段下武装制圧闘争がありました)、7月三里塚1、2番地点攻防戦、9月三里塚第二次強制収容阻止闘争(機動隊3名死亡)、11月沖縄返還協定批准阻止闘争(反戦派女性教師、機動隊それぞれ1名死亡。機動隊員の死亡ばかりが強調されますが、実は反戦派女性教師も死亡しています)と盛り上がっていき、11・19日比谷暴動闘争では中核派全学連委員長に破防法も適用されました(破防法適用は、69年4・28沖縄闘争でブントと中核派に計5名、70年のハイジャックで赤軍派の塩見孝也議長に続くもので、それ以降は発令されていません)。

さらに秋からは全国の私立大学で学費値上げ阻止闘争が盛り上がっていきました。東京の早稲田、関西では(手前味噌ながら)同志社、関西大学などが拠点となりました。関西大学では、革マル派が深夜バリケードに侵入、中核派を襲撃し、同志社の先輩の正田三郎さんら2名が殺されています。正田さんは、真面目な活動家で、同志社キャンパスでたびたび見かけ、この年の4月の入学式での情宣中、日本共産党に共に襲撃されましたので、これにはショックでした。

今から思い返しても闘いの日々でした。60年代後半の先輩らの闘いに負けるな、越えるぞという想いで闘いました。──

三里塚闘争では、現闘団を置き、大木(小泉)よねさん宅裏に現闘小屋を作るところから始めました。現闘小屋の設計を東大の建築科の方が行ってくれたそうで、京都から、同志社だけでなく京大や他大学の学生も含め多くの活動家が参加しました。7月に全学闘(の中の文学部共闘会議〔略称・L共闘)の直接の“上司”だった芝田勝茂(現在児童文学作家。すでにカミングアウトされていますので実名表記します)さんが逮捕され長年の裁判闘争を余儀なくされました。これが、私が9月の第二次強制収容阻止闘争に赴く契機になりました。「先輩が逮捕されたのにオレはなぜ一緒に闘いに行かなかったのか」との強迫観念にさいなまれたからです。

芝田さんは、長年の裁判闘争のために住居も東京に移し働きながら頑張られましたが、以後作家修行に携わると共に、本業の子供とのキャンプ活動に精を出し、定年退職後の今も個人事業として毎年行っておられます。作家業と共にライフワークになったようです。

さて、芝田さんが獄にある中、9月の第二次強制収容阻止闘争に一緒に行ったのは、後に草創期にあったセブン・イレブン・ジャパンに入り、日本のコンビニの礎を築き常務取締役で退社したUMさんでした(現在コンビニは、急発展したことで歪が出ていますが、これはこれとしてUMさんが頑張ったことは事実で評価されてもいいと思います)。UMさんは私同様逮捕を免れ、その後共に学費闘争を闘うことになります。UMさんがどういうふうに逃げたか分かりませんが、私は沼に腰までつかり必死で逃げました。この時、「これに比べれば、どんな闘いもできる!」と思いました。

セブン・イレブンを創った鈴木敏文氏は、かつて日本共産党の活動家だったといわれ、大学卒業後、出版取次大手の東京出版販売(東販。現在のトーハン)に入り組合の委員長として名を馳せました。そんなことで、かつて洋菓子のタカラブネがそうだったように、声を掛けられたのでしょうか。いつか会って聞きたいと思います。

ちなみに、政治評論家の田崎史郎氏(元時事通信社)も三里塚闘争で逮捕されたことがあるといいますが、彼のその後の人生で、このことが活きているのでしょうか。しかし、逮捕されても優秀であれば大手通信社に入れるような時代でもありました(マスコミにはリベラル・左派の人たちが多くいました)。

三里塚から京都に戻ると、キャンパスでは学費値上げ問題が語られていました。休むまもなく闘いの準備です。

当時の同志社は、ある意味で変な大学で、職員に、学生運動経験者や学生運動に理解がある方々が多くいて、情報はどんどん入ってきていたようです。「ようです」と言うのは、私たち下級生には直接情報が入るルートは知らされず、先のUMさんら上級生の幹部のみが知るところでした。なので、情報源は秘匿されました。また、情報が、かなり信憑性のあるものだったというのは、のちの封鎖解除の日程が当たったことからも判ります。

心ある教職員の中にも、詩人でもある学生課長だった河野仁昭(故人)さんは、部下と共に学費値上げに反対する意志表示を行い、社史編纂資料室に左遷されます。しかし、河野さんは、のちに『同志社百年史』を編纂し、ここで「紛争下の大学」について一章設けたり、大学の正式な発行物としては異色の書籍としてまとめ、ある意味で意趣返しを行います。

そうして、連日の情宣や集会などで、キャンパスでの雰囲気も徐々に盛り上がっていき、私たちの気持ちも固まっていきました。

学費値上げ阻止を求める私たちの運動も日に日に盛り上がり、学友会の団交要求に大学側も応じました。いや、大学側は学費値上げの「説明会」にすり替えたかったという意図があったようです。

団交の日は11月11日に決まりました。ところがこの前日、あろうことか大学側は値上げを発表します。この日は、沖縄返還協定批准阻止闘争で大阪の集会では実力闘争が闘われましたが、私たちは急遽京都に戻り、この日発表された学費値上げに怒り抗議すべく、翌日の団交に備えました。

そして団交当日、正午から狭い今出川キャンパスを多くの学友が埋め尽くしました。これには感激しました。私たちは決して孤立してはない、応援団はいっぱいいる──。当時、同大の学生数は2万人に満たなかったと記憶しますが、公式にも6000人(判決文)余りの学生が結集しました。実に3分の1ほどです。工学部自治会委員長UMさんは、舌鋒激しく中心になって追及していました。弁が立ち理論家でもありました。この時の写真が残っていました。立って当局を追及している学生が2人いますが、右がUMさんです。ちなみに左が水淵平(ひとし。故人)さんで、水淵さんも芝田さん同様L共闘の“上司”で影響を受けた方々の一人です。

正午に始まり、夕方6時頃まで長時間の団交で、学生と当局との激しい応酬が続きました。大学側も必死でした。

さて、長時間の団交は決裂し大学側の出席者の健康上の問題もあり11月17日に再度行うことになりました。しかし、それはありませんでした。狡猾な大学側が反故にしたからです。以来逃亡を続けます。(つづく)

1971年11月11日団交、学費値上げ問題について山本浩三学長(当時。故人)ら大学当局を追及する。立っている右側がUMさん(朝日新聞社提供)

◎[カテゴリーリンク]松岡利康のマイ・センチメンタル・ジャーニー

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』

注目を浴びていた京都市長選挙は、共産党とれいわ新撰組が推薦する福山和人氏(58歳)が惜しくも4万1000票あまりの差で敗れた。前回選挙(2016年)にくらべると、地方政党京都党の善戦もあってか、次点の福山氏は得票率で前回の本田氏の30%の差から10%の差に縮める結果になった。※NHK選挙WEB=京都市長選

▼2016年(前回)
門川大作  254,545票 63.8%
本田久美子 129,119票 32.4%
三上隆    15,334票  3.8%

▼2020年(今回) ※2月2日23時現在
門川大作  194,821票 44.3%
福山和人  153,545票 34.9%
村山祥栄  91,632票 20.8%

注目を浴びた選挙の、政治的な背景を説明しておこう。国政レベルでは、自公安倍政権にたいして「大きな野党の塊」をつくって対抗し、政権交代への足掛かりをさぐるという統一戦線戦術が模索されてひさしい。事実、昨年の参院選挙においては自民党に2桁の議席減を強いる結果をもたらした。今回の選挙が接戦になったことで、大胆な野党共闘の道をさぐるべきであろう。

2020年1月26日付京都新聞

ところが、与野党相乗りが定着している地方首長選挙においては、その事情も違ってくる。野党が独自の統一候補を立てられない、というのが実相であろう。京都市長選挙はまさにその典型で、現職の門川大作(自民党・公明党)推薦候補に、立憲民主・国民民主・社民党までもが相乗りする選挙となったのだ。これは過去も同じだ。そして共産党との対決も、共産党系候補へのれいわ新撰組の推薦をのぞいては、これまで同様の構造である。

現職の「政策実績の評価」というところに選挙支援の論点を置くいっぽう、立憲民主の福島哲郎幹事長は「徹底的に共産党と戦う」(門川候補の出馬式)とぶち上げてもいる。

そして1月26日には「大切な京都に共産党の市長は『NO』」なる意見広告が、「京都新聞」「読売新聞」「朝日新聞」に掲載されたのだ。赤狩りを思わせる共産党へのネガティブキャンペーン、あるいは内容抜きの「NO」はヘイトであるとも評されている。

しかも、その広告に名をつらねた文化人たち(映画監督の中島貞夫・日本画家の千住博・俳優の榎本孝明・堀場製作所の堀場明会長)が「内容を知らされていなかった」というのだ。

「特定の政党のネガティブキャンペーンには賛同しない」「共産党だからNGという立場にはない」と、門川陣営の支援団体「未来の京都をつくる会(当該の広告主体)」に抗議をしている。確認をとらないまま、勝手に名前を政治利用したことで、大きな反発をまねいていた。

これは門川陣営に自失、反共キャンペーンの時代遅れを笑うべきであろう。


◎[参考動画]【2020京都市長選挙】門川大作候補100秒の主張(Mielkaチャンネル)

◆そもそも京都は赤い都市である

京都市長選で共産党をふくむ「革新系」候補が勝利したのは、この意見広告がエキセントリックに言うほど珍しいことではない。かつて蜷川虎三京都府知事は、7期28年にわたって革新府政を築き上げてきた。

蜷川虎三知事との提携で市長になった高山義三(のちに保守に転向)、京都民主統一戦線に擁立された井上清一市長、富井清市長ら、共産党をふくむ革新系統一戦線は、78年に蜷川の後継者が保守系に敗れるまで、ながらく赤い京都を体現してきたのである。

歴史的にも、鎌倉時代(承久の変)から京都はもともと、反体制運動のメッカである。いや、鎌倉以前にも、たとえば叡山は京都を守護する山門でありながら、ことあるごとに強訴をもって朝廷と藤原政権を悩ませてきた。鎌倉幕府の六波羅探題(平清盛の時代からの武家の拠点)に対して、京童は祇園御霊会にかこつけて山鉾を武器に叛乱してきた(建武政権の導火線となる)。江戸末期には討幕の拠点となり、朝廷が東京に居を移してからは、本来の日本政府(少なくとも天皇御所)は京都にあるべきとの気風を崩していない(退位後の上皇京都隠棲法案)。

あるいは戦後において、京都府学連の伝統をつぐ京大・同志社・立命館の学生運動は、全共闘運動後もしばらく80年代まで「ガラパゴス状態」を体現し、「左京区の学生は困ったもの」と呆れられながらも、学生好きな京都人から暖かいまなざしを受けてきた。それは2020年代のいまも、京大熊野寮・吉田寮に引き継がれている。
その学生運動以上に、強力なのが共産党京都府(市)委員会と立命館大学支部(福山和人氏の出身母体)であろう。京都の学生運動の歴史は、まさに共産党(民青)と赤ヘルの闘いの歴史でもあった。「未来の京都をつくる会」が必死になって反共キャンペーンを行なうのも、そのような事情にほかならない。


◎[参考動画]壁を越える/京都市長候補・福山和人(FukuTube・福山和人)

◆山本太郎は東京都知事選候補となるのか?

「共産党と戦う」という反面、立憲民主党は1月23日に、長妻昭・選対委員長が7月5日投票の都知事選挙に「野党統一候補として山本太郎れいわ代表を擁立する可能性がある」と発言している。その一貫性のなさを批判するつもりはない。

山本太郎の京都市長選における共産党推薦候補支援も、多数派形成のための戦術であり、ぎゃくにいえば立憲民主ほか、野党の選挙戦術もシングルイッシュー(個別課題=この場合は京都市政)にほかならないからだ。政治力学とは「敵の敵は味方」であり「昨日の敵は今日の友」が議会政治なのである。

たとえば死刑廃止運動では、議会での「廃止決議」がないかぎり制度は変えられないという現実から出発し、かつて死刑廃止議連(亀井静香・浜四津敏子ら)を市民がサポートしてきた。自民党の議員を何人組織できるかが運動の成否、とも言われてきたものだ。※社民系・民主系の議員の落選で議連が停止状態。あらたに自民党議員を座長とする「死刑を考える議連」が組織されている。大胆に言えば、選挙や議会政治は思想信条ではない。目的を実行できるかどうかなのである。

今回の選挙結果をうけて、発信力や予算の額それ自体としては国会議員よりもはるかに大きなものがある都知事選への、山本太郎の出馬もおおいにあり得ると予言しておこう。


◎[参考動画]私が福山和人京都市長候補を応援する理由!山本太郎 京都で激白!!(れいわ新選組)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

『NO NUKES voice』22号 2020年〈原発なき社会〉を求めて

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

中国武漢での新型コロナウイルスによる肺炎流行で、在留邦人の緊急帰国(希望者)となった。政府チャーター便での帰国である。往路は中国への支援策として、マスク2万枚、防護服50セットが運ばれたという。まだ正体のよくわからない新型ウイルスが発生した緊急時に、日本政府の対応はひさしぶりに頼もしいと感じさせた。


◎[参考動画]武漢からの帰国便 到着後の乗客への対応は?(2020/01/29)

と思っていたところ、チャーター便の搭乗料が8万円(正規料金を徴収予定)だという。帰国希望者とはいえ、災害のような流行病からの退避に、8万円もの搭乗料を取るというのだ。帰国した人々は診断を受けたうえで発熱や病状がない場合も、政府が借りたホテルに2週間収容されることとなった。これも宿泊費を徴収するのであろう。ネットでは「8万円払えない人は帰国できなかったのか?」という声が挙がっている。じっさいに、武漢で乗り込む前に「払えない人は帰国できないのか」と揉めたという。

てっきり「邦人保護」として行われていると思っていたら、そうではなかったのだ。外務省は「平常時の帰国支援であって、邦人保護では今回のような大量のケースは想定していない」「内戦や武力攻撃などとは異なる」との見解だという。ちなみに邦人保護費は年間351億円である。

それにしても、安倍総理主催の「桜を見る会」では、2014年度は3,005万円、2015年度は3,841万円、2018年度に5,229万円、2019年度は5,519万円の国家予算を使っている(参加無料)。今回の武漢からの帰国希望者は600人と言われているので、「桜を見る会」よりも安い4,800万円である。これをみただけで、この国の運営が政権のためには血税をジャブジャブ使い、疫病の災禍に見舞われた国民には自腹を強いる。血も涙もないものだということがわかる。

さすがに、この冷酷きわまりない政府の措置には与党内からも批判の声が挙がっている。

自民党の二階俊博幹事長は「突然の災難だ。財政的な問題はあるが、惜しんでばかりではいけない。本人だけに負担させるのではなく国を挙げて対応するのは当然だ」と強調した。公明党の山口那津男代表も党の中央幹事会で「緊急事態でやむを得ず帰国を余儀なくされた方々だ。政府が負担すべきだ」と語っている。当然の反応であろう。

そもそも集団帰国(チャーター便)は、武漢の閉鎖という中国当局の措置によって、帰国ができなくなった邦人を保護するものだ。集団で動くことで、ウイルスの拡散を防ぎ、帰国後も一定の隔離をもって疫病のコントロールをするためである。その防疫政策の費用を、国民個人に自腹で負担しろと政府外務省は言っているのだ。


◎[参考動画]チャーター機費「政府が負担を」8万円の請求方針に

◆1億円でどんちゃん騒ぎも

かつて、中東で邦人がイスラムゲリラの人質になったとき、外務省の職員がチャーター便で現地に飛んだことがある。そのときの予算は1億円。現地のホテルのフロアを借り切ったというのだから、派遣されたのは数十人だったのだろう。紛争地域の近くに行くのだからご苦労なこととは思うが、ホテルで連日どんちゃん騒ぎをしていたという。いうまでもなく「邦人保護費」から出されているはずだ。そのうえ、派遣の実効性は疑わしかった(関係者談)などを聞くと、とくに外務畑の予算は「機密費」をふくめて、お手盛りなのだろうと想像がつく。

この季節、中国旅行(4泊5日、東方航空使用の往復旅費込み)は8万円ていどである。民間航空機(全日空)の運賃が下げられないというのなら、どうして政府専用機を使わないのか。ここにも総理が招待する「上級国民」とその他の国民(平民)という扱いがあるのだから、この政権のもとでの日本には身分制があるということになる。


◎[参考動画]チャーター機乗客検査拒否に安倍首相「大変残念」 2便以降は確かな形で

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

年明けから横浜地裁で公判が始まった相模原知的障害者施設殺傷事件の植松聖(29)に対する裁判員裁判。マスコミは連日、競うように公判の様子を報道しており、知的障害者19人が殺害され、他にも26人が負傷した大事件は再び社会の注目を集めている。

だが、報道の量は多いわりに、世間にまったく伝えられていない重要なことが1つある――。

◆筆者が面会室で植松から聞いた答えは・・・

「意思の疎通のとれない障害者は安楽死させるべきだ」

2016年7月、犯行後に警察に自首した植松は、そう供述し、社会を激怒させた。そして起訴後、横浜拘置支所でマスコミの面会取材を受けるようになると、マスコミは判で押したように植松が面会室で「身勝手な主張」をしていると報じた。これは植松にとって、決して喜ばしいことではないだろう。

しかし、植松は裁判員裁判の公判が始まって以降も以前と変わらず、マスコミの面会取材を受け続けている。なぜ、批判的に報じられるばかりなのに、マスコミの面会取材を受け続けるのか。筆者が以前、横浜拘置支所で植松と面会した際に聞き出した答えはこうだ。

「私は、マスコミの取材を受けることにより、自分の主張を広めたいと考えているのです」

マスコミ報道により「身勝手」な人間であるように印象づけられた植松だが、実際に会って話してみると、実は「独善的」と評したほうが適当な人物だ。なぜなら、自分のしたことを正しいと本気で信じているからだ。だからこそ、自分の主張を広めるため、犯行後は死刑になることを覚悟のうえで警察に自首し、マスコミの面会取材を受けようとしたのだ。

植松は、筆者の目を見すえ、真顔でこう言った。

「私も死は怖いですが、自分の生命を犠牲にしてでも、やらないといけないと思ったんです」

筆者は植松の考えに賛同するわけではないが、植松がマスコミを通じて自分の主張を広めることに文字通り、生命を賭けているのは間違いない。このことは当然、筆者だけでなく、植松に面会取材したマスコミの記者たちも気づいているはずだ。それなのになぜ、「植松聖が面会取材を受ける理由」を伝える報道が見当たらないのだろうか。

マスコミが植松の面会取材に殺到している現状は、ある意味、植松の狙い通りだと言っていい。面会取材をしているマスコミの記者たちがそのことを世間の人たちに知られたくないと思うのもわかる。しかし、植松聖という特異な殺人犯の実像を正しく伝えるためには、「植松聖が面会取材を受ける理由」も欠かせない情報であるはずだ。

植松の裁判員裁判が行われている横浜地裁

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

◆政治組織への業態変化で生き延びる

三代目山口組の組織拡大が、変化する時代のニーズに合致した組織経営にあったのは、それでも例外的な成功であった。大半の極道組織は大規模な組織に系列として吸収されるか、地場にとどまって今日でも小規模な生業を維持している。

戦後の極道組織が山口組のような組織体質の刷新もなく、それでも今日まで生き延びてきた理由は、くり返しになるが政治組織への業態変化をあげておく必要があるだろう。極道業界の今後の命運を暗示するキイワードでもある。

三代目山口組が近代的な産業組織を胎内に熟成させつつあったころ、日本は高度経済成長前夜の動乱期にあったことはすでにこの連載で書いたとおり。社会的な混乱の要因は、共産主義革命の胎動である。1950年代の共産党武装闘争を経験した中には、軍隊経験のある人は当時の火炎瓶闘争や拳銃での武装を述懐して、あんなチャチな武器を使った戦争ごっこで、圧倒的な米軍に支えられた国家権力が転覆するとは、どうしても思えなかったと言う人もいるが、本気だった人も大勢いたのである。

◆鉄道雪だるま闘争──武装蜂起して九州を極東革命の拠点にする

九州で鉄道雪だるま闘争を経験した老練な左翼活動家の話によれば、朝鮮戦争が勃発したときは本気で革命が起きると思っていたのだという。マッカーサーの仁川上陸で中国の義勇軍が参加する前のことだが、やがて朝鮮半島から駆逐されたアメリカ軍が小倉に逃げてきて、それを追って金日成の人民軍が九州に渡ってくる。まるで古代大和政権の時代にもどったような戦争観だが、考えているほうは本気なのである。

そうなれば在日朝鮮人をふくむ日本の共産主義勢力は国際共産主義者の任務として、九州で武装蜂起して極東革命の拠点にする、などということが数カ月後には確実にやってくると、本気で計画されていたらしい。

このときおこなわれた鉄道雪だるま闘争というのは、ストライキの拠点に列車に乗ったオルグ団を派遣し、そこで入れ代わりに運転士を貨車に乗せて、次々と拠点を確保していく戦術で、中津や門司、鳥栖の各機関区をそうなめにして列車ストを拡大するのである。今ほど道路が整備されていないので、当時は鉄路を支配する力がものを言う。

◆極道組織を日米安保賛成の「国民運動」に参加させた政治家たち

このほかにも集団で警察署を襲い(菅生事件のようなデッチあげとされるものも多い))、署長以下をつるしあげて一般刑事犯をふくめた拘置されている人を解放する、とかの戦術も盛んだった。港湾労働者や炭鉱労働者も例外ではなくて、三代目山口組の組織する労働組合が革命に対抗する勢力として期待された理由がここにある。

鉄道関係ではのちに下山事件(国鉄総裁の轢死事件)や三鷹事件(無人列車の暴走)などの謀略で、組合員が大量に処分されたり共産党関係者が逮捕されたりということもあったが、GHQと日本政府にとっては60年安保にいたる過程は国家存亡の危機と感じられていた時代である。

そこで、政治家たちは左翼の暴力に対抗する手段として、極道組織を日米安保賛成の国民運動に参加させたのである。国民運動といえば聞こえはよいが、その実態は全学連のデモ隊に武器を満載したトラックで突っ込むだとか、労働者や市民の集会を攪乱するなどの手段であって、各所で流血の武装衝突も起こっている。

極道の各組織が神棚の天照大神、八幡大菩薩、春日大明神などの御符のほかに、国家主義のスローガンを掲げるようになったのは、じつはこれが四度目である。最初は明治の初期に身分制度が攪乱された騒擾の時期で、これは士族の不満分子を背景に藩閥政府への反乱(自由民権運動)や、いっぽうでは明治政府にしたがう勢力も少なくなかった(清水の次郎長)。

大正期の一時期にモダニズムの流行に乗って政治的右翼に看板替えをした、今日の生業の原型ともいうべき総会屋ふうのヤクザ組織があらわれたのが第二の時期。第三は、太平洋戦争にさいして大日本国粋会に組織されたときである。

もともと、お上の傍若無人な言動や弾圧には靡かない反権力を体質としていた任侠道の気風は、これで半分骨を失ったことになる。だが、今回は前の三度のゆきががりとは明らかに違う。戦後世界はすでに、米ソという国際的な体制間の矛盾を背景にした政治世界である。国家の庇護と要請にもとづいて、左右の衝突の渦中に身を晒すことになったのだった。いらい、極道と右翼は同じ名刺に印刷された二足の草鞋を履くことになるのである。

◆国家は民間暴力を承認しない

しかしながら、極道が国家体制の内側にいる時期は、それほど長くは続かなかった。

大資本や政治家としても、戦後の混乱期には極道の暴力を利用してきたが、高度成長が軌道にのり市民社会が成熟してくると、いつまでも凶暴な番犬を飼っているわけにはいかない。大衆消費社会が社会の隅々まで浸透して、あまねく家庭に冷蔵庫や洗濯機、電話、テレビをもたらし、アメリカ風の生活をもとめる富裕層はマイカーやエアコン、カラーテレビまで持っている時代がやって来た。もはや民衆が飢えて闇市をさまよった戦後ではない。

いつもワシントンの意向を気にしているとはいえ、すでに独立国家として軍隊なのかそれとも違うのかよくわからないが、とにかく国家防衛のための武装組織も拡充し、治安警察力にいたっては世界に誇るものがあるという時代に、独自の論理で好き勝手なことをする連中がいては困るのである。

1960年代後半から70年代の左翼の過激派壊滅作戦と同時平行しておこなわれたのが、暴力団壊滅のための頂上作戦だった。爾来、ヤクザは蛇蝎のごとく排斥される。いわく、ヤクザは市民の敵、極道は人間のクズ。いっぽうで東映の任侠映画で人気を博しながらも、任侠団体が暴力団という蔑称でさげすまれるようになったのもこの時期である。

◆「反社会勢力」なる虚構は、自民党を崩壊させる序曲である

話は急転するが、山口組の後継をめぐる組織同士の抗争もあって、いよいよ先進国としての体裁を考える為政者は断をくだした。恐喝や脅しをすればすぐにパクる(逮捕する)という暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)が1991年(平成3年)に成立。1999年(平成11年)にはオウム真理教の破壊活動防止法適用に失敗したあとを受けて、組織犯罪処罰法(組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律)という新法が成立した。これも極道組織への適用を射程にいれてのものである。

法の整備と同時に、新たな頂上作戦がこのところ極道組織を襲っている。五代目山口組の宅見勝若頭が殺害された事件(1997年8月)ころから、組幹部を護衛する組員の携帯している拳銃を理由に、これまで左翼組織にしか適用してこなかった共謀共同正犯を罪状として、若頭補佐クラスの幹部をたてつづけに検挙・指名手配して動きを封じようとしている。さらには民法上の使用者責任。そして2011年から各自治体で施行された暴排条例において、反社会的勢力としてのヤクザの排除は法的な完成をきわめた。それを完成と呼ぶのは、ほとんど憲法違反の条例だからである。これ以上の法の逸脱は限界であろう。

過去がどうであれ何であれ、自分たちの存立のために邪魔なものは切り捨てるのが国家の持つ、唯一性の原理なのだ。それは安倍総理の「ケチって火炎瓶事件」などに顕著である。しかしながら、政治家とヤクザは切っても切れない関係にある。選挙という膨大な民衆を相手にする以上、清濁併せ呑む度量がなければ政権は握れない。その意味では自民党が政権与党である根源的な理由(ヤクザとの付き合い)を破棄しようとする「反社会勢力」なる虚構は、自民党を崩壊させる序曲だと指摘しておこう。

【横山茂彦の不定期連載】
「反社会勢力」という虚構

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

本欄1月14日、15日付の「ポピュリズムの必要――政治家・山本太郎をめぐって」について、田所敏夫さんから「政治家・山本太郎に危険性を感じる理由を再び」という反論(1月16日)をいただいた。「回答をお待ちする」とあるので、返答したい。

※本稿を寄稿したあとに「天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ── 横山茂彦さんの天皇制論との差異」という再反論の記事が掲載(1月24日)されたので、少し長くなるが2回目の「反論」については、後段で扱わせていただいた。いずれにせよ拙文に望外の反応いただき、田所さんには感謝しかない。

 

『NO NUKES voice』Vol.22 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

◆論軸を逸らしてはいけない

わたしの論旨について、田所さんは「異議がない」とされている。読んだところ本来の論点ではない「政治家の演説力」および「左翼の基準(元号批判・防衛費削減)」に論軸がある。その意味では、議論はまったく噛み合っていない。というよりも、論軸を逸らしておられる。これは論考を成すうえでの基本作法、議論の原則から外れている。論軸を逸らすことは、論点を曖昧にするばかりか、議論そのものの生産性を阻害するものだと指摘しておこう。

論じられている中でも、個々の政治家の演説力を論じた部分は、あまり興味をそそられなかった。なかでも挙げられている橋下徹が、政権を獲得できる政治家だとは到底思えない。ただし「元号批判」「自衛隊の予算削減」や「日米安保」に絡めた「左翼」の基準については議論に面白みがある。せっかくなので後段で取り上げたい。

まず、立論の矛盾および論証がない点について。

《そもそも、政治家が個人の言説を前面に押し立てて、どこか支配的(独裁的)な言説を振りかざすのは、選挙運動においてはふつうのことである。(中略)したがって、あらゆる政治家は大衆の前において、独裁者のごとく振る舞うのだ》(横山)という「テーゼの大部分にわたしも異議はない」と田所氏は表明されている。にもかかわらず、山本太郎の「独裁体質」は批判するのだ。以下、引用しておこう。
「山本太郎氏の『独裁体質』は既に表出し始めている。質問者が言うことを聞かないと『それなら俺に権力をくれよ!』と叫ぶ姿を最近何度かネットで目にした」という。

言葉遣いはともかく、わたしは普通の政治家の発言だと思う。ここで「俺に権力をくれよ」というのは「政権をまかせて欲しい」と同義だからだ。

「異議はない」と同意された上記の「テーゼ」と、どの地点で評価が変わってしまうのだろうか? 横山が云う「独裁(テーゼ)」は良くても、山本太郎の「独裁体質」が危険だというのは矛盾である。

また、田所さんは同じく「異議はない」とした上記の引用につづけて、
「わたしが危険性を感じるのは、むしろこのテーゼが無効化された現在の状況を前提とした議論である。」というのだが、その中身がまったく展開されていない。なぜ「(横山の)テーゼが無効化され」て「現在の状況」があり、それを「前提とし」なければならないのか、これではよくわからない。

◆「左翼」である必要はあるのか?

田所さんの山本太郎評は、どうやら「左翼」であるか否かになっているようだ。以下、引用する。

「横山さんと私の決定的な違いであるが、わたしは山本太郎氏を『左翼』とは見做さない。」

この「左翼」という言葉に、思わずドキリとしてしまった。わたしは確かに「日本の左派にもようやく、大衆を扇動できる政治家(ポピュリスト)が登場した」と山本太郎をと評している。「左翼」と定義していると取られたのは不覚(失敗)である。わたし自身が相対的に「左派」であるという自覚はあっても「左翼」ではないと意識しているからだ。そして政策の評価と人物評に、左翼であるか否かはおよそ関係がないと考える。

60年代には「進歩的」「変革」「革新」と「左翼」は同義で、「右翼」と「反動」「封建的」「保守」が同義だった。しかし、いまや「サヨク」は「パヨク」「ブサヨ」として、ネトウヨに侮蔑されている。あながち、いわれがない蔑称でもなくて、何にでも反対する内容のなさが一般大衆からも、底を見すかされていると言えなくもない。これは右派(右翼ではなく保守)が新自由主義のもとに「改革路線」を標榜するようになっていらい、旧来の左派が「守旧派」「既得権墨守」とみなされるようになったことと無関係ではない。いずれにしても、胸を張って「わたしは左翼だ」という人々は、いまやごく少数なのではないか。

田所さんは「左翼」をこう定義するという。

「《左翼とは、政治においては通常、『より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層』を指すとされる。『左翼』は急進的、革新的、また、革命的な政治勢力や人を指し、社会主義的、共産主義的、進歩主義、急進的な自由主義、無政府主義傾向の人や団体を指す》といったところであろう。」

すいぶんと振れ幅の広い定義だが、せっかく「左翼とは何か」というテーマをいただいたので、今回のテーマに沿って議論をすすめよう。

田所さんは云う。

「山本太郎氏が立ち上げた、あの新党の名称のどこに『左翼』のエッセンスがみられるのだろうか。既成政党のなかで、もっとも反動的な名称ではないのか。」

なるほど、令和という言葉には、令(命令や法律)と和(共同体・親和性)のなかに、反動的な統制国家を標榜するかのような印象がある。漢語学的な問題点、あるいは歴史的な不吉さも指摘されてきたが、ここでは踏み込まない。田所さんも論証されていないのだから。

元号そのものが「反動的」という評価は、少なくとも復古的であり進歩的ではないという意味で当たっているのだろう。だが、共産主義政党ではなく国民政党をめざすのなら、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか。

たとえば、わたしは「昭和」という元号に懐かしさとアイデンティティを持っている。そこに自分の歴史(青春)が刻まれているからだ。激動の昭和を生きたことに誇りを持ってもいる。それに比して「平成」に郷愁を感じないのは、まだ記憶が生々しいからだろう。やがて「令和」も歴史を刻み、好き嫌いを超えて個人史の中に残るものと思われる。

個人の思いをこえて、元号に反動性があるというのならば、ぜひともそれを詳述して欲しい。少なくとも文献史学のうえで、元号および天皇制が「被差別」と関連付けられるものは、政治権力の恣意性・身分政策のなかにしか存在しない。それも伝統的な位階制や職能制を離れた、武家政権独自の身分政策なのである。むしろ古代いらいの天皇制(公地公民制)を壊すことで、中世の摂関支配(荘園制)および封建的な身分制(差別)が成立したのだ。

いまも天皇制とは無関係に、むしろ天皇制が持つ融和性(汎アジア主義・国民的親和性)を否定するかのように、レイシズム(排外主義)とナショナリズム(国家主義・民族主義)の「国民分断」が跋扈している。民族排外主義から天皇を排撃すらするネットの書き込みも少なくない。たとえば、

「1名無しのエリー2018/03/30(金) 23:52:04.27ID:3Hw36Myx0
明仁は最悪な朝鮮人天皇です 泥棒 朝鮮人ばかり活躍させているゴキブリ天皇
日本の敵 天皇死ね!」(5ちゃんねる)

「天皇陛下が、GHQ押し付けのいわゆる平和憲法護持派でいらっしゃり、また必然的にアンチ安倍政権でいらっしゃる。」(ネトウヨ系のブログ)

便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが、昭和天皇の時代にもっぱら「戦争責任」で天皇制が批判されることはあっても、平成になってからは右派からの天皇(皇室)批判のほうが多いのではないだろうか。ために上皇后はメディアによるバッシングに体調を崩し、雅子妃も本来の外交を禁じられて「産まない皇太子妃」として長らく適応障害に追い込まれた。

それはともかく、国民の意識レベルでの天皇制(皇室と政治の結合)を問題にするのならば、天皇条項そのものに矛盾があり、国民統合としての位階制および叙勲、あるいは神社の氏子制・崇敬会などのシステムに根拠あることを、もっと暴露するべきであろう。したがって個人的に元号を口にしない、書かないということが論説・論考にならないのは前回指摘したとおりだ。

◆「左翼」は軍備を否定しない

もうひとつは「いくらでも削れる防衛費と日米安保に『左翼』であれば言及するのではないか」(田所氏)という指摘である。山本太郎は自衛隊の存在を、災害救護に必要という観点から是認している。わたしも陸上自衛隊は「災害警備隊」に再編成し、海上自衛隊は最低限の戦力として沿岸警備隊に再編成するべきだと思う。航空自衛隊は早期哨戒と地対空ミサイル部隊限定がいいだろう。

ところで「左翼」が防衛費と日米安保に言及するのは、まったく別の理由である。

左翼にとって日米安保は国家権力の一部を軍事的にアメリカが補完している、まさに権力問題としての打倒対象なのだ。わたしは「左翼」ではないので、むしろ「新右翼」のように、アメリカは沖縄と日本から出ていけ、日米安保を打破して日本の独立を、と考えている立場だ。わたしと同じような立場の「左翼」は少なくないが、まさに左翼という幅の広さを「防衛費削減」一般で括れないことを、そのことは示している。

そのうえで、ずばり核心部から説き起こそう。共産主義を標榜する左翼の大半は「軍隊を堅持する」立場なのである。自衛隊(帝国主義軍隊)の防衛費を削減要求することはあっても、革命政権をにぎれば「ブルジョアジーを警護する専門的な軍隊を廃止し、全住民の武装」をもって革命の成果を防衛する。

ロベスピエールが国民議会の外にその力を頼み、マルクスを有頂天(『フランスの内乱』)にさせたコミューンおよび国民軍である。レーニン政権の労兵ソビエトおよび赤軍である。その意図するところは、選ばれた特権的な職業軍人ではなく、国民皆兵(および志願制)の人民軍である。女性や子供も武器を取るという意味では、戦前の徴兵制よりも徹底した軍事国家であろう。これが共産主義者の軍事に対する態度なのである。日本共産党も95年までは、綱領的に自衛隊の解体とそれに代わる武装自衛組織、を謳っていた。つまり「中立・武装・自衛」だったのだ。※なし崩し的に「非武装中立・自衛隊の活用」に移行した。

新左翼系では「共産主義突撃隊」「赤軍」(ブント)や「革命軍」(革労協両派・中核派)、反日武装戦線(各部隊)という組織が作られ、実際に武装闘争が行なわれた。100人もの反革命敵対分子を「殲滅(殺戮)」したことから、革命政権下の軍事独裁、反革命の処刑を否定しないであろう。そのことこそ、わたしが「左翼」をやめた契機である。前回も少しふれたが「戦犯天皇処刑」や「反革命分子を処刑」しながら、死刑廃止運動には賛成するなどというご都合主義。ある意味では「自衛隊の予算増強には反対」し「革命軍を組織する」に通底する左翼のご都合主義こそ、批判されなければならないのではないか。もはや革命戦争の時代ではない。

◆天皇制を論じることこそ必要である

1月24日の「反論」は、もっぱら天皇制をめぐるのものとなっている。わたしは田所さんが天皇制を踏み込んで批判していないから、オピニオンになっていないと指摘したのである。くり返しになる部分もあるが、簡潔にまとめておきたい。

田所さんは「わたしはその党名(れいわ新撰組=引用者注)を書くことができない」という。

これでは「天皇制および元号が嫌い」という表明以外の何ものでもないのではないだろうか。『鹿砦社通信』は個人的なサイトではないのだから「書くことができない」では読み手は困る。

「《天皇制および元号を是認する政治観に同調できない》のが、わたしの意見(オピニオン)である。わたしの脊髄反射ともいうべき意見」であるならば、もっと踏み込んで論じるべきであろう。と、わたしは田所さんの執筆姿勢に不満を感じるのだ。その姿勢は、どうやら天皇制廃止が不可能だから、ということらしい。どうしてそんなにペシミズムになるのだろうか。

書くことは人を勇気づけることである。たとえば文学においては、それが死をめぐるテーマであっても生きることへの賛美がなければ、作品は光彩を放たない。政権や政治家を批判する記事においても、読む者の意識を喚起する正義への情熱、あるいは人間愛の視点がなければ賛意を得られないものだ。この点において、田所さんの天皇制をめぐる寡黙は残念である。

田所さんは云う。

「現在日本で天皇制を合法的に廃止するには改憲によるしかない。しかし、国民世論の大半が天皇制に融和的であるのことを鑑みると、改憲による天皇制廃止は事実上不可能だ」

その理由は、
「天皇制は法律から離れてもこの島国の住民の内面にかなり深くべったりとしみついている『理由なき精神性』を孕むものでもある。仮に憲法における規定が変更あるいは削除されようとも、このメンタリティーには大きな変化は生じないのではないか、というのがわたしの推測だ。」

天皇制には勝てない、と結論ありきのようだ。

「天皇制についての議論を行うことができる知的・情報的前提条件をわれわれは持ちえているだろうか。」

わたしは持ち得ていると思うし、大いに議論できると思う。この島国の住民の内面にベッタリと染みついている、わたしに言わせれば「支配されたがる精神性」を打ち破る議論は、わが国の長い歴史の中で支配者が逆転した歴史を考えれば、大いに可能だと考える。廃仏毀釈と戦前の国教化を通じて、近代天皇制が国家神道(皇室祭祀と国家儀典の結合)としてわが国民の精神を支配したのは、まだ150年ほどの実績しかないのだから。この点については、天皇史として稿を改めたいが、簡単に触れておこう。

そもそも皇統は、万世一系ではない。いわゆる「欠史8代」は、神武いらい9代の天皇が神話的存在であることを教えている。神武東征の事績は倭国の移動を暗喩させる以外は、ほぼ完全に神話であり、以後の8代には執政の記録がないからである。10代崇神帝において、初めて税制や疫病対策などの事績が見える。崇神帝は邪馬台国卑弥呼の時代にかさなる。従って日本の紀元(皇紀)はせいぜい1800年といったところだ。以後、16代の仁徳帝、26代継体帝において王朝交代があったとされている。血統も変わっているだろう。じつはその時代、天皇は豪族連合の長にすぎなかった。卑弥呼が豪族連合に選ばれた史実に明らかだ。

じっさいに天皇親政(天皇制)が行なわれたのは、乙巳の変(大化の改新)による天智帝の時代から、孝謙(称徳)女帝までであって、光仁帝以降の天皇は、ほぼ全面的に藤原氏の摂関政治のお飾りとなった。後三条帝による院政の開始は、わが国にしかない二重権力をもたらしたが、鎌倉幕府の成立(承久の変)で院政も崩壊する。爾後、天皇が執政を振るうのは、後醍醐帝の建武の中興が20年あるだけだ。明治維新はしたがって、古代王権いらいの天皇の復権だったのだ。

今回、田所さんにおいても皇統および天皇制について、具体的な論証があったのでこれは評価したい。しかし、英国との比較で天皇制を特別視するのは誤っている。

「英国王室の長(おさ)は『王』(King)であり、天皇は憲法上の規定がどうあれ『神』(God)の側面を持つ皇帝(Emperor)であることだ。」

近代の社会契約説によって、英国王室は国民との契約(信頼がその実質)で成り立っているが、即位に当たっては神の聖油をうける「王権神授説」の残滓を残している。日本の天皇が神と同衾してその皇統継承を承認されるように、英国のKingもGodの代理なのである。宗教的祭司でかつ王であることは、しかし「アルカーナ(秘密・奥義)」というわけではない。所詮はナショナリズムを掻き立てる神話(日本の「記紀」英国の「アーサー王伝説」)にすぎない。

そして皇位継承の神事も、明治時代に復刻された古代儀式であって、そもそも天皇は仏教徒である。※参考図書『天皇は今でも仏教徒である』(島田裕巳、サンガ新書)。われわれ一般国民も戦前までは、死ねば「神仏」になれた。わたしの家は神道なので、父親の霊璽は「横山隆牛の神」である。そもそも唯一神(超越存在)のキリスト教と汎(多)神論の神道を、同じレベルでは論じられない。

麻生太郎の「二千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」という単一民族であるという妄言も、ほかならぬ平成天皇自身が否定している。

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。」(日韓ワールドカップサッカーを前に、韓国との所縁にふれた平成天皇発言)。「一つの王朝」ではないことも、上述したとおりだ。

昭和天皇は大元帥として太平洋戦争の指導(上奏と下問)を行ない、その戦争責任を問われるべき史実がある。平成天皇において山本太郎や白井聡、内田樹らをして護憲派の最後の砦と思わせるような政治的態度を示していることについて、運動内部の議論もある。これはまた、別の機会に紹介しよう。わたしは対決の反天皇制運動から、皇室の民主化による天皇制の崩壊に賭けてみたい。そのためには積極的な議論が必要なのである。

「こと天皇制に限っては、『横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃない』」からこそ、元号を書かないとか論説を回避するとかのネガティブな構えではダメだと思うのである。まさに、
「『寓話』が不文律あるいは強制として『国是』とされている実態は無視はできない。まずその事実にすら気がつかない、あるいは知らないひとびとに『知らせる』ところからはじめるほか、手立てはない」のである。田所さんの研鑽に期待したい。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

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