京都市長選で野党共闘は終わったか? 「野党の塊」に不可欠な山本太郎の可能性

注目を浴びていた京都市長選挙は、共産党とれいわ新撰組が推薦する福山和人氏(58歳)が惜しくも4万1000票あまりの差で敗れた。前回選挙(2016年)にくらべると、地方政党京都党の善戦もあってか、次点の福山氏は得票率で前回の本田氏の30%の差から10%の差に縮める結果になった。※NHK選挙WEB=京都市長選

▼2016年(前回)
門川大作  254,545票 63.8%
本田久美子 129,119票 32.4%
三上隆    15,334票  3.8%

▼2020年(今回) ※2月2日23時現在
門川大作  194,821票 44.3%
福山和人  153,545票 34.9%
村山祥栄  91,632票 20.8%

注目を浴びた選挙の、政治的な背景を説明しておこう。国政レベルでは、自公安倍政権にたいして「大きな野党の塊」をつくって対抗し、政権交代への足掛かりをさぐるという統一戦線戦術が模索されてひさしい。事実、昨年の参院選挙においては自民党に2桁の議席減を強いる結果をもたらした。今回の選挙が接戦になったことで、大胆な野党共闘の道をさぐるべきであろう。

2020年1月26日付京都新聞

ところが、与野党相乗りが定着している地方首長選挙においては、その事情も違ってくる。野党が独自の統一候補を立てられない、というのが実相であろう。京都市長選挙はまさにその典型で、現職の門川大作(自民党・公明党)推薦候補に、立憲民主・国民民主・社民党までもが相乗りする選挙となったのだ。これは過去も同じだ。そして共産党との対決も、共産党系候補へのれいわ新撰組の推薦をのぞいては、これまで同様の構造である。

現職の「政策実績の評価」というところに選挙支援の論点を置くいっぽう、立憲民主の福島哲郎幹事長は「徹底的に共産党と戦う」(門川候補の出馬式)とぶち上げてもいる。

そして1月26日には「大切な京都に共産党の市長は『NO』」なる意見広告が、「京都新聞」「読売新聞」「朝日新聞」に掲載されたのだ。赤狩りを思わせる共産党へのネガティブキャンペーン、あるいは内容抜きの「NO」はヘイトであるとも評されている。

しかも、その広告に名をつらねた文化人たち(映画監督の中島貞夫・日本画家の千住博・俳優の榎本孝明・堀場製作所の堀場明会長)が「内容を知らされていなかった」というのだ。

「特定の政党のネガティブキャンペーンには賛同しない」「共産党だからNGという立場にはない」と、門川陣営の支援団体「未来の京都をつくる会(当該の広告主体)」に抗議をしている。確認をとらないまま、勝手に名前を政治利用したことで、大きな反発をまねいていた。

これは門川陣営に自失、反共キャンペーンの時代遅れを笑うべきであろう。


◎[参考動画]【2020京都市長選挙】門川大作候補100秒の主張(Mielkaチャンネル)

◆そもそも京都は赤い都市である

京都市長選で共産党をふくむ「革新系」候補が勝利したのは、この意見広告がエキセントリックに言うほど珍しいことではない。かつて蜷川虎三京都府知事は、7期28年にわたって革新府政を築き上げてきた。

蜷川虎三知事との提携で市長になった高山義三(のちに保守に転向)、京都民主統一戦線に擁立された井上清一市長、富井清市長ら、共産党をふくむ革新系統一戦線は、78年に蜷川の後継者が保守系に敗れるまで、ながらく赤い京都を体現してきたのである。

歴史的にも、鎌倉時代(承久の変)から京都はもともと、反体制運動のメッカである。いや、鎌倉以前にも、たとえば叡山は京都を守護する山門でありながら、ことあるごとに強訴をもって朝廷と藤原政権を悩ませてきた。鎌倉幕府の六波羅探題(平清盛の時代からの武家の拠点)に対して、京童は祇園御霊会にかこつけて山鉾を武器に叛乱してきた(建武政権の導火線となる)。江戸末期には討幕の拠点となり、朝廷が東京に居を移してからは、本来の日本政府(少なくとも天皇御所)は京都にあるべきとの気風を崩していない(退位後の上皇京都隠棲法案)。

あるいは戦後において、京都府学連の伝統をつぐ京大・同志社・立命館の学生運動は、全共闘運動後もしばらく80年代まで「ガラパゴス状態」を体現し、「左京区の学生は困ったもの」と呆れられながらも、学生好きな京都人から暖かいまなざしを受けてきた。それは2020年代のいまも、京大熊野寮・吉田寮に引き継がれている。
その学生運動以上に、強力なのが共産党京都府(市)委員会と立命館大学支部(福山和人氏の出身母体)であろう。京都の学生運動の歴史は、まさに共産党(民青)と赤ヘルの闘いの歴史でもあった。「未来の京都をつくる会」が必死になって反共キャンペーンを行なうのも、そのような事情にほかならない。


◎[参考動画]壁を越える/京都市長候補・福山和人(FukuTube・福山和人)

◆山本太郎は東京都知事選候補となるのか?

「共産党と戦う」という反面、立憲民主党は1月23日に、長妻昭・選対委員長が7月5日投票の都知事選挙に「野党統一候補として山本太郎れいわ代表を擁立する可能性がある」と発言している。その一貫性のなさを批判するつもりはない。

山本太郎の京都市長選における共産党推薦候補支援も、多数派形成のための戦術であり、ぎゃくにいえば立憲民主ほか、野党の選挙戦術もシングルイッシュー(個別課題=この場合は京都市政)にほかならないからだ。政治力学とは「敵の敵は味方」であり「昨日の敵は今日の友」が議会政治なのである。

たとえば死刑廃止運動では、議会での「廃止決議」がないかぎり制度は変えられないという現実から出発し、かつて死刑廃止議連(亀井静香・浜四津敏子ら)を市民がサポートしてきた。自民党の議員を何人組織できるかが運動の成否、とも言われてきたものだ。※社民系・民主系の議員の落選で議連が停止状態。あらたに自民党議員を座長とする「死刑を考える議連」が組織されている。大胆に言えば、選挙や議会政治は思想信条ではない。目的を実行できるかどうかなのである。

今回の選挙結果をうけて、発信力や予算の額それ自体としては国会議員よりもはるかに大きなものがある都知事選への、山本太郎の出馬もおおいにあり得ると予言しておこう。


◎[参考動画]私が福山和人京都市長候補を応援する理由!山本太郎 京都で激白!!(れいわ新選組)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

『NO NUKES voice』22号 2020年〈原発なき社会〉を求めて
2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

やはり上級国民と平民があるのか? 武漢からの帰国チャーター便8万円也

中国武漢での新型コロナウイルスによる肺炎流行で、在留邦人の緊急帰国(希望者)となった。政府チャーター便での帰国である。往路は中国への支援策として、マスク2万枚、防護服50セットが運ばれたという。まだ正体のよくわからない新型ウイルスが発生した緊急時に、日本政府の対応はひさしぶりに頼もしいと感じさせた。


◎[参考動画]武漢からの帰国便 到着後の乗客への対応は?(2020/01/29)

と思っていたところ、チャーター便の搭乗料が8万円(正規料金を徴収予定)だという。帰国希望者とはいえ、災害のような流行病からの退避に、8万円もの搭乗料を取るというのだ。帰国した人々は診断を受けたうえで発熱や病状がない場合も、政府が借りたホテルに2週間収容されることとなった。これも宿泊費を徴収するのであろう。ネットでは「8万円払えない人は帰国できなかったのか?」という声が挙がっている。じっさいに、武漢で乗り込む前に「払えない人は帰国できないのか」と揉めたという。

てっきり「邦人保護」として行われていると思っていたら、そうではなかったのだ。外務省は「平常時の帰国支援であって、邦人保護では今回のような大量のケースは想定していない」「内戦や武力攻撃などとは異なる」との見解だという。ちなみに邦人保護費は年間351億円である。

それにしても、安倍総理主催の「桜を見る会」では、2014年度は3,005万円、2015年度は3,841万円、2018年度に5,229万円、2019年度は5,519万円の国家予算を使っている(参加無料)。今回の武漢からの帰国希望者は600人と言われているので、「桜を見る会」よりも安い4,800万円である。これをみただけで、この国の運営が政権のためには血税をジャブジャブ使い、疫病の災禍に見舞われた国民には自腹を強いる。血も涙もないものだということがわかる。

さすがに、この冷酷きわまりない政府の措置には与党内からも批判の声が挙がっている。

自民党の二階俊博幹事長は「突然の災難だ。財政的な問題はあるが、惜しんでばかりではいけない。本人だけに負担させるのではなく国を挙げて対応するのは当然だ」と強調した。公明党の山口那津男代表も党の中央幹事会で「緊急事態でやむを得ず帰国を余儀なくされた方々だ。政府が負担すべきだ」と語っている。当然の反応であろう。

そもそも集団帰国(チャーター便)は、武漢の閉鎖という中国当局の措置によって、帰国ができなくなった邦人を保護するものだ。集団で動くことで、ウイルスの拡散を防ぎ、帰国後も一定の隔離をもって疫病のコントロールをするためである。その防疫政策の費用を、国民個人に自腹で負担しろと政府外務省は言っているのだ。


◎[参考動画]チャーター機費「政府が負担を」8万円の請求方針に

◆1億円でどんちゃん騒ぎも

かつて、中東で邦人がイスラムゲリラの人質になったとき、外務省の職員がチャーター便で現地に飛んだことがある。そのときの予算は1億円。現地のホテルのフロアを借り切ったというのだから、派遣されたのは数十人だったのだろう。紛争地域の近くに行くのだからご苦労なこととは思うが、ホテルで連日どんちゃん騒ぎをしていたという。いうまでもなく「邦人保護費」から出されているはずだ。そのうえ、派遣の実効性は疑わしかった(関係者談)などを聞くと、とくに外務畑の予算は「機密費」をふくめて、お手盛りなのだろうと想像がつく。

この季節、中国旅行(4泊5日、東方航空使用の往復旅費込み)は8万円ていどである。民間航空機(全日空)の運賃が下げられないというのなら、どうして政府専用機を使わないのか。ここにも総理が招待する「上級国民」とその他の国民(平民)という扱いがあるのだから、この政権のもとでの日本には身分制があるということになる。


◎[参考動画]チャーター機乗客検査拒否に安倍首相「大変残念」 2便以降は確かな形で

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

相模原殺傷事件裁判:マスコミが伝えない「植松聖に関する重要な情報」

年明けから横浜地裁で公判が始まった相模原知的障害者施設殺傷事件の植松聖(29)に対する裁判員裁判。マスコミは連日、競うように公判の様子を報道しており、知的障害者19人が殺害され、他にも26人が負傷した大事件は再び社会の注目を集めている。

だが、報道の量は多いわりに、世間にまったく伝えられていない重要なことが1つある――。

◆筆者が面会室で植松から聞いた答えは・・・

「意思の疎通のとれない障害者は安楽死させるべきだ」

2016年7月、犯行後に警察に自首した植松は、そう供述し、社会を激怒させた。そして起訴後、横浜拘置支所でマスコミの面会取材を受けるようになると、マスコミは判で押したように植松が面会室で「身勝手な主張」をしていると報じた。これは植松にとって、決して喜ばしいことではないだろう。

しかし、植松は裁判員裁判の公判が始まって以降も以前と変わらず、マスコミの面会取材を受け続けている。なぜ、批判的に報じられるばかりなのに、マスコミの面会取材を受け続けるのか。筆者が以前、横浜拘置支所で植松と面会した際に聞き出した答えはこうだ。

「私は、マスコミの取材を受けることにより、自分の主張を広めたいと考えているのです」

マスコミ報道により「身勝手」な人間であるように印象づけられた植松だが、実際に会って話してみると、実は「独善的」と評したほうが適当な人物だ。なぜなら、自分のしたことを正しいと本気で信じているからだ。だからこそ、自分の主張を広めるため、犯行後は死刑になることを覚悟のうえで警察に自首し、マスコミの面会取材を受けようとしたのだ。

植松は、筆者の目を見すえ、真顔でこう言った。

「私も死は怖いですが、自分の生命を犠牲にしてでも、やらないといけないと思ったんです」

筆者は植松の考えに賛同するわけではないが、植松がマスコミを通じて自分の主張を広めることに文字通り、生命を賭けているのは間違いない。このことは当然、筆者だけでなく、植松に面会取材したマスコミの記者たちも気づいているはずだ。それなのになぜ、「植松聖が面会取材を受ける理由」を伝える報道が見当たらないのだろうか。

マスコミが植松の面会取材に殺到している現状は、ある意味、植松の狙い通りだと言っていい。面会取材をしているマスコミの記者たちがそのことを世間の人たちに知られたくないと思うのもわかる。しかし、植松聖という特異な殺人犯の実像を正しく伝えるためには、「植松聖が面会取材を受ける理由」も欠かせない情報であるはずだ。

植松の裁判員裁判が行われている横浜地裁

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

「反社会勢力」という虚構〈10〉国家の盟約と裏切り

◆政治組織への業態変化で生き延びる

三代目山口組の組織拡大が、変化する時代のニーズに合致した組織経営にあったのは、それでも例外的な成功であった。大半の極道組織は大規模な組織に系列として吸収されるか、地場にとどまって今日でも小規模な生業を維持している。

戦後の極道組織が山口組のような組織体質の刷新もなく、それでも今日まで生き延びてきた理由は、くり返しになるが政治組織への業態変化をあげておく必要があるだろう。極道業界の今後の命運を暗示するキイワードでもある。

三代目山口組が近代的な産業組織を胎内に熟成させつつあったころ、日本は高度経済成長前夜の動乱期にあったことはすでにこの連載で書いたとおり。社会的な混乱の要因は、共産主義革命の胎動である。1950年代の共産党武装闘争を経験した中には、軍隊経験のある人は当時の火炎瓶闘争や拳銃での武装を述懐して、あんなチャチな武器を使った戦争ごっこで、圧倒的な米軍に支えられた国家権力が転覆するとは、どうしても思えなかったと言う人もいるが、本気だった人も大勢いたのである。

◆鉄道雪だるま闘争──武装蜂起して九州を極東革命の拠点にする

九州で鉄道雪だるま闘争を経験した老練な左翼活動家の話によれば、朝鮮戦争が勃発したときは本気で革命が起きると思っていたのだという。マッカーサーの仁川上陸で中国の義勇軍が参加する前のことだが、やがて朝鮮半島から駆逐されたアメリカ軍が小倉に逃げてきて、それを追って金日成の人民軍が九州に渡ってくる。まるで古代大和政権の時代にもどったような戦争観だが、考えているほうは本気なのである。

そうなれば在日朝鮮人をふくむ日本の共産主義勢力は国際共産主義者の任務として、九州で武装蜂起して極東革命の拠点にする、などということが数カ月後には確実にやってくると、本気で計画されていたらしい。

このときおこなわれた鉄道雪だるま闘争というのは、ストライキの拠点に列車に乗ったオルグ団を派遣し、そこで入れ代わりに運転士を貨車に乗せて、次々と拠点を確保していく戦術で、中津や門司、鳥栖の各機関区をそうなめにして列車ストを拡大するのである。今ほど道路が整備されていないので、当時は鉄路を支配する力がものを言う。

◆極道組織を日米安保賛成の「国民運動」に参加させた政治家たち

このほかにも集団で警察署を襲い(菅生事件のようなデッチあげとされるものも多い))、署長以下をつるしあげて一般刑事犯をふくめた拘置されている人を解放する、とかの戦術も盛んだった。港湾労働者や炭鉱労働者も例外ではなくて、三代目山口組の組織する労働組合が革命に対抗する勢力として期待された理由がここにある。

鉄道関係ではのちに下山事件(国鉄総裁の轢死事件)や三鷹事件(無人列車の暴走)などの謀略で、組合員が大量に処分されたり共産党関係者が逮捕されたりということもあったが、GHQと日本政府にとっては60年安保にいたる過程は国家存亡の危機と感じられていた時代である。

そこで、政治家たちは左翼の暴力に対抗する手段として、極道組織を日米安保賛成の国民運動に参加させたのである。国民運動といえば聞こえはよいが、その実態は全学連のデモ隊に武器を満載したトラックで突っ込むだとか、労働者や市民の集会を攪乱するなどの手段であって、各所で流血の武装衝突も起こっている。

極道の各組織が神棚の天照大神、八幡大菩薩、春日大明神などの御符のほかに、国家主義のスローガンを掲げるようになったのは、じつはこれが四度目である。最初は明治の初期に身分制度が攪乱された騒擾の時期で、これは士族の不満分子を背景に藩閥政府への反乱(自由民権運動)や、いっぽうでは明治政府にしたがう勢力も少なくなかった(清水の次郎長)。

大正期の一時期にモダニズムの流行に乗って政治的右翼に看板替えをした、今日の生業の原型ともいうべき総会屋ふうのヤクザ組織があらわれたのが第二の時期。第三は、太平洋戦争にさいして大日本国粋会に組織されたときである。

もともと、お上の傍若無人な言動や弾圧には靡かない反権力を体質としていた任侠道の気風は、これで半分骨を失ったことになる。だが、今回は前の三度のゆきががりとは明らかに違う。戦後世界はすでに、米ソという国際的な体制間の矛盾を背景にした政治世界である。国家の庇護と要請にもとづいて、左右の衝突の渦中に身を晒すことになったのだった。いらい、極道と右翼は同じ名刺に印刷された二足の草鞋を履くことになるのである。

◆国家は民間暴力を承認しない

しかしながら、極道が国家体制の内側にいる時期は、それほど長くは続かなかった。

大資本や政治家としても、戦後の混乱期には極道の暴力を利用してきたが、高度成長が軌道にのり市民社会が成熟してくると、いつまでも凶暴な番犬を飼っているわけにはいかない。大衆消費社会が社会の隅々まで浸透して、あまねく家庭に冷蔵庫や洗濯機、電話、テレビをもたらし、アメリカ風の生活をもとめる富裕層はマイカーやエアコン、カラーテレビまで持っている時代がやって来た。もはや民衆が飢えて闇市をさまよった戦後ではない。

いつもワシントンの意向を気にしているとはいえ、すでに独立国家として軍隊なのかそれとも違うのかよくわからないが、とにかく国家防衛のための武装組織も拡充し、治安警察力にいたっては世界に誇るものがあるという時代に、独自の論理で好き勝手なことをする連中がいては困るのである。

1960年代後半から70年代の左翼の過激派壊滅作戦と同時平行しておこなわれたのが、暴力団壊滅のための頂上作戦だった。爾来、ヤクザは蛇蝎のごとく排斥される。いわく、ヤクザは市民の敵、極道は人間のクズ。いっぽうで東映の任侠映画で人気を博しながらも、任侠団体が暴力団という蔑称でさげすまれるようになったのもこの時期である。

◆「反社会勢力」なる虚構は、自民党を崩壊させる序曲である

話は急転するが、山口組の後継をめぐる組織同士の抗争もあって、いよいよ先進国としての体裁を考える為政者は断をくだした。恐喝や脅しをすればすぐにパクる(逮捕する)という暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)が1991年(平成3年)に成立。1999年(平成11年)にはオウム真理教の破壊活動防止法適用に失敗したあとを受けて、組織犯罪処罰法(組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律)という新法が成立した。これも極道組織への適用を射程にいれてのものである。

法の整備と同時に、新たな頂上作戦がこのところ極道組織を襲っている。五代目山口組の宅見勝若頭が殺害された事件(1997年8月)ころから、組幹部を護衛する組員の携帯している拳銃を理由に、これまで左翼組織にしか適用してこなかった共謀共同正犯を罪状として、若頭補佐クラスの幹部をたてつづけに検挙・指名手配して動きを封じようとしている。さらには民法上の使用者責任。そして2011年から各自治体で施行された暴排条例において、反社会的勢力としてのヤクザの排除は法的な完成をきわめた。それを完成と呼ぶのは、ほとんど憲法違反の条例だからである。これ以上の法の逸脱は限界であろう。

過去がどうであれ何であれ、自分たちの存立のために邪魔なものは切り捨てるのが国家の持つ、唯一性の原理なのだ。それは安倍総理の「ケチって火炎瓶事件」などに顕著である。しかしながら、政治家とヤクザは切っても切れない関係にある。選挙という膨大な民衆を相手にする以上、清濁併せ呑む度量がなければ政権は握れない。その意味では自民党が政権与党である根源的な理由(ヤクザとの付き合い)を破棄しようとする「反社会勢力」なる虚構は、自民党を崩壊させる序曲だと指摘しておこう。

【横山茂彦の不定期連載】
「反社会勢力」という虚構

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて
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「左翼」であるか否かは、政治家・山本太郎への評価の基準にならない ── 田所さんの反論に応える

本欄1月14日、15日付の「ポピュリズムの必要――政治家・山本太郎をめぐって」について、田所敏夫さんから「政治家・山本太郎に危険性を感じる理由を再び」という反論(1月16日)をいただいた。「回答をお待ちする」とあるので、返答したい。

※本稿を寄稿したあとに「天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ── 横山茂彦さんの天皇制論との差異」という再反論の記事が掲載(1月24日)されたので、少し長くなるが2回目の「反論」については、後段で扱わせていただいた。いずれにせよ拙文に望外の反応いただき、田所さんには感謝しかない。

 
『NO NUKES voice』Vol.22 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

◆論軸を逸らしてはいけない

わたしの論旨について、田所さんは「異議がない」とされている。読んだところ本来の論点ではない「政治家の演説力」および「左翼の基準(元号批判・防衛費削減)」に論軸がある。その意味では、議論はまったく噛み合っていない。というよりも、論軸を逸らしておられる。これは論考を成すうえでの基本作法、議論の原則から外れている。論軸を逸らすことは、論点を曖昧にするばかりか、議論そのものの生産性を阻害するものだと指摘しておこう。

論じられている中でも、個々の政治家の演説力を論じた部分は、あまり興味をそそられなかった。なかでも挙げられている橋下徹が、政権を獲得できる政治家だとは到底思えない。ただし「元号批判」「自衛隊の予算削減」や「日米安保」に絡めた「左翼」の基準については議論に面白みがある。せっかくなので後段で取り上げたい。

まず、立論の矛盾および論証がない点について。

《そもそも、政治家が個人の言説を前面に押し立てて、どこか支配的(独裁的)な言説を振りかざすのは、選挙運動においてはふつうのことである。(中略)したがって、あらゆる政治家は大衆の前において、独裁者のごとく振る舞うのだ》(横山)という「テーゼの大部分にわたしも異議はない」と田所氏は表明されている。にもかかわらず、山本太郎の「独裁体質」は批判するのだ。以下、引用しておこう。
「山本太郎氏の『独裁体質』は既に表出し始めている。質問者が言うことを聞かないと『それなら俺に権力をくれよ!』と叫ぶ姿を最近何度かネットで目にした」という。

言葉遣いはともかく、わたしは普通の政治家の発言だと思う。ここで「俺に権力をくれよ」というのは「政権をまかせて欲しい」と同義だからだ。

「異議はない」と同意された上記の「テーゼ」と、どの地点で評価が変わってしまうのだろうか? 横山が云う「独裁(テーゼ)」は良くても、山本太郎の「独裁体質」が危険だというのは矛盾である。

また、田所さんは同じく「異議はない」とした上記の引用につづけて、
「わたしが危険性を感じるのは、むしろこのテーゼが無効化された現在の状況を前提とした議論である。」というのだが、その中身がまったく展開されていない。なぜ「(横山の)テーゼが無効化され」て「現在の状況」があり、それを「前提とし」なければならないのか、これではよくわからない。

◆「左翼」である必要はあるのか?

田所さんの山本太郎評は、どうやら「左翼」であるか否かになっているようだ。以下、引用する。

「横山さんと私の決定的な違いであるが、わたしは山本太郎氏を『左翼』とは見做さない。」

この「左翼」という言葉に、思わずドキリとしてしまった。わたしは確かに「日本の左派にもようやく、大衆を扇動できる政治家(ポピュリスト)が登場した」と山本太郎をと評している。「左翼」と定義していると取られたのは不覚(失敗)である。わたし自身が相対的に「左派」であるという自覚はあっても「左翼」ではないと意識しているからだ。そして政策の評価と人物評に、左翼であるか否かはおよそ関係がないと考える。

60年代には「進歩的」「変革」「革新」と「左翼」は同義で、「右翼」と「反動」「封建的」「保守」が同義だった。しかし、いまや「サヨク」は「パヨク」「ブサヨ」として、ネトウヨに侮蔑されている。あながち、いわれがない蔑称でもなくて、何にでも反対する内容のなさが一般大衆からも、底を見すかされていると言えなくもない。これは右派(右翼ではなく保守)が新自由主義のもとに「改革路線」を標榜するようになっていらい、旧来の左派が「守旧派」「既得権墨守」とみなされるようになったことと無関係ではない。いずれにしても、胸を張って「わたしは左翼だ」という人々は、いまやごく少数なのではないか。

田所さんは「左翼」をこう定義するという。

「《左翼とは、政治においては通常、『より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層』を指すとされる。『左翼』は急進的、革新的、また、革命的な政治勢力や人を指し、社会主義的、共産主義的、進歩主義、急進的な自由主義、無政府主義傾向の人や団体を指す》といったところであろう。」

すいぶんと振れ幅の広い定義だが、せっかく「左翼とは何か」というテーマをいただいたので、今回のテーマに沿って議論をすすめよう。

田所さんは云う。

「山本太郎氏が立ち上げた、あの新党の名称のどこに『左翼』のエッセンスがみられるのだろうか。既成政党のなかで、もっとも反動的な名称ではないのか。」

なるほど、令和という言葉には、令(命令や法律)と和(共同体・親和性)のなかに、反動的な統制国家を標榜するかのような印象がある。漢語学的な問題点、あるいは歴史的な不吉さも指摘されてきたが、ここでは踏み込まない。田所さんも論証されていないのだから。

元号そのものが「反動的」という評価は、少なくとも復古的であり進歩的ではないという意味で当たっているのだろう。だが、共産主義政党ではなく国民政党をめざすのなら、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか。

たとえば、わたしは「昭和」という元号に懐かしさとアイデンティティを持っている。そこに自分の歴史(青春)が刻まれているからだ。激動の昭和を生きたことに誇りを持ってもいる。それに比して「平成」に郷愁を感じないのは、まだ記憶が生々しいからだろう。やがて「令和」も歴史を刻み、好き嫌いを超えて個人史の中に残るものと思われる。

個人の思いをこえて、元号に反動性があるというのならば、ぜひともそれを詳述して欲しい。少なくとも文献史学のうえで、元号および天皇制が「被差別」と関連付けられるものは、政治権力の恣意性・身分政策のなかにしか存在しない。それも伝統的な位階制や職能制を離れた、武家政権独自の身分政策なのである。むしろ古代いらいの天皇制(公地公民制)を壊すことで、中世の摂関支配(荘園制)および封建的な身分制(差別)が成立したのだ。

いまも天皇制とは無関係に、むしろ天皇制が持つ融和性(汎アジア主義・国民的親和性)を否定するかのように、レイシズム(排外主義)とナショナリズム(国家主義・民族主義)の「国民分断」が跋扈している。民族排外主義から天皇を排撃すらするネットの書き込みも少なくない。たとえば、

「1名無しのエリー2018/03/30(金) 23:52:04.27ID:3Hw36Myx0
明仁は最悪な朝鮮人天皇です 泥棒 朝鮮人ばかり活躍させているゴキブリ天皇
日本の敵 天皇死ね!」(5ちゃんねる)

「天皇陛下が、GHQ押し付けのいわゆる平和憲法護持派でいらっしゃり、また必然的にアンチ安倍政権でいらっしゃる。」(ネトウヨ系のブログ)

便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが、昭和天皇の時代にもっぱら「戦争責任」で天皇制が批判されることはあっても、平成になってからは右派からの天皇(皇室)批判のほうが多いのではないだろうか。ために上皇后はメディアによるバッシングに体調を崩し、雅子妃も本来の外交を禁じられて「産まない皇太子妃」として長らく適応障害に追い込まれた。

それはともかく、国民の意識レベルでの天皇制(皇室と政治の結合)を問題にするのならば、天皇条項そのものに矛盾があり、国民統合としての位階制および叙勲、あるいは神社の氏子制・崇敬会などのシステムに根拠あることを、もっと暴露するべきであろう。したがって個人的に元号を口にしない、書かないということが論説・論考にならないのは前回指摘したとおりだ。

◆「左翼」は軍備を否定しない

もうひとつは「いくらでも削れる防衛費と日米安保に『左翼』であれば言及するのではないか」(田所氏)という指摘である。山本太郎は自衛隊の存在を、災害救護に必要という観点から是認している。わたしも陸上自衛隊は「災害警備隊」に再編成し、海上自衛隊は最低限の戦力として沿岸警備隊に再編成するべきだと思う。航空自衛隊は早期哨戒と地対空ミサイル部隊限定がいいだろう。

ところで「左翼」が防衛費と日米安保に言及するのは、まったく別の理由である。

左翼にとって日米安保は国家権力の一部を軍事的にアメリカが補完している、まさに権力問題としての打倒対象なのだ。わたしは「左翼」ではないので、むしろ「新右翼」のように、アメリカは沖縄と日本から出ていけ、日米安保を打破して日本の独立を、と考えている立場だ。わたしと同じような立場の「左翼」は少なくないが、まさに左翼という幅の広さを「防衛費削減」一般で括れないことを、そのことは示している。

そのうえで、ずばり核心部から説き起こそう。共産主義を標榜する左翼の大半は「軍隊を堅持する」立場なのである。自衛隊(帝国主義軍隊)の防衛費を削減要求することはあっても、革命政権をにぎれば「ブルジョアジーを警護する専門的な軍隊を廃止し、全住民の武装」をもって革命の成果を防衛する。

ロベスピエールが国民議会の外にその力を頼み、マルクスを有頂天(『フランスの内乱』)にさせたコミューンおよび国民軍である。レーニン政権の労兵ソビエトおよび赤軍である。その意図するところは、選ばれた特権的な職業軍人ではなく、国民皆兵(および志願制)の人民軍である。女性や子供も武器を取るという意味では、戦前の徴兵制よりも徹底した軍事国家であろう。これが共産主義者の軍事に対する態度なのである。日本共産党も95年までは、綱領的に自衛隊の解体とそれに代わる武装自衛組織、を謳っていた。つまり「中立・武装・自衛」だったのだ。※なし崩し的に「非武装中立・自衛隊の活用」に移行した。

新左翼系では「共産主義突撃隊」「赤軍」(ブント)や「革命軍」(革労協両派・中核派)、反日武装戦線(各部隊)という組織が作られ、実際に武装闘争が行なわれた。100人もの反革命敵対分子を「殲滅(殺戮)」したことから、革命政権下の軍事独裁、反革命の処刑を否定しないであろう。そのことこそ、わたしが「左翼」をやめた契機である。前回も少しふれたが「戦犯天皇処刑」や「反革命分子を処刑」しながら、死刑廃止運動には賛成するなどというご都合主義。ある意味では「自衛隊の予算増強には反対」し「革命軍を組織する」に通底する左翼のご都合主義こそ、批判されなければならないのではないか。もはや革命戦争の時代ではない。

◆天皇制を論じることこそ必要である

1月24日の「反論」は、もっぱら天皇制をめぐるのものとなっている。わたしは田所さんが天皇制を踏み込んで批判していないから、オピニオンになっていないと指摘したのである。くり返しになる部分もあるが、簡潔にまとめておきたい。

田所さんは「わたしはその党名(れいわ新撰組=引用者注)を書くことができない」という。

これでは「天皇制および元号が嫌い」という表明以外の何ものでもないのではないだろうか。『鹿砦社通信』は個人的なサイトではないのだから「書くことができない」では読み手は困る。

「《天皇制および元号を是認する政治観に同調できない》のが、わたしの意見(オピニオン)である。わたしの脊髄反射ともいうべき意見」であるならば、もっと踏み込んで論じるべきであろう。と、わたしは田所さんの執筆姿勢に不満を感じるのだ。その姿勢は、どうやら天皇制廃止が不可能だから、ということらしい。どうしてそんなにペシミズムになるのだろうか。

書くことは人を勇気づけることである。たとえば文学においては、それが死をめぐるテーマであっても生きることへの賛美がなければ、作品は光彩を放たない。政権や政治家を批判する記事においても、読む者の意識を喚起する正義への情熱、あるいは人間愛の視点がなければ賛意を得られないものだ。この点において、田所さんの天皇制をめぐる寡黙は残念である。

田所さんは云う。

「現在日本で天皇制を合法的に廃止するには改憲によるしかない。しかし、国民世論の大半が天皇制に融和的であるのことを鑑みると、改憲による天皇制廃止は事実上不可能だ」

その理由は、
「天皇制は法律から離れてもこの島国の住民の内面にかなり深くべったりとしみついている『理由なき精神性』を孕むものでもある。仮に憲法における規定が変更あるいは削除されようとも、このメンタリティーには大きな変化は生じないのではないか、というのがわたしの推測だ。」

天皇制には勝てない、と結論ありきのようだ。

「天皇制についての議論を行うことができる知的・情報的前提条件をわれわれは持ちえているだろうか。」

わたしは持ち得ていると思うし、大いに議論できると思う。この島国の住民の内面にベッタリと染みついている、わたしに言わせれば「支配されたがる精神性」を打ち破る議論は、わが国の長い歴史の中で支配者が逆転した歴史を考えれば、大いに可能だと考える。廃仏毀釈と戦前の国教化を通じて、近代天皇制が国家神道(皇室祭祀と国家儀典の結合)としてわが国民の精神を支配したのは、まだ150年ほどの実績しかないのだから。この点については、天皇史として稿を改めたいが、簡単に触れておこう。

そもそも皇統は、万世一系ではない。いわゆる「欠史8代」は、神武いらい9代の天皇が神話的存在であることを教えている。神武東征の事績は倭国の移動を暗喩させる以外は、ほぼ完全に神話であり、以後の8代には執政の記録がないからである。10代崇神帝において、初めて税制や疫病対策などの事績が見える。崇神帝は邪馬台国卑弥呼の時代にかさなる。従って日本の紀元(皇紀)はせいぜい1800年といったところだ。以後、16代の仁徳帝、26代継体帝において王朝交代があったとされている。血統も変わっているだろう。じつはその時代、天皇は豪族連合の長にすぎなかった。卑弥呼が豪族連合に選ばれた史実に明らかだ。

じっさいに天皇親政(天皇制)が行なわれたのは、乙巳の変(大化の改新)による天智帝の時代から、孝謙(称徳)女帝までであって、光仁帝以降の天皇は、ほぼ全面的に藤原氏の摂関政治のお飾りとなった。後三条帝による院政の開始は、わが国にしかない二重権力をもたらしたが、鎌倉幕府の成立(承久の変)で院政も崩壊する。爾後、天皇が執政を振るうのは、後醍醐帝の建武の中興が20年あるだけだ。明治維新はしたがって、古代王権いらいの天皇の復権だったのだ。

今回、田所さんにおいても皇統および天皇制について、具体的な論証があったのでこれは評価したい。しかし、英国との比較で天皇制を特別視するのは誤っている。

「英国王室の長(おさ)は『王』(King)であり、天皇は憲法上の規定がどうあれ『神』(God)の側面を持つ皇帝(Emperor)であることだ。」

近代の社会契約説によって、英国王室は国民との契約(信頼がその実質)で成り立っているが、即位に当たっては神の聖油をうける「王権神授説」の残滓を残している。日本の天皇が神と同衾してその皇統継承を承認されるように、英国のKingもGodの代理なのである。宗教的祭司でかつ王であることは、しかし「アルカーナ(秘密・奥義)」というわけではない。所詮はナショナリズムを掻き立てる神話(日本の「記紀」英国の「アーサー王伝説」)にすぎない。

そして皇位継承の神事も、明治時代に復刻された古代儀式であって、そもそも天皇は仏教徒である。※参考図書『天皇は今でも仏教徒である』(島田裕巳、サンガ新書)。われわれ一般国民も戦前までは、死ねば「神仏」になれた。わたしの家は神道なので、父親の霊璽は「横山隆牛の神」である。そもそも唯一神(超越存在)のキリスト教と汎(多)神論の神道を、同じレベルでは論じられない。

麻生太郎の「二千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」という単一民族であるという妄言も、ほかならぬ平成天皇自身が否定している。

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。」(日韓ワールドカップサッカーを前に、韓国との所縁にふれた平成天皇発言)。「一つの王朝」ではないことも、上述したとおりだ。

昭和天皇は大元帥として太平洋戦争の指導(上奏と下問)を行ない、その戦争責任を問われるべき史実がある。平成天皇において山本太郎や白井聡、内田樹らをして護憲派の最後の砦と思わせるような政治的態度を示していることについて、運動内部の議論もある。これはまた、別の機会に紹介しよう。わたしは対決の反天皇制運動から、皇室の民主化による天皇制の崩壊に賭けてみたい。そのためには積極的な議論が必要なのである。

「こと天皇制に限っては、『横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃない』」からこそ、元号を書かないとか論説を回避するとかのネガティブな構えではダメだと思うのである。まさに、
「『寓話』が不文律あるいは強制として『国是』とされている実態は無視はできない。まずその事実にすら気がつかない、あるいは知らないひとびとに『知らせる』ところからはじめるほか、手立てはない」のである。田所さんの研鑽に期待したい。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

「反社会勢力」という虚構〈9〉戦後の任侠団体の特性

江戸期いらいの博徒が戦後にいたって一変したのは、そのまま戦後社会の変容を映し出しているといえよう。

最初に戦後の闇市を取り仕切ったのは、伝統的な極道の流れではなかった。愚連隊とか特攻隊崩れとかの血気盛んな連中が、無秩序な闇市を取り仕切ることで警察組織の代用をはたしたのである。盗みやかっさらいの横行するアンダーグラウンドの市場には警察力が必要だったが、その警察は闇市を取り締まり、取り締まった戦果を自分の懐に入れることはあっても、飢えた民衆の必要を満たしてくれるわけではなかった。そこで私設の警察組織が、闇市の庇護者として設立されたのである。
どんな商売も市場がある以上は、需要がなければ存立しえない。

遠く農村から列車に乗って闇市に米を売りにきた女性が、乱暴者から商品たる米を奪われたとしよう。警察に届けても面倒をみてくれないどころか、闇米はすべて没収されて、へたをすれば彼女自身も逮捕されてしまうのである。そこで市場を取り仕切る愚連隊の親分にすがって、米を取り戻してもらうことになるのだが、そのついでに少しばかり上納金を差し出すことに何の不思議もない。必要経費ともいうべき、当然の手間賃である。

ときには愚連隊同士の縄張りやイザコザで拳銃を乱射されたり、取り締まりの警察隊との銃撃戦もある異常な時代だったが、日常的なトラブルは彼女がしたように必要経費で処理され、それで食いぶちが満たされれば何の問題もないのである。商売のトラブルが市を成り立たせなくなったのでは、人々は飢えて死ぬしかない。当時の日本人の食料は、そのほとんどが闇市の食料で賄われていたのだから。

こうして闇市を支配していた愚連隊を、やがて伝統的な博徒組織が吸収していく。
実力を持った若い集団が、いろいろと能書きやしきたりなど伝統文化を持つ集団に合流して、本格的に極道の代紋を背負うことになったのである。戦争で国家とともに滅びかけていた博徒集団にしてみれば、これで新しい職域への進出と若々しい血を入れることになった。

◆田岡一雄がつくった戦後ヤクザ

人々の飢えがみたされて闇市が終焉すると、戦後復興の時代である。日本最大の広域暴力団とされる山口組の勢力を飛躍的に拡大したのは、一九五九年に勃発した朝鮮戦争だった。

港に入った船に一番乗りしたグループが積み荷の運搬を請け負うという、荒っぽい沖仲士の荷受け業界に初代のころから参入していた山口組は、斬新な組織論において他の組織の追随を許さなかった。旧来の極道組織の子分が子分をもうけて分立していく組織作りの方法を避け、山口組は表向きは会社組織として分社し、裏組織を一元的に統括した。表向きは近代的な企業でありながら、しかも普通の企業にはできない義理の親子の拘束性がある。この立役者が三代目山口組の袖主田岡一雄だった。

朝鮮戦争の拡大とともに港湾荷役は需要が増大し、規制緩和の機会を得た山口組は二次下請けの立場から一次下請けへの参入に成功する。海運局に掛け合って、下請けの枠組みを取り払わせてしまうのである。さらには、左翼の労働組合に対抗する労働組合を結成し、この力を背景に、彼の組織は左翼のみならず他の業者を圧倒したという。

事故が起これば船会社と交渉するのも山口組の労働組合なら、海運会社の仕事を最大業者として受けるのも山口組傘下の企業という具合に、彼らは神戸港の支配をテコに全国の港湾を掌握していく。

さらに、当時のエネルギー産業の基幹である炭鉱労働者の組織化に着手する。いわば職能組合とか産別労組の全国展開とまるで同じ組織づくりで、高度経済成長をもたらす労働力を支配し、今日の隆盛の礎になる全国組織の最初の骨格を作ったのである。

膨大な労働力(人集め)を必要とする大資本にしてみれば、労働者が左翼に牛耳られて革命騒動を起こされるよりは、山口組のほうがずっといいに決まっている。事実、あとでみるように共産党は朝鮮戦争に乗じて武装闘争の方針で動いていたし、革命前夜のような暴動が各地に生起していた。

それでなくても、沖仲士や炭鉱労働者は普通の社員では扱いにくいし、荒っぽい連中の喧嘩騒ぎや揉め事には困っているのだから、旧財閥系の御大も、ここはひとつ山口さんとこの力でなんとか、ということになったのは想像にかたくない。

組織が拡大していくためには、荒っぽい暴力も必要である。ここでは柳川組という武闘派組織が山口組の組織拡大を牽引したのだった。ちなみに柳川組は在日朝鮮人を主体とする組織で、のちにみる共産党の極左戦術を先頭でになったのが在日朝鮮人たちだったのを考えると、異郷に強制連行された彼らこそが、混乱期にたくましい生き方をしめしたことになるかもしれない。


◎[参考動画]「山口組三代目」(1973年08月11日公開)予告篇

つぎに三代目山口組組長田岡一雄が取り組んだのは、これも有名な話だが力道三のプロレス興行や美空ひばりのステージを取り仕切る芸能興行だった。朝鮮戦争の軍事特需をへて、戦後復興なった日本には、大衆消費社会の波がすぐそこまで来ていた。

隙間産業のような職域が時代の需要になったときに、正業を持たない極道組織が持てる組織力と荒っぽいが面倒な仕事に乗り出すのである。利権と暴力が衣の下から透けて見えるような、あやうい職域を仕切ることができるのは、目先の銭金よりも厳しく統制された組織であり、それを可能とする伝統的な作法と形式の力にほかならない。生き方の中に極道としてのプロフェッショナルの気風が充満していれば、もはや怖いものは何もない。組織に生きることが、彼らの正義であり世の中をみる尺度なのである。

これが通常の会社組織であれば、仕事の成否も労働者の去就も賃金をめぐる一点にしかない。業績がはかばかしくない企業からは、沈みかけた難破船から鼠が逃げ出すがごとく優秀な社員はいなくなってしまうし、有力な企業には有為な人材が集まるのが労働市場の原理である。

ところが極道の社会は利益集団でありながら、そこに擬制の血縁関係をつくり出すことによって成立している。破門か絶縁の処分をされないかぎり、親子の縁は切っても切れない。これが極道組織をプロフェッショナルの集団たらしめる原理である。

親が殺せといえば子は殺人犯になるのが正義であり、親が死ねといえば、まあこればかりはゴメンと逃げ出すかもしれないが、破門や絶縁の処分をされないかぎり子分であることに変わりがない。このようにして保存された親子の縁と義理、兄弟の絆が、戦後の保守政治にマッチしていた。自民党とその政府はヤクザを手の内に取り入れることで、選挙のみならず政争を生きのびることになるのだ。次回は自民党のヤクザへの接近と裏切りを、国家という原理から解説していこう。


◎[参考動画] プロレスリング日本選手権 “昭和の巌流島”(1954年12月22日)

【横山茂彦の不定期連載】
「反社会勢力」という虚構

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ── 横山茂彦さんの天皇制論との差異

わたしの山本太郎氏の評価に続き、横山茂彦さんから天皇制についてのお考えが示された。横山さんは、

《「わたしはその党名を書くことができない」と言う。(2019年12月17日本欄「私の山本太郎観」)なるほど、天皇制および元号を是認する政治観に同調できないというのは、言論人としては清廉潔癖であるかのように感じられる。しかし、清廉潔癖であることはオピニオンとはおよそ別ものであろう》

と、わたしの反射に近い反応を評されている。

 
『NO NUKES voice』Vol.22 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

わたしは、自分のいい加減さは自覚したうえで、横山さんがおっしゃっていることはその通りであろうか、と必ずしも同意はできない。あのとき「清廉潔白であろう」などと大げさに腹を決めて、「その党名を書くことができない」と表明したのではない。左派(横山さんの山本太郎氏評によれば)が何かを主張するのであれば、あの党名はあまりにも不適切すぎるのではないか、との疑問(なかば怒り)から、包み隠さずに気持ちを表明したまでである。そして、

《清廉潔白であることはオピニオンとはおおよそ別のものであろう》

との横山さんのご意見には、首肯できない。わたしは「清廉潔白」をもって自分の見解の正当性を訴求したのではない。塵のようなものであっても、意見は意見である。私見を表明することはそれで完結だ。わたしは、誰かに同調を求めたり、運動や行動の路線を領導しようとする意思など(当たり前すぎるが)持ち合わせていない。それは、わたしが本通信に掲載して頂いた、ほかの文章をお読みいただいてもお分かりいただけると思う。

《天皇制および元号を是認する政治観に同調できない》のが、わたしの意見(オピニオン)である。わたしの脊髄反射ともいうべき意見表明をとらえて、《清廉潔白であることは、オピニオンとはおよそ別ものであろう》と横山さんはご指摘なさるが、これには納得できない。だれがなにを考え発表しようがそれは個人の責任と自由に帰すことではないのだろうか。しかもわたしは脊髄反射のようにこの感覚を表明したけれども、けっして、わたしの人生史や、肉体史から離反した思いつきではない。表層的な「思想」といったものではなく、わたしにとっては、自分の経験も含め「体にうえつけられた」体験、いわば身体を伴った反応である。

横山さんは天皇制を擁護する立場ではなく、ご自身も「反天皇制デモ」に参加されたことがあるようだ。その上で、

《山本太郎や白井聡らに対して、天皇制を容認するのかという批判は、論者たちの「天皇制廃絶」を前提にしている。そうであれば、天皇制廃絶論者は天皇制を廃止するロードマップを提起しなければならない。天皇と元号について議論する、国民的な議論を経ない天皇制廃絶(憲法第一条改正)はありえないとわたしは思うが、そうではない道すじが果たしてあるのだろうか?》

と、ひとむかしまえの田原総一朗が、小選挙区制や自衛隊の海外派兵について「朝まで生テレビ」で野党議員に「対案を示せ!」と迫った光景を思い出させるような発問をされた。わたしの回答はこうだ。

「現在日本で天皇制を合法的に廃止するには改憲によるしかない。しかし、国民世論の大半が天皇制に融和的であるのことを鑑みると、改憲による天皇制廃止は事実上不可能だ」

こういうと、あっさり白旗を挙げたかのように誤解されるかもしれないが、そうではない。まず天皇制は憲法上(あるいは社会制度上)法的な位置づけを持ったものであるのはご承知の通りだ。そして(しかし)、天皇制は法律から離れてもこの島国の住民の内面にかなり深くべったりとしみついている「理由なき精神性」を孕むものでもある。仮に憲法における規定が変更あるいは削除されようとも、このメンタリティーには大きな変化は生じないのではないか、というのがわたしの推測だ。

横山さんが疑問を投げかけるように、法的な正攻法では「国民的な議論」は必須である。その後に改憲を行うしか天皇制の法制度的変化は起こしえない。しかし、天皇制についての議論を行うことができる知的・情報的前提条件をわれわれは持ちえているだろうか。天皇制のような大きな問題をでなくともよい。もっと卑近で小さな諸課題にさえ、義務教育はもちろん、識者も、マスコミも正確な情報や史実を国民に伝えていないではないか。少し歴史を紐解けば、大マスコミが「まとも」であったためしなど、この国の歴史にはほぼ皆無だと、わたしは睨んでいる(あったとすれば記者やデスクの個的な勇気による産物だ)。それどころか、大マスコミの社長や幹部が「定期的に首相と食事をする」。これが直視すべき今日、日本の現実である。だからこそ「反天皇制デモ」は、主張が真っ当であるかどうかにかかわらず「国民的な議論のステージ」を作り出せていない、とわたしは感じる。

想像してほしい。仮に敗戦記念日や原爆投下の日、太平洋戦争開戦の日などに、当時の出来事(なかんずく天皇がどのような判断を示し、それにより軍部や国民がどのように行動したのか)が正確・詳細に伝えられるような状況であれば、可能な議論の範囲はかなり違うだろう。横山さんにもご記憶があろうと思うが、わたしたちが学生であったころ、さして社会問題に深い関心のない学生とのあいだにだって、「天皇制の是非」の議論は可能であった(蛇足ながら80年代中盤であっても「天皇制擁護派」は圧倒的に少数だった)。それは、直接ではないものの、ヒロヒトが導いた第二次大戦を経験した世代(親及び祖父母)からの、伝聞が経験としてあったからではないだろうか(わたしの場合広島での被爆2世という出自が、それを増幅させているのかもしれないが)。

教育と、報道、あるいは娯楽を徹底的に利用して「天皇制への恭順」は日々増強されている。天皇制に限らす社会的な問題の軽重を測定するバランスをとうのむかしに失った、情報産業が流布する天皇制への無批判な賞賛はもう飽和状態の域に達している。

頭の中が無垢でまじめな若者が、そのあたりの書店に入ってまず目に入るのはどのような書籍だろうか。読む価値のある社会学や哲学の古典に行き着くのは容易ではない。仮にそのような書籍を目指すのであれば、山済みのハウツー本と、嫌韓本の山を越えなければならない。そもそも大学生の半数が月に1冊の読書もしない時代にあって、与党が安心しきったから投票年齢の18歳への引き下げが、在野から強い要請もなかったにもかかわらず、実行されたのはなぜなのか。これらの事象は、いっけん天皇制と無関係に見えるかもしれないが、そうではないだろう。

つまり、時代は既に「ファシズム」の真っただ中である、というのがわたしの基本認識だ。思想的にはぺんぺん草も生えないような、のっぱらが、現代であると、しっかり「絶望」することからはじめるほかあるまい(「絶望」は必ずしも最終的な諦念を示すものではない「闇を直視せよ」という比喩である)。

戦前・戦中のように「神」とたてまつるわけではなく、敷居をずっと下げて、北野武やジャニーズのタレントやスポーツ選手を多用しながら(つまりそのファンも巻き込む効果を利用して)天皇の代替わり儀式が行われたプログラムは、過去の天皇制よりも、外見は一見ソフトなようであるが、じつは、より強固に「反論を封じる巧妙さ」も兼ねそろえた。そんな状況の中で「国民的な議論」を喚起することなどが、どうしたら可能だと横山さんはお考えなのだろうか。

《わたしはこの欄でもっぱら、皇室および天皇制の民主化・自由化によって政治と皇室の結びつき(天皇制)はかならず矛盾をきたし、崩壊する(政治と分離される)としてきた。たとえば、自由恋愛のために王冠を捨てた英国王・エドワード8世、今回、高位王室から自由の身を希望したヘンリー王子とメーガン妃による、王室自由化。日本では「紀元節」に反対して赤い宮様と呼ばれた三笠宮崇仁親王、あるいは皇室離脱を希望した三笠宮寬仁親王らの行動。そして現在進行形では眞子内親王と小室圭さんの恋愛が、その現実性を教えてくれる。矛盾をきたした文化としての天皇および皇室はやがて、京都において逼塞する(禁裏となる)のが正しいあり方だと思う。皇室を好きだとか、天皇が居てほしいというアイドル感情(これは当代だけではなく、歴代の天皇および宗教的タレントがそうであったように)を強制的に好き嫌いを否定することはできないのだから、強制的に皇室崇拝を廃絶することも困難だろう。40年以上も天皇制反対(かつては廃止)を唱えてきた、これはわたしの実感である》

横山さんは実例をあげて「希望」を示してくださる。わたしは全面的に反対ではない。日本の皇室においてもスキャンダル報道が許容される幅は、広がっているのだろう。だが、先輩に対して失礼千万ながら、わたしの正直な感想を述べさせていただければ、

「横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ」

である。

天皇制を語る際に英国王室が引き合いに出されることが頻繁にある。英国だけではなく「欧州にはいまだに貴族がいるではないか」という意見も聞く。だが、彼らの決定的なあやまちは、英国王室の長(おさ)は「王」(King)であり、天皇は憲法上の規定がどうあれ「神」(God)の側面を持つ皇帝(Emperor)であることだ。このアルカーナ(秘密・奥義)については、歴代の首相や大臣がしばしばその本音を発言し問題化してきた。つい先日も麻生太郎が「二千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」と本音を語った。麻生のいう「王朝」は天皇制にほかならず、天皇制は「神」と「皇帝」の性質を併せ持つ。そんなことは日本国憲法のどこにも書かれていないし、皇室典範をはじめ、すべての法律をひっくり返しても記述はない。つまり天皇制は憲法における定義とは他に、「神話」根拠にした「寓話」の性質を有しているのである。しかし「寓話」が不文律あるいは強制として「国是」とされている実態は無視はできない。まずその事実にすら気がつかない、あるいは知らないひとびとに「知らせる」ところからはじめるほか、手立てはない。

横山さんのいう、

《ついでに、天皇制があるから差別があるという、一見して当為を得ているかのような議論で、禁裏と被差別民の関係をじゅうぶんに論証しているものは、管見のかぎり存在しない》

は、天皇制と(象徴的には)被差別部落の関係を念頭におかれた論ではないかと思う。

わたしの主張はそうではない。単純に「生まれたときから『様』と呼ばれる人間がいる社会では、その逆の人が存在せざるを得ないのではないか」という極めて単純なことだ。身内で勝手に「様」と呼び合うのならいいだろう。けれども、権力により敬称を強制される人間が生まれる制度が、前近代的であるとわたしは批判しているのだ。『様』のほかには『様』と呼ばれない無数の人がいるであろう(このことだけでも充分に差別的である)。だからよその国の話ではあるが、中華人民共和国の侵略に対する、チベット民族抵抗の象徴として、以前は条件付きで留保していた、チベットにおけるダライ・ラマを筆頭とする「活仏」制度に対しても、わたしは容赦なく批判を加えるようになった(もっとも20年前以上から現在のダライ・ラマ本人は私的な会話で「活仏は私で終わりだ」と繰り返し述べていたけれども)。

もちろん、「好きな人が好き」というアイドル現象にくちばしを突っ込むつもりなどない。横山さんが構想するように、皇室が京都に帰って生活するもよし、廃絶されるもよしである。

しかし、最後にもう一度強調したい。こと天皇制に限っては、

「横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ」と。

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▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

人質司法を自己暴露する法務省 ── 国際的な批判をうけて、泥縄の抗弁

カルロス・ゴーン氏の「逃亡」事件および、同氏による「日本の司法制度は人質司法」という批判をうけて、法務省がHPに「言い訳」のような見解を発表した
「我が国の刑事司法について,国内外からの様々なご指摘やご疑問にお答えします。http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/20200120QandA.html」がそれである。

法務省HP「我が国の刑事司法について,国内外からの様々なご指摘やご疑問にお答えします」

ゴーン氏の記者会見がもっぱら、日本政府と日産関係者の陰謀よりも、日本の非人道的な人質司法に向けられたことから、国民と国際世論に訴えるかたちで公表されたものだ。

しかしその内容は、みずから基本的人権を欠いた「人質司法」であることを暴露するものになっている。具体的にみてゆこう。

Q3 日本の刑事司法は,「人質司法」ではないですか。
A3 日本の刑事司法制度は,身柄拘束によって自白を強要するものとはなっておらず,「人質司法」との批判は当たりません。

すべての場合を網羅したデータはないので、わたし個人の場合を挙げておこう。本欄でも連載した「40年目の三里塚開港阻止闘争」で明らかにしたとおり、わたしは三里塚闘争で逮捕され、1年間の未決拘留を受けている。1年間というのは、訴状と求釈明および冒頭意見陳述が終わり、公判が軌道に乗ったということをもって、保釈が許可されたからである。その間、2度の保釈許可と検察抗告による却下があった。

しかしながら、取り調べで自白した被告(同一犯罪)は、同じ罪名でありながら二か月ほどで保釈が許可になっている。つまり、自白をしないかぎり裁判が軌道に乗るまで保釈はしない、ということをこの事実は意味しているのだ。これが「人質司法」の実態である。一般に公安事件ではこの基準が現在も維持されている。ではなぜ、判決によらない刑罰とも言うべき1年間もの拘置が不法に行なわれるのか?

Q4 日本では,長期の身柄拘束が行われているのではないですか。
A4 日本では,どれだけ複雑・重大な事案で,多くの捜査を要する場合でも,一つの事件において,逮捕後,起訴・不起訴の判断までの身柄拘束期間は,最長でも23日間に制限されています。
 起訴された被告人の勾留についても,裁判所(裁判官)が証拠隠滅のおそれや逃亡のおそれがあると認めた場合に限って認められ,裁判所(裁判官)の判断で,証拠隠滅のおそれがある場合などの除外事由に当たると認められない限り,保釈が許可される仕組みとなっています。

要するに、自白をしていないから「証拠隠滅のおそれがある」というのだ。それならば、冒頭手続きが終わって保釈したあとは、証拠隠滅をしないと言えるのだろうか? 捜査が終了したあと、単に書面の準備が整わないから1年もの期間拘置をつづけているのだろうか? 

そうではない。刑の先取りを行なうことで、長期の拘留に耐えられなくなった被告が「謝罪」「自白」あるいはその政治的な成果である「転向」することを強いているのである。そのいっぽうで、被告は裁判のための準備を十分に行なえない。被告の身体を拘束することで弁護権を奪い、裁判を検察側の有利に運ぶ、これを「人質司法」と言わずして何というのだろうか。

Q8 拘置所での生活環境はどのようなものですか。
A8 拘置所においては,被収容者の人権を尊重するため,居室の整備,食事の支給,医療,入浴などを適切に行っています。
 入浴については,被収容者の健康を保持し,施設の衛生の保持を図る観点から,1週間に2回以上実施しています。夏季などには,必要に応じて回数を増加させています。

1週間に2回の入浴を多いと感じるか、それとも少ないと感じるかは個人的な差があるかもしれないが、わたしは少ないと思う。夏場ならシャワーは毎日朝夕浴びるし、冬場は隔日入浴(週3~4日、しかも1日複数回)がふつうの生活だと思う。

拘置所といえば東京拘置所がよくマスコミに登場するが、全国に111カ所ある。そのうち、刑務所の管轄が99、独立した拘置所は6カ所である。未決拘置者の生活は、懲役労働がないだけで、房内処遇はほぼ禁固囚と同じなのだ。戦後に一部が改正されたとはいえ、その基本骨格は明治41年制定の監獄法である。けっして「証拠隠滅」の恐れがあるから、ちょっと留め置くよ。みたいなものではないのだ。

所内生活は命令と服従、点呼時には房内で正座して「〇〇です!」と答えさせられる。24時間房内に閉じ込められているのだから、懲役囚よりも処遇は厳しいといえよう。房を出られるのは1日15分の運動時間(運動場も独房)と面会時間、入浴の時だけである。歩くときは刑務官が「進め」「止まれ」と、命令して先導する。かように窮屈な処遇というのも、明治監獄法がそのまま生きているからだ。

刑務官に「〇〇しろ!」と命じられ、従わないなら「懲罰房」に入れられる処遇のどこに「被収容者の人権を尊重する」ものがあるというのだろうか。拘置所とは刑務所なのである。ゴーン氏ならずとも、まだ判決を受けていないのに、不当な刑罰を受けている。と感じるのは当たり前だろう。

だから、テレビのワイドショーでゴーン氏の逃亡を「悔しいですね。日本の司法がバカにされて」とかのたまわっている識者は、一度でいいから拘置されてみるといい。判決もないところで刑罰を受ける不思議に、きっと脱獄を考えたくなることだろう。

もうひとつ日本の司法の前近代性をあらわしたものに、ゴーン氏の身柄を取り戻せないことがある。ゴーン氏の身柄をレバノンが引き渡さない理由は、じつは日本に死刑制度があるからなのだ。日本が被疑者身柄引渡し条約を韓国とアメリカの2国しか結んでいない不思議を「島国だから、その必要がない」とか何とかいい加減なことを言っている論者もいるが、そうではない。

いまだに死刑制度がある前近代的な日本の司法制度に驚嘆し、日本で法を犯した自国の被疑者を引き渡さない。当然の人権感覚があるから、死刑存置国(アメリカ=過半数の州で廃止、韓国=事実上の死刑判決回避)しか相手にしてもらえないのだ。この点については、死刑廃止運動の動向とあわせて稿を改めたい。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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「被ばくしたくない」と避難した事実そのもの、そのしんどさをわかってほしい ── 福島原発事故避難者に聞く〈4〉槇奈緒美さん

槇奈緒美さんは、福島県富岡町で被災した。避難所を転々とする日々が続くなか、「1号機爆発」も「被ばく」も気にはなったが、難病を抱える身でもあり、毎日生きていくことに精一杯だった。「避難した事実そのもの、そのしんどさを分かち合えればと考えている」。以下に記した話の何倍もの話を、奈緒美さんに聞いた。原発事故からまもなく9年経つというのに、その重みは変わらない。

2019年3月尾崎撮影

◆不安を抱えながら引っ越した富岡町で被災した

中学にはいってまもなく母親を失った奈緒美さんは、妹と父親の3人で、父親の実家のある福島県富岡町に引っ越した。1986年、チェルノブイリの原発事故が起きた年だ。幼いころ読んだ「はだしのゲン」も思い出され、なんとなく「原発の町に住むのは嫌だな」と思ったという。友達のお母さんが、大熊町にある研究所に勤めていたが、原発作業員らの染色体を調べたら異常があるとか、作業服を洗濯する人も被ばくしているなどの話を聞いた。一方で、卒業後、東電に就職する同級生も多いうえ、親戚の飲食店も東電の社員が客なので、「原発怖い」と素直に言えない雰囲気があった。

京都の大学に入学した奈緒美さんは、卒業後も京都に住み続け、発掘の手伝いなどをしていたが、ストレスが重なり、32歳の時、全身に痛みやこわばりがでる「線維筋痛症」にかかった。妹のいる東京に移り住んだが、1年後の33歳の時には精神の病にかかり、東京の精神病院に8ケ月入院、その後は精神科医の勧めもあり、福島県いわき市の病院へ転院した。

2008年、夏頃退院し実家で療養生活を始める。父との二人暮らしだが、体の痛みで動けない時期が続いた。思春期におきた突然の母親の死が受け止めきれず、33年~35年分の疲れがどっとでた感じだった。そんななか、2010年秋からハローワークに通い出し、2011年事故の1週間前には障害者の就職相談会に参加するなど前向きな気持ちになっていた。

◆「被ばく」も怖かったが、毎日生きるのに精いっぱいだった

そんな矢先に事故が起きた。奈緒美さんは父と二人で富岡町の多目的ホールに避難した。持ち出せたのは毛布2、3枚と通帳、下着程度。配給はペットボトルl本とパン1個。寝られずに迎えた翌朝、避難範囲が3キロから10キロに広がり、移動することになった。7時半車で出発、24キロ先の川内村に移動したが、満杯で入れず、渋滞の中のろのろ運転で田村郡の船引の廃校の小学校に到着したのが15時半頃。その直後、1号機が爆発したと友達からメールで知らされた。支援物資は少なく、食事は1リットルの水と塩気のない小さなおにぎり。昼間、渋滞の道の反対車線から茨城交通のバスがいっぱい走っていたことを思い出す。あとで知ったが、それは大熊町が避難のために手配したバスだった。車のラジオで、しきりに「水位が下がった」などと言っていたことも思いされた。怖かったものの、現実はそれどころではなかった。毛布も不足しているし、食事も毎日甘い菓子パンが続く。味噌汁も小さなプリンのカップのような容器に二口だけ……。

配給の少ない避難所からは、被災者はどんどん別の避難所に移動していく。事故のことも気になるが、避難所暮らしのことで頭はいっぱいだった。

その後、父の親せきが避難する会津若松の高校に移動。そこは比較的支援物資は多いものの、寒い上に持病のある奈緒美さんは、目を開けているのも辛かったという。原発も気になるが、当時は1日1日を生きることに必死だった。あるとき薬局で、特殊な奈緒美さんの薬が、入手できなくなるかもといわれたこともあり、ひとりで避難することを、父や親せきに訴え、説得させた。将来子どもを産むかもしれないから、被ばくしたくないとの思いだった。

特定復興再生拠点の先行解除について(広報とみおかより)

3月23日、友達のいる東京にバスで逃げ、その後は千葉の友達の家、親戚の家などを転々とした。

「福島にいていたらなかなか情報がわからないが、福島を出ると、本質的に何か大変と共有できる人が大勢いるから、それは良かったと思う」と当時を振り返る。

◆家族と別れ、たった一人で関西へ避難

その後、父から「家族単位で避難しなくてはならないから」と連絡があり、仕方なく栃木県日光市に移動。富岡町と災害協定を結んでいた品川区の保養所が、駅から車で10数分の山の中にあった。精神科医のボランテイアに相談し、個室を与えられた奈緒美さんは、観光シーズンの始まる8月末までそこに居た。その精神科医が、父親を説得してくれ、奈緒美さんは再び一人で関西へ避難することとなった。単身で住める宝塚の借り上げ住宅に入り、家電6点セットや掃除機、こたつなどを支援者に用意してもらった。とても助かると思った。初めての町で、近所に避難者もいなかった。その後、宝塚の「避難者のカフェ」などに行ったが、立場が様々なので、人とつながるのに時間がかかったという。

2012年、関西で瓦礫焼却の問題が起きた際には、勉強会で知り合った方と一緒に署名活動などをした。リハビリにも通い、のろのろ運転で試行錯誤しながら、日常生活を取り戻してきた。2013年から吹田にある「モモの家」で避難者カフェのスタッフに加わり、今も継続中。

自家消費野菜等放射能測定結果(測定月=H30年8月~11月)

◆「ひょうご原発訴訟」の原告となる

事故当時、就労活動の準備中だった奈緒美さんの賠償金は少なかった。東電は、フォーマットにあてはまる問題から少しでも外れていたらはじいてくる。「ハローワークに何回いった」「面接に何回いった」。「99・9%の確実で就職する予定だった」と確認されないと、就労保障は無理とわかった。そのADRの担当だった弁護士に勧められ、奈緒美さんは、2014年3月「ひょうご原発訴訟」の原告となった。

「いろんな避難者に接していると、自分の内面を癒したい気持ちと、裁判などで社会問題として解決したと思う人たちと、うまく交わってという部分もあるが、両極に分かれることもあると感じている。私はそれよりも避難した事実そのもの、そのしんどさを分かちあえればと考えています。表現スタイルは人それぞれだが、ちょっと大局的にものごとを見ていきたいとは思います」と奈緒美さんは語る。

「ひょうご訴訟」の原告は、現在97人。これから本人尋問が始まる。一昨年、裁判長が変わった際、奈緒美さんが行った意見陳述の一部を紹介する。

「事故前は病気に理解ある叔母や叔父に助けられていた。また私の複雑な生い立ちを理解してくれる友人、もしくは東京などに住む同郷の友人が帰省したら会うことができた。周囲の人々に有形無形で助けられていた。自分自身が不安定でも、自然に恵まれた、安定した環境でゆっくり自分の病気に向き合うことができた。庭では亡き祖父が大切にしていた梅の木に癒され、父は山でワラビやゼンマイを取り、叔母は川沿いで拾ったクルミを使った料理でもてなしてくれた。避難後はヘルパーさんや訪問介護を利用して、なんとか日常生活を送っている。就労はしているものの、事故前より、不安を感じやすくなっている」。

奈緒美さんは、以前読んだ詩集で、広島の「原爆自閉症」という言葉を知ったという。被爆の苦しみを言えずに自閉症みたいになり、いっそのこと、ほかの土地にもピカが落ちればと思ってしまうという症状だ。そして「そうやって、問題が内に籠り、はけ口が見いだせなくなることが怖いと思ってしまいました」と話す。意見陳述の最後を奈緒美さんはこう締めくくった。

「私はただ原発事故によって、放射能が拡散された事実を、ありのままに受け止めて、避難の選択をし、それが続けられる権利を求めたい」。

工事中の駅(2019年3月尾崎撮影)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。最新刊の『NO NUKES voice』22号では高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」を寄稿

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「反社会勢力」という虚構〈8〉縄張り ── 警察がヤクザから奪った様々な利権

◆江戸時代のヤクザは警察だった

「反社会勢力は定義されていない」と、このかん「桜を見る会」への「反社」の出席について政府高官が広言した。なるほどそうかも知れない。暴対法や暴力団排除条例(自治体条例)が法的に精査されず、何となく雰囲気でまかり通った法律であるのだから……。

それでは、かりに「反社会勢力」と言われるヤクザとは、そもそも歴史的にどんな存在だったのだろうか。一般には博徒というのが、かれらの出自である。その原型は江戸時代にさかのぼる。任侠道の成立は、江戸期の郷村(惣村)に発する。

かれらは博打だけを生業にしていたわけではない。郷村にかかわる自主検断、つまり自治的な警察組織の役割を受け持つことで、賭場を開く権利を得ていたのである。江戸時代のヤクザは警察だったのだ。

警察組織とはいっても、戦後の公務員的なそれとは違って、郷村の惣や寄り合いとは別個の役割をはたす非政治的で、かつ乱暴な暴力装置。つまり用心棒のようなものを想像すればよいだろう。

彼らは渡世人や旅芸人、渡り職人などをはじめとして、非生産的な人々や社会の流動層を取り締まる独自の様式を抱えるがゆえに、戦後の官僚的な警察組織が持つ、時の権力に媚びへつらうような側面は皆無で、むしろ反権力的ですらあった。

◆敗残兵、浪人者……帰農しなかった人々

郷村の検断として流民層を取り締まり、彼らの独自の生活様式をふところに取り込むには、彼ら博徒にしか出来ない固有の文化が存在していたと考えられるのだ。縄張りを保持するには、公権力を笠に着た強権よりもその道のしきたりに従った采配が必要である。博徒が反権力的になる所以は、この公権力から離れた独自性の所以であろう。

彼らの前身をたどると、戦国期の土着的な戦闘集団や、もっと昔なら中世の流民層が源であろうと思われる。もともと戦国時代には、郷村のはぐれ者や血気盛んな若者たちが傭兵としての戦闘集団を形成していた。中には武士団に編成されない自立自尊の土郷たちも多かったが、領地の切り取り戦争が進むにつれて、大規模な武士団の傘下に入るようになるのだ。中世の流民層には、忍びの術をもっぱらとする戦闘や、金山掘りなどの特殊な技術を手の職として各地を渡り歩く集団もあった。だがこれらも、戦国時代の末期には有力な大名の傘下におさまっていくことになる。
めでたく戦国を勝ち残ったり、仕官の道を得たのが江戸の武士階級だとすれば、敗残兵としての浪人者もふくめて、江戸期の博徒は帰農しなかった人々であったり、農業を嫌って親元を離れた者もあり、武士階級の裏側ともいうべき存在である。その生活様式は、時代の主要な生産階層とは離れて、先に述べたような独自の文化を形成することになる。ヤクザ文化、任侠道の成立である。それでは、任挟道とは具体的にどんなものなのか?

◆渡世の修行

ある村に、親から勘当された若者がいたとしよう。

彼が村の若衆組の仲間とともに遊びまわり、畑仕事もほったらかして放蕩のかぎりを尽くしていたとする。若衆組とは現在の青年団のような意味だが、チーマーみたいに繁華街(宿場町)まで出かけては、カツ上げをして喧嘩をくり返す。押入れの奥に秘匿していた布ぎれや蓄え米を持ち出しては、質に入れるなどの自堕落かつ放縦の日々。これではどうにもならないと、ついに口減らしをもくろむ親から勘当され、当てもなくほうぼうをうろつくうちに土地の親分に厄介になる、という顛末である。

最初は使いっぱしりしかさせてもらえないが、喧嘩の腕や度胸がいいようだと、派手な出入りにも参加するようになって、いよいよ親分と杯をかわすことになる。親子の杯が無事にすめば、晴れて子分ということになるわけだ。つぎに、武士ならば武者修行ともいうべき股旅に出ることになる。

親分の人脈で諸国の組織をめぐり、一宿一飯の義理をはたしながら渡世人としての度胸と礼儀作法を磨いていくのである。礼儀作法を磨くというのは簡単に思えるが、仁義のきり方を間違っただけで殺されることもあったというから、渡世のしきたりは生易しいものではない。おのが力で一家を成し、名を成す修行ののちに、世の賞賛を得るほどの大親分となるのだ。以下、江戸期いらいのヤクザの親分衆である。いずれも代が途絶え、「清水一家」や「会津小鉄」などの名称だけが、勝手に継承されている。

幡随院長兵衛
中間部屋頭三之助
国定忠次
大前田英五郎
勢力富五郎
清水次郎長
会津小鉄
加島屋長次郎
新門辰五郎

◆生業としての〈縄張り〉

いっぽう、賭場を開かないヤクザもいる。彼らはテキヤと称される人々で、村の神事や祭りを主催しては、そこに集まる商売の上前をはねる、というよりも商売人たちを庇護し、いらぬ揉め事から村を守るという役割を受け持つのである。これは現在のテキヤと、まったく変わりがない。もとより、テキヤも博徒も、縄張りの支配を生業としている。

現在でも暴力団として批判されるヤクザを擁護し、その必要悪を論じる方法がある。その多くは社会から落ちこぼれた人間が個人的な犯罪に走るよりも、統制された組織の中に取り込んだほうがよろしいのではないか、という立論である。

言うところは少なからず当たっている。繁華街から彼らがまったく消えてしまったら、屋台や行商の人たちの縄張りはとんでもないことになるはずだ。屋台や行商をすべて規制してしまえば、街は活力をうしなう。堅気衆にとっては思いもかけない彼らの経済的な役割りをみのがしてしまえば、ヤクザの存在の根拠は解明できないのである。

つまり縄張りとは、一種の業界参入の規制である。誰でも勝手に大道に店を出せるということになれば、主催団体が統制をきかせない休日のフリーマーケットのようなことになって、警察官がいくらいても足りないであろう。社会的に解決困難な部分を請け負い、取り仕切る役割がつねに存在しているのだとすれば、極道も必要悪どころか職業的には明瞭な生産性を負っていることになる。しかも、チンピラや暴走族などとは違って、堅気衆には迷惑はかけないという厳格な統制力のある組織であれば、社会的には有用な存在ですらありうる。だからこそ、同じ社会的役割をになう警察組織に「反社会勢力」として排除されるのだ。したがって「反社会勢力」なる規定は、社会を警備する勢力による縄張り争いということになるのだ。パチンコ利権、街の警護を下請けする警備会社、企業の警護を請け負う。これらこそ、警察がヤクザから奪った利権であり、縄張りなのだ。

【横山茂彦の不定期連載】
「反社会勢力」という虚構

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』