◆「人事を尽くして天命を待つ」

リンチの被害者M君は、リンチの現場に居てリンチに加担した李信恵氏の不起訴処分に対して、大阪第四検察審査会に7月20日の不起訴不当の申立てに続いて、8月20日「申立て理由書」と、証拠を提出した。鹿砦社・松岡も力の入った「意見書」を提出した。今後検察審査会から追加資料の要請があるやもしれぬが、これでM君としては「人事を尽くして天命を待つ」状態にひとまず至った。

検察審査会への申立ては、当初から視野に入ってはいたが、対野間裁判、対5人裁判の進行状況を見極めながら、最終的にこのタイミングとなった。李信恵氏は大阪地裁の尋問で、みずからが「M君に掴みかかろうとした。誰かが止めてくれると思った」などと証言している。その他加害者サイドから「李信恵さんが1発殴った」ことを発信する証拠はあまた存在する。ここではどのような証拠が提出されたのか明かすことはできないが、M君は全力で準備にあたった。

検察審査会で審議にあたるのは、一般市民だ。裁判官は自らの出世を考え、最高裁の顔色ばかり窺い、市民感覚と著しく乖離した判断をすることが少なくないから、一般市民の感覚にこそむしろ期待が持てるかもしれない。

◆M君に対する救済なくして「人権」も「反差別」も空語

ところで、少なくはなったが、相変わらず勘違いしておられる方がおられるようである。われわれ、そして鹿砦社は原則的に「あらゆる差別」に反対し真に人権を守ろうとするが故に、M君の支援に踏み込んでいるのだ。「あらゆる差別」を根絶し人権を守ることは大変に困難だろう。人間という生物の複雑さ、質の悪さを考えるとき、「差別根絶」は途方もない大命題に違いない。だからといって問題に直面することから逃げてしまっては歴史が前には進まないし、人類の進歩もない。時に「どうしてそこまでこの事件にこだわるのか?」との質問を、鹿砦社や取材班、支援会は受けることがあるが、回答は「差別問題から逃げずに直面しているから」「真に人権を守りたいから」である。

生身の人間の尊厳を暴力で毀損するリンチが許せないことは言うまでもない。人ひとりの人権を守れなくて、やれ「人権だ」、やれ「差別に反対だ」と言っても空語だ。身近にM君というリンチの被害者が居て、彼に対する救済なくして「人権」も「反差別」もない。このリンチ事件に対する態度こそ、あなた自身の「人権」や「反差別」についてのスタンスそのものだ。

『週刊金曜日』8月24日号掲載の鹿砦社書籍広告

◆差別は人間の尊厳と深くかかわり、人間の尊厳を踏みにじるものが暴力である

M君が集団暴行を受けたのは暴行・傷害事件である。しかしその事件に至る道筋には明確に「差別問題」が横たわっており、それがなければ「M君リンチ事件」は発生しなかった。「差別問題」とかかわるとはどのようなことなのか?「差別」とは本質的に何なのか? 差別―被差別の関係性は絶対的なものなのか? 差別を法で定めることはできるけれども、法により差別を低減、もしくは根絶することはできるのか? 宗教により異なる価値観と差別の問題は…?

少し考察するだけでも、差別問題は可視的、短視眼的、または時流に乗ったテーマだけではない。むしろ深く人間の根本に根差す、哲学とも無縁ではないといっても過言でもない深淵な問題であることに、賢明な読者であれば思い至るだろう。

そして差別問題については世界に、日本に歴史的な蓄積がある。われわれは目の前で乱暴狼藉を叫ぶ徒党を目にしたとき、まずはこれまでの「反差別運動」の蓄積(成功体験・失敗体験)を振り返り、学ぶところから出発すべきではないか、と考える。少し差別について勉強してみると、差別は人間の尊厳と深くかかわった問題であることに行き当たる。

そして人間の尊厳を究極的に踏みにじるものが「暴力」であり、その究極が「戦争」であることが理解される(その延長線上に「死刑」を想定することもできよう)。そうであれば、あらゆる「反差別運動」と運動内の「暴力」は、絶対的に相容れない。

「反差別運動内」で暴力が行使された瞬間、それは「反差別運動」ではなくなる(念のため付言するがここでの「暴力」は、権力者が権力を持たない人間に振るう、あるいは同等の力関係のものが仲間に振るう「暴力」を指す。力関係が弱いものが、防衛的に実力行使することを「暴力」とは想定しない)。

◆「M君リンチ事件」を無きものにしてでも「ヘイトスピーチ対策法」成立に夢中であった師岡康子弁護士

そのように考えるとき、今日の「反差別」と自称する運動の中には、首を傾げざるをいないような人びとが散見される。「ヘイトスピーチ対策法」なる言論弾圧法案を進んで成立させた人びともまた、人間の尊厳や、権力の本質がいかなるものであるかを深く考察したとは、到底考えられない。

国家に言論内容についての嘴を突っ込む(今のところは「ヘイトスピーチ対策法」は理念法であるが、やがて拡大解釈されるだろう)口実を与えるなど、市民の側からは決してなされてはならない、言論の自殺行為に匹敵する行為であると、言論の末席を濁すわれわれ、鹿砦社、取材班、支援会は深く危惧している。

そしてその危惧は、不幸なことにおそらく外れてはいまい。その最たる証左は、「ヘイトスピーチ対策法」成立に深くかかわった、師岡康子弁護士が「M君リンチ事件」を無きものにしてでも(それだけではなく被害者M君を、あろうことか加害者に置き換えてまで!!)同法の成立に夢中であった事実が示している。

そこには法律家以前に、人間として最低限の知識も良識も見識もない。あるのは自己の目的達成のために、ひたすら〝障害物〟となる可能性がある「M君リンチ事件」を専門知識で闇に葬ろうとする、どす黒い私欲だけだ(師岡康子弁護士については近日中にあらためて詳述する)。

われわれは、私利私欲にもとづいて〝自己達成〟の手段として「差別」問題にかかわるものを、一切信用しない。むしろ最大限の軽蔑で、本質的な差別問題の敵であると断じる。われわれがM君を支援し、差別問題に向き合う基本的姿勢は上記したとおりである。

(鹿砦社特別取材班)

『真実と暴力の隠蔽』 定価800円(税込)

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鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

けっして仲良しではないが、気になる相手というものがいるものだ。遊び仲間ではないけれども、いつも気になって仕方がないから、何かと内輪で話題にしてみる。そんな経験はないだろうか。鹿砦社および「紙の爆弾」とは距離を置いているけれども、どうも気になって仕方がない。そんなネット雀さんたちの面白いツィートがあった。どうやら、鹿砦社をイジっているらしい(苦笑)。

 

その内容は、旧流対協系の出版社80数社の代表が連名で発信した、杉田水脈のLGBT差別への抗議声明に、鹿砦社松岡利康の名前が入っていないではないか。という「疑問」から、鹿砦社が日本雑誌協会に入っていないことを探り当て、さらにはABC協会および雑誌広告協会にも入っていない。ゆえに「紙の爆弾」は雑誌ではないのではないか(笑)、というものだ。

べつにこのツィートをフェイクだとか、ネガティブキャンペーンだとか言うつもりはない。出版雑誌業界の知識がないゆえに、勝手に思い込むのも無理はないであろう。とはいえ、ブログにしろツイッターにしろ、全世界に発信しているのだ。ちょっと検索すれば「鹿砦社」「紙の爆弾」「雑誌ではない」というキーワードで拡散される怖れがある。どんな些細な情報でも、ネット上の情報源になりうるのだ。

つまりネット上の誤情報として、全世界にフェイクとして流布されることに想像力を働かせなければならない。無責任なフェイクニュースが飛び交う中、SNSや公開サイトに発信する人は、「ネットに書く責任」に自覚的でなければならないのだ。最近はネット上での誹謗中傷・名誉毀損・不法行為についても、訴訟や告発がなされるようになった。単に報道の道義的責任のみならず、法的な責任も発生しているのだと指摘しておこう。書きたいなら、裁判闘争を覚悟して書け。である。

◆LGBTの多様性は、従来の男女二項対立では解けない

ところで、杉田水脈のLGBT差別への出版各社代表の批判は、わたしも言論に関わる人間として大いに賛同するものだが、これらの出版人が本業の中でLGBTの多様性を広めるのでなければ、しょせんは一片の抗議文にすぎない。というのも、LGBTはあまりにも多種多様で、従来の反差別の視点では収まりきれないものがあるからだ。たとえば、よくフェミニストに「女性差別」だと指弾される「萌え絵」「美少女ゲーム」などは、じつは「やおい」「ボーイズラブ」の裏返しの表象なのである。つまり美少女になりたい、萌える美女になりたい。女性になって女性を愛したいという、男性のトランスセクシャルのバリエーションとして成り立っているのだ。ユング心理学における「アニマ」(内的女性性)である。

だとしたら「萌え絵」や「美少女ゲーム」を、男性による女性の隷属や性欲の発散などという文脈は的はずれになってしまう。なぜならば、女性がフィクションの中で男性になって男性を愛したい欲求としての「やおい」や「ボーイズラブ」が、女性による男性の隷属や性欲の発散ではない「アニムス」(内的男性性)と同じ原理だからだ。いや、性欲の発散であってもいいだろう。ただしそれは、トランスセクシャルとしての性欲なのである。それを性差別と言えるのだろうか。かように、LGBTの多様性は奥深い。

 

◆業界団体および雑誌コードと書籍コード

話を「紙の爆弾は雑誌ではない」にもどそう。ツィートの書き手の論拠は、鹿砦社が雑誌協会に加入していないからだという。そうではない。月刊「文藝春秋」とともに、わが国の論壇誌を代表する月刊「世界」の発行元である岩波書店も、日本雑誌協会には加入していない。岩波の「世界」「思想」とともに左派系の学術系雑誌として、全国の図書館に置かれている「現代思想」「ユリイカ」の発行元・青土社も雑誌協会には加盟していない。新左翼系の老舗雑誌「情況」(情況出版)も雑誌協会に入っていない。若者に人気のサブカルチャー雑誌「Quick Japan」の発行元・太田出版も雑誌協会に入っていない。

いや、この「Quick Japan」こそ、書籍コード(ISBN)で発行されている定期刊行物、雑誌(雑誌コード)ではない雑誌なのだ。中身は雑誌であっても、法的(出版ルール的)には書籍という意味である。雑誌コード(「紙の爆弾」は「雑誌02719」)の有無が、出版ルールでは雑誌なのである。この雑誌コードは飽和状態にあり、新規に得ようとすればムックコード(書籍コードと雑誌コードを併用)になると言われている。

そもそもツイッターの書き手が論拠にした日本雑誌協会とは、雑誌をおもな業態にしている大手出版社の業界団体にすぎない。任意の業界団体として取次や図書館行政と交渉したり、広告業界に向けて雑誌の刷り部数を公表したり、雑誌の利益のために任意の活動をしているだけなのだ。ABC協会と雑誌広告協会にいたっては、雑誌の部数を印刷会社の保障のもとにアピールし、広告価格の「適正化」をはかっているにすぎない。広告をとるための団体だと言っても、差しつかえないだろう。

現在5000社とも6000社ともいわれる出版社が、数千といわれる雑誌を出しているとされているが、総合誌(オピニオン誌)と呼べるものは、そのうちわずかである。講談社の月刊「現代」、朝日新聞出版の「論座」、文藝春秋の「諸君」、左派系の「インパクション」(インパクト出版会)、「atプラス」(太田出版)が姿を消し、週刊誌も部数を激減させている。そのような中で、「紙の爆弾」が貴重なのは言うまでもない。それは左右という垣根を越えて、あるいは膨大なネット上の書き手にも解放された誌面として、公共性をもっているがゆえに貴重なのである。わが国から論壇誌・総合雑誌が消えた日、それは民主主義が消える日であろう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業・編集者。酒販業界雑誌の副編集長、アウトロー雑誌の編集長、左派系論壇誌の編集長などを歴任。近著に『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

月刊『紙の爆弾』9月号

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

 

2016年時日本の二国間政府開発援助の供与相手国上位10か国(外務省HPより)

◆安倍が行なってきた、大企業優遇の経済政策

リフレの失敗(インフレ政策の事実上の断念)と経済成長戦略(官民ファンド)の破綻など、旗印のアベノミクスが崩壊しているにもかかわらず、安倍政権への支持率は保たれている。これは安倍の政策説明のわかりやすさが、国民に受け容れられているからにほかならない。

わかりやすい例を挙げるならば、安倍による経済協力の営業外交であろう。従来の経済協力に加えて、日本企業の進出を商品として具体的に売り込みつつ、ODAを推し進めるパフォーマンスである。大手商社に勤務するわたしの友人は「安保政策は危険きわまりないと思うが、安部の経済外交には感謝せざるを得ない」と語っていた。

まさに大企業のためのアベノミクスであり、いっぽうで軍学共同や兵器輸出といった、軍事産業を育成・成長させることで、目に見える成果を上げようとしている。株価の維持と兵器輸出が、一般国民には何ももたらさないにもかかわらず「これらは、皆さんの生活を豊かにするために、やがてはめぐってくるのです」と安倍は力説する。歯の浮いた演説にもかかわらず、おそらく希望を託したくなる国民生活の現実があるのだ。

国民はひたすら経済を何とかして欲しい。あるいは中朝の潜在的な脅威にたいして「強い指導者」をもとめているのだといえよう。しかしアベノミクスの行き詰まり、中朝関係とくに共和国(北朝鮮)を敵視する東アジア外交の破綻も明らかになりつつある。にもかかわらず、ひん死の安倍政権に取って代る政権・指導者がいないのである。

主要援助国のODA実績の推移=支出総額ベース(外務省HPより)

主要援助国のODA実績の推移=支出純額ベース(外務省HPより)

◆政策論争が行なわれない、奇妙奇天烈な選挙

戦争法ともいえる安保法制を、自然法としての「自衛権」から導き出したのは、安倍ではなく石破茂である(自民党国防部会)。法律学者なみの法知識を持ち、オタク的なまでの軍事知識、精緻な思考方法を持っているがゆえに、安倍のようにアジテーションでごまかすことはしない。その意味では法の運用も政策決定も、はるかに慎重で信頼に足ると、わたしは安部政権との比較で「よりましな選択」として、石破に期待するものだ。「よりましな選択」を放棄してしまえば、ただちに戦争の危機に陥ることもあるのだから――。

ここにきて、石破は安倍の「臨時国会に憲法改正草案を提出するべきだ」という「スケジュールありきの提案は、民主主義の現場を知らない言動だ」と批判し、さらには「誰かのためだけの政治であってはならない、特定の人たちの政治ではいけない」「政策本位の討論会をやるべきだ」「自民党だけの政治でもいけない。幅ひろい世論を汲み上げなければならない」と、正論を安倍に叩きつけている。議員数で多数派におよばない現実から、政策論争をもとめたものだが、これが本来の政策論争のあり方であろう。

◆安倍にしかできないパフォーマンスに、石破は敗北するのか?

にもかかわらず、石破には決定的な弱点が存在する。学生時代から法律については、研究会を組織するなど熱心な石破だが、経済に弱すぎるのである。べつに経済に強くなくても政治家はやっていける。安倍がまったく経済オンチであるにもかかわらず、アベノミクスなるまやかしの経済政策を「やっている」かのように見せられる。

たとえば「同一労働、同一賃金」を、安倍は労働政策のスローガンに採り入れている。労働運動を経験された方はすぐにピンとくるであろう。「同一労働、同一賃金」は「地域同一賃金」などとともに、ILO(国際労働機構)などの労働組織が掲げているきわめて社会主義的なスローガンである。このスローガンを実現すれば、ただちに本工(正社員)と季節工(アルバイト・パート)の賃金格差は是正され、労働に応じた賃金、つまり労働証書制が成立する。すなわち社会主義社会が実現するという意味なのだ。

この「同一労働、同一賃金」の聞こえの良さを、安倍は何のためらいもなく採り入れているのに対して、石破は自身のブログで「誰か教えていただけないか」と疑問を呈した。当然であろう。実現の見込みも、そこに近づく道筋も見えない労働政策(ひいては経済政策でもある)に、ふつうの政治家なら立ちどまるはずだ。いや、ふつうの政治家では総理大臣にはなれないのだ。たとえば安倍のように、政治に利用できるものはすべて利用する。たとえ意味がわからなくても、理想を表現したスローガンならば何でも使う。その節操のなさが、長期政権を維持しているのだから――。

したがって石破が「候補者同士の討論を、ぜったいに実現して欲しい」というのに対して、安倍は応じられないはずだ。何も自分で考えたことがないのだから、討論で相手に説明できるはずがない。政治的なパフォーマーと慎重な学者の戦いが、今回の総裁選挙の本質なのである。

◆安倍を三選させてはならない

石破も地方創生担当大臣として、地方経済の活性化を現地で体験してきた。それはしかし、各地域に共通する経済政策とはならない、じつに個別的で具体的な経済活性化の成功なのである。しかもそれを「イシバノミクス」などという具合に、軽々しくネーミングできない生真面目さに、この人の決定的な弱点がある。

前回の記事でわたしは、たとえ再武装・準核武装論者であろうと、あるいは軍事オタクであろうと、民主主義的な手続きをおろそかにしないかぎり、その候補を支持するべきだと提言した。それは安倍というパフォーマンスしかない政治技術者がはびこる中では、石破茂のほうがよりましであるからだ。

重要な案件が「閣議決定」で済まされる安倍政権によって戦争に引きづり込まれることはないという意味で、いわゆる人民戦線戦術と呼称しておこう。古い言葉でいえば、自由主義的なブルジョア分子もファシズムに抗する意味では味方である。政治において「敵の敵は、味方」なのだから。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
雑誌編集者・フリーライター。著書に『山口組と戦国大名』など多数。

月刊『紙の爆弾』9月号

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

「カジノ法案」が先の国会で成立した。「IRなんとか」とぼやかしているようだけれども、主目的はカジノの解禁であることは間違いない。この議論に入る前に、「賭博」に関する日本の根本的不正義を確認しておくべきだろう。

◆刑法185条で「賭博は禁止」されているはずだが……

“賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処せられる”という刑法185条の明文規定がある。憲法を見返しても賭博についての言及は見当たらなので、原則的に日本の刑法では「賭博は禁止」だと、市民レベルでは解釈して良いだろう。だから「賭け麻雀」でも逮捕されるひとが出るし、競馬の「ノミ行為」や「野球賭博」はもちろん違法とされている。

け・れ・ど・も。どうして、競馬、競輪、競艇、オートレース、サッカー賭博、パチンコ、スロトマシーンなどが堂々と行われているのだろうか。

専門的な法解釈は、こういった場合「屁理屈」にしかならない。たしかに競馬や競艇、サッカー賭博を「合法化」する法制は準備されている。パチンコ、スロトマシーンについても同様だ。つまり、「胴元が国や国に上納金を収めると確約している、大規模賭博だけはやってもよろしい」という原則が、刑法で禁止されているはずの賭博を公認する原則として成立しているのだ。

刑法185条も例外を設け、常習性のない軽度の「賭け」には目くじらを立てないと、穏当な例外規定を設けている。家族や仲間内で少々のカネをかけて麻雀やトランプをやったからと言って、いちいち取り締まられていては庶民生活の潤いもなくなるだろう。そもそも、仲間内での「賭け」には「胴元」がいないから、誰かが負ければ誰かが勝つ、ある種の公平原則から逸脱はしない。

◆「公営ギャンブル」の基本的構造

他方「公営ギャンブル」は悪質である。宝くじ、競馬、競輪、競艇……。すべての「賭博」で、「胴元」は勝負の如何にかかわらず、最初から「儲け分」を抜き、その残りで当選者への払い戻し金額を算定する仕組みになっている。つまり、運営が維持できて一定数の顧客がいる限り「胴元が一番儲かる」のが賭博の基本的構造である。だから競艇の運営母体が「日本財団」などと偉そうな名前を名乗れるほど、ぼろ儲けが可能であるし、小口の「ノミ行為」や「闇賭博」が検挙されることがあっても、JRAの馬券売り場で馬券の購入や払い戻しを受けても、誰も捕まる心配はない。

要するに「悪いことは堂々と大きくやればやるほど」あたかも正当なように扱われ、法律まで整備されているのが、刑法で賭博を基本的に禁じている日本の素顔である。パチンコやスロットマシーンは「公営ギャンブル」ほど法律の保護が厚くないので、近年厳しい状況に直面している。パチンコ業界の状況については『紙の爆弾』が毎号連続してその近況を伝えているので、ご参考になるだろう。

◆「カジノ」ではみずからが「競技行為者」となる

そこへきて「カジノ」である。まず断言できるのは、カジノが出来ても、カジノで遊ぶ目的で、日本にやってくる外国人観光客は増加しないであろうことである(世界各地にカジノはあり、どこのカジノがどのようなサービスを提供するか、ユーザーは知り尽くしている。後進で規制の多い日本では「海外からの常連」を獲得することはできないだろう)。逆に現金を目の前で「賭ける」醍醐味に、これまで公営ギャンブルやパチンコ・スロットマシーンに通っていた人が、カジノに押しかける姿は想像できる。どうしてそんなことが言えるのか? わたし自身が相当「カジノ」には出入りした経験があり、その魅力も危険性も身に染みて体験しているからだ。

かつてわたしにとって「カジノ」へ行く行為は、「日本から離れ異空間にいる」ことをより強く実感することと重なる意味があった。ルーレットのテーブルに座り、100ドル紙幣をテーブルに置き、チップと交換する。経験のある方であればご理解いただけようが、その行為はパチンコやスロットマシーンで銀玉やコインと現金を交換する行為とは、まったく異なるリアリティーを抱かせる。

競馬、競輪、競艇などは他人(競技行為者)の優劣を予想するに過ぎないが、「カジノ」ではみずからが「競技行為者」となるのである。近年はゲーム機のようなコンピューター制御のスロットマシーンも増加したが、それでもディーラー相手のカードゲームやルーレットは、確率論と心理戦で勝率が大きく左右される。

大規模カジノは24時間営業で条件によっては、食事も無料、アルコールも無料である。「賭博好き」が入り浸らないはずがない。もうかなり昔だが、初めてラス・ベガスに貧乏旅行で立ち寄ったときに、「こんな街にいたら身ぐるみはがされる」と感じ数時間で別の街に移動したことを思い出す。その後少し懐に余裕が出来てから、あちこちの国でカジノに足を向けた。理性が働いているあいだ、つまり「自分はいくら負けてもよい」か、が認識できているあいだは、危険性はない。

◆胴元がいる賭博では、胴元が必ず儲かる

しかし、その「理性」は「射幸心」のまえで見事に崩れ落ちることを、過去あまたの有名人による、カジノでの大惨敗事件を振り返るとわかる。1980年「ハマコー」と呼ばれた故浜田幸一自民党議員はラス・ベガスにおいて一晩で4億6000万円負けて、当時ロッキード事件の黒幕といわれた小佐野賢治に穴埋めをしてもらっている。また大王製紙の前会長はカジノで負けた106億円をファミリー企業から借りて、有罪判決を受けている。

一度に賭けることができる金額は各々のカジノやそのテーブル、またはVIPルームにより異なるが、VIPルームでは一度(つまり数秒)のカードゲームで数百万円負けることは当たり前だ。賭け方によっては勝敗が1千万円近くになる。わたしはそんな金は持ち合わせないから、もっと少額のテーブルで遊んでいたが、額は違えど心理に変わりはない。

給与収入の数カ月分を一度の勝負で稼ぎ出せば、「理性」は揺るぎだす。「ビギナーズラック」ということばがあるが、ことカジノに関して、不思議なほど「ビギナーズラック」が訪れる場面をわたしは目にしている。しかし「ビギナーズラック」の真相は「ビギナーズアンラック」であることをのちに知る人が多い。

あらゆる賭博は、胴元がいれば、誰がいくら賭けようが、勝とうが、負けようが胴元が必ず儲かる。宝くじも同様だ。「サマージャンボ数億円」などと広告していても、みずほ銀行が手に入れる「上がり」はお調べいただければすぐにわかる。

「カジノ」が日本にできることに、実はわたしは反対しない。なぜならば、公営ギャンブルやパチンコと比較にならないほどの社会問題を誘発し、政府の目論見から離れて、治安問題へと発展するのが必定だと見るからだ。シニカルすぎるかもしれないが、そのカオスを日本政府は経験すれば良かろう。

わたしは本文でシニカルな意見を述べたが、山本太郎議員のこの質問に共感する。


◎[参考動画]【国会中継】山本太郎(自由党)【平成30年7月19日 内閣委員会】

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

最新『紙の爆弾』9月号

大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

もうすぐ自民党の総裁選挙である(9月20日)。安倍晋三と石破茂の一騎打ちだが、どちらが勝っても変化はないという評価は、しかし現実の政治過程を投げ打った考えではないかと、わたしは思う。少なくとも、安倍のような政治技術主義(目的のためには手段を選ばない)は、石破にはない。その意味で石破に頑張って欲しいと思うのだ。いかに石破茂が軍事オタクの再軍備、核武装検論者であろうと、安倍のようにごまかさずに民主主義の手続きを踏むと考えるからだ。この民主主義の手続きとは、ちゃんと質問には答弁に答える、論点をはぐらかさないという意味である。いずれにしても、どちらが勝っても同じである、という議論はダメだと思う。

たとえば、よりましな政府と体制を選ぶことで、敵(資本主義? 天皇制?)を延命させる。あるいは政権に融和的になるという「左派」の批判は、現実の政治過程を投げやることで、ぎゃくに現状を容認しているのだと、わたしは思う。現在の安倍政治の延長に、それがさらに危険な後継者に引きつがれ、戦争を可能とする安保法制のもとに動き出す。それも本人が知らないうちに、事態が破局にまで突き進む。つまり戦争が起こってしまう可能性があるのだ。

何が言いたいのかというと、昨年の今ごろまでは安倍の「後継者」が防衛省をシビリアンコントロールできなかった稲田朋美だと目されていたからだ。安倍が党規約を変えてまで三選を可能とすることで、その先にもはや石破茂の目はないだろうと思われた。そうすると、当時の朝鮮半島情勢のなかで、共和国(北朝鮮)のミサイルが発射されたとき、そしてそれがSM3(洋上イージスシステム)やパック3(地上迎撃ミサイル――ただし射程は25キロほど)の対応を余儀なくされたとき。そして第二弾を防止するために、ミサイル発射基地を事前に攻撃したら、まちがって戦争が起こるではありませんか、ということなのだ。なぜならば、南スーダン派遣自衛隊の日報問題を掌握できない大臣に、ミサイルが飛び交う瀬戸際での指揮は、とうてい執れないからだ。

◆最終的には、政治の延長である戦争は個人が発動するものなのだ

けっきょく、戦争は個人の指揮による発動である。たとえばヒトラーがいなくても、1930年代のドイツは戦争に活路を求めたであろうと、よく云われる。なぜならば、莫大な賠償金とハイパーインフレによる国民経済の逼迫は、それを打開するための政策的なインパクトを必要としていたからだという。それが国民経済の破綻を外化する欧州制覇、ドイツ民族の生活圏の確保であるはずだからだと。

しかしそれは、ヒトラーのミュンヘン一揆による挫折ののちの鉄鋼資本との提携、国防軍と結んだレームの粛清(突撃隊を皆殺しにした「長いナイフの夜」)など、茨の道ともいえる政治過程を無視している。30年代のドイツは、アドルフ・ヒトラーという個性を抜きに論証することは出来ないのだ。偶然かもしれないが、政治危機にさいして個人が役割りを発揮することがあるのだ。ヒトラーなくして、ドイツの戦争発動はなかったであろう。わが国においても、戦争発動は個人が決断した。そこに逆らえない「空気」があろうと、しかし個人が決めたのだ。


◎[参考動画]2011年9月3日放送未来ビジョン73『安倍晋三元総理が訴える憲法9条改正論』(JapanMiraiVision2012/07/06公開)

◆安倍の政治センスの良さが危うい

かつて、わが国は軍部の暴走(関東軍の中国戦争)の延長に、アメリカおよび西欧列強との対立に追い込まれた。なし崩し的な日中紛争と対米矛盾を解決するために、近衛文麿と東条英機という、天皇の信任の厚い政権が国家を運営したのだった。近衛も東条も対米戦争慎重派であり、むしろ非戦派だったと多くの証言がある。昭和16年8月に行なわれた若手の官僚と将校のシュミレーション(『昭和16年の敗戦』猪瀬直樹)では、対米戦敗北の結果が出て、東条もその結果に納得していたという。しかるに、国内の海戦への「空気」と情勢(対米交渉)は、東条を立ちどまらせることを許さなかったのである。その「空気」は東条をして、開戦を決断させた。かくのごとく、戦争への道は危うい「空気」と情勢の混乱によるものだといえよう。

安倍とその政権の危うさは、その政治的なセンスの良さ、言い換えれば「政治家としての能力の高さ」にある。この能力の高さとは外見上はパフォーマンスのようなものだが、たとえば、安保法制を自分の肉声で説明できることだった。「敵が味方を攻撃したら、その味方を護ることは、自分を護ることになるのです」「ですから、平和のための法律なのです」と。このあたりのパフォーマンスが、勢いで戦争を始めてしまいそうだと、わたしは危惧する。戦争はつねに「平和」を名目に行なわれる。なにしろ安倍は、文民統制のできない防衛大臣に、後継を託そうとしたのだから――。

なるほど、安保法制は「自然法としての自衛権」を元にしているが、じつはこれは安倍が考えたものではない。自民党の安全保障部会を仕切ってきたのは、ほかならぬ安倍のライバル、石破茂なのである。そこで安倍は「自然法としての自衛権」が憲法九条にも「加筆」されることで、解釈改憲を成文改憲に持ち込めると、自民党の改憲草案を飛び越えて「加憲論」に走った。これは自民党の議論を経ていない。

◆「加憲」が憲法を崩壊させる

そもそも、憲法九条は「国際紛争の解決における武力の否定」である。そこに「ただし、この規定から自衛隊は除外される」とか「自衛権としての自衛隊の保持は排除しない」などと、条文の精神と相容れない条項(加憲)を入れてしまうと、解釈の整合性がとれないのだ。「ただし」とか「しかしながら」とかの逆接を入れると、条文自体に矛盾が生じる。そこで、矛盾した条項を入れるよりも、九条を撤廃して「国防軍(国防省)」の条項を明記したほうが、法の運用が正確になる。政治家の恣意性や情勢の変化に拠らない、誰がやっても間違えのない運用ができる。しかしながら、それらの改憲は国民的な議論をもって行なわれなければならない。これが石破の立場であろう。

こうしてみると、両者の違いは歴然としている。安倍においては、誰にも説明のできない脈絡で「自衛権」が「戦争放棄」と同居し、石破においては「自衛権」が「自衛戦争」に限定されるのだ。ただし、直ちの改憲は望めないはずだ。憲法九条の完全な否定は、国民的な議論が必要となるからだ。それを回避する安倍の「加憲」こそ卑怯な裏口改憲なのである。

総裁選に改憲論が持ち込まれれば、もはや自民党の機関を通じた議論は行なわれないであろう。おそらく安倍は、総裁選挙後に直ちに「改憲法案」を国会に提出して、数を頼んだ改憲になだれ込むはずだ。きわめて危険な水域に入ったというほかはない。心ある自民党員は、石破茂に投票せよ。である。


◎[参考動画]2018年8月10日、自民・石破氏、総裁選出馬表明会見(日仏共同テレビ局France10 2018/08/10公開)

※安倍と石破の経済政策については次回に詳述したい。そこでも安倍の政治センスが、否応なく発揮されているのは周知のとおり。石破茂の決定的な弱点が、その学者的なセンスと経済オンチにあることも、併せて解説していこう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
雑誌編集者・フリーライター。著書に『山口組と戦国大名』など多数。

月刊『紙の爆弾』9月号

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

◆安倍総理の暴力団交際・選挙妨害依頼時件

本サイトでは初出かもしれないが、ここにきて安倍晋三の暴力団スキャンダルが再燃している。1999年に下関の安倍総理(当時は衆議院議員)の自宅と後援会事務所が何者かによって火炎瓶放火され、3年後に主犯の会社経営者K氏と暴力団組員が逮捕された事件である。

裁判で明らかになったのは安倍事務所と会社経営者が、下関市長選挙において選挙妨害を謀議したこと。その対価の支払いをめぐって揉め、会社社長K氏が暴力団組員に火炎瓶攻撃を依頼したというものだった。事件から19年になる今年5月に出所してきた主犯の会社経営者K氏が「わしはハメられた。再審をするつもりだ」として、安倍事務所と交わした念書(確認書2通・願書1通)を、事件当初から取材してきたジャーナリストY氏に渡したのだった。K氏は大手週刊誌でも、この事件の裏側にあるものを暴露することになった。

◆忽然と姿を消したK氏

ところが、週刊誌の取材の直前になって、元会社経営者Kは忽然と連絡を断ったのである。そればかりではない。みずからのネットニュースやウェブ媒体で、この事件を報じてきたジャーナリストのY氏が8月7日の夜、不思議な事故に遭ったのである。

Y氏とともにこの事件を取材してきたT氏によると、「Y氏は『新宿のスタジオアルタの地下階段を降りようとしたところ、体が飛ぶようにして転落』したとのこと。右肩骨折、頭部7針を縫う重傷を負い、本人は『誰かに押された記憶はないが、どうしてあんなところで飛ぶのか』と話しているという」Y氏は酒を飲んでいたわけではない。

この事故の一週間前に、Y氏は「誰かの妨害なのかよくわからないが、前のツイートで紹介した安倍首相重大疑惑の講演映像と、公開した3つの証拠文書がブロックされ見えないとのことなので、古い「アクセスジャーナル」の方も紹介しておく。同じものを載せている。拡散願います」と、ツィートしていた。まさに「誰か」が動いているのであろう。ちなみに、Y氏は武富士事件の取材の過程で、自宅を放火されるという体験もしている。総裁選挙を9月20日に控えたこの時期に、こういう事故(事件?)が起きたのは見過ごせない。

◆過去にも記事もみ消しが

上記の安倍晋三暴力団スキャンダルについては、過去に共同通信が記事にしようとしたことがあった。それまで、休刊となった『噂の真相』などで報じられてきたが、これでいよいよ全国的に報道されるはずだったところ、共同通信の上層部が記事を潰したのだった。その背景には、平壌に開設されたばかりの共同通信の事務所に影響があるのではないかと、安倍総理(第一次政権)に忖度したものだと言われている。

その後、月刊『現代』でその顛末が報じられたものの、社会的には「安倍は被害者」ということになっていた。ところが、今回は念書が出てきたことで、安倍晋三および安倍事務所の「反社会的勢力」との交際が白日のもとに曝される可能性があるのだ。この事件のもう一方の主役である暴力団とは、特定危険指定暴力団として、警察庁の最重点壊滅対象となっている工藤會なのである。

その工藤會と「密接交際者」であったタケナカシゲル(「誰も書かなかったヤクザのタブー」鹿砦社ライブラリー)が、次号『紙の爆弾』10月号(9月6日発売)で工藤會の自民党人脈を暴露する予定だ。そこには、思いがけない人物の名前も登場するという。なお『紙の爆弾』が発売される前に事態が動けば、このサイトで詳報する予定だ。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。主な著書に『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『真田一族のナゾ!』『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

タブーなき『紙の爆弾』9月号

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

◆明治維新の過ちが混迷の原点

安倍政権に牛耳られた日本は、断末魔の様相を呈している。国会内でくりひろげられるウソ、はぐらかし、傲慢な態度。

役人は忖度し、公文書を改ざん=歴史偽造を実行しても甘い処分しか受けていない。一部の金持ちはどんどん肥え太り、貧しい人はより貧しくなる。そのうえ生活保護の削減で、関連する行政サービス(40以上)が低下し、保護受給世帯ばかりかほかの人々の生活も苦しくなる。

完全に日本は分断されている。いったい誰のせいか?
それは「安倍のせいだ」という人が多い。

確かにその通りで、貧困を拡大させ、国の基本法である憲法に明らかに違反する法律(安保法制、秘密保護法、共謀罪など)を次々と制定施行してきたのが安倍政権である。

「個別の問題に取り組むのではなく、安倍政権そのものを打倒しなければならない」

保守的な人まで含めて、この共通認識が定着したのは、安保法制反対運動が起きていた2015年夏頃だろう。

だが、もっと深いところに現在の日本の混迷と危機があるのではないか。それは、明治維新そのものが今日の安倍政権の暴走にみられる日本の危機をもたらせている、ということだ。

 

関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新──テロに葬られた立憲主義の夢』(作品社2016年)

そのことを明示してくれたのが、歴史的名著『赤松小三郎ともう一つの明治維新~テロに葬られた立憲主義の夢』(関良基著・作品社刊)である。

この本が提示することをひと事で言い表すと、こうである。

《江戸時代末期に芽生えた立憲主義・議会制民主主義の夢をテロリストたちがつぶし、彼らが権力を握った。そして維新後に専制政治を打ち立て、第二次大戦の敗戦をも生き延び現在に至り、暴走している》

これを著者は「長州レジーム」と名付ける。つまり、この長州レジームをつぶさないかぎり、国民・住民・市民は安心して寝られない、と筆者は思う。

◆150年ぶりの大チャンス

筆者は、かなり長い期間にわたり、現在の日本社会の問題は、敗戦後の改革が徹底しなかったことに原因があると考えていた。

だから、日本をよりよい方向に改革するには、1945年までさかのぼらなければならない、と。

ところが昨年(2017年)3月、共謀罪に反対する集会の会場で、ある人に出会ったときにハットしたのである。

「もう一回、1945年に立ち返って日本を抜本的に改革しないとダメですよね。72年ぶりの真の政権交代が必要です!」
 
と私がいうと、こんな言葉が返ってきた。

「いや、150年ぶりですよ。政権交代どころか150年ぶりに市民革命の大チャンスがやってきた。世界情勢をみても日本国内を見ても・・。アメリカの支配層も割れている」
 
この「150」という数字を聞いた瞬間、私の頭の中でパチっとスイッチが切り替わったような感覚に襲われた。150年前といえば、明治維新である。

以来、それまで見えなかったものが見え、聞えなかった声が聞こえ、新しい視点や人物、情報などが筆者の視野に入ってきた。

◆歴史から消された巨人・赤松小三郎とは?

その中で出会ったのが、歴史的名著『赤松小三郎ともう一つの明治維新──テロに葬られた立憲主義の夢』(関良基著、作品社刊)に他ならない。

一読した筆者は、声も上げられないほどの衝撃を覚えた。

明治維新150年を目前にして数年前から、明治維新を批判的に分析・批評する本が相次いで出版され、「明治維新イコール善という神話」に強い疑念の声が増しているのは事実だろう。

しかし、この本が突出しているのは、全国民(国中之人民)を対象とした普通選挙で選ばれた議員が構成する議会を国権の最高機関と位置付ける構想を著した人物に光を当てたこと。

その人物とは、信州上田藩の藩士・赤松小三郎であり、彼の思想と生涯を丁寧に追い、現代の日本と照らし合わせたのが、この本なのだ。

赤松の建白書類では、明文化はされていないものの、女子の参政権も認めていると考えられる。江戸時代のことだから、世界最先端の思想と言ってまちがいない。

赤松の構想では、国軍(陸軍2万8000人、海軍3000人)を創設する。最初は武士がその任にあたるが、有能な者を育てたうえ志願制度に切り替え、軍人に占める士族出身者の比率を減らしていく。

国軍とは別に民兵制度も提唱しているのが特筆に値する。一般国民はふだんは各自の仕事を行い、居住地域で教官により定期的に軍事訓練を受ける。訓練は男女平等に課せられる。

著者の関氏は「小三郎が女性参政権を認める立場だったと推定する根拠はここにある」と述べている。

◆「維新の志士たち」がテロでつぶした立憲主義の夢

驚くのは、赤松小三郎の先進的な構想を認める人たちがたくさんいたことだ。つまり、道理をわきまえた改革者たちの間では、立憲主義は常識になっていた事実は「重い」。明治維新前の慶応年間に!

こうした動きをテロで葬ったのが、まさに長州テロリストたち。彼らによる「長州レジーム」が2018年の現在も続いていることが日本の最大の危機ではないか。

維新で権力を握った彼らが、どのように専制支配体制を固め、現在の安倍政権に至ったのか。近代日本の出発点とされる明治維新そのものに誤りがあったと思わざるを得ない。

そして現在、安倍政権は、長州レジームを暴力的に強化しようとしている。長州テロリストの末裔たちが安保関連法制、秘密保護法、共謀罪、刑訴法改悪・・・と違憲立法を強行し、最終的には憲法改正で大日本帝国を復活させようともがいている。

いま、道理のある人間、心ある人間がやるべきことは、長州レジームを終わらせることである。

かなり危険なところに日本は追いやられているが、一発逆転するチャンスが来ている。

なぜなら、多くの人々が「おかしい」と心の底、奥深いところで気づき始めているからだ。

こんなことを思わせる本だ。最後に著者の関良基氏の言をひいておこう。

《近代日本の原点は明治維新にあるのではない。
江戸末期に提起された立憲主義にある》

長州レジームから日本を取り戻すための必読書である。

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本書の著者、関良基氏の講演案内

■8月18日(土)第107回草の実アカデミー■
 
長州レジームからの脱却
2018年のいま、
テロリストたちに葬られた立憲主義を実現させる
 
講師 関良基氏(拓殖大学教授)
日時 2018年8月18日(土)
   13:30開場、14:00開演 16:40終了
場所 雑司ヶ谷地域文化創造館 第2会議室
http://www.toshima-mirai.jp/center/e_zoshigaya/
交通 JR山手線徒歩10分 地下鉄副都心線「雑司ヶ谷駅」2番出口直結
資料代 500円
主催 草の実アカデミー


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▼林 克明(はやし・まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

『紙の爆弾』9月号

例年にない猛暑のこの夏、例年になくいろいろなことが相次いで起きます。しかし、どれも私たちにとっては悪いものではなく、むしろ快哉を上げるようなもので、一つ起きるごとに勢いが増していくように感じます。例えば直近のものから挙げれば、――

8月6日、13年前に鹿砦社を地獄に落としたパチンコ・パチスロ・ゲーム機大手の旧「アルゼ」(現「ユニバーサルエンターテインメント」)創業者(元)オーナーの岡田和生氏が香港で逮捕されました。これについては本通信8月9日号を参照。

関西カウンターの理論的支柱で、最近も著書を出版した金明秀関西学院大学教授による同僚教授暴行事件について、ようやく大学当局も解決に乗り出し夏休み明けまでに調査委員会を設置することを約束しました。入試が近づき〝第二の日大〟化を懸念する関学はきっと前向きな解決策を取ることでしょう。こちらも本通信でたびたび採り上げていますので繰り返しませんが、関心は大きいですね。

また、金明秀教授が関西カウンターの理論的支柱なら、東京の理論的支柱といえる師岡康子弁護士による、いわゆる「師岡メール」が、これを受け取った金展克氏によって公にされ、「人権派弁護士」によるM君リンチ事件の一端が明らかになりました。こちらも本通信6月7日号をご覧ください。なお、師岡弁護士には質問状を送っていますが、回答期限を過ぎてもなんの回答もありません。「人権派弁護士」ならきちんと答えよ!

ところで、M君が李信恵氏らリンチの現場にいた5人を訴えた民事訴訟の一審判決後しばらく事態は静かに推移していましたが、騒がしくなったのはリンチ事件関係書籍第5弾『真実と暴力の隠蔽』発売直後からです。

特に木下ちがや氏(ハンドルネーム「こたつぬこ」)、清義明氏、そして私の座談会の記事が予想以上の反響で、木下氏は、かつての仲間からも非難轟轟、雨霰の攻撃を受けています。日本共産党に所属するといわれる木下氏、共産党特有の厳しい〝査問〟もあったものと推察されますが、あっけなく屈してしまいました。

 

挙句の果てに何を勘違いしたのか私たちに「家族ならび関係者への謝罪を要求します」とまでの、訳の分からない要求には失笑するしかありません。私たちは一度も木下氏の家族に言及すらしていないのに、どうして家族に「謝罪」しなければならない理由があるというのでしょうか。

また、李信恵氏の側も、これ以上ことを荒げることのできない事情もあったと思慮され、双方の利害や打算で「正式和解」になったものと思われます。〝大人の事情〟かどうか、外部から眺めるとすっきりしない「和解」です。

同書に掲載した座談会は、全体の3分の1ほどで、全体のテープリライトも終えていますし音声データも手元にありますので、場合によったら公開してもなんら構わないと思っています。両氏や周囲がこれ以上ああだこうだ屁理屈をこねるのであれば、いつでも公開する用意があります。

 

それにしても、木下ちがや氏ともあろう研究者――著書もあり、一時は「しばき隊No.3」ともいわれシールズを指揮・指導した人が、こんた体たらくでは、研究者としても社会運動家としても、また人間としても信用されないでしょう。無量光(ハンドルネーム)がいみじくも言うように「終わったな」ということでしょうか。

木下氏は、これから一生涯、このままでは李信恵氏にバカにされながら過ごさなければならないでしょうし、「しばき隊No.3」どころか「No.100(以下)」の地位に甘んじなければならなくなるでしょうが、それでもいいのでしょうか? 木下さん、屈辱を感じないですか?

座談会記事を読まれたならば、私がみずからの都合の良い方向に話を「誘導」(伊藤大介氏)していったのではなく、清義明氏の司会で、木下氏自身が清氏や私に意気揚々と、自説を能弁に語られたものであることはご理解いただけるでしょう。木下氏がそれを〝否定〟するのであれば、あの一連の発言は一体何だったのでしょうか!? 口から出まかせでしょうか? 木下氏は、これまでの様々な発言を、都合が悪くなれば、〝あれは「事実無根」だった〟と仰るのでしょうか?

この件については、M君リンチ事件の現場にもいて、大阪地裁で一番多い賠償金を課せられた伊藤大介氏が私をくどくどと非難されています。

 

 

「諸悪の根源は鹿砦社の松岡」だって!? 言うに事欠いていい加減なことを仰らないでください。伊藤さん、あなたはアレコレ御託を並べるよりもM君リンチ事件について、リンチの現場にいた最年長者としての責任を感じないんですか!? あなたが止めればリンチにはならなかったんじゃないんですか!? 血の通った人間としての対応をすることが先決ではないんですか!? 

今からでも、くだんの座談会で意見が一致した李信恵氏、エル金、凡3人の「謝罪文」に立ち返り、真摯に謝罪することから始めるべきではないでしょうか? 伊藤さん、男だったら、屁理屈を並べて醜く開き直るのではなく潔くなろうじゃありませんか!?

また、池田幸代という、社民党・福島みずほ参議院議員の元秘書だった人も、鹿砦社を非難しています。

 

「鹿砦社のやり方は本当にロクでもない」だって!? だったら、集団で凄惨なリンチをやった人たちはどうなんですか?「本当にロクでもない」のは、李信恵氏や上記伊藤大介氏らリンチの加害者らではないんですか?「わざと社会運動内の仲間割れをするような方向に持っていこうとするのは言語道断」だって!? じゃあ、集団リンチは許されるの? 集団リンチこそ「社会運動内の仲間割れ」ではないんですか? 池田さん、ぜひお答えください。

池田さんは「しばき隊」の活動に深入りし過ぎて福島議員の秘書をクビになったといわれますが、本当はどうなんですか? 沖縄で検挙され家宅捜索も受けたという噂も聞きますが、こちらも事実ですか? お答えいただきたく存じます。

私は木下氏らと座談会を行い(会場は清氏が手配し同氏が司会)、その後、食事し(こちらも高級な日本料理屋を清氏が手配。ちょっと高かったな〔苦笑〕)、さらにはラウンジにまで行き終電近くまで話し込んで、想像した以上に柔軟で話が分かる人だと感じ好感を持ちました。

話の内容もほぼ事実のようで、かつ本質を衝いていて、こういう人が話し合いに出てくればM君リンチ事件も解決の途に就くのではないか、と思った次第です。誤解を恐れず申し述べれば、座談会の後書きでも書いているように、私たちは好意を持って座談会をまとめ、よかれと思って掲載したのです。木下氏には「武士に二言はない」ぐらいの気持ちを持ってほしいものです。

李信恵・木下ちがや両氏が「正式和解」したって、あの時の木下氏の発言からして、どのように「正式和解」したのか、不可解で信じることができません。木下氏も〝あっちの世界〟でしか生きられないと悟られたのでしょうか? 木下氏は、大学の非常勤講師だけでは食っていけなくて、病院の職員をもされているということですが、この病院は共産党系の病院でしょうか? だったら、こちらを辞めたら明日の食い扶持にも困りますよね? 実はそんな卑近な理由かもしれませんが、それだったらあまり自信の持てないことを言わないことですね。

木下氏の発言には、聞くべきところも多々あり、簡単に「謝罪」してほしくありませんでした。

李信恵氏との「正式和解」という名の茶番劇――M君リンチ事件の解決は、また本質から遠くなったと感じざるをえません。いや、大きく逆戻りしたと思います。

本件とは関係ありませんが、冒頭に挙げた岡田和生氏逮捕に至るまで(最初の書籍『アルゼ王国の崩壊』を出版してから)15年もの月日がかかりました。4冊の告発書籍(その後、総括本を2冊出しているので計6冊。最初の本から6冊目まで6年掛かりました)での内容がようやく証明されたと言えますが、これまでリンチ事件関係では5冊の書籍を出版し、ここに来て事件や、その後の隠蔽工作の全貌がはっきりと見えてきました。

まだ2年半です。しかし活字にして残しておけば、例えばロイター通信が岡田の賄賂疑惑を取材するのに鹿砦社の本を読み、ここから私たちに連絡してこられ、私たちも協力しスクープになり、今回の逮捕劇に繋がったように、必ずや心ある方々の目に止まり、将来的に「あそこが日本の社会運動が解体していくターニング・ポイントだったんやな」と評価される時が来るものと信じています。

隠蔽に陰に陽に関わった著名人やカウンター/しばき隊のメンバーらは、口では「反差別」や「人権」を語りますが、裏ではその実態の醜悪さ、偽善者ぶりが明らかになってきました。君たちよ、少しは恥を知れ!「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」にも意地があるぞ!

『真実と暴力の隠蔽』 定価800円(税込)

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

わたしたちは 忘れる能力と 覚える能力を 持っている 
『忘却と記憶』 何を忘れ 何を記憶し続けるか 
それによって生き方が 決まっていくように思うのです

書家、龍一郎先生の手になる、鹿砦社カレンダー8月の言葉だ。

書=龍一郎

8月は、6日、9日そして15日と戦争にまつわる「記憶されるべき」日が続く。「何を忘れ」、「何を記憶」できているだろうか。時代は、社会は、そしてわたしたちは、あなたは、わたしは。「記憶」は能動的な脳の活動で、「このことを覚えておこう」と決めれば、それを忘れないように「記憶」の刻む方法は様々ある。記憶力に自信がなければ大切なことばを紙に書いて、机の前に貼っておけばいやでも目に入るから、なかなか忘れにくいだろう。

他方「忘れる」ことは意識せずとも起こりうる現象だ。その対象に興味や関心、執着せねばいられない事情があれば「忘却」は起きないけれども、自分とあまり関係が深くないと(潜在的にでも)認識していると「忘却」はすぐにやってくる。そしてある種の心の傷に対しては、時間経過による「忘却」が、心理的な防御作用として機能もする。

いつだったか、知人と「戦争」のありさまについて話をしたことがあった。正義感の塊のようであった知人は「戦争」を概念としても、その細部も批判の対象とし、頭の固いわたしよりも、相当注意深く「戦争」を警戒しているようだった。しかしわたしの感覚はやや異なっていた。戦争映画や戦闘場面を記録した、あるいは演じた映画や映像は、戦闘のリアリティーをわたしたちに教えてくれていることは間違いない。けれども今日のハイテク化された戦争は別にして、前時の戦争は毎日、24時間が緊張の連続ではなかったのではないか。とわたしは反論した。

もちろん、1943年以降、国内でも日常が、急激に「戦争」めいたであろうことは知っている。空襲を受け、児童は疎開し、学徒動員まで至れば日々戦争の諸相に彩られていたことだろう。

だがその前、すでに日本が中国で戦争を始めていた1930年代はどうだったであろうか。あるいは真珠湾攻撃を受けた以後、終戦まで米国本国での「戦争」の日常とはどのようなものであったであろうか。おなじ「戦中」にあっても1943-45年の日本と、日本の1930年代や米国の終戦までの日常は大きく異なるのではないか。

遠くの戦場で兵隊は戦争をしているが、本国の市民は戦況を伝えるニュースに、一喜一憂することはあっても、大規模な徴用があるわけではなく、日々食べるものに困るわけではない(凶作による飢饉を除く)。街では夜遅くまで酒場が賑わい、娯楽もある。空襲などは想像もしないし、農民は日々耕作に精を出し、都市の給与労働者は毎日会社に通う。そんな日常だって「戦争中」の一断面である。一見戦争の悲惨さと無関係で、非対称のようなこのような「戦争中の日常」も、わたしは「忘れてはいけないこと」ではないかと感じる。なぜならば、70余年前の話としてではなく、今日時代は1930年代に極めて似た様相を、描き出していると感じるからだ。

もちろん日本はいまどの国とも戦争をしてはいない。けれどもあたかも「次に戦争」が待っているか(あるいは準備しているか)のように、法律も軍備も世論も根拠なく交戦的な方向へと移ろっているからだ。諸法制の戦争準備化については、あらためて述べるまでもないだろう。毎年5兆円を超える軍事費の高止まりも同様だ。世論はどうか?大きな書店に入って『紙の爆弾』が並べられている周辺の月刊誌を見まわしてほしい。どうしてここまで狂信的になりたがるのか、と宗教の匂いすらする右翼系の月刊誌が山積されている。

 

2018年8月8日付け弁護士ドットコム

そしてついに文科省は2020東京オリンピック期間中に「授業を避けてボランティアに参加しやすくするように」大学などに「通知」を出すまでに至っている。(2018年8月8日付け弁護士ドットコム

東京オリンピックでは、11万人のボランティアという名のタダ働きが酷使されることがようやく批判の的になってきたが、文科省が大学などに直接「授業はやめてボランティアを」と働きかけるのだ。形式は「通知」ではあるが、実質的には「命令」に等しい。ここに戦争へつながる「総動員」の事前訓練を見る、と感じるわたしは極端にすぎるだろうか。

小学生から、大学生、そしてもちろんスポンサー企業に関連のある労働者は、きょうも真面目に会社で自分に与えられた仕事をこなす。あなたの会社はなにを作っていますか?あなたの会社はどんなサービスを売りものにしていますか?あなたの勤務する東京都は都民の福利を重視していますか?オリンピックが至上命題のように仕事の軽重が逆転してはいませんか?そしてなによりもこの光景、どこかおかしいと疑う、気持ちの余裕はありますか?

あれよあれよという間に、中国戦線が泥沼化し、敗戦が必定な太平洋戦争に突入したとき、軍人の中にだって「この戦争2年なら何とか持ちこたえるが、それ以上責任は持ちかねる」と明言した海軍指揮官がいた。庶民一人一人の心の中はどうだったのだろうか。戦争をはじめるのは国家だけれども、戦争を遂行するのは庶民である。「何を記憶し続けるか」は人によって重要性が異なろう。わたしは「みんなで○○しよう」というのが嫌いだから、わたしの主観を読者に押し付けたくはない。ひとりひとりが考えよう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『紙の爆弾』9月号

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

学生が観念的で、頭デッカチなのは仕方がないことである。その大半が気分だからだ。どんな雰囲気で闘いに参加するのかは、二木啓孝さんのインタビューを参照(『NO NUKES Voice』最新16号)されたい。もちろん学生にも学生としての生活があり、大学の単位を取れなければ、卒業と就職はおぼつかない。だがその現実を感じさせない、自由な時間が学生生活なのであろう。かく言うわたしは、8年間も大学に在籍した。二度も逮捕されたが処分は受けなかったし、保釈の身柄引受人は在籍する大学の教授だった。学内の主流派の党派とは対立していたが、三里塚の英雄ということで敬意を表されていたように思う。いわく「あれは要塞戦戦士の横山」であると。学生革命家などお気楽なものだといえば、たしかにそうかもしれない。お気楽ではあったが、ずいぶんと犠牲を強いられた記憶はある。「滅私奉公」を「滅資奉紅」と呼び換えても、費やした時間はかけがいのないものだ。ふつうの若者が愉しんだ甘い青春とは、あまり縁がなかったと思う。

ところで、かくもお気楽な学生活動家にたいして、労働者の場合はそうはいかない。78年の開港阻止闘争では逮捕者の6割以上が労働者で、その多くが公務員だったことに、政府自民党は衝撃を受けていた。逮捕された労働者の場合は三里塚の裁判闘争とともに、多くの場合に解雇撤回闘争を強いられた。

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

◆クビを覚悟の生産点の闘争とは?

ところで、労働者の場合は、職場・生産点での闘いが、その試金石になる場合がある。三里塚闘争における鉄道労働者の場合がそれだった。空港および航空機にはジェット燃料が不可欠で、三里塚空港の場合はそれを運ぶのが動労千葉の鉄道労働者たち。つまり支援の最大勢力である中核派が虎の子にしている労働組合なのである。

ここに大きなジレンマが発生する。空港反対運動に参加しながら、空港に不可欠のジェット燃料を運ぶ。だったら、空港の命脈を握っているのだから、空港を機能させないカギになるではないか。と考えるのは単純すぎる。当時はまだスト権のない国鉄(公務員)である。違法なストをやれば必ず処分が待っている。すでにスト権ストや順法闘争などで、大量の処分者を抱えている労組にとって、組合が潰れてでもジョット燃料を運ばないのか、という問題である。わたしの弁護人だったH弁護士は隠れ中核派とも公然たる幹部党員ともいわれた人だったが「動労千葉がジェット燃料を止める? そりゃあ、組織が吹っ飛ぶねぇ」と笑っていたものだ。

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

軍艦を修理する反戦労働者

生産点の労働者というのは、かようにジレンマを抱え持っている。たとえば米海軍の横須賀の母港化に反対している造船労働者も、ドックで米艦船の修理をすることになる。海上自衛隊に反対している労働者も、自衛隊艦船の部品をつくることがある。軍艦を修理しない闘い、すなわち職場生産点での反戦闘争をするのであれば、就業を拒否してしまうか? それは無理な注文であろう。横須賀の修理ドックは、そのほとんどが自衛隊の艦船を受け入れていたのだから。同志がいたので、その言葉を紹介しておこう。「ぼくらは自衛隊の護衛艦も修理してるからね。能書きだけで、組合の活動なんてできないんだよ」機関紙の編集部として、彼を取材したときのことである。

三里塚に話をもどすと、反対同盟の農民たちは「動労千葉はジェット燃料を運んでいるじゃないか」「ちっとも、われわれの支援になっていない」と、ことあるごとに指摘したものだ。それに対する、支援党派の動きもあった。社青同解放派がジェット燃料を積んだ貨物車両を襲撃したのである。もちろん鉄道労働者に危害を加えたわけではないが、中核派にとっては労働者の職場を襲撃した、ということになる。この件では現地集会で両派がゲバルト寸前になった。じっさいにジェット燃料輸送を拒否する動労千葉のストライキ支援で、津田沼電車区に行ったことがある。ただし一日だけのストであって、組織を賭けた政治ストができたわけではない。

◆勝利をめぐる戦術とは?

 

レーニン『なにをなすべきか?』

およそ革命運動にとって、最後の勝利(武装蜂起による権力奪取)いがいは、運動の目的は陣地戦である。組織的な地平を獲得する以外には、闘争それ自体はほとんどが敗北であろう。しかし、やがて軍隊のなかに作られた革命細胞が部隊の大半を掌握し、工場がゼネラルストライキで操業を停止する。そしていよいよ、政治危機にさいして革命党本部が蜂起を支持する(レーニン「何をなすべきか」)。もはや警察力では革命の側に組織された軍隊を抑えられず、街頭では政府打倒お民衆蜂起がはじまる。と、ここまで来なければ、おそらく労働者は生産点で政治ストを行なうことはできない。いや、形だけの政治ストなら日本の労働者も経験してきたが、合法的なスト権の行使にすぎない。三里塚闘争は少なくとも、組合の存亡をかけた闘いへの選択肢を提起したという意味で、やはり歴史的な闘いだったのであろう。そこでは、具体的な勝敗をめぐる戦術が明白だったのだ。そのリアルさに、夢みがちな新左翼の活動家たちは魅せられたのではないか。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

最新『紙の爆弾』9月号!「人命よりダム」が生んだ人災 西日本豪雨露呈した”売国”土建政治ほか

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

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