◆「もんじゅ」も福島も国民負担──いつまでもなにを眠たいこと言うとんねん!

福井県小浜市明通寺の中嶌哲演住職。滲む憤りや悲しみの情感に、胸が痛む(2016年7月伊方にて大宮浩平撮影)

「管理上の相次ぐミスで停止中の高速増殖原型炉『もんじゅ』(福井県敦賀市)について、現行計画に基づいて今後10年間運転する場合、国費約6000億円の追加支出が必要になると政府が試算していることが8月28日、分かった。既に約1兆2000億円をつぎ込みながら稼働実績がほとんどなく、政府は菅義偉官房長官の下のチームで、廃炉も選択肢に含めて今後のあり方を慎重に検討している」そうだ。

また、「東京電力福島第1原発事故で掛かる除染や廃炉、損害賠償などの費用のうち、国民の負担額が2015年度末までに4兆2660億円を超えたことが8月28日、分かった。日本の人口で割ると、1人3万3000円余り。東電は政府にさらなる支援を求めており、今後も拡大する見通しだ」らしい。

ちょっときつめの関西弁で表現すれば、「いつまでもなにを眠たいこと言うとんねん!」とでも唾棄されるだろうこのようなニュースを前に、私たち『NO NUKES voice』編集部は改めて、原発が避けがたく有する「非経済性」のみならず「非人道性」に憤激を抑えることができない。

“原発いらない福島の女たち”の黒田節子さん(2016年7月伊方にて大宮浩平撮影)

◆正邪、善悪、犯人と被害者がひっくり返った現状が許せるか?

福島の事故現地に住む、あるいは避難した人びとが、相応に救済されるのであれば「1人3万3000円余り」の税金投入に異議を唱える気はない。でも全くそのようにはならず、被害者は切り捨て、復旧作業に携わる労働者からは多重請負による苛烈な搾取。

そしてあろうことか、事故を起こした東京電力が「黒字」を計上し、社員には高額なボーナスまで支給されている。どういうことなんだ。正邪、善悪、犯人と被害者がまるっきりひっくり返ったこの状態をあたかも、当然の図を見るように眺める為政者や東京電力の眼差しが、奇異でならない、許せないのだ。

座り込みを続ける斉間淳子さん。亡夫・斉間満さんは“原発の来た町”の著者として知られる(2016年7月伊方にて大宮浩平撮影)

◆権利や命は闘い取るもの、「果報は寝て待て」では勝てはしない

事故が起きて原発の危険性が認識されたと思ったら「世界一厳しい規制基準」で「福島原発の汚染水は完全に湾内でコントロールされており、健康被害は、過去も、現在も、未来も起こらない」と言い放った、あの安倍首相の歴史的とも言える仰天演説は歴史によって裁かれることになるのだろうか。

いや、そんな時代を黙して待っている訳にはいかない。権利や命は闘い取るものであり、「果報は寝て待て」では勝てはしない。

◆「被曝を無視する(反)脱原発運動は、認識が不十分である」

『NO NUKES voice』第9号の特集は「いのちの闘い 再稼働・裁判・被曝の最前線」だ。私は多くの識者を取材する中で学んだことがある。それは「被曝を無視する(反)脱原発運動は、認識が不十分である」ということだ。本号でも小野俊一医師や井戸謙一弁護士、アイリーン・美緒子・スミスさんや全国の運動報告で指摘されている通りだ。

そこで冒頭の報道である。東電は4兆2660億円の国から(つまり我々の税金から)援助を得ておいて、「まだ足らない、もっとよこせ」と言っている。一民間企業である東電がなぜ倒産しないのか。健康被害の調査や対応にしっかり体制を整えているか。民間の例外的な診療所を覗いては皆無じゃないか。140人を超える若者が甲状腺癌手術を受けても「放射能との関係はありません」と。これが政府であり福島県の正式な声明だ。

日本で唯一稼働中の原発に運転差し止め判決を出した裁判官だった井戸謙一弁護士

◆多数の人々を殺し、追い込み、住む場を奪った東電が存続できる社会は公正か?

たとえば鹿砦社が資金繰りに困ったら国は無担保で金を「援助」してくれるだろうか。そんなことはありえないじゃないか。だから中小企業の経営者は月末、年度末に資金繰りに奔走するのだ。なぜ東電だけ特別扱いなのだ。多数の人を殺し、生活苦に追い込み、住む場所を奪った東電がどうして「特別扱い」を享受できるのだろう。私にはさっぱり理屈が解らない。

が、そのからくりを理解する鍵は『NO NUKES voice』第9号に織り込まれている。結構なページ数なので全てをお読みいただくのは少々骨が折れるかもしれないが、読者の皆さんには「ああなるほど」と首肯して頂けるに違いない。

まず知らなければ判断のしようもないし、自分の意見を持つことも出来ない。その一助になればと本誌を世に送り出した。私たちは何度も何度も同じことを伝え続けなければならないだろう。それほど簡単に世が激変するものではないことを知っている。先人たちも後ろ指をさされながら、多くの人びとに無視されながらも論を曲げず、数え切れないほど同じ話を繰り返してきた。その精神に真摯に学ぼうと思う。是非お手に取ってお読み頂きたい。

マイクを握る“伊方の家”の八木健彦さん。伊方反原発の中心的人物だ(2016年7月伊方にて大宮浩平撮影)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。


◎『NO NUKES voice』第9号・主な内容◎
《グラビア》
〈緊急報告〉最高裁が上告棄却! 経産省前「脱原発」テントひろばを守れ!
福島のすがた──双葉町・2016年夏の景色 飛田晋秀さん(福島在住写真家)
原発のある町と抗いの声たち 現場至上視点(3)大宮浩平さん(写真家)

《報告》持久戦を闘うテントから
三上治さん(経産省前テントひろばスタッフ)
《インタビュー》毎日の「分岐点」が勝負──脱原発への長年の歩み
アイリーン・美緒子・スミスさん(グリーン・アクション代表)
《インタビュー》脱原発の戦いに負けはない せめぎ合いに勝てる市民の力の結集を!
菅直人さん(衆議院議員、元内閣総理大臣)
《インタビュー》復活する原子力推進勢力 この国のかたち
吉岡斉さん(九州大学教授、原子力市民委員会座長)

特集:いのちの闘い―再稼働・裁判・被曝の最前線

《インタビュー》稼働中原発に停止命令を出した唯一の裁判官 弁護士に転身しても大活躍
井戸謙一さん(弁護士)
《インタビュー》帰れない福島──帰還の無理、被曝の有理
飛田晋秀さん(福島在住写真家)
《インタビュー》ウソがどれほどばらまかれても被曝の事実は変わらない
小野俊一さん(医師、元東電社員)
《報告》原発作業とヤクザたち──手配師たちに聞く山口組分裂後の福島
渋谷三七十さん(ライター)
《報告》「原発の来た町」伊方で再稼働に抗する人たち──現場至上視点撮影後記
大宮浩平さん(写真家)
《報告》三宅洋平に〝感じた〟──参院選断想
板坂剛さん(作家・舞踊家)
《報告》みたび反原連に問う!
松岡利康(本誌発行人)
《報告》私たちそれぞれが考え抜いた選択を尊重し、認めてほしいと訴えます
武石和美さん(原発避難者)
《報告》原発プロパガンダとは何か?(第7回) プロパガンダ発展期としての八〇年代と福島民報
本間龍さん(元博報堂社員、作家)
《報告》反原発に向けた想いを次世代に継いでいきたい(8)
どう考えても、今のこの国はおかしいでしょう?
納谷正基さん(『高校生進路情報番組ラジオ・キャンパス』パーソナリティ)
《報告》原発映画のマスターピース 『一〇〇〇〇〇年後の安全』と『希望の国』
小林俊之さん(ジャーナリスト)
《提案》うたの広場 「ヘイ! 九条」
佐藤雅彦さん(翻訳家)
《提案》デモ楽――デモを楽しくするプロジェクト
佐藤雅彦さん(ジャーナリスト)
《報告》再稼働阻止全国ネットワーク 
原発再稼働を遅らせてきた世論と原発反対運動五年余 
熊本大地震の脅威+中央構造線が動いた+南海トラフ地震も心配

400名を超える学生が暮らす自治寮「熊野寮」には「自由」の空気が流れている。これだけの大所帯なので運営も一筋縄ではいかないだろう。社会や政治に強い興味のある学生も、そうでない学生も暮らす空間は、学生「自治」の最後の砦かも知れない。議論の中で私は「法政大学が監獄大学になるのに10年も要さなかった。京大は確実に権力からタ―ゲットにされていると思う。このまま行けば5年後この場所はないかも知れません」と懸念を述べた。この意見にはKさんも同意され、戦後経験したことの無い、弾圧と反動が今起こっていることについての認識で一致した。

 

議論は終息をみそうになかったが、頃合いを見て気を利かせた卒業生が缶ビールを差し入れしてくれた。熊野寮食堂に冷房はない。当日も扇風機が回っていたが滲み出る汗を抑えるまでの効果はなかったのでビールには助かった。懇談会はあらたまった「閉会」を宣言することなく「もう帰らんと家に着かれへんから」、「明日試験なので勉強して来ます」といって一人抜け二人抜け、また知り合いの顔を見つけた学生が、他の席に移動して行ったりで流れ解散となった。

この日驚いたのはKさんが実に多くの学生を良く知っており、またKさんも学生から認知されていることだった。ビールを数本開けた頃Kさんは「どうですか、この雰囲気は」と私に尋ねた。「いいですね。昔を思い出して懐かしいです」と私が答えると、Kさんは「ここにいた時代は、私の人生にとって何物にも代えがたいんですよ。ここで出会った友人たちが結局人生の中で最も重要な友人となりました」と隠し立てせず思いを語って下さった。

私はよくその気持ちが理解できるような気がした。ここで誤解を招かないように、Kさんの人となりについて若干触れておく必要があるだろう。Kさんは大学卒業後いくつかの企業で先端技術の関連業務に従事していた(現役時代は世界中を飛び回り先端技術者として世界にその名を知られていた)。定年後も独自でコンサルタント業をいとなんでいる。クライアントには海外の企業も多いそうだ。つまり彼は一般的な意味で「社会的に成功した」人物であり、仕事も趣味もない単なる「懐古主義者」とは全く異なる人物であることを強調しておく必要があろう(現役時代の収入は相当なものだったと想像される)。

そのKさんから思いを綴った下記の文章を頂いた。

京大正門には同学会やサークルの立て看板に混じって、ノンセクトの学生が出したと思われる立て看板が有った。「封鎖はオカシイ、でも停学処分はもっとオカシイ、学生に窓口がないなら実力行動は1つの手段だ」とありました。

1970年全共闘運動の終焉の年に京大に入った私にとっては、とうとう来るべきものが来たかであった。文部官僚がじわじわと大学を追い詰め、とうとう本丸に手を出してきました。広範な市民的活動が求められていると思います。

この事件に関しては既に京大当局は同学会を告訴して 関与した中核派が6名逮捕されたが、検察は3月に不起訴にしています。

詩人であり事業家でもあった故堤清二さんは戦後すぐの学生時代に共産党員になり分裂を経験したり、ご尊父との確執があったりして非常に懐の深い人でした。彼が社会思想関連の対談中で「やはり関西では 京大の存在が大きい」なる旨の発言をしています。

戦前京大は河上肇をなどのファシズムに抵抗した多くの知識人、社会主義者を輩出した。大学の自治を守ろうとした滝川事件は有名です。戦後では天皇事件をはじめ、以降綿々と継続しているリベラルの伝統は周知のことです。反原発の原子力研究者が無傷でいられたのも京大らしいといえます。その京大でおおきな反動が起こってきている、全容に迫ろう。

40年以上も前だが京大教養部で学生運動の片隅にいた。当時は三派全学連や全共闘の「実力闘争」は衰えてはいたが、京大では学生運動はそれなりに存在感を示していて、構内はそれぞれの革命を主張する人達でが入り乱れていた。日本共産党と新左翼系は鋭く対立していたが、まもなくその中で中核─革マル─青解の三つ巴の内ゲバが始まった。彼らとは少しはなれて、京大ではブント系が教養部と各学部でゆるくまとまり反帝国主義の旗の元、同学会を日共から奪還したりしてきた。全共闘の崩壊、連合赤軍の破綻、米中友好、などを経て、運動方針をめぐる本質的な亀裂が進行して深刻な事態になってきた。

そんな中で理不尽な暴力を受けたことはあったが、幸運なことに自身が相手の物理的な打撃を目的としたテロに手を染めることはなかった。自分史を語るのが本稿の目的ではないのだが、近年の学生運動を述べるための今の学生と環境を少し比較しよう。

◇経済生活
学費 1970年=12,000円/年 → 2005年=535,800円/年  35年で44.7倍。
この間に、給与5.0倍、白米12.6倍 学費に関してとんでもない値上げが継続してきたことは間違いない。給与との実感では学費は約10倍になっているはずだ。

当時家から定期的な送金がなかった私は自主管理寮にはいり生活費を抑えながらアルバイトを繰り返して何とか食べていた。さすがに学生運動家には無理だろうが、アルバイトだけで郷里へ送金していた人も寮には居たそうだ。文系であれば可能だっただろう。70年代初頭くらいまではこのように社会的な流動性が担保されていたと言えるのではないか。家の経済状況が相当悪い人でも国立大学にそれなりに入っていたことが解る。

現在の学費、入学金、下宿代などを考えると国立大でも入学時に約百万円かかることになる。京大以外ではほとんどの自主管理寮がなくなっているのだから、今大学進学志望者と、その家族は経済的に追い詰められていると思う。まるで新しい封建制が確立しているようだ。

 

◇学生生活
半世紀前との決定的な違いは その余裕のなさだ。当時は文系の学生などは、学生運動やサークル運動に参加しなければそれこそ 「デッカンショ」の世界で、一日中好きな勉強や読書にいそしむことができた。いまやどの講義も出席が単位習得と連動して厳しく管理されている。また英語教育を強化するとして、自習型のコンピューターシステムが導入されて課外での負担も増えているようだ。総じて今京大生はむやみに拘束されて疲れはてて不活発になっている。 (つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

 

昨年10月27日、京都大学でバリスト(バリケードストライキ)が京都大学同学会(大学自治会に相当するが、京大当局は現同学会を公認していない)によって行われた。バリストは1つの学舎を午前中だけ封鎖し、その後当局職員や、バリストに反対する学生たちにより解除された。京大当局は威力業務妨害で京大生を含む6名に対しての被害届を警察に出し、6名は逮捕拘留された(6名とも不起訴)。京都大学が警察権力を利用するのは1958年以来だという。

「自由」の学風が全国に知れ渡っている京大だが、「ついに21世紀型安倍ファシズムとの並走を隠すことなく露骨に表出し始めた」と関係者は深い懸念を示している。そんな中、京大当局は、4学生の無期停学処分を発表した。

過日京大の熊野寮でOBを含めてこの問題についての私的な議論の場が持たれ、私も参加を認められたので取材に赴いた。

熊野寮で行われた懇談会には熊野寮出身で既に還暦を超えた卒業生Kさんをはじめ、1952年生まれの京大OBで俸給生活をへて自由人となり、再び京大に入学した外見上は「学生」のイメージとはやや異なる現役学生のLさん他、今回「無期停学」の処分を受けた学生や数名の現役学生が集まった。また卒業後間もない若者たちも参加した。

Kさんが司会役となり進んだ議論の中で京大に再入学したLさんは「京大当局1958年以来の半世紀ぶりの学生運動に対する処分を決行した。私は大学の自治と学問の自由への重大な侵害である今回の処分に反対します。7月14日京都大学は総長名で昨秋同学会が行った反戦バリストの処分を発表した。参加した同学会役員4名の無期停学処分であり、学内への立ち入りを禁止する厳しい内容だ」と京大当局の姿勢を厳しく批判した。70年代の京大を知っているLさんにすれば目前の弾圧には、言い知れぬ隔世の感を超える危機感を抱いていることが伝わった。

Kさんは司会に徹するだけでなく、「無期限停学」の被処分者となった同学会の学生とも活発に討論していた。Kさんはバリストに反対の立場ではなかったようだが、その戦術や総括についてはKさんなりの思いも強かったようで、被処分学生との間では闊達な議論が行われた。

 

一方バリストに対する学生の評価は、必ずしも高い物ではない、という側面も明らかになった。熊野寮で暮らす学生は、「ストをすることは同学会から聞いていたが あのようなものとは思わなかった。正直おかしいと思う」と語った。「あのような」とは外人部隊(他大学からのスト参加者)が多く、中核派が影響力を持っている大学の旗が並んだことと、事前に通知なしで封鎖と授業妨害が行われたことを言う。中核派の活動のように見えたことだろう。(同学会はストライキで安倍―山極体制と戦うとは通知していた)。これに対して「無期停学」被処分者の回答は、事前にストの全容を公開すると弾圧されるので 其の時期、詳細内容は発表できなかったと釈明したが違和感を述べた学生に納得されてはいないようだった。また「反戦のためにバリストをする意味が解らない」との疑問もあった。

この問かけに対してKさんは「同学会は学生の疑問に向き合う必要がある。反戦と現在学生がおかれている状況の関連を丁寧で精緻な論理で説明して、その意味を理解してもらわなければならないのだろう」と同学会の今後を見据えたアドバイスを表明し、それについて「無期停学」被処分者は納得していた様子だった。(つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

少々長くなるが辺見庸が最近自身のブログに掲載した文章を全文引用する。

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汝アホ臣民ニ告ク

忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!

慶べ、國軆はけふ、めでたく護持せられたぞ。父、第124代天皇の罪咎はチャラになったぞ。ウルトラ極右政権はいっそう強化せられたぞ。政権支持率はまたアップしたぞ。防衛大臣もやる気マンマンだぞ。共産党も天皇制を支持しておるぞ。バカマスコミは挙げて國軆の精髄と美質を宣伝しまくり、皇室をとことん賛美しておるぞ。野党共闘はハナからインチキだぞ。ボケのトリゴエで勝てるわきゃない。そんなこたあ、みんな先刻承知だったぞ。ヌッポンゼンコクみんなイカサマだぞ。

オキモチなのだ。オキモチとオコトバだぜよ。オキモチって、どう書くか知ってるか。「お肝血」である。戦火でうしなわれたおびただしい「お肝血」を、10分間のオキモチ表明で無化してやったぞ。ざまあみろ!このうえは、誓って國軆の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ。ヌッポン、チャチャチャ。さあ、貧乏人はもっと飢えなさい。重度障がい者はもっとおびえなさい。在日コリアンも毎日ふるえなさい。忠良ナル汝アホ・ヌッポン臣民ドモニ告ク。おまえらは最低のクズ、カス、クソッタレだぜ。御名御璽
(2016/08/08)

忠良なる汝アホ臣民ニ告ク!(二白)

朕のオ・キ・モ・チ発表の真意がドアホどもにバレずによかったぜよ。朕のオキモチは「生前退(譲)位」のみにあらず。ましてや「生前廃位」などに毫もあらざるは、いまさら言ふまでもなひ。汝アホならびにボケ臣民よ、そしてド貧民どもよ、全文をしかと読んだのか。ポイントは「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」にあるのである。朕らはもはや象徴ではなひのだ。

朕と、戦争犯罪追及からあの手この手で必死こいてのがれた、父をふくむ皇祖皇宗はすでにして「いきいきとして社会(または、汝アホ臣民の胸中)に内在し」ておるのだ。かく、いけしゃあしゃあと宣わることのマジヤバい意味あいをしっかりと書きえた新聞がどこにあるか?一紙もないやろ。つまりやね、朕はぜったいの自信をもっておるのじゃ。どや、口腔部だか肛門部だかさえ判然としない顔の、あの独裁首相は「いきいきとして社会に内在し」てるか、どや?あの男は、ときいたれば打倒されるが、朕らは未来永劫、無公害・無添加・オーガニックのタダ飯食らって万世一系を全うするのである。

換言すれば、「いきいきとして社会に内在し」ている朕たちは、現行の極右政権よりも、共産党をはじめとするアホンダラ翼賛野党勢力よりも、はるかにはるかに〈勁く根深き虚構〉であるがゆえに、ここにめでたく國軆を護持しえて、バカでやみくもに忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し、柄谷行人をしていたく「感銘」せしめ(失笑)、永遠に汝らボケナス臣民とともにある、すなわち、「天皇制は不滅だぜよ」と、このたびのオキモチをつうじて宣言したわけや。これすなはち、朕による朕らのための、堂々たる憲法違反なのだ。わかったか、ボケども!

貧しき下々は永久に貧しく、卑賤なる下々は永遠に卑賤に!これが皇祖皇宗からの天皇制のモットーである。だいいち、日々にひりだすウンコの質が汝らド貧民どもとはちがう。汝ら忠良にして貧しき臣民のクソは、マックとカップ麺ばっか食ってるから、もはや有機肥料にもつかへなひ。野菜は枯れるし、虫も死ぬ。汝ら忠良にしてド貧乏なる臣民は、文字どおり「生まれることは屁と同じ」(深沢七郎)なのである。朕、しかしながら、今後ともやさしくよりそってやるさかい、忠良なる柄谷のごとくに「有り難く」(爆笑)おもへ。御名御璽
(2016/08/09)

忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(補記)

このたびのオキモチ発表は、たんなる偶然にせよ、相模原の障がい者殺傷とあい前後して生じた底昏い「事件」だとおもう。両者にはいかなる関係もないと言えば言えるけれども、殺傷事件の血煙ごしにオキモチを聞き、あるいはオキモチ発表の茫とした不気味さから重度障がい者の殺傷事件を想ってしまうのは、どうにもいたしかたのないことだ。象徴と言われようが天皇制は天皇制なのであり、〈かれらの血〉とわれらとの関係/無関係性をふりかえるとき、あるしゅの怖気と戦きをともなうのはなぜか。

障がい者の施設はいつも〈かれら〉の居住区から遠ざけられた。昭和天皇が各地を「巡幸」したとき、ヒノマルをうちふる子どもたちの前列には、きまって「健康および体格優良」なる児童がたたされた。現在の天皇の旅でも、当局は事前に、精神障がい者や認知症患者らを外出させないよう沿道の地域に直接間接、工作しているといわれる。スメラギにまつわることどもの湿った「襞」には、不可解な精神がうめこまれ、それじたい、しずやかに狂(たぶ)る 波動である。

このクニのゼノフォビア(xenophobia)は、おしなべて、こよなくスメラギを愛する。異様なほどに。スメラギはオキモチ発表にさいし、なぜそのことに言及しなかったのか。〈朝鮮人は死ね、朝鮮人は息するな〉――などと、だんじて言ってはならぬ、皇祖皇宗は半島よりきたやもしれないのだからと。スメラギが「いきいきとして社会に内在し」ているとは、どういうことか。みずから「内在」を言うとは、スメラギよ、とてもおかしい。

スメラギさんよ、あなたは虚構なのだ。虚構にすぎないのだ。卑怯で卑小な、ずるがしこい権力者たちがこしらえた、哀れなフィクションなのだ。そのようなものとして仮構された〈存在〉兼〈非在〉なのだ。われらとおなじ、そして奇しくも、障害者殺傷事件の青年と同様の、霊長目・直鼻猿亜目・真猿亜目・狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト亜科・ヒト族・ヒト亜族・ヒト属・ヒトであるにもかかわらず、虚構たることを強要されたひとなのだ。

であるなら、オキモチはやはり「お肝血」であるべきであり、スメラギはいつの日かついに、ヒトとして解放されなければならない。したがって「お肝血」発表では、退位ではなく廃位の希望を、すなわち、天皇制廃止の意向を言うべきであった。逆であった。スメラギはスメラギになりきり、権力者の思惑どおり、虚構を現実ととりちがえていた。ヒトであるならば、極右大臣たちへの認証式を欠席すればよかったのだ。「お肝血」とはそういうことだ。

さて、障害者殺傷事件の青年も、スメラギを敬愛していたのではないか。

(以上、辺見庸ブログ「私事片々」より引用)

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私は現天皇(82歳)の公務は年齢に比して過重であると思う。「もう勘弁してくれ」との気持ちはわかる。しかし、全くそういった個人的な同情と異なり、日本国憲法で定められた「天皇」の地位は不可避に差別を生み出す根源だと考える。生まれながらにして「○○様」と呼ばれる人間がいるからには、生まれながら、言葉に出すか出さないかをおいて「あの子ね……」と蔑まれる子供が必ず対として存在するのだ。つまり差別の根源なのだ。

であるから、私は憲法9条絶対死守派でありながら、天皇制を排すべきだと言う立場である。

天皇が語った言葉には表面上、大きな話題にあることはなかった。しかし「天皇」だからNHKのある時間を独占し語ることを許されたのだ。現天皇アキヒトは、その父でありアジアの殺人鬼であった「ヒロヒト」に比すれば、比較にならぬ平和主義者とされている。しかし出生によりその地位、しかも「国民統合の象徴」という、極めてあいまいな根拠に根差す「天皇制」の継続をアキヒトが表明したことを、見逃してはならない。

辺見庸「1★9★3★7(イクミナ)」(河出書房新社2016年3月増補版)

辺見のエッセーを全文引用しなければならなかった理由はここにある。私たちのような主張をするものはこの国で極僅かだろう。遠くない将来「非国民」と公然と罵られるだろう。私は辺見が言うように「退位ではなく廃位の希望を、すなわち、天皇制廃止の意向を言うべきであった」との見解には首を傾げる。

何故ならば、天皇の廃位こそがこの国の国民の根底から喚起され、絶対に譲れない一大変革となる日(おそらくそのような日を希望するのが寒々しい『妄想』と言われても仕方あるまいが)への希望を捨ててはならないと感じるからだ。辺見は罵詈雑言の中でアキヒトに「優しい」気持ちを持ってはいまいか。

言葉厳しく天皇を批判する辺見自身が、実は現天皇に投げかける言葉ほどに悪意を抱いてはいないことを私は熟知している。辺見は現天皇の言葉を聞き、実はさして驚かず、むしろ自分自身の中に「巣食う」天皇制をはぎ取ろうと、もがいたのではないだろうか。たぶんそうだ。その辺りの事情は「1★9★3★7(イクミナ)」(河出書房新社2016年3月増補版)に詳しい。この本は読まれるべきだ。

2016年8月15日。国民は言葉を失っている。天皇に頼る国などその余命は知れている。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

予兆の無い天変地異を避けることは出来ない。でも自然災害ですら、事後にはその発生のメカニズムや原因についての「憶測」が専門家によってまことしやかに語られる。曰く「この気圧配置で平地では竜巻が起こりやすいんです」「この地震はプレート型ではなく極めて浅い断層が動いた。その真上であったため震度が大きくなったのだと思われます」などなど。

◆個人とマスメディア間の不健全な条件反射

自然現象の専門家ではない一般人は「ああそうなのか」と自分が解っているのかどうか、それすら理解できない「識者談話」を聞いたり、目にすることで、その解説がどれほど不確であるか、あるいは語られた内容が空疎であるかに関わらず、一応の「納得」を示すという個人とマスメディア間の不健全な条件反射が出来上がっている。

自然災害が発生すると間をおかずにそのメカニズムや原因、さらには被害状況を知りたくなり身近なマスメディアにアクセスする行為はもはや、人間の反射と決めつけてよいほどに固定化している。

◆「歴史」についての感性や視点は多様である

さて、自然災害とは異なり、人間社会が刻んでいた「歴史」についての感性や視点は多様である。公教育では(世界中どの国でも程度の違いはあれ)その国の「勝者」から眺めた歴史しか教示されることはない。数百年前に民衆が画策した政権打倒の試みや、権力者に対する異議申し立ての実力闘争などは、それが現在の社会に地下水脈として続いていようがいまいが公教育からは、「邪史」として排除される運命にある。

逆に一度は途絶え、敗北したかに見えながら、我慢強く復権の日を虎視眈々と狙っている連中の存在感は増すばかりだ。かつて「覇権」を手にした勢力が表舞台に再登場しようと鼻息を荒くしている様子は、少し斜めから社会を眺めれば毎日、そこここにその証左を見つけることが出来る。

◆京都新聞連載コラム「旅する大日本帝国」という名称の薄気味悪さ

ここに紹介する写真は京都新聞の「地域プラス」欄に週2回ほど連載されている「旅する大日本帝国」というコラムだ。文末に「ラップナウ・コレクション(絵はがきより)」とあることから当時の絵葉書を紹介しながら「大日本帝国」時代に起きた出来事を紹介するのが京都新聞の趣旨だと想像される。

これだ。このコラム名称に私は薄気味悪さを直感した。

注視すべきは一見何の悪意も纏わない振る舞いを装ったこのコラムの題名だ。無謀な戦争に突入していったあの時代が「絵葉書」を読み返すといった、ある種無垢で微笑ましくさえある回顧作業の様に紹介される禍々しさ。これこそが2016年現在の日々を蝕んでいる「かつての勝者」が復権を目指して画策する謀略の一例だと感じるのは私の錯覚だろうか。

無謀な戦争に突入して行き、例えようもない惨劇を招いた「連中」は敗戦後も無傷だった。一部の指導者が戦犯として処刑された以外には、軍国主義指導者の大半、軍需で大儲けした財閥、そして関東大震災の際に「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」との流言飛語に多数の朝鮮人を虐殺した市民たちもついぞ反省することはなかった。「大日本帝国」の大元帥にして現人神であった天皇ヒロヒトの罪が全く問われることなく、急に「神」から「人間宣言」を行い「象徴」として自然死を遂げたことが、この欺瞞に満ちた歴史の全てを総括する。

このコラムの題名とそこで紹介されている記事を目にして、特段何も感じないか、「なぜ今、『旅する明治・大正』ではなくこのコラムの題は『旅する大日本帝国』なのか」との捻くれた疑問を持たなければならないところにまで時代の病が進行している。いつかは来るだろう、私の生きているうちだろうか、死んでからだろうかと案じていた時代は既に始まってしまった。

京都新聞の「旅する大日本帝国」7月27日は「大正と大震災編19避難列車」だ。コラムでは、
「関東大震災は一瞬にして首都圏の姿を変えた。上下水道、電気、ガス、道路、橋、堤防などあらゆる都市機能が壊滅的な打撃を受け、東海道、横須賀、中央、東北、山手、総武など鉄道各線にも影響が出た。しかし、比較的早く応急処置を完了し、運転を再開する路線もあり乗車が可能となった駅では、焼け野原から逃れようと大勢の避難民が押し寄せた(後略)」。

引き続き7月28日は「大正と大震災編20火災旋風の脅威」で、
「関東大震災で最大の犠牲者を出した地として、東京市本所区横網町の陸軍本所被覆廠跡が有名だ。約3万8千人が亡くなり、東京全体の死者約7万の半数以上を占めた(後略)」(写真参照)

「旅する大日本帝国」は絵はがきを題材に時代を振り返っているから、この解説文は京都新聞の記者がどこかで調べて書いたものだろう。

歴史を振り返る方法には多彩な手法や視点があろう。個人が幕末の歴史にのめり込んだり、戦国武将の虜になったりするのは全くの自由であるし、また別の人間が「正史」で描かれることがほとんどない「叛史」に入れ込むのも自由だ。

京都新聞は「旅する大日本帝国」で読者にある強制を強いている。それは明治以降(おそらくは敗戦までの時代を)「大日本帝国」の視点から振り返ることを容認することを読者に押し付けているからだ。

このコラムで、これまであからさまな皇国史観が登場したことはない。しかしあくまでも時代を振り返る題材と視点は「大日本帝国」のそれに限定される。繰り返すが歴史の実証的紹介であればなぜ「旅する明治・大正」であっては不具合であったのか。どうして「旅する大日本帝国」でなければならならなかったのか。その回答は読者諸氏の日常のそこここに地雷のように敷設されている。その数はポケモンの数の比ではないだろう。

◎[参考]京都新聞の関連旧連載記事「絵はがきに見る大日本帝国」

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

2016年8月6日を迎え、私にはまたしても多くの人びとと共有できないだろう、強い怒りと絶望に支配された。8月6日を迎えるにあたり今年は是非ともなされるべき検証があった。5月27日に広島を訪れたバラク・オバマ米国大統領の行動と、そこで発せられたメッセージだ。

就任直後、オバマは「ノーベル平和賞」を授与される。何の実績もないのに「平和賞」が授けられたオバマは「ノーベル平和賞」初の「先物取引オプション」の対象となった。しかしオバマの受賞式での長ったらしいスピーチの中では、

米中枢同時テロの後、世界は米国のもとに集い、アフガニスタンでの私たちの取り組みを支援し続けている。無分別な攻撃を恐れ、自衛の原則を認識したからだ。同じように、(イラク大統領だった)サダム・フセインがクウェートに侵攻したとき、世界は彼と対決しなければならないことを悟った。それは世界の総意であり、正当な理由のない攻撃をすればどうなるか、万人に向けた明確なメッセージとなった」(注:太文字は筆者)

と、「平和賞受賞スピーチで」戦争を行う言い訳を並べるという、前代未明の「好戦的演説」を行い、会場はスピーチ終了後、授賞式の会場は、つかの間静まり返った。

黒人であるオバマが米国大統領に就任したことを、確かに世界は驚きを持って受け止めた。わずか半世紀と少し前の時代には、黒人と白人の同席すらが許されなかった国で、被抑圧者の黒人から最高指導者が出るのは、米国の歴史が200年余りと比較的短く、良くも悪くも表面上の「変化」(決して本質的な変化ではない)には柔軟に対処できる素地を持っているからだろう。その事は「トランプ」という共和党大統領候補を生み出すのと同根の現象である。

そのオバマ。ノーベル平和賞先物取引オプションで最高のレバレッジが付与された「米国大統領」が5月27日広島を訪問した。平和記念資料館を10分ほど「視察」(通常入館者は館内が混雑していなくとも主要部分を見学するのに最低30分は要する)した後、献花をして、17分に及ぶ「演説」を行った。

ここに17分間の演説を引用するのは読者に退屈を強いることになるので、それは控える。ただ、オバマの演説には「原爆投下の責任」、「原爆投下への謝罪」、「被爆者の苦痛への言及」などは一切なかった。修辞に長けたスピーチライターによって用意された、ボーとして聞いていると、なんだか格調高そうに聞こえて、具体的には何も語らない(その点米国のスピーチライターの腕前は安倍のスピーチライターより数段上だ)17分の演説の感想を私なりに一言でまとめれば、「オバマ、いい加減にしろ」だ。

「反省や謝罪の意は要らないから、とにかく広島に来て!」という何のことやらさっぱりわからない「オバマを広島へ」機運は数年前から散見された。そして彼らの望み通り「一切反省や謝罪を述べない」オバマがやって来た。まず驚いたのは平和記念資料館をたった10分で「掛け抜けた」ことだ。最低でも30分と先に書いたが、多くの外国人観光客は通常1時間以上を見学に費やす。

さらに、私にとっては青天の霹靂の図が展開された。「原爆投下を全く反省しない米国大統領」に被爆者の代表が抱かれたのだ。「加害・被害」、「犯罪・贖罪」、「虐殺・そ殺された者」、これらの言葉の意味はこれでもか、これでもかとねじ曲げられ、「贖罪を行っていない加害者に永遠の被害者が抱かれるの図」が何やら、世紀の美談のように新聞紙面を飾った。加害者と被害者の対話無き「似非和解」。この姿は被爆者が永遠に救済されないことを言外に宣言したおぞましい光景だ。

そしてあろうことか8月6日松井一実広島市長は「ヒロシマ平和宣言」の中で、オバマの広島における演説を引用した。

「今年5月、原爆投下国の現役大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領は、『私自身の国と同様、核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器を持たない勇気を持たなければならない』と訴えました。それは、被爆者の『こんな思いを他の誰にもさせてはならない』という心からの叫びを受け止め、今なお存在し続ける核兵器の廃絶に立ち向かう『情熱』を、米国をはじめ世界の人びとに示すものでした。そして、あの『絶対悪』を許さないという思いがオバマ大統領に届いたことの証しでした」

同じニュースを伝える誌面には広島大学名誉教授、葉佐井博巳さん(85)のコメントが紹介されている。「日本政府も被爆者団体も原爆投下への謝罪を求めず、オバマ氏が広島に来ただけで、和解したかのような歓迎ムードが醸成されたと感じた。『家族や友人を殺された被爆者の怒りを忘れたのか』違和感があった」

葉佐井氏の感覚こそが自然ではないか。オバマが仮に広島訪問で原爆投下への謝罪を述べたのであれば松井市長もスピーチ引用の価値があっただろう。だが、どこに「加害者」と「被害者」の和解があるというのだ。繰り返すがオバマは一言も謝罪をしていないではないか。「あの『絶対悪』を許さないという思いがオバマ大統領に届いたことの証しでした」と松井市長は語ったが、この文章は、巧妙にねじれていて、実は主語がない。あたかも「原爆死者慰霊碑」に刻まれた「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬからから」のように。

間違っている。断じて間違っている。反省と謝罪なきオバマの広島訪問への賛美。その光景を美談に仕立てたがるのが米国メディアであれば、まだ腹の内は解らなくもない。しかし、日本のメディアが揃いも揃って、何故このように卑屈になる必要があるのだ。オバマ広島訪問の茶番を美談に仕立てる「被爆都市」広島市長の感性は犯罪的ですらある。本気であの様子を「和解」や「進歩」の象徴と考えているのか。オバマはノーベル平和賞先物取引オプションだ。要するに似非、疑似餌だ。その疑似餌にこうも安々と騙されて、中には涙を流す人までいる。

広島に来たのだから、せめて人目につかないように布をかけるか、それとは解りにくい容器を準備する程度の配慮があってもよさそうな、「核兵器発射装置」である銀色のスーツケースは、いつも通り常にオバマの至近距離にあったじゃないか。オバマの広島訪問は歴史に「2016年5月27日米国大統領バラク・オバマ広島を訪問」を刻まれるだろう。全くその欺瞞を度外視して。原爆被災の日は年々意味が歪められてゆく。

8月9日午前11時02分──。今日の長崎はどうだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

5月15日、朝の5時すぎから2時間半の短い時間、ATMから偽造クレジットカードで18億6千万円が引き出された事件でつぎつぎと出し子が捕まっている。20日にも、福岡県警は、福岡市東区三苫2丁目、トラック運転手立石啓太容疑者(25)を窃盗などの疑いで逮捕。出し子(引き出し役)の一人とみており、容疑を認めた。すでに逮捕されたのは13人以上。少なくとも600人の出し子が1800台のATMから引きだしたと見られている。

拘留されている出し子は、そろそろ拘留期限が切れていくが「逃がさない」と引きだしを指示した「指示役」やオーダー主と警察からのマークで戦々恐々している。

IT犯罪に詳しい作家、影野臣直氏は語る。
「もちろん出し子がどう動くか、黙秘したとしてもまた気がかわり警察に駆け込まないかはきっちりと『指示役』が監視しています。ですが、この事件はだれが頼んだかわからないようになっているはずですから解明は時間がかかる」
たとえば出し子が「Aさんに頼まれてやりました」と言うとする。A氏は警察に呼ばれるが、「クレジットカードは借金のかたにとられました」とたとえば海外にいる人の名前を出していいわけする。その後を追うのは難しいというわけだ。

出し子のひとりと接触した弁護士は言う。
「拘置所から出るなり、いきなりだれかの追尾が始まるのかと思うとぞっとします、と怯えていました」

弁護士はそれ以上の取材にがんとして口を開かない。

この「ATM引きだし事件」は、今後、暴力団がどうやって金をひねりだすか、というモデルケースになりうる点で警察の注目を浴びる。

「逮捕された出し子に山口組系組員がおり、組の関与が指摘されている。暴力団が、暴力から『頭脳犯罪』にシフトしていくという意味で分岐点となる事件です。もしくは、出し子として動いた組員は捨て石で、もっと巨大な詐欺団体が動いているのかも」(ヤクザ雑誌編集者)

いずれにせよ、出し子を警察がマークする時間は短いとの声もある。

元兵庫県警刑事で、飛松実践犯罪捜査研究所所長の飛松五男氏は言う。
「表向き、釈放された出し子に警察は行動確認をきちんと1ヶ月つけると発表するだろうが、行確など、つけてもせいぜい一週間が関の山でしょう。組織対策課も案件が山積していますし、追尾しても末端からわかることは少ない」

さて、拘留がとけた出し子の一人を、週刊誌がつかまえているようだ。
「余計なことを言わせれば捜査が遅れる。今後、防犯カメラを解析したり、出し子たちの経歴を洗ったりと捜査を慎重に進めないといけない。メディアの人たちは出し子たちの身柄をしつように追わないでほしいね」(警察関係者)

とはいうものの、出し子しか手がかりがない以上、そこからしか事実はたぐれない。神経戦が続いてるようだ。

(伊東北斗)

芸能界の闇を暴く震撼の書『芸能界薬物汚染』(鹿砦社薬物問題研究会編)

芸能界の歪んだ「仕組み」を解き明かす!『芸能人はなぜ干されるのか?』

障害者施設で19名が殺された事件が盛んに報道されている。
私が言及する余地もないので、関連して気になったこのニュースを紹介しておこう。

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妊婦の血液から胎児のダウン症などを調べる新出生前診断を受診した人は、検査開始から三年間で3万615人だったとする集計を、各地の病院でつくる研究チームがまとめた。一年目に8千人弱だった受診者は二年目に1万人を超え、三年目は約1万3千人となり、利用が拡大している実態が明らかになった。染色体異常が確定した妊婦の約九割が中絶を選んだ。
(中略)
染色体異常の疑いがある「陽性」と判定されたのは547人。さらにおなかに針を刺す羊水検査に進んで異常が確定したのは417人で、うち94%に当たる394人が人工妊娠中絶を選択した。陽性とされながら、確定診断で異常がなかった「偽陽性」も41人いた。

集計をまとめた昭和大の関沢明彦教授は「検査に伴うカウンセリングの改善など、成果は病院グループで共有している。臨床研究から一般診療に移行するか、今後の在り方を議論すべき段階に来ている」と話した。新出生前診断は、十分に理解しないまま安易に広がると命の選別につながるという指摘もあり、日本医学会が適切なカウンセリング体制があると認定した施設を選び、臨床研究として実施されている。

 <新出生前診断> 妊娠10週以降の早い時期に、妊婦の血液に含まれるDNA断片を解析し、胎児の3種類の染色体異常を高い精度で調べる検査。ダウン症や心臓疾患などを伴う染色体の異常を判定するが、確定診断には羊水検査が必要となる。2013年4月、日本医学会が認定した15の医療機関で臨床研究として始まった。受診できる人は、出産時に35歳以上となる高齢妊娠で、染色体異常のある子どもの妊娠や出産歴などの条件がある。

◎引用元=新出生前診断3万人超 臨床研究3年 染色体異常で中絶394人(東京新聞2016年7月20日)

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ああ、やっぱりそうなったかと少しばかり落胆した。私は「新出生前診断」が開発され、臨床に移される前から、これはとんでもない「優生思想」の産物で、剥き出しの差別ではないかと危惧していた。また「羊水検査」の歴史はそれよりも古いが、母体や胎児への危険があり、かつ妊婦やそのパートナーに「堕胎」の選択を迫ることになることから、かねてより反対の立場だった。

というのは私自身がある若い夫婦から「妊娠したが羊水検査を受けるべきかどうか」という問いを20年程前に投げかけられたことがあり、その機会に一通り自分なりにこの問題については調べて悩むという契機があったからだ。

羊水検査で発見されるのはダウン症を中心とした染色体異常が中心で、胎児が持っている可能性のある疾病のごく一部に過ぎない。しかもダウン症は致命傷ではなく、世間では「障害者」と呼ばれるがそれぞれの個性により、相当程度の差があるものの、多くの人が社会生活を送っている。

目出度く妊娠はしたものの、胎児が「ダウン症」のお子さんであることが判明すれば母親やパートナーが戸惑うことは無理のないことだろう。でも「個性の差」と言い換えることが可能なダウン症のお子さんが生まれたら「不幸」だと考え、その子の将来のためにか(あるいは親が「手間」や「面倒」を煩わしいと思うからか)胎児のうちに「命を絶つ」という選択には納得できない。というのが当時の私の結論であり、その思いは今日まで維持されている。

「羊水検査」より簡便な「新出生前診断」が2013年に導入されてから3万人以上の妊婦が検査を受けたそうだ。病院にもよるが「新出生前診断」は平均20万円ほどで、羊水検査は15万円ほどの費用を要する。

この検査を受けることが出来るのは「出産時に35歳以上となる高齢妊娠で、染色体異常のある子どもの妊娠や出産歴などの条件」があるとされているが、知り合いの産婦人科医に聞いたところ「現場ではそんな厳格に条件を制限してないよ。35歳以下でも検査を受け付けている病院もあるし」とのことだ。

多くの女性が不妊に悩む中、この3年間に「新出生前診断」が行われた結果として、394人の胎児が人工中絶されている。先日の「衝撃的」な事件の被害者は19人だ。人口中絶された胎児の中には「誤診」であった胎児が含まれる可能性も排除できない(紹介した記事中「陽性とされながら、確定診断で異常がなかった『偽陽性』も四十一人いた」と指摘されている通り、専門家の間でもこの検査の精度については議論がある)。

否、ポイントはそこではない。誤診ではなく、ダウン症として生まれてきたらその子は「不幸」なのだろうか。「不幸」と決めつけているのは本人ではなく、直接には「親」や「社会」ではないのか。

人工中絶全体に私は反対の立場ではない。母体の健康状態や妊娠の原因などによっては選択されることのあり得る対処ではあると思う。しかし、「新出生前診断」を受ける対象とされている妊婦やそのパートナーは、「望まない妊娠」をした人ではなく「望まない障害児」が生まれて来ることを懸念する人達や社会ではないだろうか。

敢えて問題提起をしたい。19名の殺人事件は残虐で凄惨なイメージを提供するが、394人の中絶された「胎児」は法に則り、合法的に「生まれて来ることを許されなかった」のだ。だから社会問題化されはしない。数の問題じゃなんだ。耳触りの悪くない「新出生前診断」などを導入するから検査を受ける妊婦が出て来る。そして結果は「堕胎」じゃないか。

私は「新出生前診断」は不要かつ害悪であると考える。生前からの「障害者」に対する偏見が命を奪う。これ以上の差別があるだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

命令されても、懇願されてもそうは簡単に動かないものがある。感性や感覚だ。

絵画を目にする、映画を観る、旅行に出て初めての風景に接する、政治的集まりに参加者の一員となる。各々の場面で「気持ち良く」あるいは「好感」を持つか、逆の感情・感覚に支配されるかは他人に命令や指示・懇願されてもどうなるものでもない。

「好きなモノ」は「好き」なのであり「嫌なモノ」は「嫌い」であることは、少々時間をおいて周辺の理由を探し出せば「論理的」、「客観的」に他者への説明が可能となるが、直感的・反射的に感じる「好感・非好感」は得てして論理の外にある。

だから「これを『綺麗』だと思え」、「このシーンに『感動』しろ」、「この景色は『素晴らしい』と感嘆せよ」と命じられてもそれは無茶な要求だ。さらに「この人間を『好き』になれ」、あるいは「この人間を『嘲笑』え」と言われたってそう感じなければ心は動くものではない。美味と感じない食物を「『旨い』と思え」と言われたって(幼少時の躾は例外として)形成された舌の感覚は簡単には調整が出来ない。それが「個性」だろう。

感性・感覚は、各々の成育歴と、独自に持ち合わせる特質、それに教育や情報が加味され形成されるものだ。この精神構造形成過程を変数に置き換えてみる。成育歴を「X」、独自の特質を「Y」、教育や情報を「Z」と仮定する。「X」×「Y」で個性の原型は形作られる。「X」は多様ではあるが、世代により相当程度の共通因子を包含するので社会的態度を同一化させる要因ともなりうる。「Y」は純粋に各個人が別々に持つ遺伝子情報に基づくものだから多様性を拡大する方向へと働く。

そこに「Z」が加味される。「Z」は「Y」と真逆に社会的態度を同一化させること(順社会的行動)を自然に行うことの出来る人間の育成を目指して情報注入や社会的態度の訓練が行われる。「義務教育」はまさにそれに該当する。

初等教育には(私立学校に進学するあるいは「不登校」になるほかは)「選択」の余地はなく、高等教育進学時にようやく何を学ぶかを選び取ることが出来るようになるが、その年齢に至る頃には教育と情報により、本人がそうと気づかなくともかなりの程度の「人格形成」が進んでいる。

これは全員の画一化が既に進行しているという意味では決してない。しかし人格形成における変数の中で「Z」が占める役割はかなり昔からこの島国では大きな力を持ってきたし、近年さらにその拡大を見せている。「Z」は「Y」を研磨するなり、叩き割るなどして「X」との融合の中で「望ましい社会的態度」だけではなく、個の嗜好領域にまで浸透が進んでいる。

画一化の主犯は教育だけではない。「情報」だって充分に個性を削ぎ落す役割を果たしている。何の防備もなしに降り注がれる情報を浴びていれば「何とはなしに今日の連続で明日が来る」、「10年、20年後も今と似たような生活が続く」かの如き錯覚に陥っても不思議ではない。大手メディアが提供する情報は生活不安を煽る因子を極力排除して、あたかも「経済発展、科学技術進歩の向こうには明るい明日」があるかのような文句をつける気さえ萎えさせるような情報流布に余念がない。

そんなことは真っ赤な嘘だ。10年後、20年後に今よりも安寧で幸多い生活などが成熟する、期待できる要因があれば教えてほしい。拙稿の冒頭で「命令されても、懇願されてもそうは簡単に動かないものがある。感性や感覚だ」と書いた。だが実はそれは今日的には不幸にもアイロニーではないかと感じる。

「嫌でも嫌と言えない」、「皆がそうしているのだから和は乱したくない」程度の同調圧力は今に始まったことではなく、いわばこの国のお家芸ともいえる。今年の干支は猿だが「見ざる、聞かざる、言わざる」という完全に「自我」を捨てることの推奨が格言になるようなお国柄である。

薄意味悪いのは教育や情報の成果によって完成させられた「大人」でさえ徐々に「感性や感覚」を自己抑制する傾向を感じてしまうことにある。上司や権力者だけでなく、ちょっと物言いが強い人の前では二の句が継げない(逆に言えば図々しく態度の大きい人間が幅を利かせる)。そして強い物言いにどこかしら違和感を覚えながらも、結局従ってしまう。服従してしまう。

命令されても、懇願されてもそうは簡単に動かないものがある。感性や感覚だ。だがそれすらが揺るぎだしてはいないだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

 

大流行しているスマホむけ人気ゲーム「ポケモンGO(ゴー)」で遊びながら歩行、もしくは自転車走行中の事故が激増している。

「夢中になってキャラクターをゲットするために歩いている女子のスカート中を盗撮する輩が増えていると報道されているが、この連中をあえて〝おびき寄せて慰謝料をとる〟という新手のしのぎを暴力団関係者が思いついたようです」(実話雑誌ライター)

日中でも深夜でも、キャラクターをゲットするために交通事情や周囲にかまわずふらふらと歩いている若い女性は確かに無防備だ。

「とくに後ろはまったく無防備で、性犯罪者たちがミニスカートの中などを下からスマホで撮影し放題なのは確かです。夏ですし、盗撮する連中が、画面を向ける角度によってはキャラクターを探しているのか、女性の股間を盗撮しているのか見分けにくいのでやっかいです」(警視庁関係者)

さて、この状況を利用して、ヤクザがどう金もうけにつなげるのか。仕込みの美女がミニスカで囮となって町中でスマホを片手に「ポケモンGO」のキャラ探しでうろつく。そこを盗撮する輩を見つけて「この野郎、今、俺の女を盗撮しただろう。スマホ見せてみろ」と〝美人局〟のごとくごつい男が仲間とともに登場。

「そのあと、カラオケボックスなどの〝密室〟にその盗撮野郎を連れ込んで、『もう、会社に訴えてやる』などと泣いている演技をしている囮美女を尻目に、数十万円の賠償金をとるというものです。この一連の流れを30分かからずにスピーディにやるのがポイントです」(同)

新宿の歌舞伎町や町田などでは「70万円まきあげた強者もいる」(都心の組関係者)という話が伝わっている。

「ただし、ヤクザは今、組の名前を出しただけで恐喝になる。そこを逆手にとって、明確に組員がやっているのがわかったら、そうしたしのぎをしている連中に対して、脅しをかけるかも。警察のマークがまだついていないギャングや暴走族集団たちが、ヤクザ相手に『あんたら、せこいことやってんじゃねえよ。警察にチクってやろうか』と逆ネジで口止め料を恐喝する可能性もある」(実話雑誌ライター)

「ポケモンGO」では、夢中になって歩いている人へ自転車でぶつかる「当たり屋」も急増している。開発した連中たちが想像もしないような展開がなされている。

別な意味でモンスターを育てたのは、開発した任天堂ではないだろうか。

(伊東北斗)

芸能界の闇を暴く震撼の書『芸能界薬物汚染』(鹿砦社薬物問題研究会編)

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