『NO NUKES voice』第6号発刊後、昨年12月2日「反原連」は下記のように鹿砦社との「絶縁声明」をネット上に掲載した。この内容は事実を一方的に解釈し鹿砦社を著しく名誉棄損することから、鹿砦社は「ご通告」の内容証明郵便を代理人を通し「反原連」並びにその実質的代表者のMisao Readwolf氏に対し3月23日送付した。それに至る経緯と内容は下記の通りだ。

首都圏反原発連合(略称・反原連)に通告書を送付!
http://www.rokusaisha.com/topics.html

鹿砦社オフィシャルサイトより

私たち鹿砦社は、反原連と、この実質的代表者のMisao Readwolf氏に対し、代理人弁護士を通して、(1)反原連ホームページ上に長期間アップされているステイトメントが鹿砦社の名誉を毀損しているので削除すること、(2)このかん滞っている会計報告を行うことの2点について4月8日までに履行することを求める通告書を送付しました(別掲の通り)。

反原連に対し私たちは雑誌『NO NUKES voice』創刊以来友好関係にあり、また昨年1年間に300万円余りの経済的支援も実行してまいりました。

ところが突如、反原連は昨年11月25日の同誌6号発行直後の11月30日にMisao氏が鹿砦社代表・松岡に対し「内容に関し許容範囲を超えること、経緯について信義則を反故にされたこと」「内政干渉」等々の理由でメールで絶縁を通告、そして12月2日付けで絶縁声明をホームページ上にアップしツィッター等で各方面に拡散させました。

これに対する反論は、『NO NUKES voice』7号に掲載していますのでご一読ください。

反原連による手前勝手な言動に対しては、多くの方々が批判し、また私たちへの賛同の声が多く寄せられています。しかし、反原連の背後にいる「しばき隊」の暴力を恐れ面と向かって声を挙げれないのが実情です。

私たちは、理不尽な反原連による言動に対しては断固として抗議し堂々と批判していく所存です。多くの皆様方のご理解、ご賛同をお願い申し上げます。

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ご通告
                              2016年3月23日

冠省 失礼いたします。

当職は、株式会社鹿砦社(代表者代表取締役 松岡利康。以下、「当社」)の代理人として「首都圏反原発連合」(以下「反原連」とします)と、その実質的代表者であるMisao Readwolfこと篠藤操氏に対し次の通りご通告いたします。

一 名誉棄損行為

反原連は、昨2015年12月2日以来、当社が発行する雑誌「NO NUKES voice」に関する見解と、広告掲載の中止などについて、そのホームページ上にステイトメントをアップしておられます。

同ステイトメントは当社の名誉を毀損するものであり、刑法230条に該当します。遺憾ながら、かかる名誉毀損行為はすでに4か月近くにもわたっております。つきましては、ただちに削除頂きたく本書面を差し上げます。

二 会計報告の懈怠

ご承知のように、当社は昨2015年の一年間にわたり、「広告代」、「イベント協賛金」、「原稿料」などの名目で300万円余りを反原連名義の口座(城南信用金庫、ゆうちょ振替口座)に振り込んで参りましたが、会計報告を頂いたことがありません。反原連のホームページ上では、2014年7月までの収支報告がアップされてはいるものの、それ以後はありません。当社をはじめ、多くの方々からの浄財を集めていながら、会計報告がなされていないというのは、無責任かつ重大な背信行為であると言わざるを得ません。
よって、当社が入金した昨2015年1月から12月の間につきましても、会計報告をお願い致します。

 以上につきまして、本年4月8日までにご履行頂きますようお願い致します。ご履行頂けない場合は、その理由を書面にてご回答下さい。
なお当社としましては、各種法的手段を執る準備をしておりますので、その旨申し添えます。

草々

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ちなみに反原連が現在も掲載している「絶縁状」は下記URLである。
http://coalitionagainstnukes.jp/?p=7656

多額の資金援助を受けておきながらよくも、見事な罵倒ができたものだと感心するばかりだが、読者にもご一読頂きたい。鹿砦社は本気だ。この10年間は、意識的におとなしくしていたが、怒った鹿砦社はこれまで対ジャニーズ事務所、タカラヅカ、バーニング、また警察癒着企業でパチンコ業界大手アルゼ(現ユニバーサルエンターテインメント)をはじめとする巨大勢力を含め、返り血を浴びながらも幾多の死闘、法廷闘争を闘った経験がある。当該HPの削除及び会計報告を求めている期限は4月8日だ。

「反原連」においては賢明な判断がなされることを期待するが、万が一判断を誤った場合は「それなりの覚悟あり」と鹿砦社も受け止める。読者諸氏にもご注目頂きたい。

繰り返す。期限は4月8日だ。

(佐野 宇)

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抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

出張先の東京で年度変わりを迎えた。3月31日は年度最終日で多くの方が激務に追われていたことだろう。

この日をもって「報道ステーション」(テレビ朝日)、「NEWS23」(TBS)、「クローズアップ現代」(NHK)のキャスター(報道者)が同時に交替することが話題になっている。自宅にテレビを持たない生活者は外出先でしかテレビ放送を目にすることがない。稀に鑑賞したい番組がある時は、知人宅へ出かけるという前世紀的生活が身について長い私だが、久しぶりに自分から進んで報道ステーションを観た。

◆「キャスターは孤独です」

古舘伊知郎氏がニュース番組を長く続けることになろうとは、あの「新日本プロレス」中継での猛烈かつ講談にも似た卓越した話芸が印象に残る者としては、甚だ遅すぎる感想ではあるけれども意外であった。そういえば報道ステーションに先立つ「ニュースステーション」に「ピッタシカンカン」でのマシンガントーク、久米宏氏がメインキャスターとして起用された時にも同様の驚きはあった。

ニュースステーションの初回放送と最終回、そして報道ステーションの初回放送と古舘氏降板の最終日を観ていたことに気が付いた。報道への政府から露骨な圧力が顕在化していることは周知の事実だからこの日の番組には相当の注目が集まっていたようで、1日の東京新聞は社会面で古舘氏が番組最後に語ったコメントを掲載している。

報道ステーション、NEWS23、クローズアップ現代という3番組のキャスター(報道者)同時交代事件については多数議論や分析があるだろうから、私ごときが浅い感想を述べることは控える。

古舘氏担当最終日放送の中で、私が最も印象に残ったのは番組最後の古舘氏のコメントではない。古舘氏のコメントは予想していた範囲のもので特に意外性はなかった。観ていて少し驚いたのは、久米宏氏がニュースステーションの最終回で語った内容とかなり重なる内容が多かったことだ。両氏とも「視聴者から賛同、批判様々な声が寄せられ、それによって育てられた、批判者も含めて感謝している」旨の謝辞を語っている。久米宏氏は「小学校の時教師に『長続きしない』性格だといわれたがこれだけ長く続けられた自分を今日だけは褒めたい」と言い、缶ビールを飲んで番組の最後を結んだ。古舘氏は「キャスターは孤独です」と語った。テレビを視聴しない私にも彼らにのしかかる重圧は想像に難くない。

◆凍土壁「セレモニー」の異様な光景

それは横に置く。この日の番組の中で顎が外れそうになるほど呆れたのは番組冒頭に取り上げられた女子中学生誘拐監禁(軟禁?)事件でも、インドでの建設中の高架道路崩落事件でもない。驚愕は福島第一原発で汚染水漏れ対策として凍土壁工事が始まる「セレモニー」の異様な光景だ。技術的に不安視され、規制委員会の田中俊一委員長からすらその効果が疑問視されているこの愚策開始の光景は、あたかもロケット発射慶賀場面のように準備されていた。

ヘルメットを被った東電社員と思しき集団の中心人物が「3,2,1」とのカウントダウンに沿って壁のスイッチを押す。すると周りの人間たちが一斉に拍手を始めたのだ。どうなっているんだ!こいつらの神経は。

建物の竣工式や地鎮祭ではあるまいに、連中の「拍手」は何を目出度がっているのだ。汚染水対策は過酷事故を収束させる直接の対処ではなく、悪影響を抑える目的の副次的作業じゃないのか。人間に例えれば葬式が行われようとして段取りをしている一プロセス、しかも的外れに遺族に迷惑かつ無駄な出費を強いる、無配慮な参列者のはた迷惑などんちゃん騒ぎのようなことじゃないのか。

長く長く続く原発の葬式はまだ始まってはいない。遺体はそこにあるけれども葬式の段取りをどうするかは遺族の思惑が交錯して、どの坊さんに読経してもらうのか、密葬にするのか、社葬にするのか、香典は受け取るのか、お断りするのか、戒名にはいくらかけるのか意見の集約の見込みが立っていない。

亡くなった遺体が関知しないところで諍いは続くが、香典を受け取らないことだけは一応の合意をみた。その時に「拍手」する遺族がいるか。

あの「拍手」は原発の葬式、半永久的に続く拷問にも等しい葬式への参列を強要された人達にさらなる忍従を迫る「暴虐の図」だ。その場面を準備してテレビ画像から流させる東電の底抜けの無神経と犯罪性に顎が外れそうになった。

でも少し不安になる。あの場面テレビ画像を通して目にしていた人で、私と同じように怒り心頭に激怒した方々がどのくらいいるだろうか。テレビを通じた「日常」は私の感性からはるか遠い。だから気の短い私は少しでも不要なストレスから離れるためにテレビから離れた。でもあの「暴虐の図」すらテレビ的にはさしたる例外ではないのではないか。

また当分テレビ画面と向き合うことはない日々に戻る偏屈者の2016年度が始まった。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕された元プロ野球選手の清原和博には、アントニオ猪木が格闘技での復帰プランを練ったというウワサだが、ほかにも保釈された清原容疑者にはリング出場を目論んで擦り寄る面々がいるという話だ。

週刊誌記者によると「過去に世間にスポイルされた裏社会の色濃い格闘技プランナーや、週刊ゴングで知られる日本スポーツ出版社(破産)の残党など、うさんくさい連中が清原のいる千葉県内の病院を訪れて追い返された」という。

「ほかにも、あるアパレルメーカーの社長は公判も始まっていないのに『俺なら清原をリングに立たせられる』などと言ってスポンサー集めをしてますし、かつて清原をパチンコ店の営業に連れ回した暴力団関係者も触手を伸ばしているという話」
実際、3月17日の保釈時、報道陣が追っかけた中に、その暴力団関係者の雇った車もあったという。
「なぜか報道陣を追い払うような動きをしたので、TBSなどは一度、清原の車を見失ったほどなんですよ」と記者。

わざわざ暴力団関係者がマスコミからのガードを買って出たのは、いまだ清原に利用価値があって、貸しを作るためだと見られる。
「清原が格闘技でも何でも仕事復帰するときに1枚、噛みたいのかもしれないですが、それにしても保釈後の護衛なんてのは昔の暴力団だったらまずやらない危ない手段。その程度の人間が周囲にいるようじゃ社会復帰はむしろ大変そうだと思いましたよ」

歌でも歌えれば酒井法子や清水健太郎のようにディナーショーで生きていくことも可能だが、清原容疑者にそんな芸当はない。そこで持ち上がった格闘技戦プランには、ヌード写真集で知られる出版コーディネーターが、昨年発足したイベント「RIZIN」への出場を持ちかけているという。

このコーディネーターこそ実はその清原をガードした暴力団と近い人物でもある。「もしも格闘技のイベントに黒い紳士が絡んでいるとしたら、日本スポーツ出版社(破産)のゴング編集部残党と近いヤクザだろうな。まあ最近はイースト・プレスの『GONKAKU』のライターにやたら接近してビジネスの話をしているようだがな」(キックボクシングライター)

ただ、元格闘家のジャーナリスト、片岡亮氏に言わせれば、「清原容疑者は近年、ブヨブヨのカラダでヒザも悪い。さらに薬物中毒者とくれば格闘技の試合どころではない」という。これは薬物治療の専門家も「どんなにもクスリを抜いたとしても、常習的に覚せい剤を打っていたとしたら、過度な運動は心臓がもたなくなってしまうので格闘技どころじゃない。集中治療で3年ぐらいリハビリが必要」と言っている。

現状、清原容疑者のリング登場は下心だらけの連中が本人そっちのけで描いたキャンバス上の餅でしかないようだ。

(伊東北斗)

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抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

3月29日15時から東京地裁429号法廷でいわゆる「堅川SLAPP」訴訟(平成27年[ワ]第4562号 損害賠償請求事件、佐久間健吉裁判官)の判決言い渡しが行われた。判決は「被告に39,614円の支払いを命じる」という内容であった。

この裁判は原告である「地方公務員災害補償基金」が被告の園良太氏に対して、江東区の職員Kが「首を絞められた」として損害賠償請求を提起した裁判だ。

園良太氏

事件の背景や経過は、「堅川SLAPP訴訟をたたかう会(https://tatekawaslapp.wordpress.com/)」に詳しいのでご参照いただきたい。

極めて簡略な要約をすれば、園氏が江東区職員K氏の「首を絞めた」との原告の主張に対する民事の損害賠償事件である。しかし争いの事実が存在しているのであれば、本来園氏は刑事事件として「暴行」なり「傷害」なりで事件直後に取り調べの対象のなっていなければおかしい。

偶発的な「喧嘩」や「もめ事」で当事者同士が損害賠償を争う(民事係争や法廷外での示談交渉)ことは珍しくはないが、「地方公務員災害補償基金」という公的機関が職員を暴力行為の被害者に仕立て上げるのであれば、まず警察なり、検察なりに園氏が暴力を振るった事実を訴え出るのが筋だ。

事実として「傷害」なり「暴行」の犯罪があれば、公務員にはそれを告発する法的な義務がある(刑事訴訟法239条2項「官吏又は公吏(筆者注:公務員のこと)は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。」)。これは訓示規定ではなく、したがってK氏(あるいは「地方公務員災害補償基金」)は刑事訴訟法上の義務を無視しながら、民事訴訟で損害賠償を行うという歪んだ行為をあえて意図的に行っていると解釈せざるを得ない。

原告から証拠として提出されたビデオ映像には、園氏が手を伸ばした場面は撮影されているものの「首を絞めた」場面はなく、法廷ではスケッチによる「証拠」が原告側から示されたという。しかしその内容や主張は度々変わっている。

本当に園氏がKの首を絞めた事実があったと私には到底思えない。判決後、園氏に見解を聞いた。

「この裁判は思想弾圧裁判の典型だと思います。被害とされる事実はそもそも存在しないのに、無茶苦茶な内容を押し付けてくる。証拠とされるスケッチは捏造され内容も途中で変わっていますが、判決文の中では裁判官は『それでも良い』というような表現をしている。証拠の不確実性を全く問題にはしていません。診断書があれば証言の変節も問題なしとしている。全く思考停止の判決です。この判決が適用されれば誰しもがこのような手段で弾圧を被る道筋をつけた。いつの行為かわからない、しかも事実がなくても権力に対する損害賠償を認めるという点で、この判決は権力が市民を弾圧しようとすればこんな無茶が通ると認めた点で深刻であり、全く不当な判決です」(園良太氏)

開廷を前に14:45から傍聴券が配布された。60名近くが傍聴券を求めて列をなし、東京地裁前には30名を超える公安警察があつまり、傍聴希望者の姿をビデオ撮影していた。

判決主文が言い渡されると被告の園氏は「不当判決を弾劾する!」と声をあげ、傍聴席からも次々に抗議の声が上がった。判決言い渡しであるから要する時間は数分であることは明白であるにもかかわらず、悪名高き東京地裁429号法廷(常時警備法廷)の入り口には多数の職員や公安警察が壁を作り、法廷内にも25名以上の職員が監視を行っていた。

この裁判を報じたマスコミはないだろう。しかし弾圧の水位は日常の中でじわじわと上昇していく。事実無根を根拠にした園良太氏への思想弾圧裁判は権力へ抵抗するものへの見せしめ以外の何物でもない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

女性が化粧をはじめとした「外観」に注意を払うのは自然な身だしなみとされる。女性だけでなく、男性も近年は「スルスル肌」が好まれるようで、体毛やヒゲの脱毛までを請け負う業界が結構繁盛しているようだ。「へー」と間抜けに感嘆するまでだが、そこまで「脱毛」っていいもんなんだろうか。

◆心理的負荷を与える「脱毛現象」01──抗がん剤投与による「脱毛」現象

人為的に「脱毛」をしなくとも、深刻な心理的負荷を与える「脱毛現象」がある。1つは男性(一部女性)の「ハゲ」であり、他方は抗がん剤投与による「脱毛」だ。

抗がん剤投与による「脱毛」現象が、実は抗がん剤投与終了後に何年も継続しており、それに悩んでいる人が多数いることが最近の調査で判明している。数年たっても抗がん剤投与以前の半分も発毛が見られず、それに悩んでいる人の数が相当数に上るという。

年齢にもよるが、若年癌が増加傾向にある中で、抗がん剤投与後の女性が頭髪の様子を気にするのは無理もないだろう。だから、がんに限らず薬剤の副作用によって脱毛を強いられた人には「かつら」や「ウイッグ」が実生活の上で有効だと思う。そのような方々はただでさえ、体の調子が思わしくないのだから、少しでも心理的負担を減らし日常生活での気がかりを軽減されるのが賢い選択だと思う(もちろん、本人がそう考えれば、だが)。

◆心理的負荷を与える「脱毛現象」02──男性の「若ハゲ」

一方同様の現象でも男性の「ハゲ」の場合は少し事情が異なる。これは自分自身が経験したことなので「その寂しさ」をしっかりと噛みしめながら回顧できる。「若ハゲ」はたしかに強い心理的ストレスをもたらす。私の場合、もとは「こんなに太くてクセのある髪の毛なんか、減ればいいのに」と思うほどの剛毛かつくせ毛で、毎朝頭髪を整えるのに相当苦労していた。

「願いは叶った」のかどうか知らないけれども、まだ20を少し超えた頃、額の生え際が少し後退し出しているのに気が付いた。髪の毛全体も以前ほどの剛毛ではなくなっていて、鏡を2枚用いて頭のてっぺんを見ていると、頂上部分に生え方の薄い部分がある。

この時は、ショックだった。まだ20を少し超えたばかりで「もうハゲかい」と、何ともいえない寂しさを感じたことを今でも記憶している。ご経験のある読者の方々にはお分かりいただけようが、「ハゲ」を発見した時のショックは、「外見がカッコ悪くなる」という理由もあろうが、私の場合「ハゲ=老い」の象徴という概念があったので、この年でもう「老化」が始まったのかというショックが大きかった。外見を気にするような細かな感性を持ち合わせていない私は「ハゲ」て毛髪が薄くなった自分の姿よりも、既に老化に向かっている自分の身体に激しく動揺したものだ。

とはいえ、これといって対策は講じなかった。自然に抜けるものは仕方ない。当時でも「脱毛予防剤」や、「育毛を促す」怪しい器具は販売されていたし、アデランスをはじめとする業者の広告は派手に展開されてはいたが、それらへの関心は一度も湧いたことはなかった。

◆自然の摂理にもかかわらず、露骨に感じた「ハゲ差別」

でも、「ハゲ差別」は露骨に感じた。人の体のありようについて、ことに女性の風貌についてコメントすれば、それが否定的な内容であれ、賞賛する内容であれ「女性差別だ」とする極端にも思えるほどの「フェミニズムコード」が存在するが、男性の「ハゲ」について、直接ではなくとも、コソコソ「あの人、最近薄くなったわね、かわいそうに」と陰口を叩かれることは、深刻に当人を傷つけるのだがいまだに「ハゲ差別」についての、真剣な議論は見当たらない。

いや、「ハゲ」程度で真剣な「対応コード」など作る必要がある!などと私は思っていないけれども、気の弱い男性たちはご経験のない方々が考えられないほど「ハゲ」を悩み、その解決に膨大な投資をしている。

厚労省認可の「育毛剤」が発売されてかなり時間がたつが、あれはどれほど効果があるのだろうか。私は試したことはないので判らない(正直に言えば興味もない)。育毛剤を家で頭に振りかけるくらいなら、職場や周りの人たちに気が付かれることはないだろうが、最大の悲劇は「分かりやすいかつら」を使用してしまったケースだ。

◆出来の悪いかつらほど残酷なものはない……

自分が若年性の「ハゲ」を経験したためか、私は男性の「かつら」利用者はいとも簡単に見出すことが出来る。「あーあ高いお金を払って……」と同情を禁じ得ないのだけれども、出来の悪いかつらほど残酷なものはない。「このひと生え際見えないわ。高い金払ってかつら買ったんだろうなー。外したらこんな感じでハゲているのかなー」と意地悪い想像が勝手に膨らむ。

また、各種「増毛法」商法もいかがわしいことこの上ない。抜け毛が多くなって薄くなった頭髪の対処として、残っている1本1本の髪の毛に、根元から3本の人口毛を結びつける増毛法がある。これは残っている髪の毛が抜けない限りは1本が4本になるのでボリューム感を維持できるが、もとの1本が抜けた時は一気に4本が抜けることになり、普通の脱毛よりも頭髪減少がさらに顕著に現れる。そうなればまた仕方なく残り少ない毛髪にまたしても3本の人口毛を結びつける施術を繰り返さなければならない。でも自然毛はどんどん抜けてゆくから、いずれはこの対処法は効果を失ってします。

ああ、気の毒な我が「ハゲ」被害者よ!気に病む人たちは何百万円も出費している。

◆私の妙案──禿げを隠さず刈り込めば世界は変わる!

私ははじめこそ、気が滅入ったが、ある時、妙案を思いついた。薄毛は伸ばしてハゲ部分を隠そうとすると、とても目立つ。逆に短く髪の毛を刈り込むと思いの外目立たない。2ミリから5ミリほどの超短髪に散髪屋で刈り込んでもらうと、周囲から見た印象もほとんど「ハゲ」ではなくなる。頭髪を洗う手間も省ける。

前述のように抗がん剤投与などにより、脱毛が余儀なくされている人を除き、「ハゲ」た男性諸君! 一度超短髪をお試しあれ。かつらや、いかがわしい増毛法に吸い上げられる際限ない経費が一瞬で止められる。さっぱりして、気分が変わること間違いない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』!

プロ野球公式戦開幕を前に、選手が金銭のやり取りをしていたことが問題とされた。試合前のノックでエラーをした選手への「罰金」的な徴収から、「声掛け」担当した選手が当該試合に勝利すると各選手から集めたお金を手に入れる手法など様々な行為が指摘された。プロ野球選手が「わざと負け」たり、「わざと勝ったり」する行為に手を染めれば、それは明らかな背信行為だから指弾されたり、球界から追放されても仕方ないともいえる。

◆日常的に「賭け」を強いられる職業としてのプロスポーツ選手

しかし、彼らは職業運動家(プロスポーツ選手)なのだ。勝つか負けるかを常に争う世界は、年度ごとの予算を立てて、決算を締める商売の世界とは「仕事」への向き合い方がおのずから異なる。

例外もあるがルールが複雑になるほど優秀なスポーツ選手には、明晰な頭脳が要求される。生まれ持った肉体的運動能力の優位さだけでプロの世界では活躍できない。一流選手は皆、聡明である。と同時に彼らはデータや経験値、直感に基づいて、あるプレーに「賭ける」ことも日常的に行う。

野球の打者であれば投手の投げる球種を予測(山を張る)したり、打席の中で立つ位置を微調整したりする。この行為は経験値に依拠しているが、最後は「勘」に頼るものであり、その点で彼らは日常的に業務上である種の「賭け」を強いられることと直面せざるを得ない職業人だといえる。

◆「賭け」の要素が入り込んではならない職業としての行政

この性質と全く逆に位置するのが行政に携わる人たちの仕事だ。行政は法律なり条例に依拠し議会の決定を受けて行われる公的業務であるから、本来行政に「賭け」の要素が入り込む余地はないし、入り込んではならない。

つまり「賭け」を論じる際には前提としてまず、行為者が誰であるか、そして「賭け」と言われるものの実態がいかなるものであるかが冷静に分析されなければならない。その上で行為の正邪が判断されるべきだ。

◆公営による競馬、競輪、宝くじは合法だから「良い賭博」なのか?

そもそもなぜ「賭博」は良くない行為とされるのだろうか。宝くじは「賭け」ではないのか。競馬は「賭博」ではないのか、競輪は、競艇は、オートレースは?どこからどう見ても全て明らかな「賭博」だ。では雀荘で行われる「賭けマージャン」、「闇カジノ」、「ゴルフコンペ」という名の賭けゴルフはどうして悪行とされ時に摘発されるのだろうか。

回答は極めて簡単。「賭博」の胴元が実質的に「国」(もしくは国に準ずる団体)であればその行為は「合法化」され、私人が胴元になる「賭博」は「違法」とされるのだ。賢明な読者においては勘違いされることは無かろうけれども、決して「賭博」の内容により「合法」、「非合法」の区別が線引きされる訳ではなく、あくまでも基準は「国」(もしくは国に準ずる団体)が胴元であるかないかだけが法的には「合法」、「違法」の基準なのだ。

◆試合結果を予想するサッカーくじ(toto)は国が胴元の「賭博行為」である

「野球賭博」を司る国家的制度は今のところない。したがって野球に関する全ての「賭け」は「違法」と認定される。他方サッカーには、試合結果を予想する明らかな「賭博行為」であるtoto(サッカーくじ)が存在する。国が胴元となる賭博の中でも比較的新しいこのtotoは、明らかな賭博行為のイメージを隠ぺいするために「サッカーくじ」などという名前を付けたが、「くじ」と「賭博」は全く異質かつ相いれない性質を持つ行為であることをご理解いただくのに、多言は必要あるまい。

勝負を強いられる仕事には判断においても、プレーの選択においても「賭け」が必ず必要だ。だから(言い過ぎかもわからないけれども)勝負師にとっての「賭け」は日常的行為だともいえる。よって私はあまりプロ野球選手が小銭のやり取りをしていた行為に興味が湧かない。所詮その金は彼ら自身が稼いだ金であるし、それによって試合に緊張感が出ることはあっても「わざと負けてやろう」という動機が強く引き起こされることは稀だと考えるからだ。

◆最大の「賭博」犯罪は国がGPIFに委ねた「年金原資の投機的運用」である

むしろ関心と指弾は本来「賭博」と無関係であるはずの行政が実質的に「賭博」に手を染めていることに向かうべきではないのか。目下最大の道義的犯罪は「年金原資の投機的運用」であろう。年金の資産は2016年3月現在135兆円だと言われているが、その運用は年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)に委ねられている。しかし実際の運用はGPIF自身が行うのではなく国内外の「民間金融機関」に委ねられていることはほとんど知られていない。いわば「年金原資運用の民営化」が既に強行されているのだ。しかも委託先は国内の金融機関だけでなく「JPモルガン」、「ゴールドマン・サックス」といった海外大手の多国籍金融機関にまで及ぶ。

年金を天引きされる多くの給与所得者にとっては、青天の霹靂ともいうべき狼藉が合法的に行われているのだ。年金の運用を民間会社に任せて、損出が出たらどうするのだ?誰も責任を取りはしない。仮に運用益が出たところで「瞬間的博打に勝った」だけのことで、年金が極めて不安定な運用に委ねられている構造に変わりはない。

そして、実際に運用損は計り知れない額になるだろう。2015年7月-9月の運用損が9.4兆円との実績がある。1ドル120円前後から110円前後への円高と、今後ますます進む株安により20兆円近い運用損を予想する専門家もいる。

これが「賭博」でなくて何なのだ。

プロ野球選手の賭け事(?)はスポーツ新聞の中で報じていればいい。過剰な報道に「あら、いやだわねぇ」、「子供の夢を壊す」(本当にそんな事思っているのか?と疑問だが)と感じられる方がいるかもしれないけれども、実生活上私たちには「全く関係のない話」だからだ。

一方、年金原資を投機的に運用した結果の損益は、一部富裕層を除くほとんどの人びとにマイナスの影響を及ぼすことが間違いない。

今50歳以下の人が年金を受給できる計算が、どうしても私には出来ないのだ。私の計算が間違いであればよい。誰か安心できる「回答」を示してくれないか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

3月21日、防衛大学の卒業式が行われた。卒業する日本人学生419名のうち47名が自衛官への任官を辞退した。この数は昨年の25名の約倍で日本人全卒業生の1割以上にあたる。任官辞退の過去最大は1991年の94名で第一次湾岸戦争への自衛隊派兵が焦点化された年だが、それ以来最大の任官辞退者数を記録することになった。

自衛隊の志願者を巡っては、多くの高校生が受験する「一般曹候補生」の志願者数も急減しており、2015年度の全国分は前年度と比べて19%減の2万5092人で2012年の半数近くにまで激減している。解釈改憲が行われた2014年も前年比10%減だったが、前年比約20%の落ち込みは過去最大級に際立っている。

◆任官辞退は極めて自然な選択

足音や「キナ臭い雰囲気」といったレベルではなく、堂々と戦争へ向かった方向性を政権が隠すことなく進めている。憲法もへったくれもあったもんじゃない。「武器輸出三原則」は撤廃され、東大は軍事研究の解禁を宣言し、防衛省は大学に補助金を出して軍事研究を奨励し始めた。4月からは予備自衛官として船員21名の「徴用」が予算化され実施質的海上労働者の「徴兵制」が開始される。

任官を辞退(拒否と言い換えてもいいだろう)する防衛大学卒業生の数が増加するのは、極めて自然な選択と言える。今年防衛大学を卒業する学生が入学したのは2012年4月。お粗末ではあったが民主党政権時代,まだ第二次安倍政権が誕生する前だった。防衛大学入学にあたり、まさか卒業する時に、日本が「集団的自衛権」を認め、地球の裏まで米国の尻拭いに出かけて行かなければならない時代になると予想していた学生はいなかったのではないだろうか。

◆契約不履行の責めを負うべきは安倍政権

防衛大学の学生は身分を特別職の公務員とされ、授業料は免除され、給与にあたる手当が支給される。だから昔から任官辞退をする卒業生に対しては「授業料を返せ」だとか「手当を返せ」といった批判を投げつける人がいる。「税金の無駄使い」には敏感な庶民感覚に訴えやすいそれらの批判には一理ありそうで、実はとんでもない言いがかりだと思う。

特に「専守防衛」を国是にしていた時代に入学した防衛大学の学生が、政権の勝手な「解釈改憲」によって「戦地への道」を開かれてしまったからには、何を言われようと、逃げるが勝ちだ。当初の基本契約事項「専守防衛」が反故にされたのだから、契約不履行の責めを負うべきは現政権というべきである。

◆安倍訓示文の主語は誰なのか?

卒業式に出席した安倍首相は、「今月施行される平和安全法制に基づく新しい任においても現場の隊員たちが安全を確保しながら適切に実施できるようあらゆる場面を想定して周到に準備しなければならない。平和安全法制は平和な日本の強固な基盤を築くために考え抜いた結論だ」と述べたそうだ。

「現場の隊員たちが安全を確保しながら適切に実施できるようあらゆる場面を想定して周到に準備しなければならない」と安倍は紙を見ながら訓示しているが、この文章の主語はいったい誰なのだ。自衛隊員の安全確保の責任は内閣総理大臣である安倍が負うものではないのか。まさかもう「文民統制」まで安倍の中では無きものにされているのか。もしこの文章の主語を防衛大学卒業生(自衛隊員)に押し付けているとすれば、許しがたい責任逃れの極致と断言せねばならない。

滅茶苦茶な安保法制だけ作っておいてこの主語を欠く歪な文章は「お前達は現場では、自分で安全を確保してどんな状況でも、(私は知らないから)お前達がお国のためにご奉公できるように考えて、(私は知らないし、戦場へは行かないからお前達が考えて)何とか勝手にうまいことやってくれや」としか私には翻訳できない。

「平和安全法制は平和な日本の強固な基盤を築くために考え抜いた結論だ」だと。今更ながら安倍が発する言葉の含意が、事実と何百万光年も乖離していることをまたしてもご立派に披歴している。嘘をつけ!考え抜いたのはどうやって「強行採決」を通すかだけじゃなかったのか。

こんな男のこんなちゃちな理屈に、人生や、命を左右されてはたまったものではない。しかも安倍が総理の座に居座るのは長くても数か月から数年だ。安倍の気まぐれでひん曲げられた針金のように変形してしまったこの国の形は、相当な力と年月が無ければ修復不可能だろうし、下手をすれば修復どころか、いびつな形が固定化してしまい、更なる奇形化を起こす可能性が高い。

◆防衛大生は殺したり、殺されたりする人生を選択したわけではない

それでも戦禍に自衛隊員が犠牲になった時、安倍の責任が問われることは金輪際ないだろう。イラクへ派兵された自衛隊員の自殺が相次ぎその数は100名近くに上っている。実戦を経験していないはずの自衛隊員、サマワで道路建設を中心に担っていたはずの自衛隊員や輸送機の操縦や整備に関わっていただけのはずの自衛隊員から何故これほど多くの自殺者が出るのか。防衛省はその理由を隠ぺいしている。土木作業に従事していただけならば自殺を選択するようなPTSDを抱え込むであろうか。

イラク戦争への派兵で自衛隊の死者は現地では出なかった。しかし安倍の話を聞いていると、こんな男をまともに相手にしていてはたまったもんじゃない、任官なんかとんでもないと考える防衛大学卒業生の判断の方がまっとう至極だ。「自衛隊」という名の組織幹部になろうと考えていたら、米軍の尻拭いで日本と全く関係のない国に連れて行かれて殺したり、殺されたりする人生を彼らが選択したわけではないのだから。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』!

読者の皆さんにお読みいただいている駄文は、私が「書いた」原稿のはずである。完成した原稿はそれが書籍であれ、PC上の文章であれ文字羅列でありその意味において読む側からすればさほど大きな違いはない(私自身も感じない)けれども、「書いている」はずの私はしばらく前からいたく違和感がある。

ご想像の通り私はこの原稿をPCで「書いている」。しかし頭の中では文章を構成する頭脳を使ってはいるが、手の動作はボールペンを握って紙に文字をしたためているのでなければ、鉛筆で原稿用紙に鉛の黒色で意思を表しているのでもない。私の手はひたすらPCのキーボードを「叩いて」いる。

なるほど下書きを終えてプリントアウトしてみれば、それは紙の上に印字となって現れていて「原稿を書いた」ような気分に少しはなる。が次に原稿を「叩き」始めるとまた違和感が湧いてくる。もっともそんなことを気にしていてはこの時代全く仕事にならず、直ぐにお払い箱になることは必定なのだけれども、「書く」といいながら「叩いて」いる手の動きとの不整合に対する気持ち悪さのようなものが年々つのって来る。

これが携帯電話だと「叩く」ではなくボタンを「押す」となる。モバイルPCを持っていない私は取材先から荒っぽい原稿を携帯電話で編集者へ送ることがある。指先の不器用さと不慣れ、さらには年々進行する老眼の為に小さな画面の携帯電話をのぞき込んでボタンを「押し」ながらの作文作業は煩わしいものの、予想変換機能のお蔭で少々の原稿であればさほどの苦労なく作文することが出来る。

◆「書き殴って」いた昔より「書いている」意識が希薄になってきた

日々「書き殴って」いたのは学生時代であった。発表するあてもなく誰に聞いてもらえるはずもなく、聞いてほしいとすら思わない内面の発露をノートに「書き殴って」いた。愛用していたボールペンは指に馴染み心地よくノートの上を滑ってくれた。悶々としながら夜明けまでノートに向かい続け、指が痛くなることを気にもせず「書き殴って」いた。

その内容は忘れたし、どうでもよい。問題はあの時の「書き殴って」いたという体感が、今でも私には残っているが、逆に人様に価値もない文章をお読み頂いている今日、私には「書いている」という意識が希薄になってきていることだ。

私はひたすら「叩いて」いる。取り上げるテーマにより自分の気持ちの入り具合が異なるからキーボードを「叩く」スピードなり、個々のボタンを「叩く」圧力に多少の違いがあるのは自覚する。しかしどう考えてもこれは「書く」行為ではないのではないか、という思いが確信近く高まってきている。

◆PC文法で作文する習慣に違和感を覚えなくなっていく

例えばPC文法とでも呼ぶべき新しい文法がある。正式とされる日本語文法では段落を変える時には一文字空けて次の文章を書き始めるが、PC文法においては「一文字開け」ではなく文章と文章の間に1列の間を取るのが一般化してる。まだ分析されてすらいない数多の光線が際限なく眼球に飛び込んでくるPC画面にあっては、たしかにこの体裁の方が読みやすい。しかし正式な文法からすれば、明らかに逸脱した形態だ。小論文の試験でこの体裁の文章を書けば、それだけで大きな減点を食らうことは間違いない。

しかしそう難じながらもPCで作文をする際は私自身もPC文法で作文する習慣に違和感を覚えなくなってきている。

思えば紙に向かって書いている時も、対象がノートであるか、原稿用紙であるか、便箋であるかによって私の文体と筆圧は自然な調整が働いていた。それがPCを「叩く」ようになり、おしなべて抑揚のないものになりつつあるのではないかとの不安がある。

このことをある人に話したら「じゃあ原稿用紙に書いたらどうだ」とアドバイスを受けたことがある。たしかに試してみる価値がありそうだけれども、差し当たり迫りつつあるあれこれを前にしてPCを「叩く」前に、一度「書く」実践は未だに果たせていない。最大の課題は「叩く」ことにより出現した「原稿」がどんどん内容の薄いものになりつつあるのではないかという実感と懸念である。もちろんそこには普遍的な身体と技術の問題だけではなく、私自身の不勉強という根源的な欠落があることも承知してはいる。

「書く」代わりに「叩く」ことに象徴されるように、最新テクノロジーに依拠した生活では指の使い方が極めて単純化されるのと反比例に出来上がった作品はそれなりの体をなしているというパラドクスが支配する。

◆手を使わなければ、体を使わなければ、という不安感が増してくる

手を使わなければ、体を使わなければとの不安感が増してくる。だからリンゴを剥いてみる。どうやらまだ大丈夫そうだ。玉ねぎはどうだろう。皮をむき千切り(スライス)を試みる。トントントンとリズミカルに刻めるだろうか。どうやらまだ可動域はそれほど減ぜられてはいないようだ。大根の桂剥きを試す。ちょっと怪しい。以前よりはぎとる皮の幅が厚くなっている。皮では満足できず大根をどんどん剥いてゆく。

自動車に乗る。ドアは鍵を開けずともノブを握るだけで解錠される。エンジン始動は鍵を差し込み右側に廻し、アクセルを踏みこむのではない。電気機器のようにスイッチを押せば発動する。そうそうこの車種にあってはエンジン始動の際はブレーキを踏むのが基本だ。パーキングモードにすればどれほどアクセルを踏んでもエンジンに気化したガソリンは注がれない。安全で燃費効率が高いことは疑いがない。

自動車なんて最初から理解を超えた複雑機器でそれを操作するのに両手両足を使っていたのが片足を使うだけになった、と言えばそれまでだ。

でも怪しい。確実に自分が怪しい。「叩いている」自分と「鍵を差し込みアクセルの踏込みなし」に発動する自動車を操作する自分と「書いている」自分。この差は埋められるのだろうか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

たまたま参加したセミナーで意外な発言に接した。表題の通り「資本主義の終焉」と演者は断言した。

榊原英資×水野和夫『資本主義の終焉、その先の世界』(2015年12月詩想社)


この言葉が、たとえば反体制側の運動家の口から発せられたのであれば、何も驚きに価しない。けれども、本発言は旧大蔵官僚で「ミスター円」の異名を取った榊原英資氏によるものだから驚いた。常々「末期資本主義」や「帝国主義」といった言葉を乱発している素人の私ではなく、体制のど真ん中で金融政策に関わっていた榊原氏の発言には、腰を抜かしそうになった。

役人時代も異色なキャラクターや発言で話題になることが少なくなかった榊原氏ではあるが、その日の発言は「資本主義の終焉」との言葉だけでなく、その根拠や論旨が私の持論と酷似(否、同じとすら言える)していたのだから、極端に表現すれば「驚愕」ですらあった。

◆500年位の歴史スパンで捉えると「一つの時代」は終わった

榊原氏曰く「先進国が高い成長率を目指すのは現実的ではないし、そんな時代は終わった。安倍さんは『成長戦略』なんてまだ言ってますけど無理です。歴史を500年位のスパンで捉えると一つの時代は終わったと考えられる。産業革命以降の経済成長時代は、少なくとも先進国の中では終わった。それが解っている欧州の国々はもう高成長を前提に考えてはいない。低成長の中でどのように豊かさを維持してゆくかを考えるべき時代です」

その通りだ。もっともこの発言の前には「憲法を改正して現存する自衛隊は軍隊なんだから、ちゃんと認めるべきだ」や「最終的には法人税を下げ、消費税を20%に上げるべきだ」といった、予想を外さない発言もあるにはあった。だが、そんなものは「資本主義の終焉」宣言の衝撃に比べれば聞き飽きた常套句であり、「ああ、またか」程度にしか耳に残っていない。

驚きは体制側の人間から、禁句とも言うべき「資本主義の終焉」が発語されたことだ。昨年にわかにピケティが流行ったが、表現に多少の差異はあれ、榊原氏もピケティも私も共有している概念があった。それが「資本主義の終焉」だ。

◆「資本主義終焉後の世界」を構想し、議論すべき時代

それではその後の世界はどうなるのか、どうなるのが望ましいのか、についての議論は非常に貧弱だ。榊原氏の指摘に的確な部分も見当たったが、新しい世界を規定する概念までには程遠い。無理もない。今日一部の左翼を除き、正面切って「資本主義の終焉」などと発言する人間はいないし、そのような命題の存在すらほとんど無視若しくは否定されているのだから。

目前の具体的諸課題への個別の議論も軽視は出来ないけれども「資本主義終焉後の世界」、つまり全く新しい枠組みの世界を構想し議論すべき時代なのではないだろうか。

マルクスは指針を描いたが、その限界が現実により示された。

片方で急速に戦争化する世界に「宿命的破滅」を感じる。未来などあるものか、とやけっぱちになりながらも「資本主義終焉後の世界」を考察することの価値は高い。日頃構想したこともない高い視点から未来を考える営為は刺激に満ちた知的行為だ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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この2月に大騒ぎとなった「学費の値上げデマ」について市民団体が検察に告発しそうな動きをキャッチした。東京地検特捜部にこの告発が届くにはまだ先のようだが、「参議院選挙」を睨んで告発合戦の火ぶたが切られたといってもいいだろう。この動きについては後日、詳細に伝える。

共産党の学費値上げ糾弾チラシについては、新聞でも大きく報じられた(産経新聞)が、参議院選挙を前にして、手練手管の勢力が暗躍しているようだ。

「そもそも、この日本共産党のデマのチラシは、『安倍政権が国立大学の学費を毎年値上げし、16年後に現在の年間53万円から93万円に値上げする』というもので、共産党としては、財務省の審議会が提示した、国立大学への運営費交付金の削減案に注目したものです。『仮に交付金を減らして、自己収入を増やす際、その増えた部分の全額を学費でまかなったらどうなるか』という試算を政府に出させて悪用しただけの話です。現実は、財務省審議会の提案には自民も公明も反対し、昨年11月の建議からは、学費値上げの数字は消えて、安倍政権としては例年とおり、交付金を削らないことを決議しています」(週刊誌記者)

つまり、学費の値上げ話などは、露程もないのだ。さすが、かつての石原都知事に「ハイエナ政党」と断罪された姑息な手腕やアジテーション癖はまだこの党には残っているようだ。

2月3日の衆議院予算委員会では、安倍首相がチラシを見て「まったくのデマ」「ただちに公党としては責任をもって訂正してほしい」と答弁。すると、チラシの「安倍政権が値上げ」が「安倍政権のもとで狙われる」と修正された。
修正前修正後

まさに、「ビフォーアフター」の世界だとあきれるばかり。国民が政治に不信感を持つ訳だ。国民の不安を煽って選挙へ誘導する共産党のやり口と、こんなものに振り回される馬鹿で無能な与党との競り合いは「目くそ鼻くそを嗤う」という程度のものだが、共産党は、参議院選挙では1人区はあきらめ、民主党+維新の党と連携して、与党に対抗しようという作戦のようだ。民主党と維新の党は合流して「民進党」となったが看板のすげ替えにすぎない。中身はふぬけそのものなのは時間がたつとともにわかるだろう。

『志位委員長は頭がやわらかい男です。自民を倒すためなら、柔軟に味方を作っていくのではないかな。まあ例のシールズを取り込んで票にしてしまっている時点で、彼らの手練手管は老獪だといえます』(同)

こうした動きを見ていると、共産党にはデマを平気でまく蠕動組織としての一面と、老獪な戦略家としての一面が同居している摩訶不思議な政党だ。まあ、若者が減少し、弱体化している共産党は、もはやなりふりかわっていないとも見れるが。
「そうじゃない。志位としては、忸怩たるものがあっても、民主党や維新の党と連帯しないと共産党の支持者があきれて離れていかざるを得ないと考えているのですよ」

さて、18歳と年齢が下がった魑魅魍魎、そして国民が「無関心」な争点なき参議院選挙がひたひたと近づいてくる。

(伊東北斗)

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福島原発事故5年の現実と社会運動の行方を総力特集『NO NUKES voice』Vol.7!

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