先輩の田所敏夫さんが先日、昨年12月14日に行われた鹿砦社の忘年会についてレポートしていたが、僕は僕なりにこの夜、事件があった。深夜の25時30分すぎに、「酔ってるのか? とりあえず落ち着いて座れ。」といういたずらメールが入ってきた。2012年の夏に東電をぶったたく本を作ってからこの手のストーカーメールがガンガン入ってくるようになり、無視していた。だが無視できないことに旧知のライターの名前を出して、「Aの住所を教えたらメールしないだろう よろしく!」と時間がたって入ってきた。

はっきり言って、この一連の流れとメールアドレスのデータは、警察庁のサイバー犯罪対策室の係官にルートがあるので、すぐに報告した。するとさっそく解析してくれるそうだ。警察庁の人を快く紹介してくれた弁護士の猪野雅彦先生には、心より御礼を申し上げたい。この猪野先生は、現在、パートナーの弁護士を探しているので、仕事がない弁護士は、鹿砦社(の東京編集室にいる)のハイセーヤスダ宛に連絡をしてほしい。もっとも猪野先生そのものは稲川会や怒羅権を守る弁護士なの で「強面」であることを付け加えておく(そのおかげで僕は友人がヤクザだらけとなった)。

話が横にそれた。問題は、「メール」でつきまとう、という行為についてだ。
たとえば、米ノースウエスタン大学の研究チームは、スマートフォンを1日1時間 以上使う人は、鬱になりやすいという発表をしている。

「スマホを使えば、鬱になる」という断定はここではきわめて危険だ。だが、データはスマホの使い手が鬱になりやすい、というデータを如実に示している。

僕自身は、ツイッターやフェイスブックは、「CIAおよび日本政府が個人情報を集める」ために立ち上げたと考えている。その証左の一端は、10月末に報道されたが、「米グーグルと米ヤフーが検索情報を共有する」というニュースだ。僕はなんとなくこのニュースを、「情報サービス業者のインフラ戦略」として聞いてみたが、よくよく見れば、この話は「民衆が何を考えているか、ひとつお互いに掌握しておこうじゃないか」という話だ。だから僕は一切、ツイッターもフェイスブックもやらない。LINEをやるくらいなら、携帯そのものを捨てる。

メールストーカーよ。僕は君を追跡する。
話を情報戦に絞れば、この勝負は長引きそうだ。
君が敵にまわしたのは僕だけじゃなくて「鹿砦社」全体だ。右翼にも左翼にも縦横無尽に人脈があり、ヤクザにも警察にも通じている鹿砦社と君と、どちらが勝負になるのか決着をつけようじゃないか。

そして宣言する。僕はメールでしか物を言ってこない「誰か」について、おそらくパワーをすべてつぎこみ、社会から抹殺するだ ろう。もしも過去に僕に「社会的に抹殺された」何人かについて情報を得たいなら、僕が「サイバッチ」のライターをしていた時代まで遡れ。

さあ、ゲームの始まりです。勝負のゴングは、僕の中ではすでに鳴っているのだ。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、著述業、落語の原作、官能小説、AV寸評、広告製作とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論!」の管理人。

◎川崎中1殺害事件の基層──関東連合を彷彿させる首都圏郊外「半グレ」文化
◎国勢調査の裏で跋扈する名簿屋ビジネス──芸能人の個人情報を高値で売買?

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昨年末、鬼怒川温泉に行ってきた。理由は昨秋9月10日に記録的な豪雨を記録し、鬼怒川の下流の堤防が決壊し、濁流が民家に流れ込み、不幸にも死者を出したからだ。僕は、こうした天災や事故が起きた観光地には極力行くようにしている。お悔やみの意味もあるし、「すいている」という事情もあるが、なによりもどうせ遊ぶのなら、誰かに感謝されたいとひとりの人間として率直に思う。

川治温泉の風景

今回、お世話になった鬼怒川の旅館(正確には川治温泉の旅館)は、もう集客に懸命で、上野と越谷から往復のバスを無料でだしていたほど。来年、50歳になる僕にはありがたいサービスだ。東武の特急「スペーシアきぬがわ」はかなり乗り心地がいいと、鉄道博士のO社員に聞いていたが、乗り換えの心配がいらないし、往復の交通費が無料とは感激だ。

案の定、休暇にはならず、あちらこちらに話を聞いて回る取材となり、まったく休まらないが、得てきた情報は公開する。まずこのコメントを紹介する。

「氾濫した打撃はそんなに宿泊客の激減にはつながっていないと思いますが、今年は暖冬なのが参りますよね。雪の景色を露天風呂で楽しみたいお客さまが、このシーズンは多く押し寄せますから。このあたりは、地熱で雪がとけてしまうから、雪見の露天風呂は、ここいらでは売りのひとつだから、雪が降らないのは少し残念ではあります」(ベテランの旅館店員)

帰る日に雪が降ってきた

皮肉なことに、帰る日に雪が降ってきた。朝にチェックアウトして出るときに、「この雪を見ながら露天風呂に入りたかった」とつぶやき、おごそかに降る雪をうらめしく見ていると、旅館店員が話しかけてくる。

「この雪はすぐにやみますよ。むしろ今日が来られる日だったら、バスが遅れる可能性だってあります。まあ、この暖冬をうらみますよ」

日光関連で残念なニュースがある。「日光さる軍団」のポスターやチケットなどをデザインしたアートディレクターの男性が、「デザイン料の一部しか受け取っていない」と訴訟を起こしたのだ。男性は、「おさるランド」にデザインの使用差し止めを求める仮処分を東京地裁に申し立てた。

鬼怒川の濁流

この話が複雑なのは、おさる軍団の女性社員が、「おさるランド」のアイキャッチとなっているかわいいキャラクターを描いたことだ。おさるランド側に言わせると、「自社の社員が描いたキャラクターをデザイナーが加工しただけで、著作権はこちらにある」という主張になり、両者の言い分は平行線だ。これは、東京五輪に続く「第2のエンブレム問題」として注目していきたい。

記者会見に行ってみたが、「おさるランドは、客が入っており、儲かっている。払わない理由がわからない」とデザイナー氏が主張していた。行く末を見守りたいと思う。

話を鬼怒川の観光に戻すと、倒産している旅館が鬼怒川には相次いでおり、旅館の後継者もなかなか希望者がいないようだ。

「NHKが日光を舞台にしたドラマでも作ってくれないと無理。来年の『真田丸』は関係なさそうだしねえ。あなた、鬼怒川温泉を舞台したドラマでも作ってくれませんか」と旅館の店員は言う。

ウエスタン村は、債権でもめており、実質的に破綻している。今もなお、倒産におびえて年寄りが旅館を運営、その姿に未来はない。

それでも、と僕は思う。実は鬼怒川温泉は、川の氾濫から台地が変形し、温泉が湧いたという説もある。「災い転じて」福という観光地になるように祈る。(小林俊之)

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2016年鹿児島県川内原発爆発事故に端を発する「JAPAN CHAOS」により、日本国は終焉した。娘の遥(はるか)と妻を懸命に引きつれロシアから中米のこの国に渡った私たちは難民だ。

FUKUSHIMA2011

昨年末、妻が急逝した。乳がんだった。今年は遥と二人だけで9回目の新年を迎えた。とはいってもこの国にはかつての日本で盛んであったような「新年」を祝う習慣は無い。亡命直後はそれでも妻が雑煮を作ったり、遥かには「お年玉」を渡したりしていたが、それが娘にとってこの環境に馴染むのには好ましくない、私たちだけのノスタルジーだと気がついた6年前から新年を祝う旧日本的な行為はすべてやめることにしている。

この国では2020年から「2000年以降に開発された科学技術(とりわけ電子技術)の大半は、本来的な人間の生活に資するものではない疑いがあることから、暫時使用の取りやめを勧奨する」という、世に言う「反進歩主義法(反デジタル法)」が施行されている。国民内で喧々諤々の議論の末に成立した稀代の「反進歩主義」に立脚したこの世界でも例を見ない法精神に、この国の先住民たるインディオ(インディアナ)の生活則が強く反映されていることは疑いない。

しかし、政治的に強い影響力を持たないインディオ(インディアナ)の古い習慣に中央政府が耳を傾けた理由には、米国のデフォルト及び中国の内戦勃発という激震と、この地にたどりついた我々、日本からの難民に極めて高い確率でがんが発症し出したことを直視したことも強く影響している。現実的課題として資本主義の終焉、原発をはじめとする巨大エネルギーとコンピューターテクノロジー(デジタル技術)の無限発展への懐疑と危険視が大衆の心も捉えたのだ。

私たちは強制はされてはいないものの、2030年までに「携帯電話」と「インターネット」の使用を停止するように求められている。医療分野だけは例外的に2000年以降の技術の導入も認められているが、難民である我々より先に、この国の住人の多数は既に自宅からパソコンを取り払い、家族で1台だけ非常時用に携帯電話を保持する「Emergency Usage」を難じることなく受け入れ始めている。政府の決定とはいえ、差し当たり「不便」が伴うことが明白な「反進歩主義法」への住民の理解と即応振りに、私は正直かなり驚いた。

KAGOSHIMA2015

昨年9月妻に乳がんが見つかり、医師からは余命が幾ばくも無いことを伝えられた。何の兆候も感じていなかった妻はもちろんのこと、私も大いに動揺した。遥に母親の余命を伝えるのはあまりにも過酷だと判断した私は、「反進歩主義法」の精神に背いて、スイスの最先端医療機関に妻を搬送した。もちろん遥も同行させた。金銭的に窮乏状態にある私たちが妻の治療を高額なスイスの医療機関に委ねることができたのは、皮肉にもこの国の「反進歩主義法」への反感を強く内包する「日本人難民会」の経済的支援によってであった。そして妻の乳がん発症は川内原発爆発事故直後の初期被爆が原因であることが改めて医師から指摘された。

私自身の思想や主義(そんなあからさまなものはもとより無いのだけれども)とは関係なく、娘の母親を失わせたくないとの思いの前で、普段は付き合いもそこそこの「日本人難民会」から膨大な援助を受けることに私は躊躇しなかった。

だが、妻が最新の医療技術で処置に当たっても余命が数週間だとスイスの病院で通告を受けたとき、私は腰から力が抜けた。ステージ3だか、4だか確かに中米の国では「治療困難、余命半年」を言い渡されたとき、私の心にはまだ、進歩する(はず)の技術への信仰とも言うべき思考性癖が残っていたのだ。私たちが難民として暮らす国民平均年収の20倍を超える金額を、躊躇無く受け取った私は遅まきながら、妻の葬儀後喪失感とともに、自己嫌悪に陥った。もうこの国で難民として暮らす資格なんか無いと思いつめ、教会へ懺悔に赴いたり、仕事を休み午前中から酒に浸るようになった。

あっさりしていて実は隣人の生活に良くも悪くも興味を失わない国民性など、私の頭からはすっかり吹き飛んでいた。遥を学校に送り出したあと、私は連日この国特有の度数が高い酒精を煽りだしていた。

ドアがノックされたのは酒精のビンが大方1本空になりかけた頃だっただろうか。半分うつろで吐息にたっぷりと蒸留酒の臭いを含んでいたはずの私がドアを開けると、立っていたのは差し向かいの奥さんだった。先住民とスペイン人の混血だが先住民の血の濃さが強く残る彼女の名前は記憶に間違いが無ければ「ケチュア」さんだったはずだ。

「タドコロさん、奥さんが亡くなってから町内の皆が心配しています。昨夜町委員会でどうしたらタドコロさんが元気になるか議論しました。もしお願いできたら今年の『町委員長』を引き受けてもらえないか、と結論が出ました。もちろん難民は法律上『町委員長』にはなれませんから、役所への名簿にはうちの主人の名前を載せます。でもこの町内を今年はタドコロさんに任せたい、と結果が出ました」

いったい何を考えているのだ。立っているだけでまともに受け答えができない私は答に窮した。ケチュアさんは続けた。

「タドコロさんは急に奥さんをなくしてとても気の毒だし、落ち込んでいる。きっとスイスに行ったことにも複雑なお気持ちがあるでしょう。私たちはタドコロさんが『日本人難民会』から支援を受けたことを知っていますが、誰もそれを責めてはいません。何故だかわかりますか?」

親切な配慮のようで油断のならないこの質問に泥酔状態の私は窮した。

「タドコロさんはオオタリュウを知っていますね。ご存じないかもしれませんが『反進歩主義法』は表向き私たちの先祖インディオ(インディアナ)の思想回帰の形を基礎としていますが、政府はオオタリュウの思想を詳細に検討しているのです。オオタリュウと会ったことがあるんですよね、知り合いだったのですね、タドコロさん?」

私の酔いは瞬時に醒めた。「待ってくれ、オオタリュウ(大田竜)の名前を知らないわけじゃない、彼の大雑把な思想変遷もまったき不案内なわけではないけども、私は彼と生きている時代も世界も違った。私がオオタリュウと知り合いだなどといったい勘違い(虚言?)をいったい誰が・・・」とまくし立てようとしたが言葉が出なかった。

「こんな言い方は失礼ですが、物質文明と経済発展だけに狂って破綻した『日本』を政府も、私たちも実はとても真剣に考えているんです。明日の私たちの姿と重ねながら。そこから生まれたのが『反進歩主義法』なのです。でも破滅した『日本』の中にオオタリュウやアンドウショウエキ、タナカショウゾウ、フジモトトシオといった優れた思想があったことはとても興味深い事実です。だからタドコロさんにはその思想をこの町内で教えてほしいのです」

もう私は完全に体温が下がりはじめていた。たしか「笛」を意味するはずの名前を持つ差し向かいの奥さんがただの主婦ではないことは明白だ。普段口数少ないこの主婦が政府の情報機関に関する仕事をしていることは間違いない。それにしても40年前の日本の公安が監視対象としていたような(それにしては人選が相当大雑把な)人物を政策立案の参考にするこの国はいったい何を考えているのだ。彼女が口にした人物たちが生きたのは時代も異なり思想にも相当開きがある。それ以上に私からは晩年思想的に破綻したとしか思われない人間の名前が重宝されている。

本当に「反進歩主義」など実現できると思っているのだろうか。

その時、遥が帰ってきた。「こんにちは、ケチュアさん。お父さんまたお酒臭いよ。だらしない。お母さんは神様の下に召されたんだから、いつまでも落ち込んでいちゃだめ! 私ね、今日嬉しいことがあったんだ。クラス討論の時間にお母さんの最期の話をしたのね、そしたら学校で3人しかいない『反進歩主義法』討論委員に選ばれたんだよ!今からお母さんのお墓に報告に行ってくるね。いいでしょ?」

「ああ、それは良かった、気をつけて行っておいで」私は虚ろに答えた。
ケチュアさんが口を開いた。
「ハルカさんは元気そうで良かった。タドコロさん。私たちは本気で『反進歩主義法』を進めたいと考えているのです。それにその先に…… もし可能ならこの国家を終わりにしたい……」

彼女の言葉を全て信じたわけではない。でも、難民として受け入れられてからこの国が私たちに与えてくれた厚遇は、豊かではない国家財政の中で破格というべきものだった。そこには何らかの打算や損得勘定を感じさせるものは一切なかった。

「わかりました、私でよかったらお引き受けしますよ」

自分でも驚くほど無謀な答えが口から飛び出した。急速に脳が回転し始めた。どんな結果になるにせよ近代の反省に立脚する「反進歩主義」の壮大な社会実験に俄然興味が沸いてきた。自分が難民であることも忘れた。娘が討論委員に選ばれたのが政府の恣意か偶然かもどうでも良い。本気かどうかわからないが「それにその先に……もし可能ならこの国家を終わりにしたい……」は、抗いがたい魅力に満ちている。

生きる目的を数十年ぶりに与えられた気がする。2026年は「反進歩主義」から「国家の終焉」を夢見て働くことができる。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎2016年逝きし世の日本へ──2024年8月15日に記された日系難民家族の回想記
◎負け続けた2015年──「普通の人」たちが生み出した絶望と病理の行方
◎2015年日本の現実──日本に戦争がやってくる
◎菅直人VS安倍晋三裁判──請求棄却判決の不当とねじれ過ぎた真実
◎3.11以後の世界──日本で具現化された「ニュースピーク」の時代に抗す

「脱原発」×「反戦」の共同戦線誌『NO NUKES voice(ノーニュークスヴォイス)』第6号!

 

終わりだ。2015年が暮れてゆく。読者諸氏と何かを共有できるとすれば、「お互い生きて年を越せそうだ」ということくらいだろうか。毎度毎度独りよがりで、偏屈な語りばかりの私だから大晦日ぐらい頬が緩むような明るい話題をお伝えしたい、何かあるはずだろう。「安寧」か「労い」か「希望」の欠片でもいい。大晦日なのだから「前向きさ」、あるいは誰にも口を割りはしなかった秘そやかな「喜び」のようなものはないのか。さらに言いつのれば「軽い嘘」でもいい。年の終わりなのだから腹を捩じらせないまでも、微笑ましい何かを献上できないものか。

田所敏夫「8.27反安倍ハンストの大きな意味」(2015年8月28日)より

結局ダメだ。書けない。やはり軽くても嘘はどうあがいても書けない。「2015年」の結びだからだろうか。

◆2015年の絶望は、他者を当然のように排除する「普通の人」たちの台頭だった

「2015年」私にとっては絶望を徹底化された年だった。キーワードは「普通」または「普通の人」である。

幼少時より自分が「普通」ではないとさんざん思い知らされてた私(個人)にとっては、「普通」または「普通の人」が持つ概念と語感の強制には慣れ過ぎていて、全く痛痒はない。けれども、ついに「普通」または「普通の人」という概念は私だけをターゲットにする域を大いに超えた。多数派が誰彼構わず意見や行動様式が異なる人びとを揶揄する際、実に無垢に聞こえながら底抜けに恐ろしい恫喝の用語として、こともあろうに「政府が行おうとしている暴挙に反対する場所」でさえまき散らされたのだ。「排除」の道具としてである。

田所敏夫「安保法採決直後に若者弾圧!ハンスト学生への『不当ガサ入れ』現場報告」(2015年9月25日)より

「警察」や「権力」、「国家」などという概念とその実態に少しでも思索を巡らせた経験があれば、語るのが恥ずかしいほど最低限の自明性すら死滅しているのだ(それは「戦後民主主義」と呼ばれたものと重複する)。実に基礎的な、幼稚園児程度の経験則も論理も社会構造への理解も知識もない自称主催者たち(誰も彼らを『主催者』と認めたことはないのだが)。彼らが振りまく「普通」あるいは「普通の人」を少し解読すれば、その意味するところ「彼らの行動方針に従う人か、従わない人か」のみを尺度とした分類であることに慄然とする。

彼らは「普通」または「普通の人」でなければその場所に留まらせることすら許さない。罵倒を浴びせて追い出そうとする。攻撃される人が持っているモノをぶっ壊す。暴挙に及ぶ「普通の人」たちを年格好から想像すれば、一応の経験もして来ただろうと思しき年齢の人たちが遠巻きに見ている。同罪だ。

田所敏夫「見せしめ逮捕のハンスト学生勾留理由開示公判」(2015年9月26日)より

◆2015年の病理は安倍でも自公でも警察でもなかった

「何をやってるんだ!やめろ!」と液晶の画面越しに私は怒鳴った。「普通」もしくは「普通の人」ではないから揉みくちゃにされ、あげくの果てに警察(!)に向かい「こいつら○○だから帰らせた方がいいですよ。逮捕してくださいよ」と口走った男とその仲間たち。この連中の妄動は「2015年」私にとって最も印象深い可視的な「罪」として記憶されている。「戦争推進法案」成立と同等もしくはそれ以上に深刻である壮大な病理だ。

安倍でもなく、自民党、公明党でもない。公安警察でも機動隊でもない。今年いよいよもってその本性を露わにしたのは権力者に命令されてもいないのに、権力者が内心期待する以上の自主的規制から、さらに踏み込み結果、公安警察並みの役割を果たした「普通の人」たちだ。

スマートフォンや各種の伝達媒体の普及で映像の伝達、風景を記録する機器が市民の手に備わった唯一のメリットは、権力があからさまな暴力を振るいにくくなったことだ。だから大集会や大勢のデモにおける機動隊の既得権であった暴力は圧倒的に抑えられている。だが、その逆の側では権力でさえ躊躇する思想弾圧や暴力を「普通の人」たちが代行する。もう機動隊など不要なのだ。

◆2015年の不快は、言葉と意味の不調和、背理の極まりだった

「民主主義ってなんだ」と壊れたレコードのように繰り返す大学生たち。「本気で止める」気など皆無のくせにデザインにだけは広告代理店並みの注意を払い、絶対に本質的な抗議を忌避する不気味な集団。その背後であれこれ采配を振るい、世間受けする配役や、あろうことか「金儲けに」にまでも抜け目のない腹黒い輩たち。それをあたかも何か新しい思想胎動の発芽のように繰り返し報じ、恥を知らない「東京新聞」や「週刊金曜日」を始めとする「良心的」メディア。そう「赤旗」も忘れてはいけない。

これらの塊が私には猛烈に不快でたまらない。悪意なさそうで計算高く、本当は欺瞞だと気づいていながらも付和雷同が処世訓として身に着いた「普通の人」たち。彼らをひとからげに「ファシズム・ファシスト」と呼びつける訳にはゆかない。彼等は冗談でなく「アンチファシズム」(!)を標榜しているのだ。こんなにも激しい言葉と意味の不調和、背理の極まりがあろうか。

計算高いことにかけては人後に落ちない「日本共産党」はついに来年の通常国会の開会式に参加することを表明した。「憲法の規定による国事行為の範囲を超える問題がある」を理由に天皇が主席する国会の開会式への出席を1947年から控えてきた「日本共産党」。12月24日わざわざ大島理森=衆議院議長を訪ねて、この意向を明らかにした。


◎[参考動画]共産党、国会開会式出席へ 約40年ぶり方針転換(共同通信社2015年12月23日に公開)

何故に「この時期」に、独自に発表するのではなく「わざわざ大島理森衆議院議長を訪ねて」表明しなければならなかったのか。そうしたのか。

「日本共産党」は自公政権に対抗するために「国民連合政府」を提唱し、野党に選挙協力を働きかけている。候補者擁立が決定していた熊本で既に公認候補の取り下げを決定し、今後さらに「野党共闘の柱」として存在感を誇示してゆきたいようだ。

田所敏夫「戦争法案『断固阻止!』──沖縄『祖国復帰斗争碑』に学ぶ反戦の哲学」(2015年9月15日)より

そのためには「現実路線」と冠される「日米安保反対の一時凍結」まで差し出している。

前述の「普通」または「普通の人」を名乗り全国の市民運動の背後でいそいそと糸を手繰っている人たちの中に「日本共産党」党員が少なからず入り込んでいることは偶然だろうか。

で、一体何がしたいのだ?「日本共産党」の諸君、ではない「普通の人」たち。
私は確信する。「普通の人」たちは来年、私や「普通ではない」人たち「まつろわぬもの」を血眼になって探し出し、排除にかかるだろう。

「2015年」を総括する。私(たち)は「普通の人」たちの成す勢いに敗北した。
「15年安保」などという成立しえない虚語が許されている。
「60年安保」、「70年安保」と並列で「15年安保」を語る心象は「普通の人」にしか能わぬ技だ。
「2015年」私(たち)は徹底的に敗北した。敗北し続けた。
負け続けた2015年が暮れてゆく。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎2015年再考(3)湯川さん、後藤さん人質事件の惨事からこの国は何を学んだか?
◎2015年再考(4)戦争と大学──「学」の堤防は決壊し、日常を濁流が飲み込んだ
◎3.11以後の世界──日本で具現化された「ニュースピーク」の時代に抗す

「脱原発」×「反戦」の共同戦線誌『NO NUKES voice』!

『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン!

 

東京大学総長の濱田純一(当時)が「デュアル・ユース(軍民両用技術)」の研究解禁の声明を発表したのは今年の1月16日だった。

濱田純一はその声明の中で「軍事研究の意味合いは曖昧」だが「東京大学での研究成果について、デュアル・ユースの可能性は高まっている」と表明した。

その上で、「このような状況を考慮すれば、東京大学における軍事研究の禁止の原則について一般的に論じるだけでなく、世界の知との自由闊達な交流こそがもっとも国民の安心と安全に寄与しうるという基本認識を前提とし、そのために研究成果の公開性が大学の学術の根幹をなすことを踏まえつつ、具体的な個々の場面での適切なデュアル・ユースのあり方を丁寧に議論し対応していくことが必要であると考える」と結び、「軍民両用技術」研究解禁を容認する声明を東京大学の総長として発したわけだ。

2015年1月16日付け濱田純一東京大学総長(当時)の声明

◆迂遠な表現で「軍事研究」全面解禁を表明した東大総長声明は歴史的な事件である

迂遠でありながら意図するところが「軍事研究」の全面解禁に他ならないこの「宣言」は2015年が、まつりごと(政治)の世界だけではなく学問、教育機関も「戦争」へ向かうことを明言した「事件」として記憶されなければならない。

さらに最近になり、この「軍事研究解禁宣言」以前から、こともあろうに米軍の資金提供を受けた研究が全国の大学で多数行われていたことが判明した。
「研究機関に米軍資金 名城大など計2億円超」(2015年12月7日付中日新聞)

教育・研究の現場では「戦争準備」体制が誰はばかることなく猛烈な勢いで立ち上がっている。

◆「戦争推進法案」賛成の意見を国会で述べたピエロ村田晃嗣=同志社大学長

「良心」も「節操」も入り込む隙間すらない「高等教育機関」の際限なき国家への追従、堕落の惨憺極まりない無聊な絵画の仕上げを担ったのは同志社大学長村田晃嗣(当時)だった。

ピエロを演じる自覚があったのかどうか知らないけれども、私の感覚からすれば「道化者」のような衣装をまとい国会特別委員会中央公聴会に公明党推薦の参考人として「戦争推進法案」賛成の意見を述べた村田は「道化」が過ぎて同志社大学長選挙で落選の憂き目を見た。だが、それをもって「同志社」の良心復活などと喜んでいる方々がいるとすれば目出度たさが過ぎるというものだ。

最後の堤防はつとに決壊し、濁流が日常を飲み込んでいるこの人為災害を感じることができなければ、高等教育機関で教鞭を取っている方々は職を辞したほうが良い。


◎[参考動画]戦争法案【賛成】公述人=公明党推薦・村田晃嗣=同志社大学学長(2015年7月13日)

◆「卑怯な非政治性」をまとった鵺(ぬえ)たちの学府

「戦争」加担に自然科学も社会科学も人文科学もありはしない。2015年12月、大学で教職にあり、戦争に「反対しない」ことは(戦争に)「加担する」ことと同義である。もう、中間領域などない。「YES」か「NO」。どちらにつくか、自身の立場を明確にしない研究者、教育者はすべて戦争に加担する「卑怯な非政治性」をまとった鵺(ぬえ)だ。

否、さらに悪質なのは「戦争推進法案」反対運動が全国で沸き上がり、その中心として国会前で行われた抗議行動に登場した現職・引退した大学教員達だ。政治の「イロハ」も知らぬ学生たちが(おそらく)本能的に「戦争は嫌だ」と起こした行動を自身の「良識派」振り発揮の好機だと姑息にも抜け目のなかった連中は、本質的な「戦争への反対・国家への抵抗」を極力「排除」すべく「坊や」や「お嬢ちゃん」たちに賛辞を投げかけ、「ようやく若者が目覚めた」、「この日を待っていた」などと聞いて居る者が恥を感じるような甘っちょろくも薄っぺらな軽口を叩き続けた。

◆「若者に共感した」と言いつつ、ストも打たず職も辞さない大学の教職員たち

自民党の勉強会で何度も講師を勤めたあの改憲論者さえもがそこにはいた。あんた達は国会の前で学生を持ち上げているけども日頃は大学で何をしているんだ。教授会で「戦争推進法案反対」の決議を提案したのか。まさか学内に公安警察を常駐させていて黙ってはいまいな。学内外でビラを配布しようとしている学生を監視し、弾圧をしてなどいまいな。絶対に。

60年安保や70年安保よりあたかも「優秀」な抗議行動のようにあちこちで吹聴していた東大名誉教授、あんたはいつの時代でも結局時代と寄り添っているだけじゃないのか。そもそもコンサートか何かと見違えるような、あの光景を見てあれが「反政府抗議行動」だと本気で感じていたのか。だとすればあんたの得意な打算は完全に的外れだ。あんたは完全に勘違いしている。救いがたく。だから本音をちょっと発語しただけで総叩きにあったじゃないか。

「戦争推進法案」に反対して教職員組合がストライキを打った大学があるか。職を辞した教員がいるか。自分の仕事や体の一部でも「賭けて」闘った教員がいたら教えてくれ。

年末の流行語大賞の候補に戦争推進法案反対に関係する「○○○○」や「××××」が選ばれたといって喜んでいる愚民たち。そこにニコニコしながら加わる澤地久恵。広告代理店と資本によって回収されていく情報商品に選定された「戦争反対」は滑稽ではなく恐ろしさを強いてくる。怖いのは権力や資本じゃない。誰にも指示されずに、アルバイト代ももらわずに権力代行業に余念のない(しかも本人には悪意が全くない)スタイリッシュでカッコよく「普通」な人。「普通の人」が織りなす「パレード」や「フライヤー」だ(「デモ」や「ビラ」はダサいから排除される)。

東大総長の「軍事研究解禁」と同志社大学長の村田の国会における希代の「戦争賛成」発言。そして戦争に「反対」しているはずで9条改憲は賛成で、リベラルで「自民党感じ悪いよね」なのに安倍政権打倒と言ったら「過激」だと怒る人達。
ビルの横でニンマリウインクしているジョージ・オーウェルと目が合った。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎今こそ同志社を<反戦の砦>に! 教職員有志「安保法制を考える緊急集会」開催
◎同志社の「良心」は「安保法案」賛成の村田晃嗣学長を許すのか?
◎3.11以後の世界──日本で具現化された「ニュースピーク」の時代に抗す
◎快挙は国会前デモだけじゃない!──6日目124時間を越えた学生ハンスト闘争
◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎2015年再考(3)湯川さん、後藤さん人質事件の惨事からこの国は何を学んだか?

自由に多様な論争を!「脱原発」×「反戦」の共同戦線誌『NO NUKES voice』!

『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

 

-『広河隆一 人間の戦場』(長谷川三郎監督)-

フォトジャーナリスト広河隆一氏を活写したドキュメンタリー映画『広河隆一 人間の戦場』(長谷川三郎監督)が12月19日に封切られた。20日新宿「K’s cinema」で上映後、広河氏と長谷川監督の舞台挨拶とトークショーが開かれた。

「ジャーナリストである前に自分は人間だ」
広河氏の活動を理解する根源的な精神は、この言葉の中に集約されているといっても過言ではあるまい。

「負けっぱなしですよ。でもこのままでおくものか、という気持ちもある」
広河氏の語り口は明瞭とは言い難いし概して口数は少ない。しかし彼が口を開くと、はっとさせられる「直撃弾」のような真っ直ぐな言葉が紡がれる。

広河隆一氏

現役のフォトジャーナリストがドキュメンタリー映画の主人公となる「人間の戦場」は2年間の製作期間を要し、パレスチナ、チェルノブイリ、福島、沖縄などで広河氏の取材や救援活動の様子を映し出す。国家や戦争・紛争により極小の個人、とりわけ「子供」が無残に「殺され」、「病まされる」現場を追う広河氏は「死体の写真しか撮れないほどジャーナリストにとって悔しいことはない」と語る。

◆ジャーナリストである前に自分は人間だ

「死体」や「凄惨な現場」のみを専ら被写体として探し回り、世界の紛争地帯の表面だけを追う「戦場カメラマン」が少なくないことを私は知っている。彼らにとって「戦争」や「悲劇」は商売上、絶対必要な舞台であるから、「死体を撮る」ことに悔しさを感じることはない。彼らは広河氏の「ジャーナリストである前に自分は人間だ」という言葉に痛撃を受け「人間の戦場」を最後まで心穏やかに鑑賞することはできはしない。

広河隆一氏と長谷川三郎監督の舞台挨拶(2015年12月20日新宿K's cinema)

広河氏の活動を少なからず知る私にとっても取材現場での彼の身のこなしや、被写体との距離の取り方、幾通りも理解が可能な「現場」への意味づけの視点など発見が多くあった。

◆救援活動の先駆者としての広河隆一

広河氏はまた、フォトジャーナリストでありながら、常人の想像を超える救援活動の先駆者でもある。大施設に発展を遂げたチェルノブイリ原発事故地の影響を受ける地域の子どもたち保養施設「希望」建設にといった想像を絶するプロジェクトを広河氏は幾つも手掛けた。

一方で個人への援助や継続的な友人関係も数えきれない。「人間の戦場」ではウクライナのナターシャさんが生き証人として登場する。広河氏を「お父さん」とまで呼ぶナターシャさんとの交際は彼女が11歳の時から始まり、甲状腺ガンを患い手術を受ける時にも広河氏は付き添ったという。

長谷川三郎監督

幸い健康を取り戻し、結婚をして2児の母になったナターシャさんは実に明るく、広河氏を含む撮影クルーを自宅に招き入れる。どれほどの打ち合わせをしても、絶対に作り出すことは出来ない「心からの笑顔」が広河氏とナターシャさんの関係の全てを物語る。

施設や設備の建設や設立、いわば「マクロ」(状況全体へ)の救援と同時に個々の人びととへの救援(「ミクロ」)と交際を続ける広河氏のエネルギーには圧倒されるばかりだ。全世界に何百人、否、何千人ものナターシャさんがいるのだろう。

◆映像化されることで違う力をもった広河隆一の仕事

上映後のトークショウで広河氏は幾分照れながら、当初撮影されることに戸惑いを感じていたことを告白する。しかし「自分の仕事が映像化されることによりまた違う力をもつようになった」成果を実感しているようだ。

広河隆一氏と長谷川三郎監督(2015年12月20日新宿K's cinema)

長谷川監督はこう語る。
「ドキュメンタリー作品はたくさん手掛けてきたが、ジャーナリストが取材している場所へカメラを向けていくというのはその場の人びとに大変なストレスをかける仕事で、相当に神経をつかった」

そうだろう。広河氏は撮影中も自分が「被写体」であることをしばしば忘れ、監督やカメラに向かって「私じゃなくてそちらを撮れ!」と何度も要請をしたという。骨の髄まで沁み込んだジャーナリストとしての感覚。撮影する側と撮影される側の神経をすり減らすような境界線のせめぎ合いが「人間の戦場」の醍醐味でもある。

映画終盤に広河氏が「新しいテーマ」に取り組み始めるシーンがある。彼はどんな切り口で「あの壮大」なテーマを切り取りだしてくれるだろうか。「人間の戦場」は「新しいテーマ」との激闘を始めた広河氏の改めての「戦闘宣言」なのかもしれない

『広河隆一 人間の戦場』は新宿「K’s cinema」、神奈川「シネマ・ジャック&ベティ―」、愛知「名古屋シネマテーク」、大阪「第七藝術劇場」、兵庫「神戸アートビレッジセンタ―、広島「横川シネマ」などで順次公開予定。詳細は「人間の戦場」公式HPをご参照頂きたい。
http://www.ningen-no-senjyo.com/


◎『広河隆一 人間の戦場』劇場予告編

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎福島原発被曝の現実から目をそらさない「DAYS JAPAN」と広河隆一氏の在野精神
◎鹿砦社大忘年会の宴!「前へ!前へ!」と走り続け、どんな議論も引き受ける!!
◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎2015年再考(3)湯川さん、後藤さん人質事件の惨事からこの国は何を学んだか?

自由な言論の場は1ミリも揺るがない!「脱原発」×「反戦」の共同戦線誌『NO NUKES voice』第6号!

今年2月1日の本コラムで「イスラム国人質『国策』疑惑―湯川さんは政府の捨て石だったのか」を書いた。イスラム国に「戦犯」(War Criminal)として囚われた湯川遥菜さんと「人質」(Hostage)とされ身柄を拘束された後藤健二さんが共に殺害されたのは1月31日だと推測される。イスラム国は「武器販売」を目的としていた湯川さんを2014年8月に拘束し「戦争犯罪人」として当初より処刑の意向を示したが、「人質」とされた後藤さんの身柄拘束は14年10月中旬と考えられ、身柄解放に関しては10億円の身代金がご家族に要求されている。

14年8月16日に湯川さんの身柄が拘束されていることを知った政府は、名ばかりの「現地対策本部」をヨルダン大使館内におく。国会で野党議員の「現地対策本部は具体的にどういう人員で何をしていたのか」の問いに、通常大使館駐在する人間の数と同等で「情報収集などにあたった」と岸田外相は答弁していたけれども、この時点で「現地対策本部」は何もしていなかったことが明らかになった。

2015年1月17日安倍首相はエジプトで、
(1)ここで私は再び、お約束します。日本政府は、中東全体を視野に入れ、人道支援、インフラ整備など非軍事の分野で、25億ドル相当の支援を、新たに実施いたします。
(2)エジプトが安定すれば、中東は大きく発展し、繁栄するでしょう。私は日本からご一緒いただいたビジネス・リーダーの皆様に、ぜひこの精神にたって、エジプトへの関わりを増やしていただきたいと願っています。 日本政府は、その下支えに力を惜しみません。 E-Just(イー・ジャスト)にとって便利で、有望な産業立地とも近いボルグ・エル・アラブ(Borg El-Arab)国際空港の拡張を、お手伝いします。電力網の整備とあわせ、3億6000万ドルの円借款を提供します。
(3)その目的のため、私が明日からしようとしていることをお聞き下さい。
まず私はアンマンで、激動する情勢の最前線に立つヨルダン政府に対し、変わらぬ支援を表明します。国王アブドゥッラー二世には、宗教間の融和に対するご努力に、心から敬意を表すつもりです。
(4)イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。
などと述べた(文中の数字は筆者が挿入したものである)。

この演説を受けてISからの後藤さん解放の条件とされた身代金の金額が当初の10億円から20億円に引き上げられる。その直接原因となったのは(4)の安倍首相の言及である。身代金が20億へ引き上げられたのはここで対ISへ日本が20億円(2億ドル)支出すると公言したのにあわせてのことだ。そして副次的な要因として(3)も作用している。2014年9月11日にヨルダンを含む中東諸国の外相が米国のケリー国務長官と会談し「米国の軍事作戦に協力する」ことを約束していたからだ。ケリーと会談した国の中にはトルコも含まれるが当時トルコはまだ、ISと決定的な対決には至っておらず、日本の「対策本部」をヨルダンではなくなぜトルコにおかなかったのかと指摘する専門家も多かった。実際トルコ政府は英国人ジャーナリストなどが人質として捉えられた事件で仲介役を引き受け、解決した実績もあった。そして(1)、(2)のような「ばら撒きによる懐柔」政策も敵意を掻き立てた可能性は否定できない。


◎[参考動画]Japan condemns ISIS beheading of journalist Kenji Goto Headlines Today 2015/01/31 に公開

◆歴史の文脈が導く物語の一断面としての「テロ」「人質」事件

さて、早いもので湯川さん後藤さんの惨事からもうすぐ1年を迎える。あの惨事からこの島国の政府は何を学んだだろうか。答えは「皆無」だ。

報道機関は沈黙しているが後藤さんと実に似た状況で現在も身柄を拘束されている日本人ジャーナリストが少なくとも1人いる。その人は今年の6月頃ISではない組織に拘束されたが、日本政府は解放交渉を当初から放棄し、民間の有志が解放交渉にあたっている。消息筋によると後藤さんのケースのように緊急の危険性は少ないようだが、拘束も半年に及ぶことから早期の解決が望まれる。

この拘束事件については数か月前から解放交渉にあたっている方より情報を得たものの「解放交渉は事件が大っぴらになると向こう側が態度を硬化させる。だからできれば触れないで欲しい」との要請があり紹介するのを控えていた。が、既に関心のある方々の間ではある程度この事件が知られることになったので敢えて紹介をしておく。

「テロ」、「人質」事件はある日発作的に起こるものではない。それは可視、不可視な歴史の文脈が導く物語の一断面だ。現象のみを切り取りその残虐性や非人道性をあげつらっても物語は読み解けない。物語は牧歌的童話のような単純なストーリーから、誰が正義でどいつが悪人か読後まで謎が解けないミステリーもある。

世界は善悪2分法で解釈できるほど単純ではない。そもそも「善悪」など状況が判断を下す暫定・相対的なものだ。勇ましく「テロとの戦いに参加する」などと宣言することは、どんなストーリーが展開されているかわからない、しかも異国語で綴られた書物を手に取り、その完璧な読解を「可能だ」と宣言するようなものだ。私にはそんな蛮勇はない。


◎[参考動画]Calls for Japanese government to secure release of IS hostage News First 2015/01/30 に公開

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎2015年再考(2)橋下ファシズム台頭の起源──TV×維新×虚言の愚劣な結託
◎挙句の果ての「1億総活躍」──狂気、矛盾、悪意、恫喝づくしの安倍暴走政権
◎隣のクルド人──「国を持たぬ民」が日本社会で暮らすということ
◎《追悼》杉山卓男さん──「不良」の薬指に彫られた指輪のような刺青の秘密

「脱原発」×「反戦」の共同戦線総力誌『NO NUKES voice』!話題の第6号!

『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン!

 

与党間で合意されている来年の消費税10%への引き上げに際して、「軽減税率」が生鮮食料品や加工食品に適応される方向で調整がまとまりつつある。

「軽減税率」と聞くとあたかも「消費税が安くなる」かの如き誤解も抱かされるが、与党の意図する「軽減税率」は、あくまでも「消費税を8%に維持する」ことのみを意味するのであって、現在よりも税率が下がることではない。

外食は「軽減税率」の適応外だ、テークアウトは適応だなどと些末な議論がかしましいけれども、そもそも消費税が10%に引き上げられる不当性についての議論はあまり見当たらない。

◆「社会福祉目的税」という騙し文句で導入された1989年の消費税

上がる上がる、どんどん上がる。賃金や社会保障費と逆にいったいどこまで引き上げれば気が済むのだろうか、庶民の敵=消費税。現在のところ見え隠れする最終目標値は経団連が示唆する19%だそうだ。

「社会福祉目的税」つまり社会保障以外には使いませんよ、との騙し文句で導入されたのが消費税だった。そんなものは嘘っぱちに決まっている、と少しでも大蔵省(当時)の恒常的欺瞞性を知っている人は、導入された1989年から危惧はしていた。消費税がそのまま社会保障費に充填されるなら、5%から8%に税率が引き上げられた際の増収分、社会保障費は増えていないと理屈に合わないが、第二次安倍政権発足後だけで、社会保障費は3900億円減額されている。

さらに馬鹿げた議論は「軽減税率」を導入するとそれを埋め合わせる「財源が不足する」という世論誘導である。各新聞がそろって報じる「財源不足」論。これから行う「増税」に対して財源が不足するというのは初歩的な論理破綻であって、それほどまでに「消費税の引き上げ」は社会的承認を得た「不可避の選択」だと言わんばかりだ。

新聞が「軽減税率」とその適応範囲の報道のみに熱を上げ、「消費税増税の不当性・逆進性」への議論が皆無と言ってよいほどに封じられているのには理由がある。民主党政権時代に日本新聞協会は政権と消費税引き上げの際(本当は5%から8%へ引き上げられたタイミング)で「軽減税率」の恩恵を受ける、との「密約」があったからだ。

活字離れ、部数減という厳しい環境は全国紙、地方紙共通の課題であり、この上消費税が上がれば定期購読者の減少は明らかだった。だから民主党政権が続いていれば新聞には既に「軽減税率」が適応されていたはずであったが、ご承知の通り政権は自公へ移ってしまったので「密約」も反故にされた。

◆自公政権とマスコミが世論誘導するウソまやかし

公明党HPより

「今こそ軽減税率を」と公明党のポスターが全国の街角に溢れる。なにが「今こそ」だと、山口那津男代表の顔に聞き返してやりたいけれども、創価学会を中心とする全国800万の基礎票を維持するためには池田大作先生の「人間革命」と「聖教新聞」で連日「勝利!勝利!」と連呼しているだけではやはり心許なく、与党内にあって自民との違いを何か演出しなければ危うい。実際に「平和」を標榜する(彼らの言う「平和」がどのようなものかの議論はともかく)公明党としては、「戦争推進法案」強行採決にあたって、ついに国会前をはじめ、全国で創価学会員が「反党」活動を行い出したことを軽視はできないはずだ。

だからお得意の「与党内にあって」何かを演出することが公明党にとっては来年の参議院選挙を控え絶対的に必要な行動となる。

しかし、これらの議論は全てまやかしであり、論外だ。「直関税率の是正」や「福祉目的税」という欺瞞が完全に破綻を来たしている消費税の存置自体の議論が何故湧きあがらないのか。所得税の累進税率を下げ、法人税も連続的に引き下げ、ほぼあらゆる商品、サービスに課税される消費税を上げれば確実に低所得者の生活が苦しくなる。

そのことは自公政権も認めざるを得なく、非課税世帯に対して昨年度は1万円、今年度は6000円の給付を行っている。だがそんな一時金で低所得層の継続的困窮が救済される道理はないし、非課税世帯以外の低所得層は、要するにボッたくられっぱなしである。

◆今こそ消費税の廃止を議論せよ!

野党時代に首相に就任する前にスウェーデンを視察した菅直人氏が「素晴らしい社会保障システムだった」と発言したのに対して、時の政権与党自民党の幹部は「一面だけを見てモノを言っている。スウェーデンは『高負担高福祉』と呼ぶのが正しい」と揶揄したことがある。消費税は3%の時代だ。

消費税が8%に上昇しても「社会保障」は後退しかしないことを我々はすでに経験している。10%に上がってもさらに屁理屈を並べて年金や、生活保護、健康保険などが削られてゆくだろう。この島国ではいくら消費税が上がろうとも「高負担高福祉」社会が実現することなどない。

消費税などなくとも、国債を40兆円も乱発しなくとも財政の運営が過去可能だったのだ。「状況の変化」などを政治が言い訳にするのならそれは為政者の財政運営能力低下を意味するだけだ。ごちゃごちゃ細かい「騙し」の議論「軽減税率」などではなく、「今こそ消費税の廃止」を私は主張する。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
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『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

-橋下徹公式HPより-

今年もこの男のはしゃぎ振りは相変わらずだった。おおさか維新の会の暫定代表を12月12日に辞任した橋下徹である。

今週18日の大阪市長任期満了と共に政界引退を表明している橋下が注目を浴び出したのはいつの頃からだろうかと振り返ってみと、おそらく日本テレビ系列の「行列のできる法律相談所」に出演し始めた2003年からであろう。それ以前にも関西ローカルのラジオ・テレビへの出演歴はあったが、島田紳助が司会の「行列のできる法律相談所」への出演が橋下勘違いの大きな転機になったと想像される。

◆やしきたかじん「そこまで言って委員会」の罪

さらに同年、「たかじんのそこまで言って委員会」にもレギュラーとして橋下は出演を始める。首都圏では放送されない「そこまで言って委員会」は「そこまで言ってはいけない」暴論が毎週飛び交う自民党・右翼翼賛番組だが、ここで更に橋下は「暴走」が許容されるメディア状況と「極論・暴論」がむしろ歓迎される時代背景に気が付く(「笑っていいとも」、「スーパーモーニング」など全国ネットでの番組にも曜日限定レギュラーで出演していたし、関西圏ではそれ以外にも多数のテレビ番組に出演していた)。故人ではあるが「やしきたかじん」が「関西ファシズム」伸長に果たした役割は計り知れないと言わなければならない。関西弁で庶民風の語り口をすれば、一見「反中央」、「反権威」と思わせる雰囲気を醸し出しながら、総体として現体制の補完、否更なる強化へと導引した罪は重い。政治などに口を出さずに歌を歌っていればよかったのだ。立派な歌い手だったのだから。


◎[参考動画]2008年放送「そこまで言って委員会」 脇博2015年11月22日に公開

これらテレビ出演目白押しであった「タレント弁護士」橋下の狙いは最初から政界進出にあったのだろう。質が悪いのは橋下が衆目を引き付ける「タレント」としてのスキルと法知識の専門家である「弁護士」資格を保持していたことだ。お気軽にテレビを眺める庶民にとっては、金髪で語りが滑らか、笑いも適度に誘う橋下があたかも身近な存在のように感じられたのか。橋下の腹にはテレビ出演が目白押しになった頃から「視聴者(庶民)はこの話法で騙せる」と確信めいたものが湧いていたに違ない。


◎[参考動画]橋下徹出演番組で水道橋博士が生送中にキレて番組降板? Ho AlexiaBelle 2013年06月21日に公開

「(府知事選出馬は)2万パーセントでも何パーセントでもありえない」と断言していた橋下はテレビで習得した鋭敏な感覚(自分のキャラクターであれば嘘を発言しても批判されない、むしろ驚きを持って共感を得ることが出来る)をまず実践する。

大阪を覆う橋下ファシズムの不幸な幕開けだ。

◆「維新」という名の復古主義

「維新」という古臭く復古主義者が好む名詞を自身の政治団体に冠したのは、橋下自身が復古主義者的性格を帯びている証だ。その橋下の政治的道具として使用便利なある本音が明かされたのが大阪府知事時代の過去の発言である。

「出生主義か、血統主義かをいろいろ考えるに当たっては、やはり天皇制が一番重要なポイントになってくると思います。日本国憲法の第一章のところ、一番最初のところに、国民の権利義務の前のところに天皇制というものをきちんと置いて、我々は天皇制をいただいているということは、やはりこれは血統主義なんだと、日本の国柄というものは血統主義なんだということを前提に我々の国家、日本というものは成り立っているんではないかというふうに考えます」(2010年2月26日大阪府議会での発言より)

これは橋下が「国民」をどう考えるかについて見解を述べたものだ。憲法第一章で天皇に関する言及がなされていることは間違いなく、それが現行憲法の最大の問題だと私は考える。だが、憲法第一章は天皇の位置づけや権限を述べているが、たとえば第一章「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」は、文言通りに解釈すれば「国民の総意」がなければ「天皇は国民統合の象徴」足りえないとの解釈余地もある。それ以前に憲法前文が掲げる平和主義、国民主権との乖離が著しいのが第一章だ。

私如き素人が法律論を展開しようとしているのではない。確かに憲法第一章には天皇への言及は存在する。だが国民を定義するにあたり「出生主義」か「血統主義」かの二分法に議論を閉じ込め、その中で強引に天皇制の存在を根拠に「血統主義」だと結論付ける橋下の思考には「差別」に直結する短絡が垣間見られる。


◎[参考動画]橋下徹市長の街頭演説 橋下徹ちゃんねる激怒・論破 2015年4月12日に公開

◆橋下思想の基層──「差別を温存する優越意識」と「嘘を語ることは武器になる」という確信

『週刊朝日』2012年10月26日号

橋下の出自などから人物像を浮かび上がらせようとした佐野眞一は「週刊朝日」連載の中で、決定的なミスを犯した。出生に立ち返り、橋下像を浮かび上がらせようとの意図は伺えたが、被差別者への配慮が重大に欠落していたことは否めない。橋下がそれを見逃すはずはなく、結果朝日新聞出版の社長が辞任する事態にまで追い込まれた。

しかし、ここで読者諸氏に注視を促したいのは、橋下が紹介した通り「国民」の定義を述べるにあたり天皇制を引き合いに「血統主義」だと語っていることだ。国民の定義議論だけではなく、天皇制を根拠とする「血統主義」は天皇家、皇室と相反する「被差別」の立場におかれる人々の「血統」をも確定し、それが社会的選別の尺度になると懸念はないだろうか。橋下は「日本の国柄というものは血統主義なんだ」とまで踏み込んで発言している。これが橋下の本音であり根本なのだろうけれども、この解釈は民族だけでなく出自によるあらゆる差別温存を弁解する論法に与するものではないか。差別そのものではないのか。

私はこれまで何度も橋下の愚劣さ、虚構について言及してきた。そして今回橋下の根本には「差別を温存する優越意識」と「嘘を語ることは武器になる」との思考が常時備わっていることを再度指摘しておきたい。


◎[参考動画]田原総一朗『橋下さんの言っていることがサッパリわからない!』 n Yasu 2014年02月12日に公開

◆「現状打破」してくれる超人を求めることで台頭するファシズム

大阪府知事選挙を前に、
「(府知事選挙出馬は)2万パーセントでも何パーセントでもありえない」
と語った橋下。

大阪都構想の住民投票を前にした5月9日に、
「だって、住民の皆さんの考え方とか、住民の皆さんの気持ちをくむのが政治家の仕事なわけだから、ここまで5年間精力かけてやってきたことが、大阪市民の皆さんに否定されるということは、政治家としてまったく能力がないということ。早々とそんなら政治家辞めないと、危なくてしょうがない。運転能力のない者がハンドル握るようなもんでね、早く辞めなきゃダメですよ」
と住民投票が否決されれば政界引退を明言した橋下。

「引退するはず」だった橋下、「運転能力のない者がハンドル握る」状態が続く「大阪維新の会」に再度信任を与えてしまった大阪府民と市民(もっとも大阪知事、市長選挙は「安倍か橋下か」という不幸極まる選択を押し付けられた選挙だった)。

どこかに、「現状打破」してくれる超人がいないだろうか、と英雄や強い指導者の出現を待ち望む深層心理が相変わらず有権者にはありはしないだろうか。

現代の政界における「英雄待望論」はそっくりファシズムの足固めだ。「立派な」「強い」指導者など要らないし、いるはずがない。変えられるとしたらまず自分自身の内面を凝視しなおす事からだろう。反面教師橋下先生をもう一度しっかり見つめながら。


◎[参考動画]橋下徹市長vs 在特会・桜井誠会長 橋下徹ちゃんねる激怒・論破 2014年10月20日に公開

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎2015年再考(1)「シャルリー・エブド」襲撃事件と表現の自由、力学の軋み
◎大阪ダブル選挙──「安倍と橋下どっちを選ぶ?」の選択肢しかなかった不幸
◎挙句の果ての「1億総活躍」──狂気、矛盾、悪意、恫喝づくしの安倍暴走政権
◎隣のクルド人──「国を持たぬ民」が日本社会で暮らすということ

「脱原発」×「反戦」の共同戦線総力誌『NO NUKES voice』第6号!

『紙の爆弾』!タブーなきラディカル・スキャンダル・マガジン

2015年を振りかえってみようと思う。マスコミが毎年年末に年中行事として行う「今年の10大ニュース」のような凡庸な行為だが、自分の愚かさを振り返りつつこの1年を回顧する。


◎[参考動画]Charlie Hebdo: Paris terror attack kills 12? BBC News 2015/01/07 に公開

1月7日フランスの「シャルリー・エブド」が襲撃され、12名が死亡し20名以上が負傷する事件が起きた。あの事件は今年に起こっていたの?と錯覚を起こすほどはるか昔の出来事のように感じるのは11月13日に同じくフランス、パリで130人の犠牲者を出すことになる同時襲撃事件を目の当たりにして間がないからかもしれない。

「シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)」HPより

◆「表現の自由」がどこまで許されるのか?

「シャルリー・エブド」襲撃事件は年始にあって2015年、世界の注目がどこに注がれるのかを示唆するに充分過ぎる衝撃であった。報道機関への襲撃は「言論の自由への攻撃」と非難を浴びたし、「表現の自由」がどこまで許されるのかといった長年にわたる議論をさらに喚起する要因にもなった。

襲撃事件に国際社会が足並みをそろえて非難を表明し、「Je suis Charlie」(私はシャルリー)を公言する著名人が世界に溢れた。私は本コラム1月16日「『シャルリー・エブドと『反テロ』デモは真の弱者か』の中で、

「フランスのオランド大統領から『テロとの戦争』という言葉を聞くと彼が被害者には思えなくなる。この事件のそもそもの原因は『シャルリー・エブド』紙がイスラム教を揶揄するような風刺漫画を掲載したことだった。そして、同紙がイスラム教を揶揄する風刺漫画を掲載したのは、今回が初めてではない。2006年から断続的に同紙はイスラム教を挑発する内容の風刺漫画を掲載しており、その度に、フランス在住のイスラム教徒からデモなどの抗議行動を受けていた。フランス政府も『あまりイスラム教徒を刺激し過ぎないように』と2012年には自粛要請を行っている。

イスラム教風刺にかけて『シャルリー・エブド』は『確信犯』だったわけだ。その証拠に1月14日発売の事件後初の誌面にもまたもや『ムハマンド』の風刺が掲載されている。(中略)『シャルリー・エブド』は国際社会から『承認』されている。決して弱者ではない。私の杞憂であればよい。でも、そうでなければ同様の『テロ』事件は続発するだろう。」

と私見を述べた。「シャルリー・エブド」襲撃事件の被疑者とパリ、同時襲撃事件の被疑者はともにイスラム教徒ではあるが、後者は「IS」が組織的に計画、実行した事件であると見られているのに対し、「シャルリー・エブド」襲撃事件の被疑者は「IS」との関係を否定している者がいる。

◆被抑圧者と世界を支配する力学の軋みが惨事を引き起こした

この際、事件を起こしたグループが同一かそうでないかはあまり重要ではない。明確なことは抑圧者と被抑圧者の歴史、宗教観と世界を支配する力学の軋みがこの惨事を引き起こしたという点だ。そしてそのような視点に被害者及び被害者に与する世界の洞察が及んだかどうかではないだろうか。私はそうすることなしに同種の襲撃事件の再来を防ぐことは出来ないだろうと考えた。

「世界」や「正義」、「歴史」さらには「人間の命」は徹底的に不平等なものであることを2015年の年頭、我々に突き付けたのが「シャルリー・エブド」襲撃事件だった。人間は進歩するのか、理性は進化するのか、「正義」や「大義」といった言葉に対して新しく説得力溢れた意味付けがなされうるのか、が問われたがいずれも回答は無残なものだったと結論づけるしかない。

私たちが事件を知り、その背景に思いを巡らすとき、事件はマスメディアや強者によって予めバイアスのかかった誘導が行われる。だから「意味」の闘いに備えるには常時弱者や庶民が「徹底的に不平等な社会」を認識し考慮に入れておかないと混迷に陥る。

「世界中(もちろん日本でも)でキナ臭いことが起こるよ」との警鐘を鳴らしたのが1月7日の事件だった。そしてこの島国で、私たちはまた大きな後退を迫られた1年となったのはご承知の通りだ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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