機動戦士ガンダム──人はなぜ「シャア」という生き方に惹かれるのか?

機動戦士ガンダム THE ORIGIN Ⅰ 青い瞳のキャスバル」を映画館で見た。ガンダムシリーズを語るのに欠かせない重要なキャラクターである「シャア・アズナブル」(本名はキャスバル・レム・ダイクン)の生い立ちを描いた同作品について、語り部が少ない。とりわけ、ふだんはしたり顔でいわゆる「ガンダム」について語る芸人、つまり「ガンダム芸人たち」もしくは「にわかガンダム文化人」も圧倒的に少ない。

それもそのはずで、シャアを語るには、シャアについて描かれた小説、アニメ、そして「ガンダム」の生みの親である富野由悠季 (原案は矢立肇)の世界観を深いところまで掘り下げて理解しなくてはいけない。くわえて、シャアが背負っている、あるいは主張している「人類の革新について、人類の価値について、あるいは未来図について」深く考察しなくては、やけどをするようなキャラクターなのだ。かろうじて語っている芸人たちも、誰とは言わないがシャアの世界観についてわかっていない。シャアを論じるということは、しつこいようだが、己の哲学が問われるのだ。

人は、「ガンダム」について語りたがる。戦争について、人類の未来について、あるいは愛について、平和について語る。これは、「宇宙戦艦ヤマト」や「ドラえもん」にもなかったアニメの現象だ。したがって、この映画にも見た人は100通り解釈があると思う。

◆人間は人間を粛正できるか? ──シャア VS アムロの命題

「機動戦士ガンダム」の骨格をなしている世界観はこうだ。

地球の人口が増えすぎて、なおかつ汚染された。だから一部の人たちは、宇宙へと移民せざると得なくなった。スペースコロニーで暮らすこの移民を「スペースノイド」と呼ぶ。この、地球から追い出されたはずの「スペースノイド」たちは、しだいに地球圏からの支配を嫌い、自治区になる道を選択し、地球圏と戦争に突入する。

「腐った地球圏の人類を根絶やしにする」との目的に立つシャアは、人類の革新ともいうべき「ニュータイプ」(認識力と知覚力に優れたもの)であると自身を自覚した。同じく「ニュータイプ」である地球連邦軍のアムロ・レイは、「人間が人間を粛正できない」として、ことごとくシャアに敵対する。これが「機動戦士ガンダム」ファーストの物語の骨格だ。

「スペースノイド」の独立を訴える為政者、シャアの父が、ザビ家の陰謀によって暗殺されて、ジオン公国ができあがる。父の復讐に燃えるシャアは仮面をかぶり、本名を隠してザビ家に復讐していくのだ。「機動戦士ガンダム」を見た者は、なぜシャアがあれほどまでに、ストイックに自分しか信じぬ乾いた男になっていったのかわからなかっただろう。だが、ようやくこの映画を観て、シャアが幼少期に陰謀により翻弄されて、人のやさしさに対して懐疑的になっていったのかが納得できるだろう。

シャアを理解するのには、膨大な資料の読み込みが必要だが、やはり漫画を読むのが早い。ビギナーには『ガンダムエース』に連載された北爪宏幸の漫画『機動戦士ガンダム C.D.A. 若き彗星の肖像』をオススメする。だがアニメ作品ではないためサンライズにおける公式設定ではない。

さて、この映画は1時間を少しオーバーするほどの短い尺だが、冒頭の戦闘シーンは迫力満点だ。監督が、人物を描いた安彦良和(漫画も描いている)なので、当然、人物描写は細かい。幼いシャアが気高い復讐心を保つことができのはなぜかファンならずとも興味があるだろう。若いドズル・ザビやランバ・ラルなどもファンを喜ばせるだろう。

◆「ガンダム」を見た時からアニメを卒業できなくなった

この映画はガンダムの35周年企画だそうだが、僕自身は、この作品(機動戦士ガンダムのファースト)を見たときからアニメを卒業できなくなった。

なにしろ、美しいメカニックデザイン(デザイナーは大河原邦男)だけでなく、そこかしこに哲学や人類の欲求が業深く描かれているのだから。

僕自身は、シャアの声を演じている池田秀一にインタビューしたことがある。
「シャアのように男らしく生きてみたい」という点で僕と池田さんの意見は一致した。そして、シャアには独特の言い回しがあり、有名な台詞として「若さゆえの過ちか。認めたくないものだな」というのがあるが、「認めなくないもんだな」ではなくやはりかたくなに「認めたくないものだな」と語尾で言い切る気高さがあるという。

もともと、手塚治虫の弟子であった富野監督は、その世界観はものすごく奥深い。細かい台詞も後々、伏線となってくるから見逃せない。ガンダムの新シリーズとして、今は『ガンダム Gのレコンギスタ』を手がけている。これは、富野由悠季監督が手掛ける、『ガンダム』シリーズの最新作で人気を集めている。本作では、『機動戦士ガンダム』で描かれた宇宙世紀(U.C.)のつぎの世紀にあたる“リギルド・センチュリー”が舞台となる。宇宙エレベーターを守る組織“キャピタルガード”のパイロット候補生、ベルリ・ゼナムの冒険が描かれていくものだ。

これこそ「新世紀の哲学」が問われる作品だが、この作品について語れる「自称ガンダム芸人」「自称ガンダム好き文化人」を見ないのは、ついに馬脚を現したと見ていいのだろうか。それともガンダムを「卒業」したのだろうか。

(ハイセーヤスダ)

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