三上治さんの『吉本隆明と中上健次』〈2〉『枯木灘』と世界の裂け目

 
三上治『吉本隆明と中上健次』(現代書館2017年9月)

吉本隆明の一番弟子であり、また元ブント(共産主義者同盟)叛旗派の「親分」でもあり、さらに現在ではテントひろばメンバーとして活動を続ける三上治(味岡修)さん。2017年9月、彼の新刊『吉本隆明と中上健次』(現代書館)が上梓された。三上さんには吉本・中上との共著もあり、また雑誌『流砂』(批評社)でも繰り返し吉本などについて論じてきたのだ。

そして10月20日、「三上さんの『吉本隆明と中上健次』出版を祝う会」が、小石川後楽園涵徳亭にて開催された。今回、この書籍と「出版を祝う会」について、3回にわたってお届けする。このテキストは、その第2回目だ。

◆「真実の世界が表現されることは、政治的な表現では不可能」

この3回分の原稿は、『NO NUKES voice』掲載予定が変更になったのだが、当初は中上について、あまり触れなかった。それは、中上の原発への言及は本書で特に記されていなかったからだ。ただし、本書の第4章は「中上健次へ」、第7章は「再び、中上健次をめぐって」の章タイトルがつけられている。たとえば4章では、「中上と三島の差異」として、三島由紀夫との比較が綴られているのだ。

そこでは、中上の長編小説『枯木灘』が取り上げられている。以下、『枯木灘』のいわゆるネタバレを含む。主人公・秋幸は海と山と川にはさまれた環境でありながらも食い扶持の得られない「路地」に生まれ育つ。彼は父・龍造を「蠅の王」「蠅の糞」と呼び、龍造は「一向一揆の苦しみを伝える」浜村孫一(鈴木孫一を指すとも)の子孫であると主張して碑を建てる。「蠅の王」といえば、ウィリアム・ゴールディングの小説が想起され、わたしもハリー・フック監督による映画化作品を観たことがある。秋幸は異母妹と知らず、さと子と関係を結んでしまうが、それに対して龍造は「しょうないことじゃ、どこにでもあることじゃ」と口にするのだ。秋幸は、この関係を含め、「誰にでもよい、何にでもいい、許しを乞いたい」と願う。そして彼は、浜村孫一を「男(龍造)の手から」「取り上げる」ことで「男を嘆かせ苦しめ」ようと考えもした。だが、「日と共に働き、日と共に働き止め、黙って自分を耐えるしかない」と思い、「徒労」を快と感じるような労働によって「無」になる日常を続ける。しかし、盆踊りの唄「きょうだい心中」が暗示するとおり、そして異母兄の郁男が秋幸も龍造も殺せず自死したことなどにも似たように追いつめられ、結局秋幸は異母弟の秀雄を殺してしまう。育ての親である繁蔵は、秋幸をかわいがってきた。ちなみに「きょうだい心中」は類似の歌詞を作者不詳とし、山崎ハコが曲をつけて歌っている。

▼三上治(みかみ・おさむ) 1941年、三重県生まれ。66年、中央大学中退。75年、共産主義者同盟叛旗派から離れ、雑誌『乾坤』を主宰し、政治評論・社会評論などの文筆活動に専念。編集校正集団聚珍社に参画し、代表を務める。同社を退職後、再び文筆の活動をおこない、「9条改憲阻止の会」で憲法9条の改憲阻止の運動を遂行。著書に『一九七〇年代論』(批評社)、『憲法の核心は権力の問題である──9条改憲阻止に向けて』(お茶の水書房)ほか多数

三上さんは、この作品と、三島の『太陽と鉄』を比較し、「秋幸は三島のこの世界を連想させるが、三島の人工性と違って、秋幸には自然性が感じられる分だけ魅かれるところがある」と述べる。『太陽と鉄』は未読で恐縮だが、吉本さん・中上さん・三上さんの共著『いま、吉本隆明25時』(弓立社)の中上健次「超物語論」の冒頭で吉本は「日本の物語は、よくよく読んでいきますと、人と人との関係の物語のようにみえていながら、大体人と自然との関係の物語です」と語っているのが興味深い。もちろん三上さんの「自然性」と吉本の示す「自然」に相違はあろうが、共通する部分もあると思う。

また、三上さんは、「真実を書くのは恐ろしいことである」として、「濃密な親子、あるいは兄弟関係、愛と憎しみとが表裏にある世界、この真実の関係性を表現したのである。これが中上の作品が現在でも色褪せず、輝きを失わない理由である」「真実の世界が表現されることは、政治的な表現では不可能である。それが言い過ぎなら部分的である。このことは確かであり、政治的解放が人間の解放にとっては部分的であるのと同じだ」と記す。これもまた、『いま、吉本隆明25時』の「超物語論」の後に登壇した吉本が「党派的思想というのは全部無効ですよ。真理に近いことをいったりやったりするほうが左翼ですよ」と発言していることと結びつく。

◆土地や血縁の呪縛

『枯木灘』から個人的に、田中登監督の劇映画『(秘) 色情めす市場』を連想した。人は、「血」や環境や条件を選んで生まれてくることができない。だが、それに抗おうとして生きる。しかし、抗おうとするほど、深くそこに飲み込まれていくのだろう。『枯木灘』で秋幸は、ある種の復讐を果たしたかもしれないし、せざるをえなかったのかもしれない。『(秘) 色情めす市場』でも、女性主人公が絶望したからこそ、あのラストがある。現在、貧困、環境による「不幸」、絶望は見えづらくなっているが、わたしは、このような世界と紙一重の世界に生きているという実感をもつ。ただし、『枯木灘』は、徹の姿で幕を閉じる。徹もまた土地や血縁の呪縛から逃れることはできないのかもしれず、奇妙な読後感が残るのだ。ちなみに龍造の視点で綴られる番外編『覇王の七日』も書かれた。

ところでわたしが好きな作家は、「無頼」で、世間的には「ダメな人間」というレッテルを貼られるような登場人物を描く作品を愛する。この登場人物たちは、時代や環境が変わろうとも、このようにしか生きられないのだろうと感じたりするのだ。いっぽう、中上作品の登場人物は皆、社会の被害者であるように感じた。ひとことで表現してしまうと薄っぺらで恥ずかしいかぎりだが、このあたりに中上さんが吉本さんや三上さんとつながったポイントのようなものがあり、当時はまたそのような人同士がつながる時代であったということでもあるのかもしれない。いずれにせよ、土地や血縁の呪縛のようなものに一時期恨みを抱いていた、そして社会運動を続けようとするわたしにも、中上作品は興味深いものであることはたしかだ。

◆24時間の世界と「25時間目」の世界との裂け目をどうするか

三上さんは『吉本隆明と中上健次』で、「日本国の『共同幻想』」を「超える共同幻想とは、日本人や日本列島の住民の幻想という意味である。文化といってもよい。大衆原像の歴史的な存在様式といってもいい」などと述べている。

『いま、吉本隆明25時』のイベント冒頭で中上は、「十代のころから吉本隆明を読んでいてずっと読み続けているのだけれども、吉本隆明という人間はもともとマルチプル(多様・複合的)なのだけれども、さらにもう少しいままでのレベルをメタのレベルみたいに展開しはじめた。それで吉本さんと突っ込んで話してみたいと思いました」「吉本隆明っていう存在は、もっと、こう、何か一つの事件なんじゃないか。あるいは、一つのプラトーを示している」「一人の思想家が、やっぱりマルチプルにものを考えていくっていうのは、やっぱりすごいことだと思うし、驚異だと思うんです」と挨拶している。そして彼自身は、この集会で、「超物語論」について語っているのだ。

また吉本は、「超物語論」の冒頭で、「典型的な中上さんの物語は、もの狂いの世界に集約されるべき心理的要素といいますか、狂いの要素っていうのが、死者の世界と前世の世界みたいなもののところへまで、拡張されている」ともいう。いっぽう中上は、物語というのは、「コロス(古代ギリシア劇の中で劇の説明をする合唱隊)の問題、あるいはポリフォニー(複数の独立したパートからなる音楽)の問題、それを同時にはらんでると思うんですよ。これは共同性の問題ですよね」と述べ、ミハイル・バフチンのドフトエフスキー文学は各人の思想や人格を尊重されているとする「ポリフォニー論」に触れる。また、質疑応答で島田雅彦が「乱入」するわけだが、これを今改めて読むと、自分の思想を問い直される。個人的には実は、ネイティブアメリカンの「グレイト・スピリット」に共感し、1人ひとりに内なる神が存在する、その内なる神同士を尊重するというコミュニティの考え方が、行き着いた先の2000年代、2010年代にわたしがしっくりくる考え方なのだ。だから、同世代にローカリゼーションや東アジア連帯、エコロジーなどの運動に携わっていく人が多いこともうなずける。そこに吉本は、最低綱領と最高綱領の話をもってくるわけだ。

『吉本隆明と中上健次』終章で三上さんが触れた、24時間の世界と「25時間目」の世界との裂け目をどうするかという、「25時間目」が革命を意味する時の課題。これに向き合うために、『吉本隆明と中上健次』『いま、吉本隆明25時』『枯木灘』を並べて読むということを試みてみた。道楽者仲間の通信読者の方がいらっしゃれば、おすすめの方法だ。感想やご意見もお聞きしてみたい。(つづく)

▼小林蓮実(こばやし・はすみ)[文]
1972年生まれ。フリーライター。労働・女性運動等アクティビスト。『現代用語の基礎知識』『情況』『週刊金曜日』『現代の理論』『neoneo』『救援』『教育と文化』『労働情報』ほかに寄稿・執筆。
◎「山﨑博昭追悼 羽田闘争五十周年集会」(『紙の爆弾』12月号)
◎「現在のアクティビストに送られた遺言『遙かなる一九七〇年代─京都』」(デジタル鹿砦社通信) 

 
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