1995年1.17の阪神・淡路大震災から30年が経った。光陰矢の如しで、あっというまだった。このかん私たちは何をしてきたのだろうか。真に復旧・復興は成ったのか? 見かけの復旧・復興は成ったかもしれないが、私たちの精神の奥深くの復旧・復興はどうか? 私は、亡くなった6432人の方々に恥じない生き方をしてきたのか、汗顔ものだ。
1995年1.17、当時私は兵庫県西宮市に住んでいた(今も住んでいる)。運命の午前5時46分、当時住んでいたマンションにドカンという衝撃があった。てっきりダンプカーがマンションにぶつかったものと思った。その後、被害の甚大さが判明するが、その衝撃の直後、新聞が投函された(新聞配達の方のその時の様子は想像できないが、いまだに不思議)。
本日1.17には、ここ兵庫、とりわけ阪神間では、いろいろなイベントがあるという。それはそれでいいだろうが、見かけの復旧・復興で取り残された人たちがいることを忘れてはならない。震災後建てられた無機質なコンクリートのビルや復興住宅で、それまであった地域の人々の交流がなくなり孤独死も多くあったという。ハコ物の建物を建てればよしとする行政の復興策は、はたして良かったのか?
◆被災地・西宮の被害の甚大さを知って欲しい!
阪神・淡路大震災での死者数は全体で6432人、うち兵庫県6402人で、残り僅かが大阪と京都で、死者のほとんどは兵庫県だ。兵庫県では、神戸市が4564人、次いで私が住む西宮市が1126人、隣の芦屋市443人、宝塚市117人となっている。神戸市は範囲が広いので多いのは当たり前といえば当たり前だが、西宮市が1100人以上の死者数だということは、さほど知られていない。熊本地震が277人というから実に4倍近くに及ぶというのに、だ。それほど、西宮は地味な街なのだろう。ちなみに、そのこともそうだが、関西以外の人で甲子園球場が西宮にあることを知っている人も少ない。大阪のイメージが強いようだ。
西宮の公園という公園には長い期間仮設住宅があったことが記憶に蘇る。甲子園球場でプロ野球や高校野球のこだまする時でも、近くの公園において仮設住宅でつましく暮らす人々がいる異様な風景。私は折に触れて、ファックス通信「鹿砦社通信」(現「デジタル鹿砦社通信」)で批判してきた。西宮の公園から仮設住宅がなくなった時、復旧・復興が成るものと思っていたが、実際には仮設住宅がなくなっても復旧・復興は成らなかった。
その年の暮れ、全壊したビルを慌ただしく再建し(西宮市の建築許可第一号という)、そのビルに入ることができた。瓦礫を運ぶ車も日々行き来した。長い間、それを眺めながら過ごした。
東京の取次や出版関係者らが心配して電話してくれた。なかなかつながらず、「マツオカもいよいよ終わりやな」と不謹慎なことがささやかれたようだ。この10年後も同じようなことを言われた。
こういう時に強いのが私の真骨頂、不謹慎な物言いだが、「地震(じしん)で自信(じしん)をつけた」などとうそぶいたこともあった。
混乱した当地で鬱々としていても始まらない。活路を東京に求め文京区音羽、鳩山邸の崖の下に5坪の小さな事務所を借りて東京支社を設置した(会社としては、創業地は東京なので、出戻ったというのが正確)。
ちょうどこの頃を境に、私たちの出版社は、いわゆる〈スキャンダリズム〉、俗にいう「暴露本出版社」に本格的に舵を切り、取次会社のデータでは前年比「999.9%」(正確に言うと伸び率が大き過ぎてこういう数値になったものと思われる)の伸び率だったという。この意味でも、私たちにとって阪神・淡路大震災は、大きなターニング・ポイントだったといえよう。
鹿砦社と松岡の新たな歴史が始まった。──
◆当時感動した歌、『TOMORROW』と『心の糸』
阪神・淡路大震災では人々を勇気づける音楽も流れた。記憶に強く残っているのは岡本真夜の『TOMORROW』と、「阪神・淡路AID SONG」と銘打ち、香西かおり・伍代夏子・坂本冬美・長山洋子・藤あや子らレコード会社や事務所の垣根を越えて当代の若手演歌歌手5人が歌った『心の糸』だろう。
『TOMORROW』は、新人のシンガーソングライターの岡本真夜が彗星のように現れ、瓦礫の中から日々流れたことを思い出す。
「♪ 涙の数だけ強くなれるよ
アスファルトに咲く花のように
見るものすべてに おびえないで
明日は来るよ 君のために」
若いのに凄い歌詞を書くものだと思った。実際に、多くの人々の心を打ち出荷枚数200万枚超(実売約180万枚)で大ヒット、この年のNHK紅白歌合戦にも出場を果たしている。
一方、『心の糸』は公式チャリティソングとして1.17からさほど日が経たない同年4月26日に発売された。「震災ソング」としては、その後、当地の教師が作詞・作曲した『しあわせ運べるように』が作られ、こちらが有名になり定着した。最近では神戸市の公式市歌に選定されているとのことだが、私にとっては『心の糸』だ。
しかし、地元の人でもさほど知らないように(例えば、クールファイブの『そして、神戸』は誰もが知っているが、サザンクロスというグループが歌う『三宮ブルース』は地元の人でもほとんど知らないのと同じケースだ)、これだけ有名歌手を揃えていながら『心の糸』はまったく忘れられてしまった。悲劇の曲だ。アマのほうがプロに勝った格好のケースといえよう。なんとかならなかったのか。本来なら、その年の紅白歌合戦での前川清『そして、神戸』、昨年の石川さゆり『能登半島』のように、紅白歌合戦でみなで歌ってもいいような歌だった、と私は思う。私は毎日社歌のようにラジカセで流していた。──
「♪ そして陽が昇り 朝の幕があく
昨日までの悲しみ 洗い流すように
覚えてて あなた 私がここにいることを
忘れないで あなた 歩いた道のほとり
心の糸を たどりながら
過ぎし日を重ねてみたい
心の糸を 手さぐりながら
夢の続き 捜していたい
時を巻き戻すことが出来たなら
涙なんかみせずに生きてこれたけれど
ありふれた日々を送れることのしあわせを
まぶた閉じてひとり 今更ながら思う
心の糸をほどかないで
この街を捨てて行けない
心の糸を 結び直して
うつむかずに歩いて行くわ
心の糸をほどかないで
この街を捨てて行けない
心の糸を結び直して
うつむかずに歩いて行くわ」
詞の一字一句が心に沁みる。
「時を巻き戻すことが出来たなら
涙なんかみせずに生きてこれたけれど
ありふれた日々を送れることのしあわせを
まぶた閉じてひとり 今更ながら思う」
全くその通りだ。
30年以上前に「時を巻き戻すこ」とはできないけれど、「心の糸を結び直してうつむかずに歩いて行く」ことはできる。次の30年は、おそらく生きていないけれど、残りの人生、もう一度「心の糸を結び直してうつむかずに歩いて行く」ことを、いろんな人に迷惑をかけ愚鈍に生きてきた私だが、震災30年に際し、バカはバカなりに、あらためて決意した次第である。
◎[参考動画]心の糸