《鳥取不審死・闇の奥01》 「悪」とは別の何かに思える被告人

強盗殺人や詐欺、窃盗、住居侵入の罪に問われた上田美由紀被告(43)が死刑判決を受け、現在は最高裁に上告している鳥取連続不審死事件で、最高裁第一小法廷は6月29日、弁護人、検察官双方の意見を聞く弁論を開く。私は当欄で2013~2014年にもこの事件を取り上げたが、その後も上田被告本人や関係者、関係現場への取材、資料の検証を重ね、「冤罪」を訴える上田被告に対する一、二審判決の有罪認定は妥当だという結論に達している。ただ、一方で、上田被告の本質は「悪」とは別の何かではないかという思いが拭えない。事件の闇を報告する。

◆悪くない第一印象

上田被告の周辺で6人の男性が不審な死を遂げていた疑惑が表面化したのは2009年の秋だった。鳥取市の「デブ専」と揶揄されるスナックで働き、5人の子供を抱えていた上田被告。容姿端麗とはいえない太った女の周辺で交際相手の男性らが次々に不審死していたという事件の構図は、一足早く話題になっていた木嶋佳苗死刑囚(42)の首都圏連続不審死事件と酷似していた。そのため、マスコミは上田被告を「西の毒婦」と呼んだ。

私がそんな上田被告と初めて面会したのは、第一審・鳥取地裁の裁判員裁判で死刑判決が出て9カ月後の2013年9月のことだ。場所は島根県松江市の松江刑務所。マスコミ報道で見かけた写真では、かなり大柄で、目つきが鋭く、いかにも怪人物のように見えた上田被告だが、面会室に現れた本人は、体の横幅こそあるものの、身長は150cmに満たないほど小柄だった。化粧をしていない表情は穏やかで、むしろ弱々しい印象を受けた。

「私のこと、怖いですか? 私が暴力をふるうように見えますか?」

マスコミ報道では、上田被告は逮捕前、周囲の男性に暴力をふるったように伝えられていた。そういう報道の情報は事実ではないと上田被告は私に訴えてきたのである。彼女の話だけで判断するわけにはいかないが、こと見た目がどうかといえば、たしかに上田被告は暴力的な人間には見えなかった。私がそう告げると、上田被告は嬉しそうに微笑み、こう言った。

「私のことを一度にすべて知ってはもらえないと思いますが、1つ1つ知って欲しいと思います」

私はこの時、上田被告に対して正直、悪い印象は抱かなかった。むしろ、人当たりのいい人物のように思えたくらいだ。

だが、そういった第一印象はもちろん、上田被告の冤罪の主張を裏づける根拠になるわけではない。上田被告は周辺で不審死していた6人の男性のうち、2人に対する強盗殺人の罪を立件され、一、二審ではいずれも有罪とされているが、動機は借金の返済や電化製品の代金の支払いを免れるためだったとされている。この男性たちも上田被告の第一印象が良かったからこそ金を貸すなどしてしまい、被害に遭ったのではないかと疑ってみることもできる。では、実際はどうなのか――。

上田被告はこの初めての面会のあと、私に対しても、「友人に会わせる」「子供に会わせる」などと都合のいいことを次々に口にしながら実現せず、その都度、場当たり的な弁明をした。私はそんな上田被告の「実像」に直接触れたのに加え、事実関係を調べるうち、やはり上田被告は一、二審判決で認定された通りのことをやっていると判断せざるをえなくなっていった。

◆何ら悪びれることなく不自然な弁明

ここで上田被告が有罪とされている2件の強盗殺人について、一、二審判決で認定された犯罪事実はどんなものだったかを確認しておこう。それはおおよそ次の通りだ。

上田被告は2009年4月4日、合計270万円の債務の弁済を免れるため、トラック運転手の矢部和実さん(当時47)に睡眠薬などを飲ませて意識もうろう状態に陥らせたうえ、砂浜から海中に誘導して溺死させた。さらに同年10月6日、洗濯機など電化製品6点の代金53万1950円の支払いを免れるため、電気工事業の圓山(まるやま)秀樹さん(当時57)にやはり睡眠薬などを飲ませて意識もうろう状態に陥らせたうえ、河川内に誘導して溺死させた――。

以上は一、二審判決で認定された上田被告の犯行だが、上田被告は私と面会した際、このことについて次のように述べた。

 
上田被告が勾留されている松江刑務所

「私は2人からお金の返済や支払いを請求され、殺してしまったという話にされていますが、あの人たちはお金の返済や支払いを求めてくる人たちではなかったんです。あの人達がそんなふうに言われるのも悔しくて……」

そう語る時、上田被告は大真面目な表情だった。

だが、裁判で明らかになったところでは、矢部さんが亡くなる約1カ月前の2009年3月5日、矢部さんと上田被告の間では、金額を270万円、貸主を矢部さん、借主を上田被告、連帯保証人を上田被告と同居していた男性A氏とし、返済期限を同3月31日とする金銭借用証書が作成されていた。

また、圓山さんの内縁の妻の女性によると、圓山さんは事件の1週間前の朝に上田被告から電話があった際、「代金を支払わない女性客がいる。その女性の親族が払ってくれる」と述べていた。さらに事件当日の午前8時8分にも上田被告から電話をうけたのち、女性に「集金に行く」などと言い、女性が用意した朝食を食べずに慌てた様子で家を出たという。

こうした事実関係に照らせば、上田被告が私に語った上記の話が不自然きわまりないと誰もが思うだろう。矢部さんや圓山さんが事件前、上田被告に返済や支払いを求めていたのは明らかだからだ。しかし面会の際、上田被告はこうした不自然きわまりないことを話しながら、悪びれた様子はまったく見受けられなかった。さらにこの時以外でも私と面会や手紙のやりとりを重ねる中、繰り返し「冤罪」を訴え、その過程では様々な人を貶めることを述べているのだが、その際も同様だった。

善悪の感覚が根本的に現代の一般的な日本人と違うのではないか。私は上田被告に対して、次第にそう思うようになっていった。私が上田被告のことを「悪」とは別の何かではないかという思いが拭えないというのは、つまり、そういうことである。

(次回に続く)

【鳥取連続不審死事件】
2009年秋、同居していた男性A氏と共に詐欺の容疑で逮捕されていた鳥取市の元ホステス・上田美由紀被告(当時35)について、周辺で計6人の男性が不審死していた疑惑が表面化。捜査の結果、上田被告は強盗殺人や詐欺、窃盗、住居侵入の罪で起訴され、強盗殺人については一貫して無実を訴えながら2012年12月、鳥取地裁の裁判員裁判で死刑判決を受ける。判決によると、上田被告は2009年4月、270万円の借金返済を免れるためにトラック運転手の矢部和実さん(当時47)に睡眠薬などを飲ませて海で水死させ、同10月には電化製品の代金約53万円の支払いを免れようと、電気工事業の圓山秀樹さん(同57)を同じ手口により川で水死させたとされた。そして2014年3月、広島高裁松江支部の控訴審でも控訴棄却の判決を受け、現在は最高裁に上告中。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

「死刑判決に心が揺れている裁判員経験者も」 LJCCの田口真義さん広島講演

裁判員経験者同士の交流団体「LJCC」のまとめ役を務める田口真義さんが5月27日、広島市中区の「合人社ウェンディひと・まちプラザ」で講演を行った(主催はアムネスティ・インターナショナル日本ひろしまグループ)。自らの裁判員経験やその後の活動に基づき、刑事司法の課題などを話す中、交流する裁判員経験者には、死刑判決を出したことに心が揺れている人もいることを明かした。

 
広島市で講演を行った田口真義さん(2017年5月27日)

◆怖さを感じた評議

田口さんは2010年、東京地裁で著名人が保護責任者遺棄致死罪に問われた事件の裁判員を経験。被告人は無罪を主張したが、結果は有罪で、懲役2年6月の実刑判決(求刑は6年)が宣告された。評議では、まず有罪か否かが決められ、そのあとで量刑をどうするかが話し合われたが、その時のことで今も強く印象に残っていることがある。

「量刑に関する評議では、『大体×年くらいじゃないか』『いや、ここは×年で』と簡単に1年や2年が動くんです。そこに怖さを感じました」

まとめ役を務める裁判員経験者同士の交流団体「LJCC」では、活動の一環として刑務所見学を行っている。それはこの時の経験により「刑務所での1年がどういう時間なのを知りたいと思った」ためだ。裁判員を経験後、自分の仕事が不動産業であることを生かし、出所者に自前の物件を紹介するなどの更正支援も行うようになったという。

◆「自分の判断も間違っていなかったか……」

この他にも全国各地で裁判員経験者同士の交流会を開いたり、裁判員経験者有志で裁判員制度に関する提言をまとめて裁判所に届けるなど、様々な活動を行っている田口さん。その行動力には感心させられたが、講演でとくに印象深かったのは、こんな話だ。

「袴田巌さんの再審開始決定が出た時、死刑判決を出した裁判員経験者には、もしかしたら自分の判断も間違っていなかったか……と心の揺れが芽生えた人もいた。袴田さんは約半世紀、自由を奪われ、生命の危険にさらされましたが、その裁判員経験者は自分も担当した被告人に対し、同じことをしてしまったのではないかと感じているようです」

その裁判員経験者が担当した被告人はすでに死刑判決が確定しているが、無実を訴えており、田口さん個人はその被告人に「冤罪」の心証を抱いているという。

袴田さんに無実の心証を頂きつつ、死刑判決を書いた裁判官の熊本典道氏がその後、苦悩の人生を歩んだ話は有名だが、今後は同じような苦難を強いられる裁判員もきっと出てくるだろう。そんなことを改めて実感させられた田口さんの講演だった。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

未解決のまま2年──JR東京駅コインロッカー老女死体遺棄事件の現場は今

世の中には不思議な事件が色々あるが、2015年4月にJR東京駅で起きたコインロッカー老女死体遺棄事件もその1つだ。発生からまもなく2年になるが、事件は今も未解決。現場のコインロッカーのかたわらには、老女の似顔絵が描かれた警察の情報募集のポスターが貼り出されたままだ。現場を訪ね、事件の真相に思いをめぐらせた。

現場を行き交う人々は誰も情報募集のポスターを一瞥もしない

◆身元特定の手がかりは揃っている印象だが……

事件が発覚したのは2015年5月31日。JR東京駅構内でコインロッカーに無施錠で放置されていた黄色いキャリーバッグの保管期限が過ぎたため、駅職員が中身を確認したところ、中から老女の死体が出てきたという。

警視庁によると、このキャリーバッグがロッカー内に放置されたのは同4月26日。死体の年齢は70歳以上で、身長は140センチくらい。体型はやせ型で、ベージュのカーディガンなどを着ていた。額に5ミリ大の「骨腫」のような隆起があり、歯は抜けているか、または入れ歯だったという。

老女の死体はこのような特徴的な容姿をしていたうえ、埼玉県西部のパチンコ店で配られたタオルも一緒にキャリーバッグに入れられていたとの報道もあった。これほど手がかりがあれば、すぐに死体の身元は判明しそうなものだが、そうはならなかった。警視庁は老女の似顔絵やキャリーバッグの写真も公開して情報を求めているが、有力な情報が集まらないまま時間ばかりが過ぎているようだ。

◆犯人の目的は一体何だったのか?

現場を訪ねてみたところ、問題のコインロッカーは丸の内南口の改札を入ってすぐの場所にあった。通勤時間帯ということもあり、実に多くの人が行きかっていた。しかし、コインロッカーのかたわらの壁に貼られた老女の似顔絵が印象的な情報募集のポスターに、行き交う人々は一瞥もせずに通り過ぎていく。こうした状況を見ると、都会の人たちの自分以外の人間への無関心さが警察に有力情報が集まらない原因の一つではないかとも思わされた。

それにしても、と気になったことがある。犯人がここに老女の死体を遺棄した目的だ。

というのも、死体には事件性を疑わせる痕跡はなかったとされるが、老女の死の原因が何であれ、東京駅のコインロッカーに人間の死体など入れていたら、いずれ発見されることは犯人も当然わかったはずだ。それにも関わらず、犯人が老女の身元特定を困難にするために何らかの工夫をした形跡はまったく見受けられない。犯人はおそらく死体が見つかっても構わないと思っていたのだろうが、それならばここに死体を遺棄した目的は何だったのか……。

ただ一つ確実だと思えるのは、老女は社会との接点が乏しく、孤独な人だったのだろうということだ。老女が普通に社会生活を営み、家族と仲良く暮らしているような人ならば、さすがに2年も身元不明のまま放置されることはないはずだからだ。

現場のコインロッカー周辺を足早に行き交う人々の流れを見ながら、ふと切ない思いにさせられた。

現場のコインロッカーのかたわらに貼られた情報募集のポスターは独特の雰囲気

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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鹿砦社代表・松岡が老舗の脱原発市民組織「たんぽぽ舎」講座にて講演!

久しぶりの講演に会場は満員!
「共謀罪」が政治過程に上る中、
「名誉毀損」に名を借りた自らの逮捕・勾留事件の体験を話す!

松岡利康=鹿砦社代表

4月15日(土)夕刻、東京・水道橋の「たんぽぽ舎」が運営する会議室「スペースたんぽぽ」に多くの方々に集まっていただきました。久しぶりに私が12年近く前(2005年7月12日)の自らの逮捕・勾留事件について話す機会を与えていただいたからです。会場は、予想を越えて90名近くの方々で満員、熱気溢れる講座でした。菅直人元首相の講演以来の盛況だったとのこと、当初用意したレジメ・資料30セットでは足りずに、慌てて増刷りをしたほどでした。

この集まりは、たんぽぽ舎が3・11以来適宜継続的に行っている講座の一環で、実に今回が460回目だということです。今回は「浅野健一が選ぶ講師による『人権とメディア連続講座』」の第8回で、テーマは「表現の自由弾圧事件--懲罰としての逮捕、長期勾留」。私は「私が巻き込まれた、『名誉毀損』に名を借りた出版弾圧事件」について自らの体験と、逮捕以来12年近く思ってきたことを話させていただきました。

単なる地方小出版社の経営者にすぎない私の話になぜ多くの方々が関心を抱き参加されたかというと、「共謀罪」なる稀代の悪法が政治過程に上り国会審議が始まったからだと思われます。主催のたんぽぽ舎や浅野健一さんの狙いもここにあるのでしょうか。

つまり、私が逮捕・勾留された当時は、これに至るには刑事告訴→検察(あるいは警察)受理→捜査という一定のプロセスを経るわけで、それなりの日数もかかりますが、「共謀罪」が制定されれば、法的なお墨付きが出来るわけですから、そのプロセスは必要なく、すぐに逮捕することが可能になります。参加者が多かったのは、この危機感をみなさんが感じ取られていたからでしょうか。

◆「表現の自由」「言論・出版の自由」は〈生きた現実〉の中で語るべきだ

講座の内容は、追ってYou Tubeでも配信されるということですから、詳しく知りたい方はそれをご覧になっていただきたいと思いますが、私の話の概要は次の通りです。

一 事件の経緯、二 人権上問題となること、三「表現の自由」「言論・出版の自由」とは何か?、四「表現の自由」「言論・出版の自由」上の問題
ということでした。

私が最も言いたかったことは、憲法21条に高らかに謳われながらも形骸化、空洞化しつつある「表現の自由」「言論・出版の自由」──耳障りの良いこれらの言葉を机上でこねくりまわすのは簡単ですが、それではまさに〈死んだ教条〉になってしまいます。「共謀罪」や権力弾圧がリアルに〈生きた現実〉として迫っているのですから、私たちも〈生きた現実〉として語らなければならないということです。

事件の経緯を振り返れば、事件の一因となった書籍を刊行したのが2002年4月、それから出版差止仮処分、刑事告訴、逮捕→勾留、有罪判決(懲役1年2カ月、執行猶予4年)と民事訴訟での高額賠償金(600万円+利息)、控訴審、上告審を経て確定、執行猶予を不服とする再告訴、これが不起訴となる2011年6月まで9年間の月日が掛かり苦しめられました。本当にきつかった。これは体験した者でないとわかりません。

この間に、私が経営する出版社「鹿砦社」は壊滅的打撃を蒙り、いちどは地獄に堕ちました。正直「もうあかん」と思いましたし、弁護士もそう思ったとのことでした。しかしながら多くの方々のご支援により運良く再起できました。私も「このままでは終われない」と死に物狂いで働き運良く再起できましたが、普通は死に物狂いにもがいて地獄に堕ちたままでしょう。

「こいつはイジメたらんといかん」と警察・検察・権力に目をつけられたら、それは凄まじいものです。当時「ペンのテロリスト」を自称し、「巨悪に立ち向かう」と豪語、これが当時警察キャリアを社長に据えていた警察癒着企業や警察・検察を刺激し、警察のメンツにかけて本気にさせてしまったようです。

今でも「われわれにタブーはない!」をモットーとする私たちの出版活動に対しては批判も少なからずありますが、私たちを批判する人たちの多くは、自らは〈安全地帯〉にいてのものです。果たしてどれだけ体を張った言論を行っているのか!? 私は半年余り(192日間)ですが、1カ月でも2カ月でも拘置所に幽閉されたらキツいぞっ!

◆心ある方々のご支援で奇跡的再起を果たした私たちは〝支援する側〟に回ります

私、および私の出版社「鹿砦社」は、奇跡的ともいえる再起を果たすことができました。私も死に物狂いに働きましたが、保釈後挨拶に出向き塩でも撒かれ追い返されるかと思いきや高級すし屋に招いてくれ、「人生にはいろんなことがあります。私は支援しますので頑張ってください」と激励し仕事を受けてくださった印刷所の社長(当時)はじめライター、デザイナーさんら多くの方々のご支援の賜物と言わざるをえません。私の能力など、出版業界では並で、大したことはありませんから。本当に有り難い話で、事件から12年近く経ち、あらためて感謝する次第です。

私たちは今、再建なった中で、3・11以降、たんぽぽ舎はじめ幾つかの脱原発の運動グループを継続して些少ながら支援しています。いちどは壊滅的打撃を蒙りながら地獄から這い上がってこれたことへの〝恩返し〟です。かつて支援された側が、今度は支援する側に回ります。もう支援される側には戻りたくありません。

また、私たち鹿砦社は脱原発を今後の出版方針の一つとして定め、たんぽぽ舎のお力を借りて脱原発情報マガジン『NO NUKES voice』を創刊し、すでに11号を数えました。脱原発の老舗市民グループ・たんぽぽ舎はもう30年近くになるということですが、脱原発をライフワークとされる柳田・鈴木両共同代表はじめスタッフの方々のピュアな想いにも励まされ、齢65になった私の今後の方針も見えてきました。鹿砦社東京編集室の〝隣組〟ということもありますが、今後共、最大限共同歩調を取っていきたいと思います。

最後になりましたが、今回の講座で東京で久しぶりに、くだんの「名誉毀損」逮捕事件について話す機会を与えてくださったたんぽぽ舎のみなさん、及び逮捕直後から支援され今回も自身の連続講座の一つに組み入れてくださった浅野健一さんに感謝いたします。 

(鹿砦社代表・松岡利康)

〈原発なき社会〉を求める声は多数派だ!
『NO NUKES voice』11号

逆転無罪が相次いで出た広島と米子の冤罪事件「知られざる共通点」

当欄で昨年12月28日と今年2月17日に紹介した「知られざる冤罪」米子ラブホテル支配人殺害事件の控訴審で被告人の石田美実さん(59)に対する判決公判が先月27日に広島高裁松江支部であり、栂村明剛(つがむら・あきよし)裁判長は懲役18年の一審・鳥取地裁判決を破棄し、石田さんに無罪判決を宣告した。

3月10日に最高裁で逆転無罪判決を受けた広島の元アナウンサー・煙石博さん(70)に続き、これまで当欄で伝えてきた冤罪事件で月に2度も逆転無罪判決が出たわけだ。有罪率99.9%の日本の刑事裁判において、極めて珍しい幸福の連鎖と言えるが、この2つの冤罪事件には「知られざる共通点」がある。

石田さんに逆転無罪が宣告された広島高裁松江支部

◆妥当な無罪判決

「原判決のうち、有罪部分を破棄する。被告人は無罪」

改修工事が終わったばかりで、まだ建物が真新しい広島高裁松江支部の第200号法廷。午後1時30分から始まった判決公判で、栂村裁判長がそう宣告すると、傍聴席の記者たちが一斉に席を立ち、法廷の外に駆け出した。「逆転無罪判決」が出たことを速報するためである。

事件の内容については、すでに当欄では詳述したので、ここでは省略する(そこから知りたい人は後掲の関連記事を読んで欲しい)。判決内容についても、まだ判決文を入手できていないので、細かい論評は控えたい。ただ、栂村裁判長の判決朗読を聴いていた限りでは、無罪推定の原則に従った妥当な判決だと思えた。「~の可能性もある」「~とは断定できない」などという言い方で、一審判決の有罪認定をことごとく否定していたからだ。

日本の刑事裁判では、無罪推定の原則はお題目と化しており、否認事件の判決では、「~の可能性もある」「~とは断定できない」などという曖昧な言い方で、被告人に不利な事実認定がなされて有罪と結論されることが非常に多いのが現実だ。栂村裁判長がこれまでにどのような裁判をしてきたかを私は知らないが、普段からこういう判決を出してきたのなら、かなり良い裁判官と言える。

被告人席で判決の朗読を聴いていた石田さんは無表情で、手放しで喜んでいるような様子ではなかった。「自分は元々無実なのだから、無罪判決が出て当たり前」という思いなのではないかと想像させられた。一方、捜査段階から弁護人を務めてきた2人の担当弁護士は、弁護人席でたまにうなずいたり、目のあたりを手で押さえたりしており、胸に熱いものがこみ上げているのではないかと思われた。

いずれにしても、無実の人に無罪判決が宣告されるのは喜ばしいことである。


◎[参考動画]元従業員に逆転無罪判決 米子のホテル支配人死亡で(ミドpomピカット2017年3月27日公開)

◆月に2度も冤罪を暴かれた裁判長と検察官

では、この事件と3月10日に最高裁で逆転無罪判決が出た煙石博さんの事件の「知られざる共通点」とは何か。

それは第1に、裁判官である。というのも、石田さんに対し、一審の裁判員裁判で懲役18年の冤罪判決を宣告した鳥取地裁の辛島明裁判長は、広島高裁であった煙石博さんの控訴審で右陪席の裁判官だった。広島高裁から鳥取地裁に異動し、今度は裁判長として再び無実の人を冤罪に貶めたわけである。

「知られざる共通点」の2点目は、検察官である。というのも、石田氏の控訴審判決公判に立ち会った2人の検事のうち、中澤康夫検事は、広島高裁であった煙石さんの控訴審でも公判を担当していた。その頃からずっと広島高検にいたのかと思いきや、調べたところ、煙石さんの控訴審が終わった後、高松高検に異動になっており、今年1月に広島高検に戻ってきて、石田さんの控訴審の公判を担当したらしい。

この中澤検事は煙石さんの控訴審では、控訴棄却の判決を受けた煙石さんが怒りの声をあげているのをニヤニヤしながら見つめていたのをはじめ、公判中に不遜で、いやみったらしい態度が目についた。そんな検事がひと月に2度も担当した事件で逆転無罪判決を受けたことには、正直、胸がすく思いだった。

冤罪問題に関心のある人には、この機会にぜひ、辛島明裁判長と中澤康夫検事の名前を覚えておいてもらいたい。そして、この2人が他でも何か重大な冤罪事件に関与しているようであれば、ぜひ情報提供をお願いしたい。


◎[参考動画]元アナウンサーに逆転無罪 最高裁「重大な事実誤認」(共同通信社2017年03月10日公開)

〈追記〉
なお、私はこの事件について、6月8日発売の冤罪専門誌「冤罪File」でもより詳細にレポートする予定なので、関心のある方はぜひご覧頂きたい。

【関連記事】
◎2016年の冤罪判決──再審無罪も出た一方で裁判員裁判で新たに2件の冤罪判決(2016年12月28日)

◎鳥取の「知られざる冤罪」──米子ラブホテル支配人殺害事件、控訴審も結審(2016年2月17日)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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はじまりの季節に想う「八幡浜市乳児5死体遺棄事件」の深層

新小学1年生とおぼしき子供たちが真新しいランドセルを背負って登下校する姿を見かけ、微笑ましい思いにさせられる今日この頃。そんな「はじまりの季節」に私は、ある痛ましい事件を思い出す。2015年に世を騒がせた愛媛県八幡浜市の乳児5死体遺棄事件だ。犯人の女はすでに懲役7年の判決が確定して服役しているが、あまり報道されなかった裁判では、思った以上にむごたらしい事件の内実が明らかになっていた――。

◆いつのまにか終結していた裁判

「臨月のように大きかったお腹がへこんだのに、子供の姿が見えないんです」

事件は近隣住民のそんな通報から発覚したという。2015年7月、愛媛県警は八幡浜市の無職、W(当時34、女性)を死体遺棄容疑で逮捕した。Wが実父や弟、中学生の息子と一緒に暮らす家の物置などから赤ちゃん5人の死体が見つかり、Wは相次いで子供を産み、殺害した疑いがあるとされた。

事件は注目を集め、「実父との近親相姦で出来た子供を殺していたのではないか」などの憶測が飛び交った。だがその後、松山地裁であったWの裁判員裁判はあまり報道されなかった。2016年1月、懲役7年の判決が出て、Wの裁判は終結していたのだが、そのことを知っている人はマレだろう。

新聞報道によると、赤ちゃん5人の死体が見つかりながら、Wが起訴されたのは1人の女児に対する殺人罪だけで、他の4人に対する殺人罪は嫌疑不十分で不起訴になったという。それ自体が不可解だが、そもそも赤ちゃんたちの父親は誰だったのか。私は取材を進め、裁判員裁判の判決を入手したが、それを読み、思わずため息をついてしまった。

Wが逮捕された当初、メディアは事件を一斉に報道したが、続報はあまりなかった

◆次々に妊娠していた本当の理由

〈被告人(筆者注・Wのこと)は、平成18年(2006年)頃に元夫と離婚し、父、弟及び長男と同居するようになったが、家計を支えるため、短時間で日払いの高収入が得られ、苦手な人付き合いも少ない仕事として風俗店で勤務するようになり、平成20年頃風俗店での収入が減少すると、出会い系サイトを利用しての売春もするようになった。被告人は、より高い料金を得られることなどから避妊せずに売春したことで同年頃妊娠し、一旦中絶の予約もしたが、代金が高いため手術を受けることなく早産し、その後も避妊せずに売春したことで妊娠出産してはその死体を自宅物置きに置くことを何度か繰り返しながらも、避妊せずに売春を続けていた〉(Wに対する判決より)

つまり、Wは家計を支えるために否認せずに売春を重ね、妊娠を繰り返していたのだが、驚くのは「ピルで避妊する」という発想すらなかったことである。私はWに対し、生命の尊さをわかっているのか否かということ以前に、知的能力に相当な問題があったのではないかと思わざるを得なかった。

唯一立件された2015年7月に女児を殺害した件については、Wは自宅の風呂場でこの女児を出産し、すぐに口と鼻を手でふさいで窒息死させたという。判決はこの事件について、こう批判している。

〈家族や行政機関への相談の道もありながら何ら相談することなくむしろ拒絶し、結局本件に至ったのであるから、その意思決定は厳しく非難されるのが当然である〉(同前)

この批判はもっともだが、Wがなぜ、家族にすら相談しなかったのかも不思議だ。Wは40代前半で社会復帰することになるが、出所後は真っ当に働き、真っ当に生きていけるのか、他人事ながら心配だ。

Wの子供として生まれ、生きることを許されなかった乳児たちは順調に成長していれば、今ごろはランドセルを背負って、小学校に通い、楽しい学校生活を送っていたかもしれない。取り返しのつかない罪を犯したWには、せめてきちんと社会復帰して欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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今市女児殺害事件をめぐる冤罪疑惑──見過ごされた自白調書の明白なウソ

無実を訴える被告人の勝又拓哉氏(34)が宇都宮地裁の裁判員裁判で有罪判決(無期懲役)を受けて4月8日で1年になる今市女児殺害事件。冤罪の疑いを指摘する声が非常に多い事件だが、実を言うと、勝又氏の自白調書には一読しただけでわかる明白な嘘がある――。

有希ちゃんが行方不明になった現場には供え物が絶えない

◆取り調べの録音録画で有罪とされたが……

2005年12月に栃木県今市市(現・日光市)で小学1年生の女の子・吉田有希ちゃん(当時7)が殺害された事件で、勝又氏が殺人の容疑で検挙されたのは事件から8年半が経過した2014年6月のこと。昨年春にあった勝又氏の裁判員裁判では、物証の乏しさが指摘されたが、有罪の決め手となったのは取り調べの録音録画映像だった。

「決定的な証拠はなかったが、取り調べの録音録画を観て、間違いないかなと思った」

判決後の会見で、裁判員たちは異口同音にそう言った。裁判で無実を訴えた勝又氏だが、捜査段階にはいったん容疑を全面的に認めており、公判では、勝又氏が取り調べで否認から自白に転じていく過程を録音録画した映像が法廷のモニターで再生された。裁判員たちはその映像から有罪心証を固めたのだ。

栃木県内のあちらこちらに貼り出されていた警察のチラシ(1)

しかし、勝又氏の取り調べはすべてが録音録画されていたわけではなく、部分的に録音録画されていただけだった。そんな事情もあり、録音録画されていない取り調べで勝又氏が自白を強要されていたのではないかと疑う人が続々現れた。それが、この事件に冤罪の疑いを指摘する声が多い一番の理由だ。

かくいう私も裁判員裁判は全公判を傍聴し、勝又氏のことを冤罪だと確信している。ただ、皮肉なのは、取り調べの映像にばかり注目が集まったため、結果的にもっとわかりやすい冤罪の根拠が見過ごされてしまったことだ。というのも、検察官は公判の終盤、証拠採用された4通の自白調書を法廷で朗読したのだが、それを注意深く聞いていれば、それだけで自白の嘘は簡単に見受けたからである。

◆「服装はよく覚えていない」という決定的な不自然

では、勝又氏の自白にどんな嘘があるのか。具体的に見てみよう。

勝又氏の自白によると、犯行の際は栃木県鹿沼市の自宅から今市市の有希ちゃんの小学校の近くまで車で赴き、1人で歩いて下校している有希ちゃんをさらったことになっている。そして勝又氏は自白調書でこの時のことを振り返り、有希ちゃんの服装について、次のように供述している――。

「有希ちゃんは赤いランドセルを背負っていたことは覚えていますが、服装はよく覚えていません」

栃木県内のあちらこちらに貼り出されていた警察のチラシ(2)

勝又氏の自白が決定的におかしいのは、この部分だ。その理由は第一に、勝又氏が自白調書の他の部分では、有希ちゃんの衣服や靴について、次のような供述をしているのと整合しないことだ。

「自宅アパートに連れ込んだ有希ちゃんをベッドでうつ伏せにさせ、上着をハサミで切り、上半身を裸にしました。そして有希ちゃんのズボンも腰から脱がし、パンツも脱がし、完全に裸にしました(以下、わいせつ行為をしたような供述が続く)」

「有希ちゃんを殺害し、遺体を遺棄したあとは1週間から2週間くらいかけ、有希ちゃんのランドセルや靴などを細かくハサミで切って、ごみ袋に入れ、それらを自宅アパートの前のゴミ捨て場に何度かに分けて捨てました」

勝又氏が本当にそんなことをしたならば、有希ちゃんの服装のことを覚えていないということがありえるだろうか。

◆県内のあちこちで「有希ちゃんの服装」は見かけたはずだが……

事件の日から勝又氏が検挙されるまでに8年半も経過しているから、「本当に犯人でも有希ちゃんの服装を忘れた可能性があるのではないか」と思う人もいるかもしれない。しかし、それはありえない。なぜなら、勝又氏が検挙されるまで8年半も「未解決」だったこの事件では、栃木県内のあちこちにここに掲載したような犯人の情報を求める警察のポスターが貼り出されていたからだ。

栃木県内のあちらこちらに貼り出されていた警察のチラシ(3)。これで服装を供述できないとは……

このポスターに出ている有希ちゃんの事件当日の服装は黄色いベレー帽や、「とっとこハム太郎」の絵が描かれたピンクのスニーカーなど極めて特徴的だ。事件があった頃からずっと栃木県内に住んでいた勝又氏が仮に犯人ならば、このポスターをまったく目にしていないとか、このポスターに出ている有希ちゃんの服装をまったく記憶していないとは考え難い。

げんに勝又氏は自白調書において、次のような供述もしている――。

「コンビニとか交番とか町中のあちこちに有希ちゃんを殺した犯人の情報提供を求めるポスターが貼られていて、それを見るたびに怖い思いがしていました」

これほどポスターのことを気にかけていながら、ポスターにわかりやすく描かれた有希ちゃんの服装について、自白できなかった勝又氏。それだけでも自白の信ぴょう性など無いに等しいというほかない。

第一審が終わり、1年が過ぎたため、現在は東京高裁に控訴中の勝又氏の控訴審が始まる日もそう遠くないだろう。私は控訴審も取材する予定なので、また続報をお届けしたい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン

今年度注目の「冤罪疑惑裁判」──志木市妻子放火殺人事件の深層

年度末の3月は大阪母子殺害事件やミナミ通り魔殺人事件、神戸小1女児殺害事件など重大事件の裁判で相次いで判決が出たが、4月以降も重大裁判は目白押しだ。冤罪の疑いがある事件の中で要注目は、「2度目の裁判員裁判」が行われる見通しの志木市妻子放火殺人事件。被告人の男性は2015年に裁判員裁判で一度は無罪判決を受けながら、控訴審で無罪判決を破棄される憂き目に遭ったが、この事件では「被告人とは別の真犯人」が存在する可能性が法廷で浮かび上がっている――。

◆一度は無罪判決が出たのだが……

事件は2008年12月3日の早朝5時過ぎ、東武東上線の志木駅から北東1キロ余りの住宅街で起きた。会社員の山野輝之さん(当時34)とその家族が暮らす2階建ての家から火の手が上がって全焼。火災時に外出していた山野さんと、2階の窓から脱出した長男(同12)は無事だったが、鎮火後の焼け跡からは妻(同34)と長女(同4)の焼死体が見つかった。

この痛ましい火災をめぐり、山野さんが殺人や現住建造物等放火の容疑で埼玉県警に逮捕されたのは5年後の2013年8月のことだ。山野さんは火災当時、妻と別れて別の女性と再婚したいと望んでいたのだが、妻が離婚を拒み、別れられないでいた。そして火災後、再婚を望んでいた女性と実際に再婚している。そういったことが警察には疑わしく思えたらしい。

そんな山野さんが2015年3月、さいたま地裁であった裁判員裁判で無罪を判決受ける決め手になったのは、警察が模擬家屋で行った燃焼事件だった。その実験結果と山野さんが車で外出する様子をとらえた近所の防犯カメラ映像をもとに検証すると、山野さんが外出後に出火した可能性が浮上したのだ。

ところが、検察官が控訴すると、控訴審の東京高裁は2016年7月、「燃焼実験は再現性が認められない」などと指摘したうえで裁判員裁判の無罪判決を破棄し、裁判員裁判をやり直すように命じた。弁護側がこれを不服として最高裁に上告したが、今年2月、最高裁が上告を棄却し、山野さんはもう一度、裁判員裁判で裁かれることになったのだ。

このあたりに現場の山野さん宅はあった。今は別の家が建っている

◆妻に「真犯人の可能性」が指摘される理由

有罪率が99・9%を超える日本の刑事裁判。無実を訴える被告人はその厳しいハードルを越えて無罪判決を取っても、英米法では認められていない検察官の上訴にさらされ、逆転有罪判決を受けることもある。山野さんもまさにそういう悲劇に見舞われたわけだが、無罪判決が出た裁判員裁判では、冒頭で触れたように「被告人とは別の真犯人」が存在する可能性が法廷で浮かび上がっていた。それは、焼死した妻である。

というのも、妻は事件当時、境界性人格障害の特徴を併せ持つ解離性障害を有しており、しばしば衝動的な自傷行為に及ぶほど病状は深刻だった。証人出廷した2人の医師によると、妻は事件の約7カ月前には、「頭の中に声もきて、“死ネ”と言ってくる」などと幻聴を示唆する発言をし、事件の約5カ月前にも、「死にたくなり、カミソリを持ってきてしまったりする」などと述べ、入院を勧められていた。そして事件の1カ月前、最後に医師の診察をうけた際には、頼りにしていた山野さんが離れていくと感じ、家庭に不安を感じているという発言をし、腕を強く掻いて腫らすなどの行動をとっていたという

また、こうした病状のため、妻は事件当時、睡眠薬を服用していた。この睡眠薬には、せん妄や奇異反応といった意識を変容させる副作用があり、とくに妻のような解離性障害の人には、意識変容を起こさせやすいものだったという。そこで、こうした睡眠薬の副作用から妻が放火したのではないかとの疑いが浮上したわけである。

山野さん宅近くの防犯カメラには、火災の少し前に外出する山野さんの姿が映っていたが……

この「妻=真犯人説」について、証人出廷した2人の医師のうち、1人は「睡眠薬による副作用の可能性は低い」と否定的だったが、もう1人は「解離性障害に陥り、衝動性が高く、自傷行為を繰り返す人は、実際に自殺してしまうことがある」「薬の副作用が放火行為を促進した可能性も考慮すると、妻が放火した可能性は高い」という見解だった。結果、裁判員たちは後者の見解を採用し、「妻が解離性障害の影響下での睡眠薬などの副作用で犯行に及んだ可能性がある」と判断したのだ。

これに対し、無罪判決を破棄した控訴審・東京高裁の裁判官は、高裁で証言した医師の見解をもとに判決で妻が火災発生時に睡眠薬の作用で眠っていた可能性が高い指摘したのだが、複数の医師が別々の意見を述べている中、医学の素人である裁判官が正しいジャッジを下せたのかは疑問だ。こういう時は本来、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に従った判断をすべきではなかったか。

再びさいたま地裁の裁判員裁判で有罪、無罪が争われることになったこの事件。今後も適時、続報をお伝えしたいと思っている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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獄死した埼玉愛犬家殺人事件・関根元死刑囚「娘にデレデレ」だった素顔

埼玉県熊谷市で犬猫の繁殖販売業を営んでいた元夫婦の男女が1993年頃、犬の売買をめぐりトラブルになった客など4人を相次いで殺害したとされる埼玉愛犬家連続殺人事件。その主犯格の関根元死刑囚(75)が3月27日、収容先の東京拘置所で病死した。稀代の猟奇殺人犯として知られた関根死刑囚だが、娘にはデレデレの甘い父親という一面を持っていた。

関根死刑囚が営んでいた犬猫の繁殖販売業の犬舎

◆「お父さんっ子」だったという娘

「ボディを透明にする」。自分の殺人手法をそう豪語していたとされる関根死刑囚。被害者たちの遺体を細かく解体して燃やしたうえ、残骸を山や川に遺棄し、殺人事件の存在自体をほぼ完ぺきに証拠隠滅していたことから、検挙に至るまでに警察捜査は難航したとされる。ミュージシャンの泉谷しげる似の武骨な風貌。ライオンや熊を家で飼っていたというワイルドな私生活などは猟奇殺人犯らしいエピソードには事欠かない。

私がそんな関根死刑囚に関心を抱いたのは、共犯者とされて一緒に死刑確定した元妻の風間博子氏(60)について、冤罪の疑いを抱いたのがきっかけだ。確定判決では、風間氏は4人の被害者のうち、3人の被害者の殺害を関根死刑囚と共謀したとされるが、裁判では「関根の指示に逆らえず、遺体の損壊や遺棄に一部関わっただけだった」と冤罪を主張。実際、風間氏が前夫との間にもうけていた息子は「母は、関根のDVに苦しみ、奴隷のようだった」と証言し、「関根には逆らえなかった」という風間氏の主張を裏づけていた。風間氏は現在も支援者らに支えられ、無実を訴えて再審請求を行っている。

一方、良い話があまり聞かれない関根死刑囚だが、風間氏との間にもうけた娘Nさんによると、実の娘にはデレデレの甘い父親だったという。

「父は、母や兄には暴力をふるっていましたが、私には本当に優しくて、何をしても怒りませんでした。それに私が何か欲しいと言うと、何でも買ってくれました。思い出のプレゼントは、小学校3年生の時に買ってくれたテディ・ペアのヌイグルミ。当時の私と同じくらいの身長で、一目ぼれした私が『欲しい』と言ったら、父が『買おうか』と言って買ってくれたんです」

今から3年ほど前、Nさんは私の取材に対し、懐かしそうにそう語った。関根死刑囚のことが大好きで、「お父さんっ子」だったと自認する彼女の話を聞いていると、稀代の猟奇殺人犯も普通の父親としての顔を持っていることを感じさせられた。

◆娘への手紙に書いていた「ある言葉」の意味は……

関根死刑囚が病死するまで収容されていた東京拘置所

Nさんによると、20歳の頃に一度、関根死刑囚から「会いに来て欲しい」という手紙をもらったが、その時は「父がどんなふうになっているのか見るのが怖くて・・・」と面会に行かなかった。すると、関根死刑囚はそれ以来、Nさんの面会に応じなくなり、関係が途絶えてしまったという。そんなNさんが気になっているのが、関根死刑囚がかつて手紙に書いてきた「ある言葉」だ。

「父からの手紙には、『お母さんをNのもとに帰してあげるね』と書いてあったんです。あれは一体何だったんだろうと・・・」

殺人については無実を訴えていた風間氏が裁判で関根死刑囚と共謀して3人を殺害したと認定された大きな要因は、関根死刑囚が「犯行を主導したのは妻だった」と証言していたことだ。関根死刑囚がNさん宛ての手紙に書いてきた言葉を素直に解釈すれば、関根死刑囚は風間氏が無実であるという真実を打ち明け、風間氏に再審で無罪を取らせることを考えていたのではないか。

この私の推測が当たっているか否かについて、関根死刑囚本人の口から真相が語られることはもう永遠にない。残念だ。

※なお、拙著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)では、風間氏が有罪、死刑とされた裁判の問題点が詳述されているほか、風間氏が自分の潔白や子供たちへの思いを綴った手記を収録されている。


◎[参考動画]埼玉愛犬家連続殺人事件起訴へ(1995年2月ニュース映像)

◎[参考動画]埼玉の愛犬家殺人 関根死刑囚が病死(NHK3月27日10時24分)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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結論はあらかじめ決まっていた? 死刑破棄された神戸小1女児殺害控訴審

2014年に神戸市長田区で小1の女児、生田美玲ちゃん(当時6)が殺害された事件で、殺人や死体損壊・遺棄、わいせつ目的誘拐の罪に問われた君野康弘被告(50)に対する控訴審の判決公判が3月10日、大阪高裁であり、樋口裕晃裁判長は「殺害に計画性が認められない」などと述べ、第一審・神戸地裁で裁判員らが下した死刑判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。前日に判決公判があったミナミ通り魔殺人事件の礒飛京三被告(41)から2日連続で大阪高裁が裁判員裁判の死刑判決を破棄した形だが、実を言うと、君野被告の死刑判決破棄は初公判の前からあらかじめ決められた結論だったふしがある。

死刑判決を破棄した大阪高裁

◆たどたどしい受け答え

昨年12月16日、大阪高裁の第201号法廷で行われた君野被告の初公判。上は紺色の薄手のダウンジャケット、下はグレーのスウェットパンツという姿で現れた君野被告は、逮捕から2年以上続く獄中生活のためか、顔は青白かった。短く刈り込んだ頭髪も白いものが目立ち、いかにも生命力が弱そうな印象だった。

この公判では、被告人質問も行われたが、君野被告は法廷に現れた時の印象通り、たどたどしい受け答えに終始した

弁護人「一審判決では自分の身勝手さや攻撃性と向き合ってないと言われたけど、どう思った?」
君野被告「その通りだと思いました」
弁護人「今はいきなり首を絞めたり、包丁で刺したことをどう思ってる?」
君野被告「・・・・・・」
弁護人「現在はどう思ってるんだろう?」
君野被告「・・・・・・しっかり反省し、これからはそういうことがないようにしたいです」
弁護人「自分がしたことをどう思う?」
君野被告「ひどいことをして申し訳ないという思いがますます深まっています」

いまいちかみ合わないやりとり。反省しているのを訴えたい思いは感じるが、それを実現できない貧しいボキャブラリー。一審の死刑判決は君野被告について、〈知的能力は、心理検査の点数上は知的障害と正常の境界域にある〉としていたが、実際そうなのだろう。

一審の死刑判決によると、君野被告は下校中の美玲ちゃんにわいせつ行為をしようと、「絵のモデルになって欲しい」と声をかけて自宅アパートに連れ込んだ。そして騒がれずに身体を見たり触ったりしたいと考え、美玲ちゃんの首をビニールロープで絞め、包丁で首を4回以上刺して殺害。その挙げ句、死体を包丁でバラバラにして複数のビニール袋に入れ、近くの雑木林に遺棄したとされる。社会を騒がせた凶悪事件の犯人が普段は弱々しい人物であることは珍しくないが、君野被告もまさにその1人だった。

◆検察官の追及にタジタジに

それでも弁護人の尋問では、君野被告は日々、被害者の冥福を祈りながら写経をし、反省を深めていることを訴えた。しかし、検察官の反対尋問では案の定、厳しい追及によりタジタジにされてしまうのだ。

検察官「反省が深まったというのは一審でも言っていましたが、それ以後、具体的に反省がどう深まったの?」
君野被告「・・・・・・」
検察官「答えられない?」
君野被告「・・・・・・はい」
検察官「じゃあ、般若心経を写経しているそうだけど、その般若心教がどういう意味かは調べてるの?」
君野被告「・・・・・・」
検察官「本で勉強したことはないの?」
君野被告「あります」
検察官「どういう意味だと書いてあった?」
君野被告「忘れました・・・・・・」

公判慣れした検察官にとっては、君野被告のような知的能力の低い被告人を追及し、答えに窮させることはきっと朝飯前なのだろう。

一方、弁護側は君野被告が美玲ちゃんを誘拐した動機について、「わいせつ目的ではなく、お酒を飲みながら話をしたかった」と主張。さらに現在、養子縁組をして君野被告を支えようしている女性が存在することなども死刑回避の事情になりうることだと訴えていた。

だが、質問役として登場した美玲ちゃんの母からは逆に「あなたが養子縁組をしたと聞いて、私たち家族がどんな気持ちになるか考えなかったんですか?」と責め立てられ、君野被告は「すみません。考えませんでした」と小さくなるばかり。何をやっても裏目になっている印象だった。

◆年度内に片づけたい思惑がミエミエだった裁判長

では、初公判はそんな状態だったにも関わらず、なぜ死刑破棄が「あらかじめ決められた結論」だったと言えるのか。それは、樋口裁判長が初公判の最後に「第2回公判で結審しますので、第2回公判の日時だけでなく、判決公判の日時も決めてしまいしょう」と言い、初公判が終わった時点で早々と判決公判を「3月10日か同15日」と決めてしまうなど「この事件は年度内に片づけたい」という思惑がミエミエだったからである。

私はその様子を見ながら、樋口裁判長らは「控訴棄却」という結論を決めて初公判に臨んでいるのだろうとばかり思っていた。しかし実際には、死刑回避を最初から決めていたのである。大阪高裁で2日連続で起きた、まったく予想できない死刑判決の破棄。裁判とは本当にわからない。

君野被告が収容されている大阪拘置所

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン