『NO NUKES voice』衝撃8号本日発売! 【特集】分断される福島

福島〈反原発〉のローザ・ルクセンブルク、佐藤幸子さん(撮影=大宮浩平)
NNV08号表紙の人は〈脱原発〉大熊町議の木幡ますみさん(撮影=大宮浩平)

『NO NUKES voice』第8号がいよいよ本日25日発売となった。熊本を襲った前例のない長期間にわたる地震の被害は読者の皆さんも心を痛められていることだろう。阪神大震災の時もそうだった。関東、東海地方には大地震の到来が予想されていたが、まさか神戸を中心に壊滅的な大地震が来ると予想できた市民は皆無に近かったし、熊本の人びともそうだろう。気象庁はついに今後の予想について「わかりません」と発言するに至っている。

しかし、不幸ではあるが、もし川内原発が熊本の地震の影響で過酷事故を起こしていたら、被災者の方々の生活はさらに語り尽せない悲劇に覆われていたのではないか。5年前の福島では、防護服を着た人間がマスクもつけない子供達の被曝線量を測っていたおぞましい姿が蘇る。

〈メディアの危機〉の前線で抗い続けるTBS「報道特集」キャスターの金平茂紀さん

◆【特集】分断される福島――権利のための闘争

今号も本誌は福島に足を運び、現地の人びとの声を頂いた。【特集】分断される福島──権利のための闘争では大熊町議会議員に当選された木幡ますみさん。政府のあやふやな説明、官僚の逃げ腰を許さずに最前線で怒りをぶつける姿が印象的な佐藤幸子さん。ご自身国政選挙に出馬することにより被災地の問題を全国に問いかけた木田節子さん。南相馬市の汚染地帯に住みながらも新しい運動の模索を続ける國分富夫さん。どなたからも悲惨な現実と格闘する穏やかながらのっぴきならない、現実に直面する人の凄みが伝わってくる。諦めと忘却を「時間」という武器を用いて待ち受ける政府や東電に対する揺るぎのない闘いの意思は健在だ。

〈学〉の世界で闘い続ける京大「熊取六人衆」の今中哲二さん

◆金平茂紀さん、今中哲二さん、中嶌哲演さん──必読の3大インタビュー

TBSテレビ報道特集でおなじみの金平茂紀さんはテレビ人の中では原発問題に詳しい屈指の人だろう。金平氏が語るテレビ報道の現状はいかなるものか。本誌だけへの告白が注目だ。

今中哲二(元京都大学原子炉実験所・助教)さんからは事故が起きてしまった今日の闘う戦術について原子力の専門家の立場から語って頂いた。

中嶌哲演さんは名刹、明通寺の住職でありながら福井県の反原発運動の先頭で闘い続ける哲学を仏教者の立場から伺った。

いずれも反原発の世界では欠くことの出来ない個性と知性が織りなす3大インタビューは誇張なく全国民必読だ。

◆爆弾対談! 『世に倦む日日』田中宏和さん×松岡利康本誌発行人

そして、『NO NUKES voice』は広範な多様性を認めあう運動や思想を指向する。その結果として現在避けて通れない問題が所謂「反原連」による一方的な断絶宣言から生じた問題である。

反原連の中心人物はその後「反差別」運動へとウイングを広げるが、ここでもやはり「排除の論理」を横行させ数々の問題を引き越こしている。昨年あたかも何か新しい学生の運動のように登場した「シールズ」は彼らがお膳立てした学生のタレント部隊に過ぎないこと、そして彼らの主張が実は「憲法9条2項」改憲であることは重大な問題であるにもかかわらず、これまでのところ主要メディアでは一切報じられていない。

その問題性を人気ブログ『世に倦む日日』を主宰する田中宏和さんと本誌発行人の松岡利康とが激論! 文字通り内容は「爆弾対談」となった。反原連―しばき隊―シールズに通底する暗部を余すところなく暴き出す。

「しばき隊は黒百人組!」と喝破した松岡利康本誌発行人
顔出しOKで爆弾対談に臨んでくれた「世に倦む日日」主宰の田中宏和さん

「爆弾対談」に加えて松岡論考「再び反原連への異議申し立て!―人の思いや好意には真摯に答えよ!異論を排除しない自由な運動への願い」。この題名はやや無いものねだりの感もぬぐえないが、果たして松岡氏の意図は如何に。

◆執念のおっかけ直撃取材は〈シニア右翼の女神〉櫻井よしこ氏!

そして、暫く鳴りを潜めていた「鹿砦社名物」直撃取材、今回は「あの」櫻井よしこ氏を自宅前で取材に成功!しかも櫻井氏は質問にも答え始めたため予想外の展開となった。逮捕一歩手前で敢行された取材班の成果にもご注目を!

執念で実現した〈シニア右翼の女神〉櫻井よしこ氏の自宅前直撃取材!
岩波新書『原発プロパガンダ』が話題の本間龍さんによる連載報告も衝撃的!

その他全国からの運動報告も満載だが、すべてを紹介することが出来ない。少なくとも前号『NO NUKES voice』7号発刊後からこの間、高浜原発再稼働時の事故による緊急停止、大津地裁における運転差し止めの仮処分決定。再度の言及になるが、熊本を中心とする例のない長期間に及ぶ大地震、そして5月17日には関東地方でも震度5弱の地震と、文字通り日本列島は激震常態が続いている。

地震の制御が出来ない以上、人災を最小限に食い止める=原発全機即廃炉しか日本列島住民に未来はないことを私たちは何度でも訴える。抗うことなしに花など咲きはしない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。
    
   
   

『NO NUKES voice』08号【特集】分断される福島──権利のための闘争
5月26日発売!「世に倦む日日」田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

いまこそ論争を! 『NO NUKES voice』8号と『SEALDsの真実』が今週刊行!

『NO NUKES voice』08号【特集】分断される福島──権利のための闘争

鹿砦社の総反撃がいよいよ開始される。熊本の大地震を目の当たりにしながら、川内原発の運転を停止しない、原発マフィアどもに、反原発運動の仮面を被りながら、その実、警察権力と手を携え、ひたすら「排除の論理」で唯我独尊に陥った「反原連」へ、そして、「反原連」を出自とする、リンチ事件が専ら噂のしばき隊、その子分で「9条改憲」を持論とする「シールズ」の諸君へ!

◆25日(水)、『NO NUKES voice』第8号発売開始!

第一段は今週25日(水)発売の『NO NUKES voice』第8号である。第一線で闘ってきたジャーナリスト、研究者、市民運動家にご登場頂き、各持ち場での持論を展開して頂く。三者三様の立場から我々が学ぶべきものに限りがないことを、改めて認識させられる。

また、福島に寄り添う気持ちを忘れないためにも、今号も現地福島に取材班が足を運んだ。過酷な現実と向き合いながらも、将来を切り開こうとする揺るぎない意思をご紹介する。決して楽観論のみでは語れない福島の現実を私たちは直視してゆこうと考える。

田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

◆27日(金)、「世に倦む日日」田中宏和さんの『SEALDsの真実』発売開始!

そして27日の金曜日(場所によってはそれよりも早く)には「世に倦む日日」主宰、田中宏和さんによる『SEALDsの真実』がいよいよ書店に並ぶ。アマゾンで告知した直後、一時は人気第一位を記録した注目の問題作だ。

奥田愛基がすぐにTwitterで鹿砦社に対して侮蔑的な書き込みをしたことからも明らかなように、本書の出版については「シールズ」に関わった人々がかなりナーバスになっているようだ。しかし、心配は不要である。本書は「シールズ」に対して正面からの問題提起を行うものであり、彼らの庇護者である「しばき隊」が常套手段として用いる、恫喝、罵声浴びせ、身分明かしなどといった卑怯な手法は、当然の事ながら一切用いられてはいない。あくまでも社会科学的に「シールズ現象」とその背景についての考察が加えられた、学術書に過ぎない。しかしながら、であるからこそ、実は彼らにとっては痛撃となる可能性は低くないだろう。ツイッターの140文字空間にだけ、生息場所を持っている窮屈な言論に慣れ切った御仁には少々難解であるかもしれないが、それこそ「勉強」の為に、是非とも「シールズ」のメンバーには一読をお勧めするし、反論があれば是非有益な議論を交わしたいものである。

しばらく、大人しくしている間に、随分と座視できない〈事件〉が立て続けに起こっているようだ。その中に〈犯罪〉まで含まれているというから事は穏やかではない。

◆雑誌と書籍の使命は闊達な言論を喚起することだ!

『NO NUKES voice』8号は(毎号そうではあるが)編集部が総力を挙げ、やや危険と思われる水域にも敢えて足を踏み込んでいる。そのくらいの危険を冒すことなしに闊達な言論を喚起することはできないであろうし、雑誌を提供する者の最低限の義務だと私たちは考える。原則はゆるぎない。原発全機即廃炉を目指し、読者諸氏からの叱咤を期待する。

『NO NUKES voice』は決して不偏中立ではない。科学と人道に立脚しながら、非人間的存在である「原発」とそれが包含する「差別構造」を常に視野に入れながら敵を撃つ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『NO NUKES voice』08号【特集】分断される福島──権利のための闘争
5月27日発売!「世に倦む日日」田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

日本国憲法はいま、本当に〈在る〉のか?

本日は1947年5月3日「日本国憲法」が施行された「憲法記念日」である。施行から69年目となるが、2016年の今日にいたり、成文憲法たる「日本国憲法」(以下「憲法」)は本当に「在るのか、もう無いのか」、私にはかなり怪しく思えて仕方がない。形式的にも外形上も「憲法」は存在しているけれども、その重要な柱とされたはずの「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」は文字通りの内容を伴い、下位法で定められ、行政の場で「憲法」が規定する運用がなされているであろうか。

◆条文と現実の間の乖離

「憲法」は前文以下第一章から第十一章補足の第百三章までで構成されている。その中で以下の文言は「在る」には「在る」が実態はどうだろう。カッコ内太字が私の疑問である。

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 (集団的自衛権容認)

2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。(自衛隊の存在)

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(近年3万人を前後する自殺者)

第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(各種差別の放置)

第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。(大学による思想弾圧)

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。(神社本庁の政治介入)

2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 (国家神道に由来する「君が代」斉唱の強制)

3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。(官僚の靖国神社参拝、首相の伊勢神宮参拝)

第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 (鹿砦社が襲われた言論弾圧事件)

2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 (盗聴法の成立)

第二十三条  学問の自由は、これを保障する。(文科省による「文系学部統廃合」)

第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(ワーキングプア・生活保護支給拒否)

第二十八条  勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。(労組への不理解・労組の弱体化)

第三十三条  何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。 (現行犯以外での令状なし逮捕の横行)

第三十四条  何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。(不当逮捕・拘禁の横行)

第三十六条  公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。(警察・検察・海上保安庁などによる暴力の常態化)

第三十八条  何人も、自己に不利益な供述を強要されない。(自白の強要)

2  強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。(不当長期勾留により相次ぐ冤罪)

3  何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。 (自白のみでの死刑判決)

第四十四条  両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。(人種による差別)

第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。(憲法改正を公言して憚らない首相以下国務大臣)

◆「改憲」だけが「憲法の死」を意味するわけではない

素人目でざっと見渡しても現実と条文の間には、相当な乖離があり、乖離の幅は権力者の意図によりどんどん拡大され、かつ固定化を図られている。今、自衛隊が既に定着しているのはその好例だ。これだけ解かりやすい文言でも曲解すれば何でもできる。「学問の自由はこれを保障する」など文科省の官僚や、大学に批判的な「学生狩り」に血道をあげる多くの大学関係者には「冗談」にしか聞こえないだろう。

文言、条文はある。よく読めば所々に少しおかしな部分もあるけれども、ある種の思想と理念を総合的に包含した「憲法」を有機体ととらえれば、外見上の体裁は整ってはいる。まだ生きていそうだ。問題は「憲法」の内臓を喰いつくしつつある「悪性新生物」が既に有機体としての生命を奪う(あるいは既に奪われた?)ところまで拡大していることだ。

毎年のように5月3日に、私は「護憲」(条件付きながら)の意見を表明する発言や行動をしてきた。けれども今年は現実を直視しようと思う。極めて重篤で危篤状態にある「憲法」。おそらくは蘇生不可能な有機体としての「憲法」。

「改憲」だけが「憲法の死」を意味するわけではないことを、私(たち)は徐々に学ばされ、「解釈改憲」という「殺憲法術」をも目の当たりにした。「憲法」はこれからどうのように最期を迎えるだろうか。「明文改憲」がなされるのか、それとも「悪性新生物」が臓物を食い尽くし、内部は完全な変容を遂げても、表皮だけは「憲法」のままの体裁を取り続けるのだろうか。「憲法」はまだ「在る」。死んではいない。でも意識はあるか? 余命は幾ばくか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』7日発売!
抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

ヒロヒト没後27年の「昭和の日」に、かからなかった虹をまた思い描く

記事をスクラップしてノートを作成したり、ニュースや情報を整理することが非常に苦手で、整理整頓が身についていない私が、この新聞だけは「残しておくべきだろう」と直感し適当な封筒に入れて押入れの奥に放り込んでいた。その後、幾たび転居したのか数えるのも億劫だ。転居ごとに蔵書や資料を処分し、私物は衣装ケース数箱になったのだが、この新聞は処分されずに残っていた。

この男が死亡した日1989年1月7日の夕刊は、新聞社の有料過去記事検索サービスや、大きな図書館に行けばどなたでも見ることができるだろう。保存にさしたる配慮もしなかったため、折り目がつき、全体が黄ばんでいる私の持ち物からは、言葉を慎重に選ばねば感想を述べるのを躊躇わせる「凶相」が滲み出ている。

今日は「昭和の日」だ。正直でよろしい。4月29日は昭和天皇ヒロヒトの誕生日で、この男が死亡する1989年以前はやはり休日「天皇誕生日」だった。週休2日制がまだ定着していない時代にこの時期の「ゴールデンウイーク」は勤労者にとっては貴重だったと想像できる。だからだろうか、現金なものでこの休日の恩恵に比すると、この日が持つ罪の側面はお疎かにしか意識されていない。

1989年ヒロヒトが死亡すると4月29日は「みどりの日」となった。現天皇アキヒトの誕生日(12月23日)が新たな「天皇誕生日」として休日になったが、「ヒロヒト天皇誕生日」を廃止することは、天皇主義者にとって(あるいは無意識な休日恩恵享受者にとって)は許されざることだった。だから4月29日は1989年から2006年までは「みどりの日」の名称で休日とされた。

その理由を「昭和の日普及委員会」(設立発起人:財団法人国民精神財団、現在は活動休止の模様)は、 「昭和天皇が自然を愛したことにちなんで、平成元年から『みどりの日』と名称を変えて祝日として存続しました。自然をこよなく愛された昭和天皇は、『全国植樹祭』にも必ずご臨席になり、ご自身の手により植樹をされてきました」と解説している。

ヒロヒトが戦後、戦争責任を一切不問にされ、「全国植樹祭」に参加していたことはその通りだけれども、ヒロヒトの評価を戦後の行為に限定するのは乱暴に過ぎる。ヒロヒトは敗戦までは「大元帥陛下」(日本軍の最高指揮官)であり「現人神」であった。人間ではなく「神」として、日本国民に対しては徹底的かつ絶対的な存在だった。敗戦までのヒロヒトの行為はアジアを中心に3千万人の他国人を殺し、300万人の日本人も死に導いた「最高指揮官」だ。1945年までのヒロヒトは自身が手を下しはしなくとも、洪水のような「血」を流させた責任者なのだから、ヒロヒトを象徴する色は「みどり」ではなく「赤」ではないのか。「赤の日」では具合が悪いか。

1975年10月31日、有名な話ではあるがヒロヒトは初の訪米から帰国後、皇居「石橋の間」で戦後初めてにして最後の記者会見に臨む。記者が「また陛下はいわゆる戦争責任についてはどのようにお考えになりますか」と質問するとヒロヒトは、
「そういう言葉のあやについては文学はあまり研究していないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」
と答えた。

数々の詔や難渋な勅旨を戦争中に連発していたのは誰だ。いわゆる「玉音放送」にしたところで、棒読みの様子は明らかではあるが、あの文章は多少「文学的」ではないのか。ヒロヒトの言い分には幾ばくかの推測の余地(詔や勅旨、玉音放送の文章は誰か他人が書いていた、それだけでなく大元帥陛下の地位自体が祭り上げられ、虚構であった)が含まれるとの斜に構えた解釈が成立しなくもない。

しかし、この開き直りこそが裁かれるべくして裁かれず、あろうことか「国民統合の象徴」として生涯を終えたヒロヒト大罪の真骨頂である。

黄ばんだ新聞の活字はリードの部分だけは意識的に大く書かれているが、本文は現在の3分の2ほどの大きさだ。新聞の文字は当時この大きさが標準だった。2016年の新聞と比較すると随分小さい活字で埋められた紙面16頁はヒロヒト賛美で埋め尽くされているがその中にこんな文章がある。

「天皇裕仁は侵略戦争の最大かつ最高の責任者であった。絶対主義的天皇制は、暗黒支配を維持し、侵略戦争と他民族抑圧を遂行するため、国内にあっては徹底した人権抑圧をおこなった。今日、天皇は憲法によって国政に関与することを禁止されているにもかかわらず、しばしば反動的な立場から国政に関与してきた。本来、天皇制は廃止されるべきものであるが、今日の憲法のもとで政府に課せられた厳粛な責務は、憲法の平和的民主条項をきびしく遵守することである」

随分過激なことを言う奴がいるじゃないか、と読者には感じられるかもしれないこのコメントはヒロヒトの死に関しての「共産党中央委員会声明」だ。この誌面には自民党、社会党、公明党、民社党、共産党、社民連の順で各党のメッセージが掲載されている。共産党以外は話にならない。馬鹿らしいと感じた。共産党のコメントだって後半部分が気弱じゃないかと訝ったものだが、2016年の「昭和の日」共産党の方々はどうお感じになるだろう。

1989年1月7日、朝日新聞夕刊の紙面を眺めて「結局こうなるんじゃないか、マスコミは」と予想にたがわぬ翼賛報道に暗い未来を想起するしかなかった。敗戦から1989年へ、まだ雨上がり間もない空だったのだから、虹が現れても不思議ではなかったが、虹はかからなかった。ヒロヒト没後27年「昭和の日」に、かからなかった虹をまた思い描く。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『紙の爆弾』!タブーなきスキャンダルマガジン!
抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

チェルノブイリ30年──国家の狂信、現実の忘却

1986年4月26日から30年目を迎える。あの事故は近隣住民以外の世界の人々の頭の中では「歴史」になってしまっているのではないだろうか。旧ソ連、現在のウクライナで発生した「チェルノブイリ原発事故」である。

◆「原発=核発電」は狂信的な国家意思の象徴

Fukushima2016

記憶の中では「歴史」となっても、事故地では今日にいたるも放射能漏れを防ぐ作業が継続している。事故後原子炉を封じ込める為に作られた「石棺」と呼ばれる構造物が内部からの強力な放射線によりボロボロに劣化し各所にひびが入り危険な状態となったので、ウクライナ政府は巨大な「第二石棺」を建設中だ。

思い起こせば爆発したチェルノブイリ原発4号機は「運転中」ではなかった。しかも福島の様に地震や津波と言った自然災害が原因でもなかった。運転停止中に外部電源喪失に対応する非常時用発電系の実験を行っている際に、原子炉出力管理のコントロールミスから事故が発生したと言われている。つまり「人災」であったわけだ。

Fukushima2016

つい最近、事故後に現地を取材したジャーナリストは「事故直後ソ連の政府は何をやったと思いますか。なんと兵士にソ連の国旗を持って原子炉の上に行かせ立てさせたというのです」と俄かには信じがたいエピソードを教えてくれた。それほどどの国にあろうと原発=核発電は狂信的な国家意思の象徴であることの現れであろう。

◆1975年の戦後日本を思い出してみる

30年経過すれば、たいがいの事は「歴史」になる。本当はその事件や事故が終わらずに不可視な形で継続していても体に痛みを伴う直接被害者や、事故により生活全体を破壊された人びと以外は容易に「現実」を「歴史」と見まがう。

Fukushima2016

私は1975年を思い出している。言うまでもなく敗戦後30年目の年だ。戦地に赴いた元兵士や銃後を支えた明治生まれ、大正生まれの人びとがまだ多く生きていた。皇国史観で教育を受けながらいきなり「民主教育」への転換を経験した人々が丁度子供を産み育てている頃だった。「戦争」が話題になることは私の周りでも、珍しいことではなかった。でも「戦争反対」を語る人も「戦時中の苦労」を語る人、または懐古的に「日本軍の雄姿」を語る人、いずれもそれは「思い出物語」としてであって「今は違う」が無言の枕詞になっていたように思う。

◆「ソビエト」の消滅──原発事故は国を亡ぼす

チェルノブイリ原発事故は、2016年の日本から回想すれば2つの事を示唆したいたのだと今更ながらに思う。

Fukushima2016

1つは「原発事故を一度起こせば人間の力では対応が出来ないことだ。そのことは、事故後30年経過するも「第二石棺桶」建設を余儀なくされているウクライナの姿が事実をもって示している。あの巨大なドーム状の構造物さえ、また何十年かすれば劣化を余儀なくされ、「第三石棺」、「第四石棺」の建設が行われることになるだろう。

そしてもう1つの重大な示唆は「原発事故は国を亡ぼす」ことだ。これは文字通り「国が無くなる」、「国が崩壊」することを意味する。1986年4月「ウクライナ共和国」は「ソビエト社会主義共和国連邦」を構成するひとつの「共和国」と称されていたが実態は「ソビエト」の中の一地域である。

Fukushima2016

「ソビエト」は当時、米国と世界を二分する東陣営の巨大な指導国であり、モスクワやクレムリンが陰に陽に世界に発する力は絶大であった。「東西冷戦構造」は西側のNATOと東側のワルシャワ条約国機構が特に欧州では隣接し合いながら、「核戦争」の危機を抱え、日々緊張の壁を境につばぜり合いを続けていた。

その価値判断は横に置くとして、時代は「東西」という相いれない二極が不思議な均衡を保ちながら世界を支配していたのだ。ところが「東側」の親玉「ソビエト」は崩壊してしまった。1991年、チェルノブイリ原発事故から5年後のことだ。この事実を福島第一原発事故発生から5年後の今日、私たちは極めて重大に受け止める必要があるのではないか。

Fukushima2016

「ソビエト」崩壊の序章を、ミハエル・ゴルバチョフが大統領に就任後打ち出した「ペレストロイカ」・「グラスノスチ」などの「開放・改革路線」、「新思考外交」との見立てるのはおそらく間違いではあるまい。

しかし「東側世界連鎖崩壊ドミノパズル」には「チェルノブイリ原発事故」のピースを欠くことは出来ない。ゴルバチョフは確かにホーネッカー率いる東ドイツの崩壊(=東西ドイツの統合)へ内々に「許諾」を与え「ソビエト」以外の国への支配を急激に弱めていったが、「そうせざるを得なかった」事情のひとつが「チェルノブイリ原発事故」だったのではないかと指摘する専門家は少なくないし、私も同意する。

歴史の「教示」や「示唆」は事後になれば解読がいともたやすいが、同時間にあって正確な解析は困難を極める。そして歴史はそれ自体が教訓化されることを望んでもいる。

◆フクシマ以後──この国を待ち受けているもの

私(たち)は今どこへ向かっているのだろうか。世界を二分する勢力の頭目、政治力と軍事力、総合的な影響力と「何があっても壊れることはないだろう」と思われていた巨大国家「ソビエト」を消滅せしめた一因のチェルノブイリ原発事故。

そして4機の原発爆発を起こした、福島第一原発事故を当時「ソビエト」の領土の約60分の1で受け止めている日本はどうなるのだろうか。ゴルバチョフはチェルノブイリを隠蔽しようと画策したが無駄だった。民主党から自民党へと続く日本の政権は「事故収束宣言」(野田)「アンダーコントロール」(安倍)と平然といいのける。4年後には東京でオリンピックを開くという。日本には当時「ソビエト」が従えていたような経済ブロックも実質上の従属国もない。日本はひたすら米国に隷属するのみだ。

歴史を「ソビエト」の先例にあてはめてみよう。日本を待ち受けているのは「さらなる繁栄」や「より幸せな生活」だろうか。「祝賀に沸く東京オリンピック」は現実のものとなり得るのか。残念ながら私にはそのイメージを描くことが出来ない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『紙の爆弾』5月号!タブーなきスキャンダルマガジン!
抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7

熊本震度7は本震か?前震か? 「原発震災」になる前に川内原発を停止せよ!!

4月14日21時26分頃、熊本県を震源とする最大震度7の地震が発生し、九州全土を含め関東地方までの広い範囲で揺れが計測された。この震源の深さは約10Km、マグニチュードはM6.4と地震の規模としては「巨大」と言える大きさではないが、内陸が震源であればその真上を中心に激烈な揺れが起こることを、またもや示すことになった。

4月14日21時26分頃、熊本県を震源とする最大震度7の地震が発生

◆本震なのか? 前震なのか?

名古屋大地震火山研究センターの田所敬一准教授は14日夜、「布田川(ふたがわ)、日奈久(ひなぐ)断層帯に関連があるのではないか」との見方を示している。(時事通信4月14日22時15分配信)

しかし、本当のところ田所准教授が指摘する断層が原因であるのか、阿蘇山の火山活動にも関連があるのか、あるいは日本最大の断層である中央構造線の動きと関連があるのか、誰も断言はできないであろう。これが「本震」であれば余震はしばらく続くであろうし、考えたくもないが、これが本震を前にした「前震」であれば、さらに大きな地震が発生する可能性も否定はできない。

中央構造線と西日本の原発

2011年3月11日の東日本大震災の前の週に、東京都庁のエレベーターが停止する「前震」が起きていたことを思い出さずにはいられない。

今回の地震は夜間に発生し、その後も強い地震が連続している。現地の方は眠れない夜をお過ごしではないかと心が痛む。

◆地震と原発──「影響はない」という原子力規制委員会

そして、地震が起こればどうしても心配になるのが「原発」だ。現在稼働中の川内原発は14日23時現在運転を停止はしていない。原子力規制委員会によると「影響はない」そうである。川内原発の立地する薩摩川内市の揺れは震度4だった。玄海原発の立地する佐賀県東松浦郡玄海町では震度2の揺れを計測している。

日本列島に分布する活断層と原発

震度4、震度2だから大丈夫。「影響はない。安心しなさい」と九州電力は言うのかもしれないが、地震発生直後から主だったポータルサイトには地震の震度や被害情報を伝えるタグが設けられたが、同時に「原発」についての情報タグも速やかに掲載された。報道も、近隣住民も遠隔地、いや日本中の人が、特に稼働中の川内原発に重大な関心と危機感を持っていることの現れだ。

◆「原発震災」へと悪夢の転化を遂げた時、人間には打つ術がない

自然現象は人間には制御できない──。この明白すぎる絶対真理を私たちは5年前に経験したばかりではないか。原因の解明を「過酷事故」が起こってから試みても、失われた膨大な地域や人々の暮らしを取り戻すことは出来ないし、避難者の中には見えない場所で今だって涙している人がいるであろうことに思いを致すことは、それほど困難なことであろうか。

地震そのものの被害も恐ろしいが、それが「原発震災」へと悪夢の転化を遂げた時、人間には打つ術がないことを学んだではないか。

「日本最大の活断層、中央構造線が動くようなことになれば、おそらく壊滅的な被害を受けるだろうと思います」(小出裕章氏)

桜島の噴火、阿蘇山の噴火いずれも「大丈夫だ」とつっぱねた九州電力。でも川内原発の耐震強度は620ガルに過ぎない。これは震度5程度の揺れにしか相当しないと指摘する専門家もいる。一方、21世紀に入って日本で起きた地震で最大の揺れはどの程度だろうか。2008年6月14日岩手県内陸で発生したマグニチュード7.2の地震で観測された揺れは4022ガルである。この地震では山が丸ごと地中に消えてしまった。

可能性としては僅か8年前に4022ガルを経験しているのであるから全ての原発の耐震基準は「4022ガル」以上に設定されていなければ合理的ではないし、科学的だとは言いがたい。しかし、そんな「原発」は作ることは出来ないのだ。山が消える力に対抗できる構造物が作れるとしたら天文学的な費用を要するであろうし、そんな投資を電力会社に出来る理由がない。

つまり、原発などは作ってはならないのだ。
その事を4月14日の地震は再度、警告しているのだ。天啓である。
今すぐ川内原発を停止せよ!!

[図版参照資料]
◎yahoo知恵袋「やっぱ、浜岡原発と伊方原発って、南海トラフ…」(2014年1月20日)より
◎さてはてメモ帳「安政大地震&平成大地震」(2011年6月11日付記事)より
◎ラジオフォーラムHP「第126回小出裕章ジャーナル」(2015年6月5日~12日)より

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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「核兵器保有宣言」にしか聞こえない政府答弁の数々を許す日本社会

本音はこうだ。

「日本は核武装する。核兵器の使用も躊躇わない。だから動かせないと解っていても『もんじゅ』は放棄しない。いわんや原発は再稼働、推進路線に微塵の変化もない」

◆横畠答弁を号外で報じなかった!──反発する神経や生理が失われている社会

重大な発言が新聞の政治面の中で、交通事故を取り上げる程度の大きさでしか報じられていない。冒頭の「核兵器使用可能」発言は参議院の予算委員会で民主党の白眞勲の質問に内閣法制局長の横畠裕介が答弁したものだ。

「憲法上、すべてのあらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているとは考えていない」

と言い放った。核武装を前提として(そんな公式政府見解は、その時点では無いのに)、一気に核兵器による攻撃を合憲としたこの発言は新聞なら号外が、ニュースでは大々的に扱われるべきとんでもない発言だ。しかし諸メディアの扱いは、なべておとなしいものだ。むしろ政権当局の方が慌ててこの発言の火消に必死になっていたけれども、実はそんな必要はなかった。国民にはこの重大発言はその重さと同等の比重で伝えられていないし、伝わったとしてもそれに感応する、反発する神経や生理はつとに失われている。

◎核兵器使用「全くあり得ない」菅官房長官、法制局長官答弁で「火消し」(2016年3月18日付J-CAST)http://www.j-cast.com/2016/03/18261794.html

順逆になったようだが、エイプリルフール(4月1日)に政府は「お・そ・ま・き・な・が・ら」横畠の暴言に根拠を与える、これまた重大な見解を決定する。

鈴木貴子衆議院議員の質問主意書への答弁として用意された答弁書では、「核兵器の報論理上、自衛のための必要最小限の実力保持は憲法9条によって禁止されていないと」前置きして、「核兵器であっても、仮にそのような限度にとどまるものがあるとすれば、保有することは必ずしも憲法の禁止するところではない」とする答弁書を決定した(参考:憲法9条1項日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する2項前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない)。
同時に、日本が掲げる非核三原則で「憲法上は保有することが禁じられていないものを含めて、政策上の方針として一切の核兵器を保有しないという原則を堅持している」とも書いている。

◆詭弁・曲解・こじつけ・非論理性の全てを不足なく備えた核武装宣言

私には訳が分からない。私は日本語の基礎能力を失ってしまって「馬鹿」になったのだろう。そうに違いない。政府のお役人さんや議員さん、ましてや大臣や総理大臣は頭脳明晰、博覧強記、歴史に知識に富み、智慧もあり、未来を洞察する力も卓越した佐藤優(!)みたいな方ばかりに決まっているじゃないか。

私のように「答弁書」の内容の不整合と、憲法9条との決定的な不和解をこの文章に読み取る人間は「馬鹿」なのだ。新聞だってこの日の政治・総合頁のトップは「対北朝鮮で情報共有加速 政府韓国軍と連携重視」が大見出しで、このニュースは紙面の中ほどに3段で報じられているだけじゃないか。

「馬鹿」な私にはこれらが、とんでもなく重大で憲法違反は明白なように思える。政府がここまであからさまな憲法、法律無視を堂々と行う行為は「国民も全ての法律を無視してよいのよ~ん」とのメッセージにしか読み解けない。詭弁・曲解・こじつけ・非論理性の全てを不足なく備えた、それでいて憲法の極めて簡明な文章を踏みつけにして核武装を宣言する「核保有国宣言」を前に私は「ああ、私が馬鹿なんだ」と結論付けるしかない。ごく初歩的な日本語において、私は政府見解を理解(容認)することが到底出来ず、逆ベクトルは「私のような人間の存在を許さない」力となって作用してくるであろうことに、残念ながら思いがいたる。

◆この国の言論世界はすでに中東と変わらない無法地帯と化している

一度は廃止が決定されたはずの「もんじゅ」を存続させようと文科省が画策している。国立大学を独立行政法人に看板を架け替えたのと同じ方式で「国営」から「半国営」へ運営主体が変わったふりをして生き延びさせようと有識者会議(座長:有馬朗人元文相)が検討しているそうだ。なにが「有識者会議」だ。「有識者会議」・「賢人会議」などと名を冠された会議に呼ばれて、ノコノコ出て行く奴らは御用学者か太鼓持ち文化人とお飾り程度のアリバイに利用される少数「良識派」という構成比はいつでも変わらない。結果ありきが「有識者会議」のお決まりの演技である。

しかし、ここまでズドンスドン正面切って見事に打ち込まれると、こちらも言葉を返すだけでも間隙がない。言論の世界では既にこの国もシリアを中心とする中東と変わらない無法地帯化している。「核兵器による攻撃可能」(横畠内閣法制局長)、「核兵器の保有合憲宣言」(政府)、「もんじゅ」存続(有識者会議)。その先にあるものは? 簡単な想像力からは核戦争しか引き出せないじゃないか。

半永久的に続く原発事故の収束作業を横目に東京オリンピックを準備し、原発を再稼働し、核攻撃を宣言する。さして社会は問題視しないし、日常は今日も変わらない。まったく穏当ではない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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年度末TVニュースの憂鬱

出張先の東京で年度変わりを迎えた。3月31日は年度最終日で多くの方が激務に追われていたことだろう。

この日をもって「報道ステーション」(テレビ朝日)、「NEWS23」(TBS)、「クローズアップ現代」(NHK)のキャスター(報道者)が同時に交替することが話題になっている。自宅にテレビを持たない生活者は外出先でしかテレビ放送を目にすることがない。稀に鑑賞したい番組がある時は、知人宅へ出かけるという前世紀的生活が身について長い私だが、久しぶりに自分から進んで報道ステーションを観た。

◆「キャスターは孤独です」

古舘伊知郎氏がニュース番組を長く続けることになろうとは、あの「新日本プロレス」中継での猛烈かつ講談にも似た卓越した話芸が印象に残る者としては、甚だ遅すぎる感想ではあるけれども意外であった。そういえば報道ステーションに先立つ「ニュースステーション」に「ピッタシカンカン」でのマシンガントーク、久米宏氏がメインキャスターとして起用された時にも同様の驚きはあった。

ニュースステーションの初回放送と最終回、そして報道ステーションの初回放送と古舘氏降板の最終日を観ていたことに気が付いた。報道への政府から露骨な圧力が顕在化していることは周知の事実だからこの日の番組には相当の注目が集まっていたようで、1日の東京新聞は社会面で古舘氏が番組最後に語ったコメントを掲載している。

報道ステーション、NEWS23、クローズアップ現代という3番組のキャスター(報道者)同時交代事件については多数議論や分析があるだろうから、私ごときが浅い感想を述べることは控える。

古舘氏担当最終日放送の中で、私が最も印象に残ったのは番組最後の古舘氏のコメントではない。古舘氏のコメントは予想していた範囲のもので特に意外性はなかった。観ていて少し驚いたのは、久米宏氏がニュースステーションの最終回で語った内容とかなり重なる内容が多かったことだ。両氏とも「視聴者から賛同、批判様々な声が寄せられ、それによって育てられた、批判者も含めて感謝している」旨の謝辞を語っている。久米宏氏は「小学校の時教師に『長続きしない』性格だといわれたがこれだけ長く続けられた自分を今日だけは褒めたい」と言い、缶ビールを飲んで番組の最後を結んだ。古舘氏は「キャスターは孤独です」と語った。テレビを視聴しない私にも彼らにのしかかる重圧は想像に難くない。

◆凍土壁「セレモニー」の異様な光景

それは横に置く。この日の番組の中で顎が外れそうになるほど呆れたのは番組冒頭に取り上げられた女子中学生誘拐監禁(軟禁?)事件でも、インドでの建設中の高架道路崩落事件でもない。驚愕は福島第一原発で汚染水漏れ対策として凍土壁工事が始まる「セレモニー」の異様な光景だ。技術的に不安視され、規制委員会の田中俊一委員長からすらその効果が疑問視されているこの愚策開始の光景は、あたかもロケット発射慶賀場面のように準備されていた。

ヘルメットを被った東電社員と思しき集団の中心人物が「3,2,1」とのカウントダウンに沿って壁のスイッチを押す。すると周りの人間たちが一斉に拍手を始めたのだ。どうなっているんだ!こいつらの神経は。

建物の竣工式や地鎮祭ではあるまいに、連中の「拍手」は何を目出度がっているのだ。汚染水対策は過酷事故を収束させる直接の対処ではなく、悪影響を抑える目的の副次的作業じゃないのか。人間に例えれば葬式が行われようとして段取りをしている一プロセス、しかも的外れに遺族に迷惑かつ無駄な出費を強いる、無配慮な参列者のはた迷惑などんちゃん騒ぎのようなことじゃないのか。

長く長く続く原発の葬式はまだ始まってはいない。遺体はそこにあるけれども葬式の段取りをどうするかは遺族の思惑が交錯して、どの坊さんに読経してもらうのか、密葬にするのか、社葬にするのか、香典は受け取るのか、お断りするのか、戒名にはいくらかけるのか意見の集約の見込みが立っていない。

亡くなった遺体が関知しないところで諍いは続くが、香典を受け取らないことだけは一応の合意をみた。その時に「拍手」する遺族がいるか。

あの「拍手」は原発の葬式、半永久的に続く拷問にも等しい葬式への参列を強要された人達にさらなる忍従を迫る「暴虐の図」だ。その場面を準備してテレビ画像から流させる東電の底抜けの無神経と犯罪性に顎が外れそうになった。

でも少し不安になる。あの場面テレビ画像を通して目にしていた人で、私と同じように怒り心頭に激怒した方々がどのくらいいるだろうか。テレビを通じた「日常」は私の感性からはるか遠い。だから気の短い私は少しでも不要なストレスから離れるためにテレビから離れた。でもあの「暴虐の図」すらテレビ的にはさしたる例外ではないのではないか。

また当分テレビ画面と向き合うことはない日々に戻る偏屈者の2016年度が始まった。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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《速報》堅川SLAPP訴訟で東京地裁が不当判決!

3月29日15時から東京地裁429号法廷でいわゆる「堅川SLAPP」訴訟(平成27年[ワ]第4562号 損害賠償請求事件、佐久間健吉裁判官)の判決言い渡しが行われた。判決は「被告に39,614円の支払いを命じる」という内容であった。

この裁判は原告である「地方公務員災害補償基金」が被告の園良太氏に対して、江東区の職員Kが「首を絞められた」として損害賠償請求を提起した裁判だ。

園良太氏

事件の背景や経過は、「堅川SLAPP訴訟をたたかう会(https://tatekawaslapp.wordpress.com/)」に詳しいのでご参照いただきたい。

極めて簡略な要約をすれば、園氏が江東区職員K氏の「首を絞めた」との原告の主張に対する民事の損害賠償事件である。しかし争いの事実が存在しているのであれば、本来園氏は刑事事件として「暴行」なり「傷害」なりで事件直後に取り調べの対象のなっていなければおかしい。

偶発的な「喧嘩」や「もめ事」で当事者同士が損害賠償を争う(民事係争や法廷外での示談交渉)ことは珍しくはないが、「地方公務員災害補償基金」という公的機関が職員を暴力行為の被害者に仕立て上げるのであれば、まず警察なり、検察なりに園氏が暴力を振るった事実を訴え出るのが筋だ。

事実として「傷害」なり「暴行」の犯罪があれば、公務員にはそれを告発する法的な義務がある(刑事訴訟法239条2項「官吏又は公吏(筆者注:公務員のこと)は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。」)。これは訓示規定ではなく、したがってK氏(あるいは「地方公務員災害補償基金」)は刑事訴訟法上の義務を無視しながら、民事訴訟で損害賠償を行うという歪んだ行為をあえて意図的に行っていると解釈せざるを得ない。

原告から証拠として提出されたビデオ映像には、園氏が手を伸ばした場面は撮影されているものの「首を絞めた」場面はなく、法廷ではスケッチによる「証拠」が原告側から示されたという。しかしその内容や主張は度々変わっている。

本当に園氏がKの首を絞めた事実があったと私には到底思えない。判決後、園氏に見解を聞いた。

「この裁判は思想弾圧裁判の典型だと思います。被害とされる事実はそもそも存在しないのに、無茶苦茶な内容を押し付けてくる。証拠とされるスケッチは捏造され内容も途中で変わっていますが、判決文の中では裁判官は『それでも良い』というような表現をしている。証拠の不確実性を全く問題にはしていません。診断書があれば証言の変節も問題なしとしている。全く思考停止の判決です。この判決が適用されれば誰しもがこのような手段で弾圧を被る道筋をつけた。いつの行為かわからない、しかも事実がなくても権力に対する損害賠償を認めるという点で、この判決は権力が市民を弾圧しようとすればこんな無茶が通ると認めた点で深刻であり、全く不当な判決です」(園良太氏)

開廷を前に14:45から傍聴券が配布された。60名近くが傍聴券を求めて列をなし、東京地裁前には30名を超える公安警察があつまり、傍聴希望者の姿をビデオ撮影していた。

判決主文が言い渡されると被告の園氏は「不当判決を弾劾する!」と声をあげ、傍聴席からも次々に抗議の声が上がった。判決言い渡しであるから要する時間は数分であることは明白であるにもかかわらず、悪名高き東京地裁429号法廷(常時警備法廷)の入り口には多数の職員や公安警察が壁を作り、法廷内にも25名以上の職員が監視を行っていた。

この裁判を報じたマスコミはないだろう。しかし弾圧の水位は日常の中でじわじわと上昇していく。事実無根を根拠にした園良太氏への思想弾圧裁判は権力へ抵抗するものへの見せしめ以外の何物でもない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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私の若禿げ克服法──ハゲは隠さず刈り込むことで世界が変わる!

女性が化粧をはじめとした「外観」に注意を払うのは自然な身だしなみとされる。女性だけでなく、男性も近年は「スルスル肌」が好まれるようで、体毛やヒゲの脱毛までを請け負う業界が結構繁盛しているようだ。「へー」と間抜けに感嘆するまでだが、そこまで「脱毛」っていいもんなんだろうか。

◆心理的負荷を与える「脱毛現象」01──抗がん剤投与による「脱毛」現象

人為的に「脱毛」をしなくとも、深刻な心理的負荷を与える「脱毛現象」がある。1つは男性(一部女性)の「ハゲ」であり、他方は抗がん剤投与による「脱毛」だ。

抗がん剤投与による「脱毛」現象が、実は抗がん剤投与終了後に何年も継続しており、それに悩んでいる人が多数いることが最近の調査で判明している。数年たっても抗がん剤投与以前の半分も発毛が見られず、それに悩んでいる人の数が相当数に上るという。

年齢にもよるが、若年癌が増加傾向にある中で、抗がん剤投与後の女性が頭髪の様子を気にするのは無理もないだろう。だから、がんに限らず薬剤の副作用によって脱毛を強いられた人には「かつら」や「ウイッグ」が実生活の上で有効だと思う。そのような方々はただでさえ、体の調子が思わしくないのだから、少しでも心理的負担を減らし日常生活での気がかりを軽減されるのが賢い選択だと思う(もちろん、本人がそう考えれば、だが)。

◆心理的負荷を与える「脱毛現象」02──男性の「若ハゲ」

一方同様の現象でも男性の「ハゲ」の場合は少し事情が異なる。これは自分自身が経験したことなので「その寂しさ」をしっかりと噛みしめながら回顧できる。「若ハゲ」はたしかに強い心理的ストレスをもたらす。私の場合、もとは「こんなに太くてクセのある髪の毛なんか、減ればいいのに」と思うほどの剛毛かつくせ毛で、毎朝頭髪を整えるのに相当苦労していた。

「願いは叶った」のかどうか知らないけれども、まだ20を少し超えた頃、額の生え際が少し後退し出しているのに気が付いた。髪の毛全体も以前ほどの剛毛ではなくなっていて、鏡を2枚用いて頭のてっぺんを見ていると、頂上部分に生え方の薄い部分がある。

この時は、ショックだった。まだ20を少し超えたばかりで「もうハゲかい」と、何ともいえない寂しさを感じたことを今でも記憶している。ご経験のある読者の方々にはお分かりいただけようが、「ハゲ」を発見した時のショックは、「外見がカッコ悪くなる」という理由もあろうが、私の場合「ハゲ=老い」の象徴という概念があったので、この年でもう「老化」が始まったのかというショックが大きかった。外見を気にするような細かな感性を持ち合わせていない私は「ハゲ」て毛髪が薄くなった自分の姿よりも、既に老化に向かっている自分の身体に激しく動揺したものだ。

とはいえ、これといって対策は講じなかった。自然に抜けるものは仕方ない。当時でも「脱毛予防剤」や、「育毛を促す」怪しい器具は販売されていたし、アデランスをはじめとする業者の広告は派手に展開されてはいたが、それらへの関心は一度も湧いたことはなかった。

◆自然の摂理にもかかわらず、露骨に感じた「ハゲ差別」

でも、「ハゲ差別」は露骨に感じた。人の体のありようについて、ことに女性の風貌についてコメントすれば、それが否定的な内容であれ、賞賛する内容であれ「女性差別だ」とする極端にも思えるほどの「フェミニズムコード」が存在するが、男性の「ハゲ」について、直接ではなくとも、コソコソ「あの人、最近薄くなったわね、かわいそうに」と陰口を叩かれることは、深刻に当人を傷つけるのだがいまだに「ハゲ差別」についての、真剣な議論は見当たらない。

いや、「ハゲ」程度で真剣な「対応コード」など作る必要がある!などと私は思っていないけれども、気の弱い男性たちはご経験のない方々が考えられないほど「ハゲ」を悩み、その解決に膨大な投資をしている。

厚労省認可の「育毛剤」が発売されてかなり時間がたつが、あれはどれほど効果があるのだろうか。私は試したことはないので判らない(正直に言えば興味もない)。育毛剤を家で頭に振りかけるくらいなら、職場や周りの人たちに気が付かれることはないだろうが、最大の悲劇は「分かりやすいかつら」を使用してしまったケースだ。

◆出来の悪いかつらほど残酷なものはない……

自分が若年性の「ハゲ」を経験したためか、私は男性の「かつら」利用者はいとも簡単に見出すことが出来る。「あーあ高いお金を払って……」と同情を禁じ得ないのだけれども、出来の悪いかつらほど残酷なものはない。「このひと生え際見えないわ。高い金払ってかつら買ったんだろうなー。外したらこんな感じでハゲているのかなー」と意地悪い想像が勝手に膨らむ。

また、各種「増毛法」商法もいかがわしいことこの上ない。抜け毛が多くなって薄くなった頭髪の対処として、残っている1本1本の髪の毛に、根元から3本の人口毛を結びつける増毛法がある。これは残っている髪の毛が抜けない限りは1本が4本になるのでボリューム感を維持できるが、もとの1本が抜けた時は一気に4本が抜けることになり、普通の脱毛よりも頭髪減少がさらに顕著に現れる。そうなればまた仕方なく残り少ない毛髪にまたしても3本の人口毛を結びつける施術を繰り返さなければならない。でも自然毛はどんどん抜けてゆくから、いずれはこの対処法は効果を失ってします。

ああ、気の毒な我が「ハゲ」被害者よ!気に病む人たちは何百万円も出費している。

◆私の妙案──禿げを隠さず刈り込めば世界は変わる!

私ははじめこそ、気が滅入ったが、ある時、妙案を思いついた。薄毛は伸ばしてハゲ部分を隠そうとすると、とても目立つ。逆に短く髪の毛を刈り込むと思いの外目立たない。2ミリから5ミリほどの超短髪に散髪屋で刈り込んでもらうと、周囲から見た印象もほとんど「ハゲ」ではなくなる。頭髪を洗う手間も省ける。

前述のように抗がん剤投与などにより、脱毛が余儀なくされている人を除き、「ハゲ」た男性諸君! 一度超短髪をお試しあれ。かつらや、いかがわしい増毛法に吸い上げられる際限ない経費が一瞬で止められる。さっぱりして、気分が変わること間違いない。

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